192.角牟礼城 その1

豊後国玖珠地域の国人領主たちは中世の間、この地域の特徴的な地形、メサやビュートを使ってそれぞれの城を築きました。角牟礼城は、それらの城の一つでした。

立地と歴史

交通の要衝、玖珠地域の城の一つ

角牟礼(つのむれ)城は、かつての豊後国玖珠(くす)郡の森地区、現在の大分県玖珠町の森地区にあった城です。玖珠郡及び玖珠町は、北九州地方の東西を結ぶ交通路の途上にあります。例えば、大分市から福岡市か佐賀市まで行こうとすると、車を使っても公共交通機関でも玖珠町を通ることになります。それに加えて、かつての玖珠郡は北方を豊前国に接していて、中世に長く豊後国を守護として支配してきた大友氏にとっては、領土を守るために常に玖珠郡に注意を払ってきました。

豊後国の範囲と城の位置

また、この玖珠地域には面白い自然の特徴があり、火山活動に由来するメサやビュートというものです。これらは急傾斜をもった山や丘のように見えるのですが、頂上部分は浸食により平らになっています。この地域にある切株山はそれらの中でも典型的な形をしています。地域の国人領主たちは中世の間、メサやビュートを使ってそれぞれの城を築きました。角牟礼城は、それらの城の一つであり、国人領主の森氏によって角埋(つのむれ)山の上に築かれました。この名前の一部「牟礼・埋(むれ)」は、同じ大分県の佐伯市の栂牟礼(とがむれ)のように、九州地方の他の山の名前にも見ることができます。この言葉は「村」や「森」に由来するとも言われ、このことはこの山や城が地元の人たちによっても日常的に使われていたことを示唆しています。すなわち、山から燃料や部材のために木を伐採したり、戦が起こったときには村から城に避難していたようなことが考えられます。

切株山  (licensed by そらみみ via Wikimedia Commons)

大まかに言って、角牟礼城の歴史は3つに分けられます。最初の時代は、城の創建から16世紀末に大友氏の支配が終わるまでの期間です。その当時、大友氏の支配は安定し、玖珠地域はメサやビュートを利用した城を持つ多くの国人領主たちによって分割されていました。大友氏は彼らの領地を直接統治することはせず、彼らが大友氏に所定の年貢を納め、奉仕を行っている限り、領土や財産を保全することができました。森氏によって治められた角牟礼城は土造りで、自然の地形を加工して、段状の曲輪群、堀切、切岸、縦堀などが作り出されたのです。城が築かれた山は南側を除く三方を自然の急崖に囲まれていて、それだけでも十分高い防御力を有していました。そのため、城の守備兵は防御設備を南側一方に集中させることができたのです。この城は実際に、1586年に島津氏が大友氏の領土に侵攻したときに唯一落とせなかった城となり、難攻不落の城と称されました。

角牟礼城跡のジオラマ、豊後森藩資料館にて展示

城周辺の起伏地図

毛利高政が城を近代化

二番目の時代は、天下人の豊臣秀吉により大友氏が改易となった1593年から始まりました。その後秀吉は、以前大友領だったところに直属の部下をを派遣し、直接統治することを始めたのです。玖珠地域には、秀吉によって領主として毛利高政が宛がわれました。高政は角牟礼城を居城とし、高石垣や虎口と呼ばれる防御力の高い出入口、そして瓦屋根や礎石をもった建物を築くことで改修を行いました。これらは、秀吉の他の部下たちが日本の他の地域で築いたり改修したりした城でも見ることができます。城を強化するとともに、人々に権威を見せつけたのです。特に、角牟礼城の大手門前の高石垣は、「穴太積み」と呼ばれる当時としては最新の方法によって自然石や粗く加工された石が積み上げられました。しかし高政の統治は数年で終わってしまい、1601年には徳川幕府によって、佐伯地域に転封となりました。彼はそこで佐伯城を築くことになります。このことは、角牟礼城の改修が部分的にしか行われなかった理由になるのかもしれません。

毛利高政木造、佐伯市歴史資料館の説明板より
角牟礼城の穴太積みの高石垣
佐伯城跡

水軍の棟梁が内陸の藩の領主に

来島長親(くるしまながちか)が同じ年に高政の代わりに角牟礼城にやってきました。しかし、来島氏はこの内陸の地に異動することにとても戸惑いを感じたはずです。どうしてかというと、来島氏はもともと瀬戸内海の芸予諸島で村上水軍の一族として繁栄していたからです。彼らは、急流で知られる来島海峡に面する来島を根拠地としていました。そして、通行料を支払った船を安全な航路に案内する一方、そうでない船にはいわゆる海賊行為を働いていました。また彼らは時には水軍となって戦いに加わっていて、その支援先の一つが天下人の秀吉でした。そのおかげで彼らの海域は安堵されたのです。長親はその当時の当主でしたが、1600年に起こった天下分け目の戦いでは西軍に加わり、徳川幕府の創始者となる徳川家康率いる東軍に敗れてしまいました。それが慣れない場所への転封の理由だったのです。しかしそれでも、他の多くの西軍に加わった武将が死罪となったり改易となる中、ラッキーだったのかもしれません。

来島長親肖像画、安楽寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
来島海峡

長親の新しい領地は、玖珠郡の一部、森地区でした。そのため森藩と呼ばれることになります。その石高は1万4千石で、独立大名としては認められても、城を持つことは許されませんでした。そのため、長親は山上の角牟礼城を廃城とせねばならず、その代わりに南麓に陣屋を構えてそこに住んでいました。しかし、彼の一族は山の部分を維持し続け、建物は撤去したもののその基礎部分は残していました。戦いが起こった場合に備えていたのでしょう。久留島氏(来島より改姓、読みは同じ)はまた、陣屋の周りに城下町を整備し、江戸時代末期まで藩を統治しました。

久留島氏の陣屋跡
城下町の武家屋敷跡

「角牟礼城その2」に続きます。

194.佐伯城 その3

佐伯城跡は市街地にとても近いので、いつでも山の上に登ってみることができます。

特徴、見どころ

北の丸と2つの貯水池

本丸から伸びている山の北峰にある北の丸にも行ってみましょう。その上部の部分もまた、低くはあってもきれいなラインの石垣によって囲まれています。

峰上に長く伸びる北の丸
北の丸の先端部分
北の丸上部を覆う石垣

城の山上部分

北の丸と本丸との分かれ目には、食い違いの石垣による門があり、ここが裏手の道(「若宮の道」と名付けられています)への出口となっています。ここから出て登山道を下っていくと、山の裏側の谷間にある2つの主要な貯水池に至ります。上方にあるのが「雄池(おんいけ)」、下方にあるのが「雌池(めんいけ)」です。これらの貯水池も石垣に囲まれていて、まさに城にとってのライフラインだったのでしょう。

裏手の道への出口
雄池へ下っていきます
雄池
雌池

そこから登山道を少し登ってみると、北峰の中腹の周りを歩いてみることができます。ここでも道際に、基礎部分を支える石垣があるのがわかります。北の丸は、上部と基礎、両方にある石垣によって支えられているのです。北峰を回り込んで歩いていくと、本丸を支える見事な四段石垣が見えてきます。この石垣は最近になって2009年に発見されたそうです。

北峰中腹の道
北の丸基礎を覆う石垣
本丸が見えてきます
見事な四段石垣

西側の防御拠点

西の峰上にも西の丸があります。本丸とは反対側の二の丸のとなりに当たります。西の丸と二の丸とは、石垣造りの狭い門によって隔てられています。また、西の丸は山麓から登ってくる翠明の道の終点でもあります。この場所は、城の西側の防御拠点だったのですが、現在では市街地をよく見渡せるもう一つのビュースポットとなっています。ここには、円形の石造りの基礎構造物が見られますが、城時代のものではありません。第二次世界大戦中にあった高射砲陣地の跡です。

二の丸内部
二の丸、西の丸間の門
西の丸にあった櫓跡
西の丸からの景色
高射砲陣地跡

現存する御殿の門

山麓部分には三の丸櫓門があり、城の唯一の現存建物です。この門は、三の丸にあった城主のための御殿の入口として建てられました。門の奥の方、三の丸の内部は現在は空き地になっています。佐伯市歴史資料館はもう一つの城に関する見どころで、城や市の歴史、そして城を築城した毛利高政について学ぶことができます。資料館の前からは、頂上にすばらしい石垣を戴く山の姿を楽しむことができます。

城周辺の地図

現存する三の丸櫓門
三の丸内部は空き地になっています(佐伯文化会館跡地)
佐伯市歴史資料館入口
資料館前から見た城跡

その後

明治維新後、佐伯城は廃城となり、山上の全ての建物は撤去されました。その山上部分はやがて公園と毛利神社として使われました。佐伯市は2009年に山上部分の発掘を開始し、それにより佐伯城は江戸時代になってから新しく築かれた山城であると判明したのです。これは大変珍しいことでした。その結果、山上の城跡は直近の2022年に国の史跡に指定されました。山麓部分では長い間、御殿の一部分がその門とともに役所や学校として使われていました。しかし最後に残った御殿の玄関も、佐伯市民会館建設のために1969年に他所に移築されてしまいました。唯一残った門の建物は、佐伯市の文化財に指定されています。

1969年に移築された御殿玄関の写真、佐伯市歴史資料館にて展示

私の感想

佐伯市の人たちは、故郷の町とその歴史に誇りを持っていると思いました。例えば日常生活においても、時間があって天気が悪くなければ、いつでも山の上の佐伯城跡に登ってみることができます。この城跡は市街地にとても近いからです。そして、美しい景色を眺め、健康にもよいですし、地元の歴史を学ぶことにもなるのです。佐伯市のようなところに住めたらなあと思います。

佐伯城跡の全景(山上部分と山麓部分)

ここに行くには

車で行く場合:東九州自動車道の佐伯ICから約15分かかります。城跡の手前のところにビジター向けの駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR佐伯駅から大分バスに乗って、大手前バス停で降りてください。山麓は歩いて数分のところです。
東京か大阪から来られる方は、飛行機で大分空港に行き、そこから大分駅行きのリムジンバスに乗って、大分駅で日豊本線の電車に乗り換えてください。

リンク、参考情報

佐伯城、佐伯市観光ナビ
・「歴史群像179号、戦国の城 豊後佐伯城」学研
・「よみがえる日本の城20」学研
・「日本の城改訂版第14号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「佐伯城その1」に戻ります。
「佐伯城その2」に戻ります。

194.佐伯城 その2

この城の石垣はそんなに高くはありませんが、山の形に合わせて積んでいるのでとても美しく見えます。

特徴、見どころ

4つの登山道

現在、佐伯城跡は佐伯市によってよく整備されています。城跡は、頂に素晴らしい石垣を残す山上部分と、御殿の門が残り歴史博物館もある山麓部分から構成されています。どちらから先に行くのかはその人次第ですが、ここではまず山上部分から行ってみることにしましょう。山頂へ至る登山道は4つあり、そのうちの3つは現存する門の近くの山の正面からスタートします。その3つとは、「独歩碑の道(郷土出身の小説家国木田独歩の記念碑が到着地点にあるための命名と思われます)」「翠明の道」「登城の道」です。「独歩碑の道」が一番なだらかで、山頂にある神社への参道として舗装もされています。「翠明の道」は、自然の山道といった感じで峰上を進みます。最後の「登城の道」が実はおすすめです。この道は急で、道の状態も不安定ですが、オリジナルの状態に近いと思われるからです。

城周辺の地図

独歩碑の道
独歩碑の道はゆるやかで舗装されています
翠明の道
翠明の道は峰上を進みます
登城の道

この「登城の道」は山の峰の間の谷間をジグザグに進んでいきます。谷沿いにはいくつも水流が流れていたり、倒木や崩れた石が転がっているので足元に気を付けて下さい。これらの石は、道沿いにあった石垣や石積みから崩れてきたように思われます。途中でまだ残っているものを目にするからです。

谷沿いに転がっている石
ジグザグに進む登城の道
道沿いに残る石垣

山上のすばらしい石垣

15分から20分登れば、今でもすばらしい石垣に覆われている山上部分に到着します。ここの石垣はそんなに高くはありませんが、山の自然に地形に沿って山上を全体的に覆っています。多段になっている箇所もあります。例えば熊本城などの他の城で見られるような高石垣ではありませんが、山の形に合わせて積んでいるのでとても美しく見えます。また、石の一部は白い色をしているので、これは石灰岩を使っているようです。つまり、設計段階から城を外観をよく見せようとしたものと思われます。

山上部分に到着
自然の地形に沿って築かれた石垣
白い石が使われている本丸の石垣

本丸への唯一の通路

登山道の終着点から進んでいくと左側の方に、本丸と二の丸をつなぐ廊下橋と呼ばれる石橋が見えてきます。実はこの橋は、かつては唯一の本丸への通路でした。そのため全ての登城者はまず二の丸に入ってからこの橋を渡り、狭い本丸の入口を通りました。戦いが起こったときには、この橋は落とされるか、使えないようになっていたかもしれません。

城の山上部分

廊下橋と二の丸入口が見えます
廊下橋
二の丸入口から入ります
廊下橋を渡って本丸へ
本丸から見た廊下橋

本丸の天守台には小さな祠があります。以前は毛利神社の大きな建物があったのですが、不幸にも第二次世界大戦のときの空襲で焼けてしまいました。現在本丸の出入りには、神社が創建したときに作られた、オリジナルの入口の反対側にある、新しい石段を使うこともできます。

本丸の石垣
天守台にある祠
かつて天守台にあった毛利神社の写真、佐伯市歴史資料館にて展示
新しく作られた石段

本丸からこの階段を下りて、もう一つの登山道「独歩碑の道」の終点のところまで来ると、門(冠水門)の跡があります。この場所は佐伯市街地や佐伯湾を望む絶好のビュースポットです。

冠水門跡
門跡からの景色

「佐伯城その3」に続きます。
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