102.上ノ国勝山館 その3

この城跡は長い旅をするだけの価値があります。

特徴、見どころ

防御の要、大手門

そして、館の主要部分の端にあたるのが大手門跡です。一旦その門跡の外側に出てみると、大手門の辺りがいかに守られていたのかがわかると思います。もう一つの曲輪が門の前にあり、長く深い空堀によって隔てられています。その空堀は二重に掘られていて、そこを渡るには小きい橋と大さい橋2つを渡る必要があります。それらの端はクランク状に渡されていて、敵が館を攻めてきた場合には、ここで滞ってしまうでしょう。門跡の周りには厚く高い土塁と、その上の木柵が復元されています。ここから守備兵が敵に対して矢を放ったりして反撃していただろうと想像できます。

大手門跡に到着
大手門跡を外側から見ています
クランク状に渡されている2つの橋
大手門周辺の土塁と木柵
上ノ国勝山館の大手門周辺の様子、勝山館跡ガイダンス施設にて展示されている模型より

その後

上ノ国勝山館跡は、江戸時代の間も松前藩の先祖崇拝の場であり続けました。城跡としては1977年に、道南十二館の一つである花沢館を含む「上ノ国館跡」として国の史跡に指定されました。その後、1979年以来発掘調査が続けられています。そのため、本州の和人とアイヌの人たちとの関係が明らかになったのです。

上ノ国勝山館の模型、勝山館跡ガイダンス施設にて展示
大手門跡

私の感想

上ノ国勝山館は、単なる館というのではなく、まさに城あるいは中世都市といってもよいでしょう。これは、本州から蝦夷に来た人たちが築いた館の到達点と言うべきものです。この場所はまた、和人とアイヌの人たちが共に暮らした独特の生活様式を生み出しました。ここに行くのには随分と時間がかかりますが、それだけの価値がある城跡としてお勧めできます。

勝山館跡ガイダンス施設から見た夷王山墳墓群
馬屋跡

ここに行くには

この城跡を訪れる際は車を使われることをお勧めします。バスの便数がとても少ないからです。
新函館北斗駅からは約70kmの道のりとなります。函館空港や函館市の中心部からであれば、約90kmくらいでしょう。勝山館跡ガイダンス施設に駐車場があります。駅か空港で、レンタカーを借りるのもよいでしょう。
東京から新函館北斗駅まで:東京駅から北海道新幹線に乗ってください。

勝山館跡ガイダンス施設の駐車場

リンク、参考情報

史跡上之国館跡 勝山館跡(国指定史跡)、上ノ国町
・「かみのくに文化財ガイドブック」上ノ国町教育委員会
・「日本の城改訂版第63号」デアゴスティーニジャパン
・「逆説の日本史17 江戸成熟編 アイヌ民族と幕府崩壊の謎/井沢元彦著」小学館
・「海峡をつなぐ日本史」北海道・東北史研究会
デジタル八雲町史、デジタル熊石町史

これで終わります。ありがとうございました。
「上ノ国勝山館その1」に戻ります。
「上ノ国勝山館その2」に戻ります。

102.上ノ国勝山館 その2

中世都市と同居した山城

特徴、見どころ

海岸側、山側どちらからでもアクセス可能

現在、上ノ国勝山館跡は上ノ国町によってよく整備されています。館跡は、丘の上の標高70mから110mの一帯に広がっています。館跡には、海岸に近い方の大手口からでも、標高159mの夷王山に近い方の搦手口双方からアクセスすることができます。

城周辺の航空写真

大手口

もし館跡まで車で行かれるようでしたら、その前に山頂下にある勝山館跡ガイダンス施設に車を停めて、まず施設を訪れてみるのがいいかもしれません。そこには、館に関する歴史を学んだり、発掘調査により発見された遺物を見学することができます。程近い山頂まで登ってみると、素晴らしい海原の景色が見れますし、館の創始者である武田信広を祀った夷王山神社があります。この山頂部分は館にとっても、いざというときのための詰めの場所としても使われていました。

勝山館跡ガイダンス施設
ガイダンス施設の館内
駐車場から見える夷王山山頂
頂上からの眺め
夷王山神社の鳥居

山側から搦手口、裏門へ

ガイダンス施設からは、600以上の墳墓がある夷王山墳墓群を通り過ぎて、館の裏門の方に歩いて行きます。墳墓のうちの多くは、本州出身の和人に関係する仏教様式のものですが、いくつかはアイヌ人の様式によるものです。このことが、館において和人とアイヌ人が一緒に暮らしていた根拠の一つになっているのです。武田信広も、これらの墳墓群の一帯のどこかに葬られていると考えられています。

夷王山墳墓群
アイヌ人墳墓の発掘状況のレプリカ、勝山館跡ガイダンス施設にて展示

ルートに沿って歩いていくと、その手前に空堀がある裏門跡に至ります。復元された橋を渡って空堀を越えていきますが、その周りには木柵も復元されています。この門の周辺が館跡では最高地点になっていて、かつては館神八幡宮(たてがみはちまんぐう)があり、館の守護神になっていました。この神社は、館が廃された後もしばらくは残っていました。江戸時代の間、松前藩の歴代藩主がここを訪れ、祖先たちを崇拝していました。明治時代の1876年になってから、他の場所に移されました(大手口近くにある上ノ國八幡宮)。

裏門跡
空堀と復元された搦め手橋
館神八幡宮跡
八幡宮跡地周辺

館跡の中心部分

幅3.6mの中央通路が館跡を貫いています。進んでいくと次は館の中心部です。長く且つ幅広な区域で、大手門跡に向かって緩やかに下っています。

館跡の中心部分
中央通路の想像図、櫓門が立っていたと考えられています、現地説明板より

ここには建物はありませんが、発掘の成果をもとに、ここにはどんな建物があったのか説明板がたくさんあります。客殿、城代の住居、馬屋、鍛冶工房、共同井戸、倉庫、住居などです。

客殿、城代の住居、馬屋の想像図、現地説明板より
客殿跡
客殿の内装模型、勝山館跡ガイダンス施設にて展示
鍛冶工房跡
鍛冶工房内部の模型、勝山館跡ガイダンス施設にて展示
井戸跡
共同井戸の模型、勝山館跡ガイダンス施設にて展示

また、発掘では10万点を超える遺物が見つかっています。武器、宗教具、貿易品、工具、狩猟具、漁撈具、装飾品を含む生活用品などです。つまり、人々がここで日常生活を送っていたわけです。特にそのうちのいくつかは、特徴ある小刀(マキリ)や狩猟のための毒矢など、アイヌ人に関わるものです。これもまた、和人とアイヌ人が一緒に生活していた証拠となるでしょう。ここからも日本海と海岸地域の景色がよく見えます。

館跡で出土した漆器椀、交易によって持ち込まれたと考えられています、勝山館跡ガイダンス施設にて展示
館跡で出土したアイヌ人の漁撈具(下)と、アイヌ人の銛のレプリカ(上)、勝山館跡ガイダンス施設にて展示
館跡と下界の景色

「上ノ国勝山館その3」に続きます。
「上ノ国勝山館その1」に戻ります。

102.上ノ国勝山館 その1

この山城とアイヌの人たちの複雑な関係

立地と歴史

アイヌ人が住む北海道に和人が進出

上ノ国勝山館(かみのくにかつやまだて)は、北海道の渡島半島の西部に、中世に築かれた館です。その当時、北海道は蝦夷と呼ばれていて、アイヌ民族の人たちが住んでいました。彼らは本州に住んでいた日本民族(和人)とは違う言語や生活様式を持っていました。本州の和人が農業を行っていたのとは異なり、狩猟、漁撈、貿易によって生活の資を得ていたのです。

城の位置

イザベラ・バードによるアイヌ男性のスケッチ、19世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

14世紀後半、一部の和人は特に北海道の南端、渡島半島での活動を活発化させていました。そのリーダーたちは居住及び貿易を行うため、いくつもの館を半島沿いに築き始めました。これらの館は道南十二館と呼ばれており、例えば「下ノ国」と呼ばれた半島の東部では志苔館(しのりたて)が築かれました。一方、半島の西部は「上ノ国」と呼ばれていました。(その中間地点が「松前」となります。)

志苔館跡

アイヌの反乱を武田信広が鎮圧

蝦夷地域での日本人を統率していた安東氏もまた、蝦夷の支配を強化しようとしていました。そのことから、1456年にはアイヌ人のリーダーであったコシャマインによって反乱が起こりました。和人の支配に反発したアイヌの反乱軍は、道南十二館のうち、志苔館を含む10個の館までを占領しました。2つの生き残った館のうち一つは、上ノ国にあった花沢館でした。この館は、安東氏の影響下にあった蠣崎(かきざき)氏が治めていました。彼らは明らかに不利な立場にあったのですが、蠣崎氏の食客であった部将、武田信広がコシャマインを矢によって射殺し、反乱を鎮圧しました。

武田信広肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

信広は、その当時日本の中心部であった本州の若狭国の出身でした。若狭国と蝦夷は、日本海を通じて盛んに交易を行っていました。例えば、越前焼などの若狭国周辺で作られた焼き物が、蝦夷ではよく使われていました。また若狭国では「若狭昆布」として蝦夷で採れ、若狭で加工された昆布が販売されていました。信広は、この交易ルートに乗って若狭から蝦夷に流れてきたのかもしれません(若狭国守護、武田氏の一族とも言われています)。そして、彼は乱を鎮圧した功績により、蠣崎氏の養子となり跡継ぎに収まっただけでなく、蝦夷における和人のリーダーにも目されたのです。

中世の越前焼の壺、箱根美術館蔵 (licensed by Daderot via Wikimedia Commons)

信広が上ノ国勝山館を築城

やがて信広は1470年に、夷王山(いおうざん)下の丘の上に新しい館を築きました。これが上ノ国勝山舘です。「館」というネーミングは、まさに館、御殿といった感じですが、その規模、建て付けから見ると、それは山城か、もしくは山上の中世都市と言った方がしっくりくるでしょう。信広は、それまでの館がほとんど占領されてしまったという経験から、より強力な館を作ったのだと思われます。館があった丘は両側が深い谷になっており、正面と背面には空堀が掘られました。丘上には多くの住居もあり、全体を柵によって囲まれていました。丘の麓の方には、よく知られた貿易港であった大間港があって、館の領主はこの沿岸沿いで行われる貿易活動をコントロールできるようになっていました。

上ノ国勝山館の模型、勝山館跡ガイダンス施設にて展示

この新しい館の完成後であっても、一部のアイヌ人はなお和人に反抗し、この館を攻撃してきました。信広配下の蠣崎氏は、主にはこの館の強力な防御力のおかげでアイヌの攻撃を撃退することができました。しかし一方では謀略も駆使しており、アイヌの長たちを講和を結ぶと称して宴会に招待し、酔ったところを見計らって、暗殺したりしました(こういったことは松前藩が編纂した「新羅之記録(しんらのきろく)」に堂々と書かれているそうです)。アイヌの人たちは、一度約束したことは決して疑わない性質で、蠣崎のいうことを信じてしまったのです。反面、丘上の館がある中世都市では和人とアイヌが調和して一緒に生活していました。この館跡の墓地では、和人とアイヌ両方の人たちが葬られているのを見ることができます。これらの事実は、和人とアイヌの長く複雑な関係を表していると言えるでしょう。

上ノ国勝山館の正面防御の様子、上記模型より
館周辺のアイヌ人の墳墓群

やがて蠣崎氏はその本拠地を、渡島半島の南端の松前に移しました。貿易を行うにはより便利な土地だったからです。この地で江戸時代に松前藩が成立し、更には(幕末ではありますが)松前城が築かれます。本拠地を移して程なく、蠣崎氏は名乗りを松前氏に変えました。そうするうちに上ノ国勝山舘は、江戸時代の初めには廃城となりました。

松前城

「上ノ国勝山館その2」に続きます。