134.富山城 その1

基本的に土塁と水堀によって築かれた城

立地と歴史

越中国の中心地

富山市は、富山城の城下町として発展し、現在は富山県の県庁所在地となっています。この城は、最初は16世紀前半に神保氏によって築かれました。その場所は、現在の富山県にあたる越中国の中心部の平地でした。その地域はまた、北陸街道と飛騨街道という主要な2つの街道が交わる地点でもありました。その当時、そのような場所に城を築くことは危険だったかもしれません。そのときは戦国時代の真只中であり、多くの戦いが起こっていたからです。越中国の戦国大名たちは通常は防衛のために、増山城のような山城に住んでいたのです。富山城の場合は、神通川や水堀が城を囲んでおり、それが防御の手段となっていました。

城の位置

増山城跡

佐々成政が越中国を統一

上杉氏、一向宗、織田氏といった多くの戦国大名たちが、富山城をめぐって戦いました。最終的には1582年に、佐々成政がこの城を手に入れ、越中国全域を支配しました。しかし、成政が天下人の豊臣秀吉に反抗したことで、1585年には秀吉が越中国に侵攻しました。同じ年に成政は秀吉に降伏し、富山城は破壊されてしまいました。秀吉は、越中国を前田利長に与えました。利長は、後の江戸時代に加賀藩の初代藩主となりました。1605年に、利長は藩主の座を、後継ぎ(弟の前田利常)に渡し、藩の本拠地であった金沢城から、隠居のために富山城に移ってきました。後継ぎの利常はまだ若年であったために、利長はまだ藩の実権を握っていました。彼は、新しい本拠地として富山城を再建したのです。

佐々成政肖像画、富山市郷土博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
前田利長肖像画、魚津歴史民俗博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
金沢城

前田利長が城を完成

利長は、このとき富山城の形を完成させたと言われています。大河である神通川が、本丸の北側を自然の障壁として流れていました。川には浮橋が渡されていて、後には名所にもなりました。本丸を守るために、二の丸が南にあり、東出丸が東にあり、西には西の丸がありました。それぞれの曲輪は独立していて、水堀に囲まれていました。それらの曲輪は、本丸とはそれぞれ一本の土橋のみでつながっていました。曲輪は基本的には土塁により形作られていましたが、本丸の正門など3か所の主な門の周りは石垣で覆われていました。また、本丸には御殿があり、門の石垣の上には櫓が築かれていたと考えられています。最も大きな三の丸は、他の全ての曲輪の南にあり、武家屋敷地として使われていました。しかし城は、1609年に起こった不慮の火災により不幸にも焼け落ちてしまいます。城にとっては、2度目の災難でした。利長はやむを得ず高岡城に移りました。

越中国富山古城絵図、金沢市立玉川図書館蔵(富山市郷土博物館の展示より)
歌川広重「六十余州名所図会」より「 越中 冨山 船橋」 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高岡城跡

富山藩の本拠地

1639年、利長の甥、前田利次が、富山藩として支藩を設立することを許されました。彼は一時新しい城を築くことを考えましたが、財政難のため、富山城を再利用することにしました。その代わりに、彼は城下町を守るために外郭土塁と水堀を作らせました。利次の息子、正甫(まさとし)は産業を振興し、特に製薬に力を注ぎました。この製薬業での成功は、全国的に有名な「富山の薬売り」につながります。富山藩は天守を築くことも計画しましたが、これも財政難のために諦めました。その代わりに、東出丸に千歳御殿を作り、祭礼のときには庶民が立ち入ることを許可しました。そのほか、この城は江戸時代にを通じて、何度も火災、洪水、地震などによる被害を受けました。その度に藩は城を修復してきたのです。比較的簡単な構造の土塁や水堀は、多くの災害から城を守るのに適していたのかもしれませんし、維持修復を行うのも容易だったのでしょう。

富山城址公園にある前田正甫銅像 (licensed by Miyuki Meinaka via Wikimedia Commons)
現存する千歳御殿の正門

「富山城その2」に続きます。

135.増山城 その1

越中国の重要な山城

立地と歴史

戦国時代の越中国

増山城は、越中国(現在の富山県)にあった大きな山城でした。16世紀前半、越中国には有力な戦国大名がおらず、神保氏、椎名氏、一向宗他の勢力に分割されていました。この国の中央部には富山平野があり、東西と南方向は丘陵地帯に囲まれていました。各勢力はその丘陵地帯に多くの山城を築き、領地を維持していました。増山城は、守山城、松倉城と並んで、越中国の三大山城の一つとされています。

城の位置

増山城は、南方から富山平野に突き出した丘陵地帯の西端に位置していました。和田川がその端際を流れており、自然の水堀となっていました。そして、一ノ丸、二ノ丸といった多くの曲輪がありました。

城周辺の起伏地図

城周辺の地図

増山城の防衛システム

これらの曲輪を守るために、城には峰、崖、谷といった自然の地形を利用した防御の仕組みがいくつもありました。例えば、いくつかの峰は人工的に溝のように切断され、堀切と呼ばれました。崖部分は垂直に削られ、切岸と呼ばれました。そして、谷部分は空堀として使用されました。

山城の防御の仕組み(現地説明板より)

また、この城にはいくつか井戸があり、兵士たちは容易に水を得られるため、長い籠城戦にも耐えられました。増山城のとなりの丘陵には亀山城のような他の城もあり、連携できるようになっていました。最盛期には、山城の麓に城下町も建設されました。

増山城の想像図(現地説明板より)

上杉謙信が三度攻撃

この城がいつ最初に築かれたかは定かではありませんが、戦国時代の16世紀中頃には神保氏がこの城を所有していました。1560年、有力な戦国大名、上杉謙信が越後国(越中国の東)から椎名氏を支援すると称し、越中国に侵攻しました。神保氏は守りを固め、増山城に籠城します。謙信は書状の中で「増山之事、元来嶮難之地、人衆以相当、如何ニも手堅相抱候間」(増山城はもともと要害の地である上に、守備兵を多く揃え、堅固に守られている)と言っています。謙信は三度増山城を攻撃し、ついに1576年に占領しました。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1578年に謙信が亡くなった後、織田氏配下の佐々成政が1581年に増山城を上杉氏から奪います。その後、天下人の豊臣秀吉や後には徳川幕府を支持した前田氏がこの城を所有しました。城には、前田氏の重臣たちが在城していました。この地方一帯を治めるためには、この城は常に重要であり続けたのです。しかし、1615年に徳川幕府によって出された一国一城令により、ついに廃城となってしまいました。最後の方では、重臣の妻で、前田氏の創始者、前田利家の娘でもあった蕭姫(しょうひめ)がこの城を治めていたと言われています。

佐々成政肖像画、富山市郷土博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
前田氏の創始者、前田利家肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「増山城その2」に続きます。