41.駿府城 その1

今回は、現在の静岡市にある、駿府城をご紹介します。大御所・徳川家康の城、それから竹千代だった子ども時代にも人質で過ごしていた場所としても知られています。実は家康はあと一回、豊臣秀吉の配下になったときにも、駿府城に住んでいたのです。つまり3回住んだ城ということです。

立地と歴史(家康が3回住んだ城)

イントロダクション

今回は、現在の静岡市にある、駿府城をご紹介します。大御所・徳川家康の城、それから竹千代だった子ども時代にも人質で過ごしていた場所としても知られています。実は家康はあと一回、豊臣秀吉の配下になったときにも、駿府城に住んでいたのです。つまり3回住んだ城ということです。一回目のときは今川氏の城で、二回目に家康自身の城になったのですが、このときまでの城の姿は謎に満ちているのです。それに大御所時代に築かれた巨大な天守は、短期間で燃えてしまい、日本最大と言われる天守台も明治期に壊されてしまいました。しかし近年発掘調査が行われ、明らかになりつつあります。この記事では、家康が住んでいた3つの時代毎に、駿府城の歴史と謎をご説明したいと思います。家康後の歴史もあります。

駿府城になる徳川家康銅像

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

竹千代がいた今川氏の城

室町時代に駿河国守護だった今川氏が、いつ本拠地を駿府に置いたのかははっきりしません。しかし四代目の範政が、将軍・足利義教を「府中」に迎えているので、これ以降本拠であったことは確実です。駿府は、南を駿河湾、残り三方を山に囲まれていて、鎌倉のような地形になっています。要所には支城が築かれて、防御を固めていました。しかし、本拠にあった今川館(いまがわやかた)は、堀や土塁に囲まれてはいるものの、京都の公方亭のような華やかな建物だったと考えられています。今川氏の全盛期には、駿府は日本有数の平和で繁栄した街だったからです。

駿河国の範囲と駿府城の位置

城周辺の起伏地図

将軍亭「花の御所」、上杉本陶版「洛中洛外圖」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その今川館があった場所ははっきりとはわかっていません。現在残る本丸辺りだろうとも思えますが、城は後世かなり改変されてしまっているからです。発掘調査で発見された遺構や、文献資料などから、本丸・二の丸の範囲にあったことは確実なのですが、もっと絞れば、二の丸坤櫓辺りだろうとする意見があります。この辺が城内では標高が高く、富士山を望むような建物の配置になっていたと推定されるからです。この近くには、室町時代以来と思われる「四足御門」という名前の門が江戸時代までありました。

今川館の推定範囲(緑の線内)、駿府城東御門内にて展示

1549年(天文18年)、11代当主・今川義元の下、全盛期だった駿府城に、8歳の竹千代こと家康が、松平氏の人質としてやってきました。これまでこの「人質」時代は、家康の一生のなかで忍耐のときと捉えられてきましたが、実際には制限はあっても充実した生活を送っていたようです。有名な安倍川の石合戦のエピソードのほか、この頃から鷹狩りをしていました。そして今川氏からも配下の中で優遇され、元服後に義元から一字をもらって「元康」と名乗り、妻も義元の姪と言われる築山殿でした。更に「軍師」である太原雪斎から直接教育を受けました。家康は、今川氏の重臣となるよう期待されていたのでしょう。1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いの前には、今川氏の拠点、大高城に兵糧を運び入れる働きをしました。ところが、大将の義元が織田信長に討ち取られてしまったのです。家康はこれをきっかけに独立大名となります。

復元された「竹千代手習いの間」、駿府城巽櫓内にて展示

義元を失った今川氏は、凋落の道を辿ります。北は武田信玄、西は家康から圧迫を受け、1568年(永禄11年)ついに信玄は駿河侵攻を開始しました。後継ぎの今川氏真はそれに対峙しようとしますが、重臣の離反が相次ぎ、一戦も交えずに、西の掛川城に退去しました。駿府には武田軍が攻め込み、当時の駿府城・今川館も炎上しました。一つの時代が終わったことを象徴する出来事でした。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

豊臣大名・家康の城

織田信長が本能寺の変で倒れた後、家康は5か国を領有する大大名になっていました。当時の本拠地は浜松城でした。1584年(天正12年)には、天下人となる羽柴秀吉に小牧・長久手の戦いで対峙しました。その翌年(1585年、天正13年)、家康は駿府に本拠地を移しました。これは拡大した領国範囲に対応したものと言えますが、秀吉との再度の戦いに備えたものとも考えられます。その範囲は現在の本丸・二の丸程度でした。家臣の松平家忠の日記には、その築城過程が記録されています。築城は天正13年7月に始まり、翌年12月に家康が入城しました(下記補足1)。このときの城の姿は、それまでの浜松城などと同様、土造りの城であったと想定されています。家康は、本格的な石垣を築く技術や職人集団を持っていなかったのです。1587年、天正15年2月に城は一旦完成しました(「家忠日記」「当代記」)。

駿府城の航空写真(国土地理院)、二の丸ライン(赤線)を付加
家康時代の浜松城の想像図、現地説明パネルより

(補足1)「駿河府中普請」のため、家忠が出張(「家忠日記」天正十三年八月十四日付)「御かまへ二のくるわ堀(二の丸の堀)普請候」(同天正十五年二月五日付)「殿様今日駿へ御座候由候」(同天正十五年十二月四日付)

家忠日記(複製)、駿府城東御門内に展示

ところが、それと同時に新たな工事の準備が始まりました。石垣の工事でした(下記補足2)。その直前、1586年、天正14年10月、家康が上洛し秀吉に臣従していました。それを境に始まったのです。「石垣の城」を築かなかった家康に、豊臣政権が関与したことが記録上からも伺えます(下記補足3)。更には、「てんしゅ(天守)の材木を準備したという記録も見られます(下記補足4)。しかし記録からでは、石垣や天守の規模はわかりません。

(補足2)「城普請出来候、石とり候(「家忠日記」天正十七年二月付)」「来一日より駿河御城御普請候由、酒左衛門督(酒井忠次)より申来候」(同天正十五年九月十七日付)
(補足3)「てんしゅの才木てつたい普請あたり候」(「家忠日記」天正十六年五月十二日付)
(補足4)「駿河府中の石垣の普請あり、去る去る年より、事始めあると雖も、上方不快の間、指て事行ず。いま、秀吉公入魂せしめたまい、普請宜々、出来の間、浜松より北の方をも引越し給う。」(「当代記」天正十五年丁亥二月付)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

2016年、大御所時代の天守台の発掘調査が行われましたが、その下から天正時代の当時としては巨大な天守台と、大量の廃棄された金箔瓦が発見されました。天守台の大きさは秀吉の大坂城をもしのぎ、天下人クラスのものでした。そのため、当初は家康が築いたものとはされず、家康が関東に移った後駿府に来た、中村一氏のときに築かれたのではないかとされました。一氏は秀吉の家臣(当時は秀次家老)だったので、秀吉の肩入れで築かれたということです。関東周辺には、秀吉の家臣による総石垣・金箔瓦の天守がいくつも築かれ、家康包囲網ともいうべき城郭ネットワークが構成されました。駿府城もその一つと考えられたのです。見つかった金箔瓦は一か所に廃棄されていて、家康が再度城を築くときに意図的に壊されたとも言えるのです。

発掘された天正期の天守台
出土した金箔瓦、駿府城東御門内にて展示
中村一氏像、東京大学史料編纂所蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところがまた事態は一変します。2019年に天守台に付随する小天守台が発見されたのです。これは家康家臣の記録の一つ「小傳主(小天守)を築く」と一致するということになったのです(下記補足5)。にわかにこの巨大天守は家康が築いたという可能性が出てきたのです。学者の中には、この時期に家康が独力で石垣・天守を築く能力を身に着けたと考える人もいます。しかし一方で、一連の石垣・天守工事は小田原合戦準備のため短期間で終わっていて、その間にこれだけのものを築けたのかという疑問もあります。また、家康が関東に移った当初の江戸城はとても質素で、豪華な石垣や天守は関ヶ原合戦の後と考えられているので、それとの整合性はどうなのでしょうか。それから見つかった金箔瓦は、織田系・豊臣系両方の特徴を示していて、独自性が感じられます。このことは家康築城説に有利なのかもしれません。発掘調査は2020年に終了しましたが、今後の研究成果が期待されます。

(補足5)「小傳主てつたい普請當候」(「家忠日記」天正十七年二月十一日付)

駿府城の金箔瓦(複製)、左側が豊臣系、右側が織田系の特徴をもつ、駿府城東御門内にて展示

天下人・大御所の城

関ヶ原合戦の勝利、征夷大将軍就任により天下人となった家康は、1605年(慶長10年)早くも将軍職を後継ぎの秀忠に譲りました。その隠居城となったのが駿府城です。馴染みのある地で余生を楽しむという感じも受けますが、実際には自由な立場で天下の政権運営を行うためでした。家康は将軍時代、ほとんど上方の伏見城にいたので、江戸との中間点で、両方目配せができる場所を選んだのでしょう。また、大坂城の豊臣方が西国大名とともに江戸を攻める場合、防衛線にもなりうる拠点でした。1607年(慶長12年)、天下普請により新たな築城が始まりました。その範囲は、現在の三の丸が追加される形と考えられますが、中身は大改修となりました。三の丸のラインが二の丸以内とずれているのは、城下から見て、富士山と天守が同時に視界に入る仕掛けと言われます。慶長12年中にほぼ完成していましたが、12月22日、本丸・天守が全焼してしまいました。これは奥女中の火の不始末が原因とされますが、火事は度々起きていて、豊臣方の策謀ではないかという説もあります。再建工事が直ちに開始され、翌1608年、慶長13年8月14日に家康が入城しています。

駿府城の航空写真(国土地理院)、三の丸ライン(緑線)を付加
石垣工事のジオラマ、駿府城東御門内にて展示

城の中で際立つのは、まず天守台です。2016年からの発掘調査の結果、一番下の部分(基底部)で東西約63m、南北約69m、という日本最大規模であったことがわかりました。残っている記録(陸軍実測図)によると、最も高い部分(天端)でも東西約48m、南北約50mで、最盛期の江戸城・大坂城をしのぐものでした。また、天守は天守台一杯に築かれたのではなく、周りを櫓と渡櫓が囲み、中心部に天守が立つという珍しいスタイルでした(環立式)。天守の建物は6重7階で、高さは約33mありました。屋根には貴重な銅瓦(+金属瓦)が用いられていました(家康時代の江戸城も銅瓦を使用)。ただしどんな外観だったかは、詳細な設計図がなく、短期間で焼失したため(1610年完成、1635年焼失)、よくわかっていません。いくつか絵図が残されていますが、異なった描き方をされています。今後の研究の進展が待たれます。

発掘された慶長期の天守台
天守台模型、駿府城東御門内にて展示
駿府城天守の模型、発掘情報館「きゃっしる」にて展示

城全体ですが、平城であっても三重の堀で囲まれ、戦いに備えていました。西側の方が標高が高く攻められやすいため、防御が厳重でした。三の丸西側には門がなく、二の丸西側の清水御門は上げ下ろしができる跳ね橋だったようです。坤櫓のような櫓も厳重に守りを固めていました。他の方角にある門も、大鉄砲等も破壊されにくい、内枡形構造となっていました。そのうちの一つ、東御門が現在復元されています。その他、城内を仕切るための仕切石垣も採用されていました。駿府城独特のものとしては、本丸堀と二の丸堀をつなぐ水路が作られ、堀の水位を保てるようになっていました。また、天守台には、全国的に珍しい井戸が設けられ、籠城にも備えていました。

駿府城模型、駿府城東御門内にて展示
復元された坤櫓
復元された東御門
二の丸水路

一方で大御所・家康がいた駿府城は、日本の政治の中心地の一つになりました。家康が生活し、政務を執ったのは本丸御殿です。本田正純などが側近として仕え、江戸の秀忠と分担して二元政治を行っていました。そのうち軍事・外交に関しては家康が取り仕切っていたため、駿府には、諸大名だけでなく、外国使節も訪れ、日本の首都機能の一翼を担うような都市になりました。1609年(慶長14年)からは、家康十男・頼宜が駿府城主になり、家康と一緒に過ごしました。1614年(慶長19年)、大坂の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件が起こり、家康が、弁明のために駿府城に来た片桐且元には面会せず、後から来た大蔵卿には面会することで、豊臣方の分断を図ったというエピソードは有名です。家康は、大坂冬・夏の陣とも駿府城から出陣し、豊臣氏を滅ぼした翌年(1616年、元和2年)に亡くなった場所も駿府城でした。

家康の洋時計(複製)、発掘情報館「きゃっしる」にて展示
徳川頼宜肖像画、和歌山県立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後

徳川頼宜は、1619年(元和5年)に和歌山に移っていきました。その後、秀忠の三男・忠長が駿府城主になりますが(1624年、寛永元年)、兄の3代将軍・家光により改易されました(1632年、寛永9年)。以降は幕府直轄になり、城代が置かれました。城外には城を警備する加番も置かれました。幕府の「聖地」を守るお役目です。1634年(寛永11年)には家光の宿泊所として使われましたが、翌年の火災で天守・御殿・櫓などが全焼、天守は再建されませんでした。その後も地震などで度々被害があり、将軍の上洛もなくなったことで、本丸御殿などの規模は縮小していきました。

加番の一つ、三加番の屋敷跡

そして幕末の動乱を迎えたとき、駿府城は再び注目を浴びました。鳥羽・伏見の戦いの後、新政府の東征軍が組織され、江戸に向かって行軍してきたのです。そのときは江戸の「最後の将軍」徳川慶喜は恭順の方針であり、名古屋城を擁する尾張藩も新政府に付いていました。最期の駿府城代・本多正納(まさもり)は城を開け渡ざるをえませんでした。1868年、慶応4年3月、新政府の拠点となった駿府に、慶喜・勝海舟の使者として山岡鉄舟がやってきました。彼は、新政府参謀の西郷隆盛と面会し、江戸開城の条件交渉を行いました。それが有名な勝・西郷会見につながったのです。江戸開城が成ると、慶喜を継いだ徳川家達(いえさと)が駿府藩主として駿府城に入城しました。家康の子孫がまた戻ってきたのです(廃藩置県後は東京に移住)。慶喜も水戸謹慎後は、駿府改め静岡に移住し、1897年(明治30年)まで暮らしました。

西郷・山岡会見の史跡碑
明治初期の徳川家達

明治時代になると、城は陸軍が管轄していましたが、建物は売却され、城内は荒れ果てていきました。三の丸の部分は市街地化しました。1889年(明治22年)になってようやく「廃城」扱いになり静岡市に払下げされましたが、その使い道は陸軍の誘致でした。1896年(明治29年)にはついに天守台が崩され、本丸堀が埋められました。二の丸以内が歩兵第34連隊の敷地になったのです。戦後は都市公園「駿府公園」として再出発しますが、堀の埋め立てや石垣の破壊が続いていました。1975年(昭和50年)から発掘調査が行われ、それから史跡として注目されるようになります。その到達点として、1996年(平成8年)東御門・巽櫓復元、2014年(平成26年)の坤櫓の復元があります。公園の名前も2012年(平成24年)に「駿府城公園」に変更されています。

駿府城の復元された巽櫓

「駿府城 その2」に続きます。

161.岸和田城 その1

現在も岸和田城の復興天守が市街地からよく見えます。しかし、城の姿はその長い歴史の間、現在とは全く異なっていました。

立地と歴史

だんじり祭りで知られる地

岸和田市は毎年9月に開かれるだんじり祭りによって知られています。「だんじり」とは伝統的な山車(だし)のことで、祭りの間市中を引き回されます。岸和田市は岸和田城の城下町を起源としています。だんじり祭りもまた、1703年に城主であった岡部長泰(おかべながやす)が城内に稲荷神社を勧請したことを祝った催しが元になっていると言われています。現在も岸和田城の復興天守が市街地からよく見えます。例えば、大阪と関西空港や和歌山市を結ぶ南海線に乗ると、車窓からも眺めることができます。しかし、城の姿はその長い歴史の間、現在とは全く異なっていました。

だんじり祭りの光景 (licensed by Kounosu via Wikimedia Commons)
岡部長泰肖像画、泉光寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の岸和田城

国人領主から天下人が支配する城へ

大阪府は大まかに言って過去には、摂津国、河内国、和泉国の三つの国に分かれていました。岸和田は和泉国に属していて、現在の大阪府南部に相当します。そして、南側を紀伊国(現在の和歌山県)に接していました。岸和田城が最初はいつ誰によって築かれたかはよくわかっていません。しかし歴史家は、国人領主の岸和田氏が中世のいずれかの時期から古岸和田城を所有していて、戦国時代の15世紀初期に現在の岸和田城に移ってきたと推測しています。この城はその後、他の国人領主たち、松浦氏や寺田氏に継承されました。彼らは城や領地を維持するために、細川氏や三好氏などの時の権力者に仕えていました。

和泉国の範囲と城の位置

ところが、織田信長や豊臣秀吉といった天下人が16世紀後半に天下統一を進める段階になると、国人領主たちの支配はおぼつかなくなります。岸和田城は、紀伊国を支配する国人領主の集団、雑賀衆に対抗するための最前線として使われるようになりました。そのため、信長や秀吉は家臣を城に派遣して直接統治を行うことにしたのです。例えば、秀吉配下の中村一氏(なかむらかずうじ)は岸和田城主となって、1584年に雑賀衆からの攻撃を撃退しました。岸和田城はもともと、大阪湾沿いにあった丘に築かれた単純な土造りの城でした。一氏はその城を、天守や高石垣を築いたりして改修したと考えられています。また、これらのことで、岸和田城が和泉国の中で唯一生き残った城となりました。他の城は、天下人や幕府の命によって全て破却されてしまったからです。

中村一氏肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城と城下町の発展

秀吉は1585年に、一氏から親族の小出秀政に城主を交代させました。秀政は、城の西方の二の丸下に、城下町とそこを通る紀州街道を開発しました。それまでは、海水の満ち引きが城下まで達していたのです。それから、東側にあった大手門が城下町近くの北側に移されました。また、本丸にあった天守が改築または置き替えられたと考えられています。その後徳川幕府に提出された絵図面(いわゆる正保図)によると、天守は五層建てでした。幕府は1619年には、城主を小出氏から松平(松井)康重(やすしげ)に交代させ、康重が城と城下町を完成させました。彼は、城下町の西外側に新しい石垣を築き、町を拡張したのです。城は恐らく、最初は東に本丸、西に二の丸があるだけの小さなものでしたが、周りにいくつもの曲輪や堀が加えられることで、かなり大規模になりました。

岸和田城と城下町の模型(南側から見た構図、赤丸内が大手門(北大手門))、岸和田城天守閣にて展示
絵図面に描かれた岸和田城天守(出展:国立公文書館)
現存する城下町の石垣(「浜石垣」と呼ばれます) (licensed by Hironoyama via Wikimedia Commons)
松平康重肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城は1640年に、最終的に岡部宣勝(おかべのぶかつ)に引き継がれ、その一族が江戸時代末期まで岸和田藩として、城と町を統治しました。岡部氏は現在の静岡県中部にあたる駿河国の出身でした。最初は今川氏に仕え、武田氏を経て、最後は幕府の創設者、徳川家康に仕えたのです。彼らの統治は平和な江戸時代の間は安定し、岸和田だんじり祭りも発祥しました。しかし残念ながら、天守は1827年の落雷により焼失してしまいました。その後岸和田藩は天守の再建を幕府の許可をもらって計画しますが、それが実行される前に明治維新となり、武士と城の時代が終わってしまいました。

岡部宣勝肖像画、泉光寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
和泉国岸和田城図(部分)(出展:国立公文書館)

「岸和田城その2」に続きます。

41.駿府城(Sunpu Castle)

駿府城は、徳川家康ゆかりの城としてその姿を取り戻しつつあります。
Sunpu Castle is returning to a castle associated with Ieyasu Tokugawa.

復元された駿府城東御門、背景は静岡県庁舎別館(The restored Higashi-Gomon of Sunpu Castle, the background is the Shizuoka Prefectural Government Office)

Location and History

徳川幕府の創始者である徳川家康は、昔は駿府といった現在の静岡市に3回住んでいました。最初は少年期に、今川氏の人質として過ごしました。2回目は壮年期に東海地方の戦国大名として、最後は熟年期に日本の支配者としてでした。今川氏の館が同じ場所にあったと言われており、そのため家康が人質としてそこに送られたのです。
Ieyasu Tokugawa, the founder of the Tokugawa Shogunate lived three times in Sunpu which is the old name of Shiuoka City. The first time was in his childhood when he lived there as a hostage under the Imagawa clan. The second one was in his middle age as a warlord in the Tokai region, and the last one was in his old age as the ruler of Japan. It is said that the hall of the Imagawa clan was there, that’s why Tokugawa was sent to the castle as a hostage.

駿府城公園の徳川家康像(The statue of Ieyasu Tokugawa in Sunpu Castle Park)taken by 松波庄九郎 from photo AC

家康は、駿府が首府であった駿河国を手に入れた後、1589年に最初の天守とともに新しく駿府城を建設しました。しかし、ほどなく豊臣氏の命により関東地方に移されてしまいました。代わりに豊臣配下の中村一氏が駿府城に入り、家康の天守を別のものに置き替え、家康への対抗姿勢を示しました。
Tokugawa built a new Sunpu Castle with the first “Tenshu” keep in 1589 after he took over Suruga Province where Sunpu was the capital. But he was soon transferred to the Kanto region by the Toyotomi clan. Instead, the Kazuuji Nakamura under Toyoyomi came to the castle and replaced Tokugawa’s Tenshu with another one against Tokugawa.

中村一氏像、東京大学史料編纂所蔵(The portrait of Kazuuji Nakamura, owned by Tokyo University)licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

最終的には家康は再び駿府に戻り、1607年に城の大改修を行います。最盛期には、駿府城は三重の堀に囲まれていました。三代目の天守は、日本で最大の天守台の上にありました。そして数多くの櫓や門が、西の豊臣氏との戦いに備えて築かれました。家康は、1615年に豊臣氏を滅ぼし、1616年にこの城で亡くなります。その後、幕府は長年にわたって駿府とこの城を支配しました。
Finally, Tokugawa returned to Sunpu again, and renovated the castle in 1607. At its peak, it was surrounded by triple moats. The third Tenshu keep had the largest stone base in Japan, and many turrets and gates prepared for fighting with Toyotomi clan in the west direction. Tokugawa died at this castle in 1616 after he had beaten Toyotomi clan in 1615. After that, the Shogunate directly governed Sunpu and the castle for many years.

駿州府中之城図家康公縄張、岡崎市立図書館蔵(The layout of Sunpu Castle by Ieyasu Tokugawa, owned by Okazaki City Library)licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

不幸にして1635年に大火が起こり、城を焼いてしまいました。火事の後、「東御門」「巽櫓」「坤櫓」といった施設は再建されましたが、天守は再建されず、天守台だけが残りました。
Unfortunately there was a big fire in 1635 which burned the castle down. After the fire, facilities such as the East Gate “Higashi Gomon”, the South-East turret “Tatusmi Yagura” and the South-West turret “Hitsuji-Saru Yagura” were rebuilt, but Tenshu was not rebuilt, only its base remained.

現在復元された巽櫓(左)と東御門(右)、大火の後再建された建物を元にしている(The current restored Tatsumi-Yagura(left) and Higashi-Gomon(right), based on the buildings rebuilt after the fire)

江戸時代末期になって、駿府城は東西対立の中で再度重要な存在となりました。この城は新政府軍の本陣となり、ここから幕府との間で江戸城と将軍の扱いについて交渉が行われました。
At the end of the Edo Period, Sunpu Castle regained its importance in the East-West confrontation. The castle became the stronghold of the New Government Military which negotiated the treatment of Edo Castle and the Shogun with the Shogunate.

駿府城近くにある西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地跡(The site of the meeting between Takamori Saigo and Tesshu Yamaoka near Sunpu Castle)licensed by Halowand via Wikimedeia Commons

Features

現在、静岡市当局はこの城跡を史跡として再生することに取り組んでいます。最近になって城跡の名前が、元の駿府公園から駿府城公園に変更されました。更には東御門、巽櫓、そして坤櫓が残っている詳細図面や発掘の成果から、オリジナルの木造建築により復元されました。
Now, Shizuoka City officials are trying to recreate the castle ruins as a historic site. They have renamed the ruins from the former name Sunpu Park to the Sunpu-Castle Park recently. They have also restored Higashi Gomon, Tatsumi Yagura and Hitsuji-Saru Yagura in the original wooden style based on their remaining detailed drawing and excavation.

復元された東御門と巽櫓(The restored Higashi-Gomon and Tatsumi-Yagura)
復元された坤櫓(The restored Hitsujisaru-Yagura)taken by アド・ミラー from photo AC

市は、どのように公園を再構成し、また天守を再建すべきか、歴史家や専門家に諮問しています。現時点の答申は、まず最初に天守台を復元すること、そしてしばらく様子を見るというものでした。それは、天守の詳細が不明であり、再建には莫大な予算が必要だからです。現在、天守台の再建に向けて行われている発掘現場を見ることができます。そこでは二代目の中村氏の天守と、三代目の徳川氏の天守の遺跡が混在しています。大変興味深いものです。
They are consulting with historians and specialists about how they should reorganize the park and rebuild the Tenshu keep. Their answer right now is that they should restore the base of Tenshu first, and wait for a while. That’s because the details of it are unclear, and rebuilding it requires a huge budget. You can now see the excavation site of Tenshu prepared for the rebuilding of the base. There are mixed stone ruins both from the second Nakamura and the third Tokugawa periods.
That’s fascinating.

天守の発掘現場(The excavation saite of Tehchu)
こちら側が徳川の石、向こう側が中村の石(The near side is Tokugawa’s stones, the other is Nakamura’s)

Later Life

明治維新後、城の全ての建物が撤去され、静岡市は城跡を公園として使いました。しかし、市は明治中期に至り、公園を軍用地として提供する決断をしました。そして陸軍歩兵第34連隊が1897年から1945年の間、基地として使用しました。結果として、残っていた天守台は完全に破壊され、多くの堀がその残土により埋められました。この一帯は、二重、三重目を囲む堀と石垣を除き、平地になってしまいました。
After the Meiji Restoration, all the buildings of the castle were demolished, and Shizuoka City used the ruins as a park. But the city decided to offer the park for the ground for a military base in mid Meiji. The 34th infantry regiment used the base between 1897 and 1945. As a result, the remaining Tenshu base was completely destroyed and many moats were filled with waste. The area became plain-looking without part of the second and third concentric moats and their stone walls

現在の駿府城の航空写真(An aerial photo of the present Sunpu Castle)


内堀もわずかですが復元されています。(A few inner moats are restored)

第二次世界大戦後、城跡は再び公園となり「駿府公園」と名付けられました。現在静岡市は市民との絆を深めるため、家康を新たなシンボルとして模索しているようです。
After the World War II, the ruins of the castle became a park again called “Sunpu Park”. The city seems to be looking for a new symbol of Tokugawa to strengthen ties with its citizens.

堀から発見された家康時代の鯱(The grampus in Ieyasu’s era which was discovered from a moat)

My Impression

市民や観光客のために歴史公園を増やしたい気持ちはわかります。当方としても元通りの城の建物を本当に見てみたいです。しかし、一体どこまでやればよいのでしょう。市のシンボルとして天守を再建することが本当に必要でしょうか。過ぎたるは及ばざるがごとし。答えは一つではないのですが、過去に起こった軍用地の一件の中に潜んでいるような気もします。
I can see why they want to increase the number of historical parks for citizens and tourists. I am really pleased to see the buildings of castles restored like the original ones. But, how far will they go with that? Is it really necessary to rebuild the Tenshu as the city symbol? More than enough is too much. Though there is not one answer, it might be an answer in the case of the military base in the past.

再建された巽櫓の内部(The inside of the restored Tatsumi-Yagura)

How to get There

JR静岡駅から歩いて約15分です。
東京から静岡駅まで:東海道新幹線に乗って、直接静岡駅に到着します。
It takes about 15 minutes on foot from the JR Shizuoka station.
From Tokyo to the station: Take the Tokaido Shinkansen super express direct to Shizuoka st.

Links and References

駿府城公園(Sunpu Castle Park)
・大御所徳川家康と駿府城公園、田中省三著(Japanese Book)

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