27.上田城 その1

上田城を築いた真田昌幸は、真田幸隆の三男として生まれました。昌幸は、当初信玄に近臣として仕え、信玄・幸隆が亡くなり、長篠の戦いで兄たちが討たれると、真田家を継ぎました。

立地と歴史

上田城築城と第一次上田合戦

上田城を築いた真田昌幸(生年:1547年〜没年:1611年)は、真田幸隆(幸綱)の三男として生まれました。父親の幸隆は、信濃国真田郷の小豪族でしたが、武田信玄に仕え、重臣の一人となりました。特に調略を得意とし、後半生は武田氏の西上野での領土拡大に貢献しました(岩櫃城など)。昌幸は、当初信玄に近臣(武藤喜兵衛と名乗っていた)として仕え、信玄・幸隆が亡くなり、長篠の戦いで兄たち(信綱・昌輝)が討たれると、真田家を継ぎました。昌幸は、西上野の攻略を進め、1579年(天正7年)には沼田城を落としました。この城が、後の真田氏による領土経営のキースポットになります。彼は武田氏の一部将でしたが、一定程度の領土経営権を与えられていたと言われています。

真田昌幸像、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

やがて主君の武田氏が滅亡し、武田氏を滅ぼした織田信長が本能寺の変で討たれると、旧武田領(甲斐・信濃・西上野)は空白地帯となり、周辺有力大名(徳川・北条・上杉)による争奪戦が起こります(1982年(天正10年)の天正壬午の乱)。上田周辺から沼田までの一帯を勢力圏としていた昌幸は、有利な条件(領土維持)を求め、上杉→北条→徳川と、次々に傘下となる大名を変えていきます。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

当時、昌幸は山城の砥石城(またはその周辺の館)を本拠にしていたと考えられますが、徳川傘下にいたときに築いたのが上田城でした。上田の地は、徳川・上杉勢力圏の境目にあたり、街道(上州街道・北国街道)と千曲川が交わる地点で、徳川方として確保が必要な場所でした。つまりこの城は、徳川方が上杉方に対抗するために築かれたのです。従って、築城にあたっては、徳川方の全面支援があったと考えられています。平地での築城なので、上杉方からの妨害も受けやすく、築城時の安全確保の必要もありました(下記補足1)。

(補足1)海津よりの注進の如くんば、真田、海士淵(あまがふち)取り立つるの由に候条、追い払ふべきの由、何れへも申し遣はし候(天正十一年四月十三日島津左京亮宛上杉景勝書状「上杉年譜」)

戸石城跡

平地の城であっても、自然の要害を生かして築かれました。城の南側は、千曲川の支流が流れ「尼ヶ淵」と呼ばれていて、切り立った崖になっていました。北や西から攻めてくる上杉方に対して、後ろ堅固の城であったと言えます。その北側と西側は、川(矢出沢川・蛭沢川)の流路を変え、元の流路を堀に活用し、新流路を惣堀として、備えとしました。城の中心部分は、かつて他の豪族(小泉氏)の城館として使われていた微高地を利用し、西から小泉曲輪・本丸・二の丸を並べました(梯郭式)。更に東側は沼沢地でしたが、その合間に昌幸や一族の屋敷地(中屋敷、常田屋敷、玄三屋敷)が作られました。築城は、1583年(天正11年)に始まり、2年後に完成したとされています。その頃の城の姿を表すとされる絵図(「天正年間上田古図」)が残されています。

城の南側の崖部分(かつての尼ヶ淵)
惣堀として使われた現在の矢出沢川
堀の一つ、百間堀跡
「天正年間上田古図」、上田市立博物館にて展示

ところが、昌幸は城が完成した時期に、徳川方から上杉方に鞍替えをします。これは、徳川家康が北条氏との和睦の条件として、上野国を北条の領国として認めたことによります。これは真田が沼田を失うことを意味していました。替地も明確でなかったようです(諸説あり)。昌幸はこれを拒否しました(下記補足2)。並みの地方領主だったら飲んだのでしょうが、昌幸は自分が切り取った領土にこだわったのです。上杉の支援があるとはいえ、北条(沼田への攻撃)・徳川双方を敵に回す決断でした。(ただし、上杉のバックにいた豊臣秀吉の存在を考慮したという指摘もあります)家康は激怒し、真田討伐を命じました(下記補足3)。これが第一次上田合戦です(天正13年7月〜11月)。

(補足2)
三河物語
ぬまた(沼田)を小田原(北条)へ渡せと仰せになったところ、さなだ(真田昌幸)は、ぬまたの城は上様よりいただいたものではなく、我らの手柄で取り立取った城なので筋違いの話です(訳:代替案のための弁証法的空間)

(補足3)敵幸ひの所へ引き出し候はば、この度根切り緊要に候(八月二十日徳川家康書状、「宮下家文書」)

沼田城跡

鳥居元忠、大久保忠世らに率いられた約7千の徳川勢に対し、真田勢はわずか約2000人でした。しかも、上田城は対上杉用に築かれた城なので、東側(甲斐)から攻めてくる敵(徳川勢)は想定外でした。そのとき昌幸がとった戦術は、少ない兵を更に分散させて配置することでした。昌幸本人は上田城に、長男の信之(当時は「信幸」)は砥石城に、残りを他の城や伏兵として布陣したのです。そして、敵の正面(東側)に対する防御(神川・染谷城)を事実上放棄し、わざと攻めやすくさせたのです。徳川勢は、数は多いが寄せ集めで、真田勢を見下していたとも言われています。城の東側の神川を越え、中間の沼沢地や障害物(千鳥掛け柵)を通り、一気に二の丸まで攻め寄せました。勢いで敵の統制が緩む隙をついて、真田勢は反撃に移り、砥石城の部隊も加わりました。徳川勢は退却しますが、真田勢の追撃を受け、神川付近で多くの兵士を失いました(1300人、下記補足4)。その後、徳川勢は攻め口を変えますが、戦線が膠着し、ついには撤退しました。この戦いは、真田の独立大名として道を開くとともに、その名を天下に知らしめました。昌幸だからこそできた離れ業と言えるでしょう。

(補足4)
沼田城重臣宛信幸返書
芳札披見、仍従遠州出張候間、去二日於国分寺遂一戦
千三百余討捕備存分に候、然者南衆(北条方)其表可相働候、
於然堅固之備憑入候 恐々謹言
閏八月十二日    真田源三郎  信幸 判
 下豊(下沼田豊前守)、恩伊(恩田伊賀守)、木甚、恩越、發参
去る二日国分寺において一戦を遂げ、千三百余り討ち取り、備へ存分に任せ候
芳しい書状を拝見した 遠州より徳川勢が攻めて来たが、去る2日国分寺に於いて一戦し、1300人余り討ち取り備えは十分である。そこで、北条方がそちらに攻めて来るに違いないので、堅固の備えを頼み入る(「恩田家文書」、訳:おぎはらの洋ラン日記)

上田城二の丸
神川

豊臣大名の城に、そして第二次上田合戦

その後、昌幸が選んだ道は、豊臣秀吉への服従でした。秀吉は昌幸を「表裏比興の者(表と裏を使い分けるくせもの)」と呼び、一時討伐を決意しましたが許しました(下記補足5)。昌幸は、家康の与力大名となりますが、家康もまた、信幸を重臣の本多忠勝の娘(小松姫、形式上は家康の養女)の婿としたのです。こうして真田は豊臣政権下の大名となったのです。秀吉の天下統一の過程で、一時沼田城は北条のものとなりますが、小田原合戦の結果、真田の下に戻ってきました。

(補足5)
真田の事、先度この方において仰せ出し候如く、表裏比興の者に候間、成敗を加へらるべき旨仰せ出され候間、定めて家康人数相動くべく候条、その方より一切に見続等これあるまじきの由に候。(八月三日上杉景勝宛増田長盛・石田三成書状「上杉家記」)

天正十四年(一五八六)十一月二十一日付 真田昌幸宛羽柴秀吉書状(真田宝物館蔵)其の方事、家康存分これ有りと雖(いえど)も、此方(こなた)に於いて直(じき)に仰せ聞けられ候。殿下も曲事に思し召し候と雖も、此の度の儀は相免ぜられ候条、其の意を成し、早々罷り上るべく候。猶、様子仰せ含めらるべく候。委細尾藤左衛門尉申すべく候也。
   十一月二十一日(朱印)(羽柴秀吉)
     真田安房守とのへ
家康がお前を恨んでいる件については、自分から直接言い聞かせてやった、自分もけしからぬことだとは思うが、今度だけは許してやるので上洛するように(訳:秀吉と真田)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

上田城は豊臣大名の城として、改修が進められました。第一次上田合戦のときには「殿守(天守)も無き小城」であったとされていますが、この改修で天守が建てられたのではないかとも言われています。現在の本丸堀などから、金箔瓦や鯱瓦が発掘されています。近隣で同様のものが使われた松本城高島城小諸城には天守がありました。また、江戸時代に作られた城の絵図(「上田城構之図」)には「御天守跡」という記載があります。一方で、金箔瓦は本丸以外(二の丸や小泉曲輪)でも発見されているので、天守以外で使われていたともいえます。また、天守があった可能性がある本丸北西隅には、天守台石垣の痕跡がないことから、否定する向きもあります。天守があったとしても、三層程度だったであろうという意見もあります。いずれにせよ、初期とは全く違う豪華な櫓や門を備えた城になっていたとは言えるでしょう。

発掘された金箔瓦の一つ、上田市立博物館にて展示
松本城
高島城
小諸城跡の天守台石垣
「御天守跡」の記載がある古地図「上田城構之図」部分、協力:上田市マルチメディア情報センター

また、弱点だった東側については、三の丸や大手門が整備され、城下町に寺町を作り、防御を固めたと考えられています。

三の丸の大手門跡
集められた寺の一つ、月窓寺

そして秀吉が亡くなると、運命の天下分け目の戦い(1600年(慶長5年))を迎えます。真田勢は当初、家康の上杉征伐に加わるべく行動していましたが、西軍奉行からの家康弾劾の書状(下記補足6)を受け取り、昌幸・次男の信繁(幸村)は西軍に、信幸は東軍に味方(下記補足7)することにしたのです(犬伏の別れ)。これは、個々の立場に基づくものとも言えますが、昌幸がこれまで見てきた大名家の存亡から、真田家を残すための決断であったと思われます。

(補足6)
慶長五年(一六〇〇)七月十七日付 真田昌幸宛長束正家等連署状
 急度(きっと)申し入れ候。今度景勝発向の儀、内府公上巻の誓紙并びに大閤様御置目に背かれ、秀頼様見捨てられ出馬候間、各(おのおの)申し談じ、楯鉾(たてほこ)に及び候。内府公(家康)御違ひの条々別紙に相見え候。此の旨尤もと思し召し、大閤様御恩賞を相忘られず候はば、秀頼様へ御忠節有るべく候。恐々謹言。
   七月十七日 長大(長束大蔵大輔)正家(花押)
         増右(増田右衛門尉)長盛(花押)
         徳善(前田徳善院) 玄以(黒印)
     真田安房守殿 御宿所

(補足7)
慶長五年(一六〇〇)七月二十四日 真田信幸宛徳川家康書状(真田宝物館蔵)
今度安房守(あわのかみ)(昌幸)罷り帰られ候処、日比(ひごろ)の儀を相違(たが)へず、立たれ候事寄特千万に候。猶本多佐渡守(正信)申すべく候間、具(つぶさ)にする能はず候。恐々謹言。
   七月二十四日 家康(花押)
     真田伊豆守殿

「犬伏密談図」、協力:上田市立博物館

石田三成らの西軍決起を知った家康以下東軍は、上杉征伐から引き返し、西に向かいました。その内、家康の跡継ぎ・秀忠率いる3万8千の徳川本体は、中山道を進みました(下記補足8)。その途上で、昌幸のこもる上田城を攻略することにしました。周辺で唯一西軍に組している有力大名だったからです。3千名程度といわれる上田勢は、今度は時間稼ぎの戦術に出ました。

(補足8)いよいよ真田安房守敵対申す由、中納言(秀忠)追々進発せしめ候。その方落ち度無き様、取り合ひの儀頼み入り候。もし大敵に及び候はば、この方へ注進これあるべく候。出馬、即時に踏みつぶし申すべく候(八月十三日仙石久秀宛徳川家康書状、「改撰仙石家譜」)

(慶長5年)
9月2日:秀忠、小諸城に到着(「但馬出石仙石家譜」)
9月3日:昌幸、信幸を通して秀忠に助命を嘆願(「佐竹家文書」)
9月4日:昌幸が降参しないので、秀忠が染屋台に本陣を進め、信幸の軍が、信繁が籠る砥石城に攻撃に向かう
9月5日:信繁が上田城に撤収、昌幸は降伏勧告に応じず
9月6日:徳川軍が稲の刈り取りをしようとしたところ、阻止する城兵と戦闘となり、大手門まで追うが、命令により撤収
     (「寛永諸家家系図伝」など徳川方史料)
9月8日:秀忠に、家康からの上洛命令が届く(下記補足9)
9月11日:秀忠、小諸城から出発(下記補足10)

(補足9)
わざわざ使者を以って申し入れ候、よって内府より急ぎ上洛せしむべき由申し越され候間、先ず先ず明日小諸まで罷り越し候。
その表万事油断なきの様、いよいよ仰せ付けられるべきの儀、肝要に存じ候。
なほ口上に申し含め候の条、詳にする能わず候。
恐々謹言。
         江戸中納言 秀忠御判
九月八日 羽柴右近殿 御陣所
(森家先代実録、信濃史料巻十八、長野県立歴史館アーカイブより)

(補足10)一書令啓上候、然者、黄門様(秀忠)十一日ニ小諸を御出、
九月廿三日 青常陸介 内修理亮 酒右京太夫
石田様
(堀文書、信濃史料巻十八、長野県立歴史館アーカイブより)

9月6日に戦闘がありましたが、小競り合いだったという説や、徳川方がまた大損害を受けたという説もあり、はっきりしません。
明確に言えるのは、
・秀忠軍は約10日間を費やしたが、上田城を攻略できなかった。
・総攻撃を行わず、家康の指示により関ヶ原に向かった。
・結果的に9月15日の関ヶ原の戦いに間に合わなかった。

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

昌幸は、秀忠軍の足止めに成功したのです。しかし、関ヶ原ではわずか一日の戦いで東軍が西軍に勝利し、まもなく上田城は接収されました。信幸などによる助命嘆願の結果、昌幸・信繁は、一命を取り留め、紀伊国九度山に配流となります。昌幸は、いつか罪を許されることを期待していましたが、11年後に亡くなりました。信繁がその後、大坂の陣で活躍することは余りにも有名です。

真田信繫肖像画、上田市立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

上田は信幸の領地となりましたが、城は破却され、中心部は埋められました。信幸は、三の丸の屋敷で政務を執っていたのです。大坂の陣後の1622年(元和8年)には、松代城へ加増転封になりました。

真田信之肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)
松代譲
「元和年間上田城図」、上田市立博物館にて展示

仙石忠政による上田城復興

廃城同然となっていた上田城を復興したのは、真田信之に代わって藩主となった、仙石忠政(生年:1578年〜没年:1628年)でした。彼はそれまで小諸藩主で、第二次上田合戦のときには父親の仙石久秀とともに参陣していました。久秀は、信長・秀吉に仕えた武将で、家紋は信長より拝領したものと言われています。忠政は久秀の三男でしたが、長男(久忠)は検校(盲目)、次男(久範)は関ヶ原で西軍に加わったため、跡継ぎとなりました。忠政は1622年(元和8年)に藩主となり、1626年(寛永3年)から幕府の許可を得て、上田城の復興に取りかかります。このときの将軍は家光でしたが、秀忠も大御所として健在でした。忠政を移したときに将軍だった秀忠は、修理料として銀子を与えたと言われています(補足11)。自らを含め二度も徳川軍を退けた上田城を、どのように見ていたのでしょうか。

(補足11)上田城は先年破却せしままなれば、修理の料として銀子二百貫目を賜うべし、心のままに修理すべき旨、懇の命(「改撰仙石家譜」)

仙石忠政肖像画、上田市立博物館蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

忠政は、家臣に復興工事に関する細かい指示書を出していて、復興への熱意を感じさせます。それによると、真田時代の城の姿の復元を目指していたことが伺えます(下記補足12)。埋められた堀を、掘り返していることから、少なくともレイアウトは真田時代を踏襲したと考えられます。現在、門や櫓のところに残る石垣は、そのときに築かれましたが、一部の古い形式の石垣は、真田時代のものか、その時代の石を転用した可能性があります。

(補足12)なわばりの時、古城の堀にゆがみがあるときには堀の両側を掘って直にせよ(「寛永三年仙石忠政築城覚書」、訳は「信濃上田城」による)

忠政が築造した二の丸北虎口石垣
真田時代に遡る可能性がある本丸西虎口土橋下南石垣

そして本丸には、天守はないものの、七つの櫓と、二つの櫓門を建設しました(内部の御殿はなし)。二の丸などにも建物を建てる計画でしたが、工事開始から2年後に忠政が亡くなり中断されました。以後、基本的な城の構造は、忠政が復興したものが引き継がれました。復興後の姿が、信州上田城絵図(正保城絵図)として残されています。現在の残る城跡の基にもなっています。中断したとはいえ、わずか2年で城を復興した忠政にとって、上田城はどういう存在だったのでしょうか。

「信濃国上田城絵図」部分、出展:国立公文書館

仙石氏は3代84年間、上田を統治しました。

藤井松平氏による統治

1706年(宝永3年)但馬出石藩主の松平忠周(ただちか)が、仙石氏と交代で上田藩主になりました。この家系は藤井松平氏と呼ばれていて、家康以前からの松平一族でした(いわゆる「十八松平」の一つ)。忠周は当時、将軍徳川綱吉に側用人として仕えていました。幕府中枢にいたため、より江戸に近い領地に転封になったと見られています。彼は、徳川吉宗政権でも老中を務めました。藤井松平氏は基本的に、仙石氏が復興した上田城や藩の仕組みを維持しました。

松平忠周所用具足、上田市立博物館にて展示

しかし、この時代の上田城の敵は天災(洪水、地震、大火)でした。特に、忠周の子の忠愛(ただざね)の代には、1732年(享保17年)の千曲川洪水により、城の南の崖が大きく崩壊しました。その後4年をかけて、石垣の修築・造成が行われました。主にこの時に築かれた崖を覆う石垣は、現在目にすることができます。以降、経年劣化や大雨により破損した石垣の修理が幕末まで6回行われました(幕府への届出記録による)。

尼ヶ淵に面する石垣

藤井松平家の藩主の中から、幕末に活躍した松平忠固(ただかた)を紹介したいと思います(生年:1812年~没年:1859年)。幕末の政治家の中では有名な方ではありませんが、日本の開国に尽くした人物の一人です。藩主になったとき(1830年)上田で凶作が続き、対策として養蚕を奨励したのが後の開国政策につながったのかもしれません。ペリーが来航した時老中になっていた忠固は、当初より開国だけでなく、通商開始も主張し、徳川斉昭と渡り合いました。また、アメリカの総領事ハリスと通商条約の交渉を行ったときに、忠固は、堀田正睦に次ぐ次席の老中でした(正睦が首相兼外務大臣とすれば、忠固は財務大臣)。条約調印のときも、勅許が必要とする正睦や井伊直弼に対し、必要なしと主張していました。彼には開国・通商が日本の国益になると確信していたのです(補足13)。条約が調印されると、直弼により、正睦とともに罷免されてしまいますが(1858年)、翌年に亡くなるまで上田の物産(生糸など)輸出の準備のために働いていました。

(補足13)交易は世界の通道なり、決して忌むべきの事にあらず、寧ろ之を盛んにするを要す、即ち皇国の前途亦宜しく交易に依りて大に隆盛を図るべきなり。(忠固の言葉とされるもの、「日本を開国させた男、松平忠固」より)

松平忠固所用具足、上田市立博物館にて展示

その後

明治維新後、上田城は廃城となり、城の建物と土地は競売にかけられました。その結果、城地の多くは桑園や麦畑になったそうです。そこに現れたのが地元の豪商・丸山平八郎でした。彼は材木・生糸などで富を築いていて、本丸部分を買い上げ、最後の城主だった松平氏を祀る松平神社の用地として寄付しました。その後この神社には、真田氏や仙石氏も合祀され、現在の真田神社になっています。また二の丸部分には、刑務所や伝染病院があった時期がありましたが、上田市が買い上げ、城跡全体が公園として活用され、国史跡にも指定されました(1934年、昭和9年)。建物については、城に唯一残っていたが西櫓でした。他の櫓のうち、北櫓・南櫓は遊郭で使われていましたが、転売されそうになり、それを憂えた地元の人たちが買い戻し、原位置に移築復元しました(1949年、昭和24年)。両櫓をつなぐ本丸東虎口櫓門は1994年(平成6「年)に復元されました。現在上田市では、本丸にあった7つの櫓全てを元通りに再建することを目指して活動しています。

真田神社
現存する西櫓
現存する南櫓・北櫓と、その間の復元された本丸東虎口櫓門
7つの櫓が揃った上田城本丸の模型、上田市立博物館にて展示

「上田城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

29.松本城 その1

松本城は長野県松本市にある城で、現存する素晴らしい5層天守により有名です。城が位置する松本盆地は古代より、周辺の山々から流れてきた豊かな水が湧き出る地としても知られていて、現代の市街地でも多くの現役の井戸を目にすることができます。

立地と歴史

小笠原氏が追放され、帰還するという本懐を待ち続けた城

松本城は長野県松本市にある城で、現存する素晴らしい5層天守により有名です。城が位置する松本盆地は古代より、周辺の山々から流れてきた豊かな水が湧き出る地としても知られていて、現代の市街地でも多くの現役の井戸を目にすることができます。そのため、この地はもともと「深瀬(ふかせ)」または「深志(ふかし)」と呼ばれていました。「深く流れる水」という意味だったようです。中世の頃には、信濃国(現在の長野県)の守護であった小笠原氏がこの地を本拠地としていました。多くの戦いが起こった戦国時代には、小笠原氏の家臣、島立右近(しまだてうこん)が1504年に、主君の本拠地・林城防衛のために、深志城を築城しました。これが松本城の前身となります。ところが1550年に、武田氏により城は落城し、小笠原一派は追放されてしまいました。

松本市の範囲と城の位置

市街地にある井戸(西堀公園井戸)
こちらは名も無き井戸か

武田氏は深志城を強化し、盆地の平地部分にある城であっても、強力な防御拠点にしようとしました。まず、城を三重の水堀で囲みました。堀に囲まれた曲輪部分は、真ん中から順に、本丸、二の丸、三の丸とされました。加えて、女鳥羽川(めどばがわ)の流路が、総堀(一番外側の堀)に沿うように変えられ、城の防御力はますます高まりました。武田氏はまた、城の門を改良し、前面に馬出しを加えました。馬出しとは、小さな丸い曲輪で、狭い通路によって門とつながっていました。これは、武田氏が開発し、頻繁に使われた防御システムです。城の基本的な構造は、武田氏によって完成されたと言われています。しかしこの時点では、城は基本的には土造りでした。

江戸時代の松本城の模型、松本市立博物館にて展示、三重の堀に囲まれています
城の東側にわずかに残る総堀
わずかに残る総堀の内側にあった土塁(西総堀土塁公園)
女鳥羽川
上記模型にある馬出し、現在では全て撤去されています

小笠原氏が戻ってくる機会が1582年に突然やってきました。織田信長が武田氏を滅ぼし、またその信長も本本能寺の変で明智光秀に殺されてしまったのです。その当時徳川家康に仕えていた小笠原貞慶(おがさわらさだよし)はその翌年、33年ぶりに城に帰還したのです。貞慶はそれを祝して、城の名前を「松本」と変えました。その名前は、「本(もと)懐」を「待つ(松)」というところから付けられたと言われています。しかし、状況はまた急激に変わりました。1590年には天下人の豊臣秀吉により、貞慶は主君の家康とともに、関東地方に移封となりました。秀吉は松本城を、家康の重臣であり、秀吉の下に出奔した石川数正(いしかわかずまさ)に与えました。

小笠原氏の家紋、三階菱  (licensed by Minamoto at fr.wikipedia via Wikimedia Commons)
「長篠合戦図屏風」に描かれた石川数正  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

石川氏が天守を築き城を近代化

数正は、秀吉によって好まれた先進技術によって城の近代化を始めました。1592年に数正が亡くなってからは、子の康長(やすなが)が引き継ぎました。康長は曲輪群を石垣で囲み、本丸には5層の天守を築きました。彼はまた、主要な門の馬出しを桝形に置き替えました。桝形とは、石垣や門の建物に囲まれた、四角い防御スペースのことを言います。これらの門は、三の丸の大手門、二の丸の太鼓門、本丸の黒門のことです。城の工事は1594年に完成しました。しかし、この工事は突貫で行われたため、民衆には苦痛を与えました。地元の言い伝えによれば、太鼓門に使われる巨石を運んでいた人夫が不満を言ったところ、康長はそれを聞き、直ちにその人夫の首を刎ねたそうです。それ以来、その石は玄蕃石(げんばいし)と呼ばれるようになりました。「玄蕃」とは康長の官職名でした。

城周辺の地図

上記模型にある大手門、手前は女鳥羽川
現在の大手門跡
復元された太鼓門
太鼓門にある玄蕃石
復元された黒門

城の建物には、秀吉の特別な許可により、金箔を貼った屋根瓦が使われました。この許可は、秀吉の親族か、信頼のある重臣にのみに与えられました。その重臣たちの城にも金箔瓦が使われていて、小諸城上田城甲府城沼田城駿府城など家康がいた関東地方周辺に配置されました。松本城を含むこれらの城は、家康包囲網を形成し、家康を監視し、且つ脅威を与えていました。康長は、秀吉の死後に家康が天下を取ったときも、家康に味方することで何とか生き残りました(金箔瓦は当然廃棄されました)。ところが、1613年に彼はついに家康によって改易されました。その理由ははっきりしないのですが、可能性として、家康は石川氏が彼の下を去ったことに報復したという面もあったでしょう。

家康包囲網の城

小諸城跡
上田城跡
甲府城跡
沼田城跡
駿府城跡

月見櫓建設により天守が完成

その後、小笠原氏が再度松本城に復帰するのですが、1617年にはまた明石城に転封となりました。城とその周辺地域は松本藩となりますが、江戸時代の間、いくつもの親藩や譜代大名によって引き継がれました。その間、城に関する重要な出来事がいくつかありました。その一つが松平直政(まつだいらなおまさ)が城を治めたときに起こりました。彼は、将軍の徳川家光が松本城に立ち寄るという計画を聞き(その後取りやめとなりますが)、1634年に新しく月見櫓を天守に付け加えました。それまでは天守は全く戦を想定して作られていました。しかし、月見櫓は完全に娯楽のために築かれたものです。これによって天守は、違った趣の建物が融合した、現在の姿になりました。

松平直政肖像画、月照寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
月見櫓(外観)
月見櫓(内部)
月見櫓(右側)を従えた松本城天守

二番目の出来事は、1727年の松本大火のときです。大火により、天守となりの本丸御殿は焼けてしまいましたが、天守そのものは幸運にも無事でした。人々は、中に祀られていた二十六夜神(にじゅうろくやしん)が天守を救ったのだと考えました。また城下町は、南北を貫く善光寺街道と東西を走る野麦街道が交差する場所として、大いに繁栄しました。城下町には多くの番所があり、もし敵が攻めてきたときには容易に城に近づけないようになっていました。

本丸御殿跡
現在も天守に祀られている二十六夜神
上記模型の松本城城下町
上記模型の番所部分

「松本城その2」に続きます。

16.箕輪城 その1

最強の武将、長野業政の城

立地と歴史

長野氏が戦国時代に築城

箕輪城は、現在の群馬県にあたる上野国の榛名山の麓にあった丘の上に立地していました。戦国時代の間の16世紀初頭に、長野氏が最初にこの城を築きました。長野氏はもともと古代には、地方政庁の役人の一族であったと考えられています。やがて中世に有力な地方領主となったのです。彼らは上野国中心部の平地にあった国府の近くに住んでいたのですが、15世紀後半以降、関東地方全域で戦が頻発するようになり、そこに住み続けるのは危険となっていました。そういうわけで、長野氏は上野国西部沿いの山間地に城を築いたのです。

城の位置

長野業政が孤軍奮闘

長野氏は、上野国守護(兼関東管領)であった上杉氏に仕えていました。その当時の当主だった上杉憲政は、1546年の川越城での戦いで、南から攻めてきた北条氏に敗れました。その後彼は上野国から、上野国の北の越後国に逃れたのです。その結果、関東地方のほとんどの地方領主は、北条氏を支持しました。ところが、長野氏の当主だった長野業政(なりまさ)はそうすることはせず、上杉氏に忠誠を尽くし続けたのです。彼は、北条氏や武田氏といった有力な戦国大名にも対抗しうる、その当時では最強の武将の一人でした。彼は、箕輪衆と呼ばれた地方領主のグループを組織し、彼らの領地の維持を図ったのです。彼は、真田幸隆などの戦いに敗れて領地を失った他の武将をかくまうことさえしていました。

長野業政木造、長純寺蔵(高崎市ホームページより引用)
真田幸隆肖像画、長国寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

幾年かの雌伏の時を経て、憲政の後継者となった上杉謙信が、1560年に越後国から上野国を含む関東地方に攻め込みました。業政は、再び上杉氏の重臣の一人となり、西上野の盟主ともなりました。ところが、謙信が越後国の本拠地、春日山城に戻ったとたん、北条氏は領地奪還を開始します。更には、業政は彼の領地の西に位置していた、国峯城にいた小幡氏を従わせようとしますが失敗します。それは、小幡氏の当主であった小幡信真(のぶざね)が(父の憲重とともに)、最強の戦国大名の一人、武田信玄に助けを求め、その家臣となったからです(いわゆる武田二十四将の一人になりました)。かつて業政に助けられた真田幸隆も、業政のもとを離れてから信玄の重臣となりました。信玄は、謙信の終生のライバルであり、そして1561年に西上野への侵攻を開始したのです。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
国峯城の想像図、甘楽町歴史民俗資料館にて展示
「長篠合戦図屏風」に描かれた小幡信真、甘楽町歴史民俗資料館にて展示
武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長野氏の滅亡とともに落城

業政は、その生涯の間、箕輪城とその周辺地域を何とか維持できていましたが、1561年に病気で亡くなります。彼の息子、長野業盛(なりもり)は絶対に敵に降伏してはならないとする父の方針を引き継ぎました。しかし、信玄は1566年、箕輪城に総攻撃を仕掛け、城は落城しました。業盛とその一族は最後まで戦いましたが、ついには城の御前曲輪で自害して果てました。彼らはその死の前に、先祖の位牌を曲輪の井戸に投げ込んだと言われています。

長野氏の家紋、檜扇(ひおうぎ)(licensed by Mukai via Wikimedia Commons)
箕輪城御前曲輪にある井戸跡

その後、小幡信真は武田氏が滅亡した後、主君を織田氏や北条氏に変えていました。1590年、天下人の豊臣秀吉が北条氏が支配していた関東地方に侵攻したとき、彼の居城は落城し、その所領もまた失われました。一方、真田氏は上田城沼田城岩櫃城を基盤として独立した大名となるべく悪戦苦闘しました。最後にはそれを成し遂げるのですがいばらの道でした。

上田城
沼田城跡
岩櫃城の模型、現地案内所にて展示

井伊直政による近代化と廃城

箕輪城の落城後は、武田氏、織田氏、北条氏、そして徳川氏が城を保有しました。徳川氏の重臣筆頭であった井伊直政が城の最後の城主となりました。彼は、1590年に徳川氏が関東地方に移されたときにこの城に入城したのです。箕輪城は広大でしたが、もともと曲輪は基本的には土造りで空堀によって囲まれていました。直政はできるだけの城の改修、近代化を図りました。例えば、より防御力を増すために稲荷曲輪を水堀とともに設置しました。城主の権威を表すために、石垣が大手道沿いに築かれました。郭馬出西虎口門など、城の重要地点に櫓門がいくつか築かれたりもしました。しかし、直政は最後には1598年に、平地に新しい本拠地として高崎城を築き、そちらに移っていきました。その後、箕輪城は廃城となりました。

井伊直政肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
稲荷曲輪
復元された郭馬出西虎口門
三の丸門跡の石垣

「箕輪城その2」に続きます。