203.前橋城 その2

残念ながら現状では、前橋城に関わる遺跡はあまり残っておらず、史跡としてもよく整備されているとは言えません。しかし、今後の整備に向けた動きも出始めているため、期待を込めて、今回は4つのエリアに分けてご紹介します。

その後

再築前橋城はわずかな期間で取り壊されましたが、その有形無形の遺産は、後の前橋に生かされました。明治時代に、群馬県の県庁を前橋、高崎どちらにするか綱引きがあったときに、城の敷地と、城を誘致した商人たちの活動が、前橋が県庁所在地になる決め手になったからです。城の本丸御殿は、昭和初期まで県庁舎として使われ、その後建て替えられた本庁舎は「昭和庁舎」として今も保存活用されています。その傍らには、都道府県庁舎として2番目の高さを誇る現・県庁舎ビルがそびえています。

県庁舎として使われた本丸御殿の模型(臨江閣にて展示)
昭和庁舎
現・県庁舎ビル

特徴、見どころ

残念ながら現状では、前橋城に関わる遺跡はあまり残っておらず、史跡としてもよく整備されているとは言えません。しかし、今後の整備に向けた動きも出始めているため、期待を込めて、今回は4つのエリアに分けてご紹介します。

風呂川と旧利根川の痕跡

前橋城周辺の地図(Google Mapを利用)

まず、城の初期からあった風呂川と、東側の旧利根川によってできた崖地帯をめぐってみましょう。例えば前橋公園から風呂川に向かう場合、とても急な坂の階段を登っていきます。この坂は、江戸後期に利根川の流路が、風呂川に迫った時にできた崖の痕跡のようです。

風呂川と前橋公園の間の急坂

風呂川は、この周辺では一番高い所を流れており、不思議な感じがします。用水路として作られたこの川の由来によるものなのでしょう。

風呂川
右側の石堤の上を風呂川が流れています。

やがて、明治時代に作られた迎賓館「臨江閣」の前に出ます。臨江閣の庭園は、城の一番北の空堀の底に当たります(当時は「虎ヶ渕」と呼ばれました)。この空堀は、古い利根川の流路の名残りとも言われていて、先ほどの公園と風呂川の間の坂よりも時代が古いことになります。

臨江閣
臨江閣の庭園

風呂川に戻って進んでいくと、空堀の底は遊園地となります。臨江閣の庭園とは地下道でつながっていて、ここもなんとも不思議な空間です。「前橋の恩人」安井与左衛門の顕彰碑もひっそりと佇んでいます。

遊園地の脇を流れる風呂川
空堀の底にある遊園地「るなぱあく」
遊園地と庭園をつなぐ地下道
与左衛門の顕彰碑

風呂川と空堀と別れ、市街地に出ても、崖の痕跡は続きます。国道を越えて商店街に入っていくと、馬場川通りがあります。馬場川は風呂川から分かれ、崖の縁を流れています。この通りの傍らに「船つなぎ石」が展示されていて、利根川が以前この辺りを流れていた時に使われていたそうです。また、この通りの片側の住居の敷地は、通りより一段高くなっていて、崖の地形の特徴がよくわかります。

馬場川通り
船つなぎ石
崖の地形により、一段高くなっている住居の敷地

大手門からの登城ルート

新旧前橋城の範囲(Google Mapを利用)

商店街から少し戻って、大手門から本丸までのルートをたどってみましょう。2021年のビル工事の際、酒井氏時代の前橋城(この記事では以後「旧前橋城」と呼びます)の大手門の遺構が発見されました。保存のため埋め戻されましたが、今後何らかの形での公開が検討されるそうです。なお、再築前橋城の大手門は、現在は国道などになっている場所にありました。

旧前橋城の大手門があった場所
再築前橋城の大手門があった場所

次の登城ルートの関門は「車橋門」です。幸いなことに、この門の石垣の一部が残っています。この門は、旧前橋城でも再築前橋城でも、同じ場所に同じ名前でありました。残っているのは、再築前橋城時代のものです。通るところの幅が狭いのは、区画整理によって、左側の石垣が内側に8m移動させられたからです。

ちょっと見逃してしまいそうな所にあります。
車橋門の石垣

それでは、県庁舎ビルの方に向かっていきましょう。どこからでも見えるので、まるで天守のようでわかりやすいです。県庁舎がある場所は、利根川の浸食の影響で、旧前橋城では三の丸でしたが、再築前橋城では本丸でした。県庁舎ビル(1999年完成)を建設するときには、旧前橋城三ノ門の遺構が発見されました。2001年には、再築前橋城の本城門の土橋と堀の遺構が発見されました。いずれも埋め戻されています。

県庁舎の敷地

現代の前橋城、県庁舎ビルの32階は、展望ホールとして一般に開放されていて、地上127mから、群馬の山々や、前橋の市街地、そして城があったところも見渡すことができます。

県庁舎ビル入口
エレベーターホール
展望ホール
北方向の眺め(赤城山、城跡など)
東方向の眺め(市街地)

残っている土塁を歩く

城の遺構は、少ないながら他にもあります。再築前橋城の本丸と北曲輪の土塁の一部です。県庁舎から近いのは本丸の土塁で、砲台があったところに前橋城跡の碑があり、ここまでは登っていくことができます。ただし、そこから先の土塁上は、保存のため歩くことはできません。

本丸土塁(砲台跡)
本丸土塁の他の部分は、周りを歩いて見学しましょう

県庁の裏手には、ここに旧前橋城本丸の天守があったことを示す説明パネルがあります。その向こう側は利根川が近いですので、ここから先の旧前橋城の本丸敷地は、浸食によって崩れてしまったのでしょう。見学した日の利根川は穏やかに見えましたが、自然の力とはやはりすごいものです。

旧前橋城本丸天守の説明パネル
利根川がすぐ近くです

北曲輪は、前橋公園の一部になっています。西側の土塁の根元から見ると、結構な高さで10m近くはあるでしょうか。この土塁の上は歩けますので、登ってみるといい景色です。しかし、この土塁の北端まで行って下り、改めて西側から見てみると崖の地肌が露出しています。これは、江戸後期の利根川の蛇行により、削られた痕跡のようです。この土塁は、敵からだけでなく、川からも城を守るために築かれたのかもしれません。

北曲輪の土塁(南端)
北曲輪の土塁から見た前橋公園(西側)
土塁北端の根元部分を西側から見ると、利根川によって削られたと思われる崖があります

与左衛門の石堤?

最後に、安井与左衛門が築いたと思われる石堤を見に行ってみましょう。場所はグリーンドーム前橋の北の方、岩神ポンプ場の手前です。この周辺で南北に伸びる石堤のうち、北側の方が古い時代のものと考えられます。現地に説明パネルなどはなく、土木遺産にはなっているようですが、史跡として与左衛門時代のものとは確定されてはいません。現在使われている利根川の堤防はここよりずっと西にありますが、現代でも洪水の被害は発生しています。この石堤は、地域を守るための戦いの原点と言えるのではないでしょうか。

城周辺の地図

与左衛門が築いたと思われる石堤

私の感想

現代の前橋でさえ洪水の被害が発生しているのですから、昔はもっと大変だったと思います。以下にあげる本などを読み、そんなところでも要害の地として築城したのが現在の前橋の基になっていることを知り、今回取り上げてみました。このような歴史を、もっと多くの人にわかってもらえるよう、目に見える形で史跡の整備を進めてほしいと思います。地域の人たちも、先人たちがこんなにがんばっていたことがわかれば、活力が沸いてくるのではないでしょうか。

大渡橋から見た県庁と前橋城跡

リンク、参考情報

幻の名城 前橋城、前橋まるごとガイド(前橋観光コンベンション協会)
・「前橋城考/野本文幸著」上毛新聞社
・「知られざる13の謎に挑む 前橋歴史断簡/野本文幸著」上毛新聞社
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「企画展 越山、上杉謙信侵攻と関東の城」埼玉県立嵐山史跡の博物館
・「関東の華・前橋城」前橋市観光協会リーフレット
・「前橋城絵図帳 前橋市立図書館所蔵資料」前橋市教育委員会
・「まえばし地下マップ(中央地区)」前橋市教育委員会リーフレット

これで終わります。ありがとうございました。
「前橋城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

177.引田城 その2

素晴らしい城の石垣と、城からの眺め

特徴、見どころ

現在はハイキングコースに

現在、引田城跡はハイキングコースにもなっています。山上へは2つのコースがあり、田の浦キャンプ場側登山口と引田港側登山口です。もし城跡に車で行かれるのでしたら、田の浦キャンプ場側登山口にある駐車場を使った方がよいでしょう。

城周辺の地図

引田城跡の現地案内図

山道は急ですが、山の上は比較的平らです。これは攻めにくく守り易い地形なので、山城を作るにはちょうど良かったでしょう。最初は北曲輪を通りますが、ここには石垣はありません。よって、生駒氏がここに来る前と同じ状態で残っていると考えられています。つまり、生駒氏はここを使わなかったわけです。

田の浦キャンプ場側登山口入口
上から見るとかなり急です。
北曲輪

素晴らしい北二の丸の石垣

次には、もうこの城のクライマックス、北二の丸の二段積みの石垣が見えてきます。上段は2~3m、下段は5~6mの高さがあります。合計では10m近くあることになります。上段の方は崩落を防ぐためにカバーがかけられていますが、下段の方を見るだけでも素晴らしいと感じます。

北二の丸に近づきます
北二の丸石垣の上段
北二の丸石垣下段

これらの石垣は生駒氏の時代に由来しますが、高松城丸亀城では同じ時代のものは見ることはできません。これら2つの城は生駒氏以後の他の大名により改装されたり、拡張されたりしたからです。丸亀城の山麓に残っている古い石垣のみが、生駒氏によって築かれたかもしれない程度です。

丸亀城にある古い石垣

この北二の丸には城主の御殿があったと言われており、曲輪下には大手門がありました。そのために豪華な石垣がここに築かれ、訪問者に城主の権威を見せていたのでしょう。大手門へ至る大手道は、現在は使われていません。

北二の丸の内部

素晴らしい本丸からの景色

北二の丸からは、他の曲輪は馬蹄形状に二つの方向に分かれています。一つは南にある本丸です。本丸は細長い形をしていて引田港に面しています。ここには石垣がいくらか残っていて、天守台の跡もあります。過去にはかなり目立っていたのでしょう。ここからは引田の街並みと港がよく見えます。城があった頃には引田の人々は城の建物と石垣を見上げていたのでしょう。

本丸に残る石垣
石垣から見える景色
天守台跡
天守台跡周辺から見える引田港

「引田城その3」に続きます。
「引田城その1」に戻ります。

145.興国寺城 その2

土塁と空堀が際立っています。

特徴

三の丸から本丸へ向かう

現在、興国寺城周辺の沼地は市街地となっており、城跡だけが残っています。また、現在の根方街道が城跡を通っています。もし車で城跡を訪れるのでしたら、3つの主な曲輪のうち一番低い三の丸にある駐車場に停めることができます。駐車場から一番高い本丸まで緩い坂を歩いて登っていきます。真ん中の段は二の丸で、平らで何もないように見えますが、過去には半円形の堀がありました。

城周辺の航空写真

城跡の入口
駐車場になっている三の丸
かつては堀があった二の丸

本丸とその土塁

本丸は今でも大きく高い馬蹄形の土塁に囲まれています。なかなか壮観です。本丸の中には北条早雲と天野康景の記念碑があり、そして江戸時代に設立された穂見神社があります。本丸の背後にある土塁は6mの高さがあり、階段を使って頂上まで登っていくことができます。頂上下の一部には石垣が築かれています。頂上には礎石もあり、天守台跡とされていますが、実際には櫓の一種があったと考えられています。頂上からは南の方に街並みと伊豆半島の姿を見ることができます。

馬蹄形の土塁に囲まれた本丸
北条早雲と天野康景の記念碑
穂見神社
頂上下の石垣
頂上にある「天守台」の礎石
頂上からの景色

本丸空堀とその北側

本丸の背後には大きく深い空堀も残っています。頂上から堀の底まで、これも階段を使って降りていくことができます。堀は18mの深さがあり、底から頂上を見上げるような感じです。土壁にいくつか洞穴があり、なんだろうと思われるかもしれませんが、第二次世界大戦中に掘られた防空壕です。堀の端は城跡の側面に通じており、かつてはそこは沼地となっていました。

本丸背後の空堀
戦時中に掘られた防空壕
城跡の西側面

また、空堀を超えた北側には北曲輪があります。その先には半円形の堀がもう一つありましたが、その場所は東海道新幹線の線路となっています。歴史家は、半円形の堀のセットは武田氏か徳川氏によって築かれたのだろうと推測しています。彼らの別の城で類似例が見られるからです。

北曲輪から見た本丸
東海道新幹線の線路となったかつての堀

「興国寺城その3」に続きます。
「興国寺城その1」に戻ります。