175.勝瑞城 その2

城跡は「館」と「城」の2つの部分に分かれています。

特徴、見どころ

「勝瑞館跡」と「勝瑞城跡」

現在、勝瑞城跡には2つの部分があります(現地では2つをまとめて「勝瑞城館跡」と表示されています)。一つは大きな方で、細川氏や三好氏の館として使われていた部分です。よって、しばしば「勝瑞館跡」とも呼ばれます。この区域は基本的に広場になっていて、多くの遺物が地面の下に埋まっています。発掘現場事務所があり、発掘作業が現在も続けられています。遺物が見つかった場合、調査研究が行われ、元の場所に再び埋められるか、保存のために取り出されます。その後、遺物が見つかった場所に、現代的な方法で展示物が作られます。

城周辺の航空写真

「勝瑞館」跡

発掘と展示が進んでいる勝瑞館跡

例えば、橋がかけられた水堀のレプリカが、元あった水堀と同じ場所に、似たような大きさで作られています。観光客は今、過去においては館の区域がどのように堀によって隔てられていたのか、見てわかるようになっています。更に、館の遺物が見つかった場所(会所であったとされています)には、館のように見える休憩所が作られています。休憩所の近くでは、枯山水の庭園があった場所に、いくらか木が植えられ、石が据えられて、庭園が一部復元されています。また、説明板がたくさんあって、ここには何があって、城にどんなことが起こったのか記載されています。

水堀のレプリカ
館を模した休憩所
一部復元された庭園
説明板の一例

寺として残っている勝瑞城跡

もう一つの区域は、戦いにおいて、城が最後の局面に陥ったときの詰めの場所として付け加えられた部分です。こちらの方がより城跡らしく見えます。よって、ここ自体が「勝瑞城跡」と呼ばれたりもします。しかし、この部分は、館の部分よりずっと小さく、大きさは約100m四方です(館の部分は200~300m四方です)。これは恐らく、この城の部分が短期間に築かれ、使われたからでしょう。その跡地には現在、江戸時代に創建され、三好氏の墓が集められている見性寺があります。水堀と一部の土塁が跡地を囲んで残っています。発掘によれば、この土塁はもとは堀の底から14mの高さがありました(水面からは2.5mの高さ)。

見性寺
三好氏累代の墓
跡地を囲む水堀
一部残っている土塁

「勝瑞城その3」に続きます。
「勝瑞城その1」に戻ります。

175.勝瑞城 その1

中世阿波国の中心地

立地と歴史

細川氏の守護所としてスタート

勝瑞城は、四国の阿波国(現在の徳島県)の中心地として14世紀中頃から16世紀後半まで栄えました。この城は、最初は足利幕府の重臣であった細川氏によって、この国の守護の公邸(守護所)として立ち上げられました。阿波国は肥沃な土地であり、日本の中心地であった京都にも近かったのです。また、この城は四国で一番の大河である吉野川沿いにあり、水上交通の便が良く、交易にも適していました。その結果、この城は細川氏の重要な拠点となったのです。

城の位置

三好氏の本拠地として発展

16世紀中頃、細川氏の配下であった三好長慶が細川氏に代わって権力を握りました。長慶は日本の中心地を支配するために京都の近くにあった飯盛城を居城とし、一方彼の弟である三好実休(じっきゅう)は勝瑞城に住んでいました。三好氏はもともとは阿波国出身でした。三好氏は、細川氏がそうだったように、勢力を保つためには、京都と阿波との間で緊密な連携を必要としました。例えば、兄の長慶が危機に陥ったときには、実休は阿波から大軍を率いて京都がある近畿地方で戦いました。

三好長慶肖像画、大徳寺聚光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
飯盛城跡
三好実休肖像画、妙國寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

実休はまた、勝瑞城を拡張しました。この城は規模を拡大し、水堀に隔てられた幾つもの曲輪を持ち、そこには御殿(主殿、会所など)や枯山水の庭園がありました。発掘の結果、高価な中国製陶磁器が取り引きされ、宴会や闘鶏などの行事が頻繁に行われていたことがわかっています。この城は、自然の障壁として吉野川などに囲まれてはいましたが、城そのものには土塁などの防御のために必要な特別の構造物はありませんでした。それは、阿波国の政治が大変安定していたため、防御の必要がそれ程なかったからとも考えられます。城の水堀は、水位の調節や、貯水池としての役割があったものと思われます。このときまでは、この城は「勝瑞館」と呼ぶべきものだったかもしれません。恐らく城としての特徴的なものがなかったからです。

「勝瑞館」跡

長宗我部氏に攻略される

ところが、16世紀後半に長慶と実休が亡くなった後は、状況が変わりました。勝瑞城は、三好氏の力が弱まってくるにつれ、内輪もめや戦さに巻き込まれていきます。更には、土佐国(現在の高知県)の有力な戦国大名である長宗我部元親が、阿波国を手に入れようとしました。そこで三好氏は、そのとき日本の中心地を領有していた天下人の織田信長に助けを求めました。信長の部下で、後に信長の後継として天下人となる羽柴秀吉は、書状を送り、勝瑞はもっと防御を強化すべきだと述べています。三好氏は、勝瑞城を拡張し、高い土塁や深い水堀に囲まれた、戦さの際立てこもることができる詰めの部分を付け加えました。ここにおいて、ついに「勝瑞城」と呼べるべきものとなりました。

長宗我部元親肖像画、秦神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「勝瑞城」跡

1582年に信長が突然本能寺の変で殺された後、三好氏は単独で長宗我部氏と戦わなければならなくなりました。同じ年、勝瑞城の南で、両者による中富川の戦いが起こりました。三好氏は残念ながら敗れてしまい、勝瑞城に一月近く籠城しました。しかし、三好氏は城から撤退し、長宗我部氏はついに勝瑞城を獲得したのです。城はただちに廃城となってしまいますが、それは恐らく戦いを乗り切るのは不十分とみなされたからでしょう。その後は、阿波国では一宮城のような山城が主流となりました。

一宮城跡

「勝瑞城その2」に続きます。

92.熊本城(Kumamoto Castle)

次の地震に備えるためにはどうすればよいのでしょうか?
What should be the plan to be prepared for the next earthquake?

熊本城の天守(The Tenshu keep of Kumamoto Castle)taken by さてらいと from photoAC

何が起こったか~What happened?

2016年に熊本地震が起きてから3年以上経過しました。この地震により熊本県には甚大な被害が発生し、熊本城も同様でした。城にとって最も深刻だったのが、50か所に渡り石垣が崩壊したことでした。石垣の崩壊により、多くの建物が倒壊したり、破損または深刻な状態に陥りました。現存する日本の城壁の中では一番長く、重要文化財に指定されている長塀は、全長242mのうち80mが崩壊しました。
Over 3 years have passed since the 2016 Kumamoto Earthquakes. They caused great damage to the area in Kumamoto Prefecture including Kumamoto Castle. For the castle, the most serious factor could be the collapse of stone walls in 50 points. With the collapse, many buildings were either torn down, were broken or are in critical condition. The Long Wall, the longest among the remaining castle walls in Japan, designated as an important cultural property, collapsed over 80m out of 242m in total.

地震前の長塀(The Long Wall before the earthquakes)licensed by DryPot via Wikimedia Commons
修理中の長塀、2019年6月時点(The Long Wall under repair in June, 2019)

もう一つの重要文化財である東十八間櫓は、石垣とともに完全に倒壊しました。
Another important cultural property, Higashi-Juhakken Turret also torn down completely with stone walls.

地震前の東十八間櫓(Higashi-Juhakken Turret before the earthquakes)lisencesd by Reggaeman via Wikimedia Commons
東十八間櫓は跡形もありません、2017年12月時点(Higashi-Juhakken Turret disappeared without trace, taken in December,2017)

最近復元された建物もまた被害を受けました。特に飯田丸五階櫓は、わずかに片隅の石垣によって支えられている「奇跡の一本石垣」として注目されました。
Recently restored building also suffered, in particular, Iidamaru-five-layer-turret was focused on for being supported by only one corner stone to survive, known as “the miracle lone stone walls”.

飯田丸五階櫓と一本石垣、2016年7月時点、現在は再建のため一旦撤去されている(Iidamaru-five-layer-turret and the miracle lone stone walls in July,2016. They were once demolished to reconstruct in the future.)産経フォトより引用

乾櫓も同じような状況でした。
Inui-turret has had a similar situation.

乾櫓、2017年12月時点(Inui Turret in December, 2017)
乾櫓石垣の状態、2017年12月時点(The state of Inui Turret’s stone walls)

1960年に現代の工法で外観復元された天守も被害を免れませんでした。ほとんどの屋根瓦が地震で剝げ落ちてしまったのです。
The Tenshu keep, which was apparently restored in the modern way in 1960, was not without suffering. Almost all of its roof tiles were peeled off by the earthquakes.

修理中の天守、2017年12月時点(The Tenshu keep under repair in December, 2017)

城の現存建物の中で最大の宇土櫓は、比較的少ない被害で済みました。この櫓の頑丈さが改めて認識されるとともに、地震の被害者をも勇気づけているとのことです。
Udo-turret, the largest remaining building in the castle had relatively small damage. People say that it has shown its strength and has encouraged victims of the earthquakes.

宇土櫓、2017年12月時点(Udo Turret in December, 2017)

熊本市長は、天守を修理するのに3年、城全体を元通りにするのに20年かかると言っていました。その通りに天守の復元はなされており、2019年10月から部分的に公開されています。
The mayor of Kumamoto City stated that it would take 3 years to fix the Tenshu, and 20 years would be needed to restore the castle completely. As he said, the restoration of Tenshu has been done, it has partly open since October 2019.

2019年9月時点の天守(The Tenshu keep in September, 2019)産経フォトより引用

立地と歴史~Location and History

熊本城は、現在の熊本市の丘陵地帯の端に位置する茶臼山の上にあります。この城は加藤清正が1588年に肥後(現在の熊本県)の国主として着任してきてから有名になりました。清正は、薩摩国(現在の鹿児島県)の島津氏の幕府への反逆を防ぐため、この城を強大に作り込みました。加藤氏が改易となった後、その後を継いだ細川氏も江戸時代を通じて大変な労力を投じて城を維持、拡張してきました。
Kumamoto Castle has been located on a mountain called Chausu-yama on the edge of the hilly area which is now Kumamoto City. The castle became famous since Kiyomasa Kato was placed as the lord of Higo Province (what is now called Kumamoto Pref.) in 1588. Kiyomasa built the castle so large and strong that it could avoid The Shimadu’s invasion from Satsuma Province (Kagoshima Pref.) against the Shogunate. The Hosokawa clan following kato’s position after they quit, continued to keep and develop the castle making great efforts all through the Edo Period.


城周辺の起伏地図(The relief map around the castle)

加藤清正像、本妙寺蔵、江戸時代(The portrait of Kiyomasa Kato in Edo Period, owned by Honmyoji Temple)licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

明治維新後、この城は日本陸軍の九州地方の根拠地となり、「鎮西鎮台」と呼ばれました。1877年に予期もしていなかった戦いが政府軍と西郷隆盛率いる薩摩反乱軍との間で起こりました。この戦いは「西南戦争」と呼ばれ、日本最後の内戦であるとともに、政府による徴兵と西郷指揮下の元武士との戦いであるとも見なされました。
After the Meiji Restoration, the castle was turned to into a Japanese Army base in Kyushu region called “Chinzei Chindai”. An unexpected battle happened between the Government Army and the Satusma Rebel Army led by Takamori Saigo in 1877. It was called “the Seinan War”, which was the last civil war in Japan, and also regarded as a battle between drafted soldiers under the Government and former warriors under Saigo.

西郷隆盛像、エドアルド・キヨッソーネ作(The portrait of Takamori Saigo by Edoardo Chiossonelicensed under Public Domain via Wikimedia Commons

熊本城が実際の戦いに使われたのはこれが最初だったのです。西郷は城を包囲したのですが、この間天守を含む多くの建物が失火により焼けてしまいました。しかし城の中の兵隊たちは、政府からの援軍が到着するまで耐え忍び、ついに西郷は撤退しました。武士の世が終わってからの近代戦においてさえ、この城が強力であることが証明されたのです。城跡は最終的には1931年に国の史跡に指定されました。
That was the first time that Kumamoto Castle was used for actual fighting. Saigo surrounded the castle while many of the buildings including the Tenshu keep were burned accidentally. But the soldiers in the castle survived until the reinforcements from the Government arrived before Saigo withdrew. Even the modern war prove the strength of the castle after warriors’ governance ended. The ruins was finally designated as a National Historic Site in 1931.

谷干城少将に率いられた鎮西鎮台の指揮官たち、朝日百科より(The commanders of Chinzei Chindai led by General Tateki Tani, from Asahi encyclopedia)licensed under Public Domain via Wikipedia Commons

これからどうなる?~What will happen?

なぜ復元にそんなに時間がかかるかというと、熊本城が文化財だからです。例えば、崩壊した石垣の場合では、一つ一つの石は元の場所に戻されなければなりません。それぞれの石の3次元データを登録し、以前の写真と照合し、位置を確定するのです。更には、石垣を復元するのは元の伝統的工法でなければなりません。それができる企業や職人は限られています。またそれには莫大な予算も必要です。
The reason why the restoration takes so long time is mainly the castle being a cultural property. For example. In case of collapsing stone walls, each stone must be returned to the original position. Its 3-dimensional shapes are registered and checked with old pictures to match the position. In addition, restoring stone walls is required to build in the original traditional way. There are also few companies and craftsmen who can do it. it will also require huge funds.

復元を待つ石たち、2017年12月時点(Stones waitng for being restored in December, 2017)

私の意見~My Opinion

私は最近現場を見て回りましたが、復元にそんなにも時間がかかることは理解できました。しかし、もしまた地震が起こったらどうするのでしょうか?清正は、あの有名な「武者返し」と呼ばれる石垣のカーブを地震による崩壊を防ぐために作ったのだと言う科学者がいます。
I looked around the site recently and also realized that the restoration would take such a long time. But what should be the plan if another earthquake happens? Some scientists say that Kiyomasa might have created the famous curve of the stone walls called “Musha-Gaeshi” to prevent it from collapse by an earthquake.

熊本城の「武者返し」の石垣と天守(The stone walls called “Musha-Gaeshi” with Tenshu)taken by ichico from photoAC

江戸時代初期のこの城の城主だった細川忠利は、余分な建物を撤去し、次来る地震に備えて「地震屋」と呼ばれる避難所を建てました。
Tadatoshi Hosokawa, a lord of the castle in the early Edo Period, removed extra buildings and built a refuge shelter called “jishinya” to be prepared for the next earthquake.

細川忠利肖像画、矢野吉重筆、永青文庫蔵(The portrait of Tadatoshi Hosokawa, attributed to Yoshishige Yano, owned by Eisei Bunko Musemu)licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

たとえ今は文化財であっても、元々のやり方が常にベストとは限りません。熊本市は、大きな地震が発生したときにも安全であるよう、長期的に城の新しい復元手法を開発するとのことです。それが早く実現するよう願ってやみません。
Even if the castle is now a cultural property, the original way is not always the best. Kumamoto City says that they will develop new methods for restoring the castle in the long term to be safe when a large earthquake happens. I really hope it will work in practice soon.

宇土櫓と修理中の天守、2017年12月時点(Udo Turret, and Tenshu under repair in December, 2017)

ここに行くには~How to get There

熊本駅から:
熊本市電を使うときは、熊本駅前電停から熊本城・市役所前電停まで乗ります。約17分かかります。
バスを使うときは、熊本駅前バス停から桜町バスターミナルまで乗ります。約10分かかります。
From Kumamoto Station:
When using Kumamoto City Tram, take the tram from Kumamoto-Eki-Mae tram stop to Kumamotojo-Shiyakusho-Mae tram stop. It takes about 17 minutes.
When using Bus, take it from Kumamoto-Eki-Mae bus stop to Sakuramachi bus terminal. It takes about 10 minutes.

リンク、参考情報~Links and Rererences

熊本城公式サイト(Kumamoto Castle Official Website)
・「復興熊本城Vol.2 天守復興編Ⅰ 平成30年度上半期まで」熊本日日新聞社(Japanese Book)
・「熊本城の被災修復と細川忠利」後藤典子著、熊日新書(Japanese Book)
・「歴史群像2016年8月号/壮烈!熊本城攻防戦」学研プラス(Japanese Magazine)
・「BS1スペシャルよみがえれ熊本城 サムライの英知を未来へ」NHK、2017年(Japanese TV Program)