34.七尾城 その3

野性動物には気を付けましょう。

特徴、見どころ

本丸の近くの他の曲輪にも行ってみましょう。温井屋敷は桜馬場のとなりにあります。ここには九尺石と呼ばれる巨石を使った入口の跡があります。ここは城の搦手門だった可能性があります。

温井屋敷
九尺石を使った入口跡

二の丸は温井屋敷のとなりにあり、ここも城を守る上で重要な拠点でした。最後に、三の丸はもう一方の堀切の向こう側にあります。そこに行くには、急崖にある階段を上り下りしなければなりません。

二の丸
二の丸の想像図(現地案内板より)
二の丸の急崖

その後

七尾城が廃城となった後の江戸時代には、加賀藩はこの山周辺の伐採を禁じていました。農民が木材その他の資材を切り出すことはできませんでした。城跡の研究は約100年前から始まりました。その結果、1934年には城跡は国の史跡に指定されました。七尾市は1966年から城跡の維持管理を行っています。市は、城跡の遺産を保護しつつ、主要部の眺望を良くし、山麓から伸びる大手道を整備することを計画しています。

石垣上からの眺め
城跡から七尾市街の眺め
城跡主要部に至る大手道

私の感想

現地説明板にはイノシシが城跡を掘り起こしてしまっているという事が書かれていました。実際私が二の丸から三の丸に行こうと崖を下っていたとき、イノシシの後ろ姿に気が付きました。イノシシに突然遭遇したときには襲われる可能性があると聞いていましたので、三の丸に行くのはあきらめ、引き返しました。山城を訪れるのはとても面白いのですが、気を付けるべきこともあります。野生動物に不意に襲われないためには、彼らを刺激しないようにしましょう。

イノシシのことが書かれた現地案内板
イノシシの後ろ姿

ここに行くには

ここを訪れるときには車を使われることをお勧めします。
城の主要部に直接行く場合には、能登自動車道の七尾城山ICから約15分かかります。
山麓から歩かれる場合には、七尾城史資料館に駐車してから、大手道を通って頂上まで約1時間かかります。

七尾城史資料館
大手道入口

リンク、参考情報

史跡七尾城跡、七尾市
・「戦国の山城を極める 厳選22城/加藤理文 中井均著」学研プラス
・「日本の城改訂版第55号」デアゴスティーニジャパン
・史跡七尾城整備基本計画書、七尾市教育委員会

これで終わります。ありがとうございました。
「七尾城その1」に戻ります。
「七尾城その2」に戻ります。

34.七尾城 その1

北陸地方の名だたる巨城

立地と歴史

能登国の首府

七尾城は、現在の北陸地方の石川県北部に当たる、能登国にあった大きな山城でした。この城は、標高約300mの山の尾根上に築かれ、城の名前である「七尾」はその尾根の数に由来しています。畠山氏は、中世に国を治めた足利幕府の親戚筋に当たりました。その畠山氏の一族が、1408年に能登国の守護として当国に派遣されました。それ以来、畠山氏は七尾城を拡張しました。城は能登国の首府となり、その山麓では城下町が栄えました。この町からは16世紀中頃に、著名な絵師である長谷川等伯が輩出されます。彼はある戦国大名の肖像画を描きますが、その印象から有名な武田信玄のものだと言われてきました。しかし現在では、畠山氏の当主の一人を描いたのではないかと言われています。

城の位置

城周辺の起伏地図

畠山氏の当主かもしれない人物の肖像画、長谷川等伯筆、高野山成慶院所蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

畠山氏が重臣とともに統治

畠山氏は、遊佐(ゆさ)氏、長(ちょう)氏、温井(ぬくい)氏といった重臣たちと共に、能登国と七尾城を約170年間統治してきました。彼らは度々お互いに協力して侵入者を撃退しましたが、度々内輪もめも起こしました。これは彼らにとって強みでもあり弱みでもあったのです。城の構造はこの領主と重臣たちの関係を反映していました。城の主要部分は、松尾山という7つの中では一番高い尾根の上にありました。そこには今でも頂上に本丸があり、遊佐屋敷、桜馬場、温井屋敷、二の丸といった曲輪が尾根に並んでいるのを見ることができます。長屋敷と三の丸は主要部の両側にあり、大きく深い堀切によって隔てられていました。これらの曲輪の名前が示す通り、重臣たちは屋敷地として自分たちの曲輪を持っており、それが城内のパワーバランスを表していました。

七尾城の想像図(現地案内板より)
七尾城主要部の想像図(七尾城史資料館で展示)

上杉氏、織田氏の争奪戦の対象に

16世紀後半の能登国周辺では、2人の有力な戦国大名が勢力を広げていました。西方の織田信長と東方の上杉謙信です。謙信は1576年に七尾城を攻撃することを決めました。しかしそのときの城主は幼少で重臣たちが補佐していました。謙信は最強の戦国大名と言われていましたが、強引に城を攻撃することをせず、城を包囲することにしました。包囲は約2ヶ月間続きましたが、その間に幼少の城主は不幸にも疫病で死んでしまいます。重臣たちの意見は分かれていました。一方の長氏は、信長に援軍を求めようとしていました。しかし、もう一方の遊佐氏はそれには反対でした。信長はついに城に援軍を送りましたが、遊佐氏が長氏を倒すことで城方は謙信に味方することに決したのです。やがて、城は謙信のものとなりました。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
織田信長肖像画、狩野宗秀筆、長興寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この勝利にも関わらず、謙信はその6ヶ月後に亡くなってしまいます。その結果、七尾城は結局信長により占領されました。1581年、信長は能登国と七尾城を部下の前田利家に与えました。利家は本丸に三層の天守を築き、城の正面に大規模な石垣を造成しました。一方で利家はまた、統治のやりやすさと交通の利便性のために、七尾港の近くに新しい本拠地、小丸山(こまるやま)城を築きました。それでもなお七尾城を改修した理由は、新しい天守にあると考えられています。更に石垣とあいまって利家の権威と、この地域の領主が変わったことを知らしめていたのです。しかし、やがて1589年には廃城となってしまいました。

前田利家肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
前田利家が築いた石垣

「七尾城その2」に続きます。

4.弘前城 その2

城は、ほとんど元と同じ範囲で残っています。

特徴、見どころ

外堀から三の丸へ

驚くべきことに、ほとんど全ての弘前城の範囲がそのまま弘前公園として残っています。

城周辺の航空写真、下の古絵図とほとんど同じに見えます

津軽弘前城之絵図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)

南の方、例えば弘前駅の方から公園を訪れる場合、土塁と外堀に囲まれた三の丸にある追手門から入って行くことになるでしょう。また、その土塁には夥しい数の桜の木が植えられていて、春でなくても美しい桜の花で飾られるだろうと想像できます。

桜の木が植えられた外堀周辺

追手門は三の丸に残っている2つの門のうちの一つです。門に入るとき、その門が正面を向いていないことに気づくかもしれません。それは、弘前城と同じ時期に建てられた城には、通常2つの門の建物を持つ関門がありました。1番目の門は正面を向き、2番目の門は別の方向を向いていました。2つの門は、壁面とともに四角い空間を形作り、「桝形」と呼ばれ、城を守っていました。弘前城の場合は、その1番目の門が省略されていて、とても独特なスタイルです。

弘前城の追手門
甲府城に見る桝形の例(復元された山手門)

三の丸は現在、植物園、公共施設、リラックスゾーンになっています。

三の丸

全ての門と櫓が残る二の丸

二の丸周辺の航空写真

更に中に入っていくと、土塁と中堀に囲まれた二の丸が見えてきます。これもまた驚きですが、二の丸にあった2つの門と3つの三階櫓が今日全て残っているのです。櫓の屋根には銅板が使われていて、それが櫓をスマートに見せています。櫓と土塁の組み合わせもとても合っています。二の丸にはインフォメーションセンターがあります。

二の丸の入口
現存する二の丸南門
現存する二の丸辰巳(たつみ)櫓
現存する二の丸未申(ひつじさる)櫓

天守が引越し中の本丸

本丸周辺の航空写真

やがて、内堀の中の、天守がある本丸に到着します。実は、本丸の東側の石垣が修理中です(2021年12月現在)。その石垣の表面が膨張しており、地震が起こった場合崩れかねないからです。

修復中の本丸石垣

そのため、天守は本丸の東南隅にある天守台石垣から一時的に移動されています。よって、天守をすぐ近くに見ることができます。外側を向いている二面は、派手に飾り付けられています。一方、内側を向いている他の面はとても地味です。最初は天守の代用品として作られたからかもしれません。いずれにせよ大変面白いことです。

天守のない現在の天守台石垣
天守の飾り付けされた面
天守の飾り付けがない面

本丸の西南隅には、最初の天守があった大規模な石垣台があります。天気が良ければ、ここから岩木山の雄大な眺めを見ることができます。

最初の天守があった石垣台
石垣台からの眺め
晴れていればこのように見えるはず (taken by u****************m from photoAC)

「弘前城その3」に続きます。
「弘前城その1」に戻ります。