176.一宮城 その3

地元の人たちが観光客のために城跡を維持しています。

その後

一宮城跡は、1954年に徳島県の史跡に指定されました。それ以来、地元保勝会の人たちが、登山道を維持したり、下草を伐採したりして、城跡の整備を続けています。そのおかげで、私たちが快適な環境の下、城跡を訪れることができるのです。徳島市も、2017年から城跡の調査を行っています。城の建物の基礎部分が発見され、この城がどのように作られたかが明らかになってきています。(国の史跡にすることを目指しています。)

よく整備された登山道
主要曲輪下にある切岸
本丸の石垣

私の感想

徳島県にある3つの最も著名な城跡を訪れてみて、これら3つの城は全て一度は阿波国の中心地となっていることに気づきました。勝瑞城(1582年まで)、一宮城(1585年から1586年)、徳島城(1586年以降)といった流れです。しかしこれらの城はまたそれぞれに全く違う特徴を持っています。これはとても短い間に、阿波国の状況が大きく変わったからなのでしょう。城に対して求めるものが急激に変化したのです。これら3つの城を訪れ、比較してみることをお勧めします。

勝瑞城(館)跡
一宮城跡
徳島城跡

ここに行くには

徳島自動車道藍住ICから約20分かかります。
一宮神社に駐車できます。
公共交通機関を使う場合は、JR徳島駅から徳島バス神山線の寄井中(よりいなか)行きに乗り、一の宮札所前バス停で降りてください。
東京か大阪からでしたら、飛行機か高速バスを使われることをお勧めします。

リンク、参考情報

一宮城跡、徳島市公式観光サイト
一宮城跡国史跡推進事業、徳島市
・「三好一族と阿波の城館、図説日本の城郭シリーズ」戒光祥出版
・「日本の城改訂版第30号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「一宮城その1」に戻ります。
「一宮城その2」に戻ります。

175.勝瑞城 その3

巨大な遺跡が工場の敷地から現れました。

その後

勝瑞城が廃城となった後、見性寺が城の部分に建てられました。一方、館の部分は市街地となりました。時間が経つにつれ、人々は、その城の部分だけが勝瑞城だったと思うようになりました。ところが、1994年の発掘により、その城の部分は、勝瑞城の長い歴史に鑑みると新しすぎるものだとわかりました。更なる調査が周辺地域で行われ、1997年に近くの工場敷地の地下から、領主の館の遺物が発見されました。それから度々の発掘により、館の部分は想像以上に大きく、この遺跡は、この地域だけではなく、日本全体の歴史にとって重要であることがわかったのです。城跡はついに2001年に、城と館両方の部分を含めて、国の史跡に指定されました。館の部分は現在公有地となり、発掘が行われています。

館の部分にはかつて工場が建っていました(現地説明板より)
工場敷地の発掘(現地説明板より)
公有地となった後の発掘風景(現地説明板より)
現在の城跡風景(現地説明板より)

私の感想

正直言わせていただくと、勝瑞城跡を訪れたとき、がっかりしました。それは、遺跡が最初はただの空き地と小さな城跡のように見えたからです。ところが、この城の歴史を学んでみると、この遺跡が画期的な発見の後、整備中であることを理解できました。きっとこの城跡は、しばらく後には他の新しい発見とともに、よい歴史公園になるでしょう。もし今この城跡を訪れるならば、事前に城の歴史を学んでおくことをお勧めします。また、遺跡から発掘された遺物を見学できるので、現場事務所が開いている年末年始以外の日に行かれた方がよいでしょう。私は、その当時事務所がやっていなかった休日に行ったので、見学できませんでした。.

勝瑞城の館部分跡
勝瑞城の城部分跡

ここに行くには

車で行く場合:
高松自動車道の板野ICまたは徳島自動車道の藍住ICから約15分かかります。
城跡には、駐車場が館部分の中と、城部分の脇にあります。
電車では、JR勝瑞駅から歩いて約15分かかります。
東京か大阪ら行かれる場合は、飛行機か高速バスを使った方がよいでしょう。

リンク、参考情報

勝瑞城館跡、徳島県藍住町教育委員会
・「三好一族と阿波の城館、図説日本の城郭シリーズ」戒光祥出版
・「史跡勝瑞城館跡Ⅰ」藍住町教育委員会
・「日本の城改訂版第78号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
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175.勝瑞城 その2

城跡は「館」と「城」の2つの部分に分かれています。

特徴、見どころ

「勝瑞館跡」と「勝瑞城跡」

現在、勝瑞城跡には2つの部分があります(現地では2つをまとめて「勝瑞城館跡」と表示されています)。一つは大きな方で、細川氏や三好氏の館として使われていた部分です。よって、しばしば「勝瑞館跡」とも呼ばれます。この区域は基本的に広場になっていて、多くの遺物が地面の下に埋まっています。発掘現場事務所があり、発掘作業が現在も続けられています。遺物が見つかった場合、調査研究が行われ、元の場所に再び埋められるか、保存のために取り出されます。その後、遺物が見つかった場所に、現代的な方法で展示物が作られます。

城周辺の航空写真

「勝瑞館」跡

発掘と展示が進んでいる勝瑞館跡

例えば、橋がかけられた水堀のレプリカが、元あった水堀と同じ場所に、似たような大きさで作られています。観光客は今、過去においては館の区域がどのように堀によって隔てられていたのか、見てわかるようになっています。更に、館の遺物が見つかった場所(会所であったとされています)には、館のように見える休憩所が作られています。休憩所の近くでは、枯山水の庭園があった場所に、いくらか木が植えられ、石が据えられて、庭園が一部復元されています。また、説明板がたくさんあって、ここには何があって、城にどんなことが起こったのか記載されています。

水堀のレプリカ
館を模した休憩所
一部復元された庭園
説明板の一例

寺として残っている勝瑞城跡

もう一つの区域は、戦いにおいて、城が最後の局面に陥ったときの詰めの場所として付け加えられた部分です。こちらの方がより城跡らしく見えます。よって、ここ自体が「勝瑞城跡」と呼ばれたりもします。しかし、この部分は、館の部分よりずっと小さく、大きさは約100m四方です(館の部分は200~300m四方です)。これは恐らく、この城の部分が短期間に築かれ、使われたからでしょう。その跡地には現在、江戸時代に創建され、三好氏の墓が集められている見性寺があります。水堀と一部の土塁が跡地を囲んで残っています。発掘によれば、この土塁はもとは堀の底から14mの高さがありました(水面からは2.5mの高さ)。

見性寺
三好氏累代の墓
跡地を囲む水堀
一部残っている土塁

「勝瑞城その3」に続きます。
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