98.今帰仁城 その1

今回からまた沖縄シリーズの始まりです。最大級のグスクの一つ、今帰仁城(なきじんじょう)をご紹介します。以前、琉球王国につながる浦添城や、琉球統一を果たした尚巴志のことをご紹介しましたが、今帰仁城は、そのころ並び立っていた北山王国の本拠地だったのです。北山王国は、浦添城の中山王国や、南山王国とともに、貿易によって栄えたのですが、尚巴志によって滅ぼされてしまったために、その歴史ははっきりとはわからないのです。今回は、今帰仁城について、定説とされるもの以外にも、情報を集めましたので、その歴史ストーリーを考えてみたいと思います。

Introduction

今回からまた沖縄シリーズの始まりです。最大級のグスクの一つ、今帰仁城(なきじんじょう)をご紹介します。以前、琉球王国につながる浦添城や、琉球統一を果たした尚巴志のことをご紹介しましたが、今帰仁城は、そのころ並び立っていた北山王国の本拠地だったのです。北山王国は、浦添城の中山王国や、南山王国とともに、貿易によって栄えたのですが、尚巴志によって滅ぼされてしまったために、その歴史ははっきりとはわからないのです。今回は、今帰仁城について、定説とされるもの以外にも、情報を集めましたので、その歴史ストーリーを考えてみたいと思います。

今帰仁城跡

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史

三山時代と北山王国

グスクが築かれる前、沖縄の多くの人たちは、漁労・狩猟・採集を中心とした生活を送っていたと考えられています。沖縄の時代区分では「貝塚時代」と呼ばれています。日本本土では、この地域から輸入した貝製品や、貝を加工した螺鈿細工が重宝されました。

螺鈿細工を使った中尊寺金色堂の柱、東北歴史博物館にて展示

11世紀ころからは、貿易の恩恵が沖縄全体に及んできました。中国との貿易もさかんになり、高価な中国製陶磁器が輸入される一方、沖縄からは夜光貝や硫黄が輸出されました。その結果「按司(あじ」)」と呼ばれるたくさんの有力領主たちが現れ、グスクを築きます。琉球王国が成立するまでの時代は「グスク時代」と呼ばれています。

14世紀になると、沖縄本島では有力な按司のもと、3つの王国が成立しました。今帰仁城を本拠地とした北山王国、浦添城の中山王国、島添大里城の南山王国です。王国の本拠地になった大型グスクの建設も、その動きに沿ったものと考えられます。

グスクの位置

浦添城跡
島添大里城跡

同じ頃、中国では明が建国されました。創立者の洪武帝は、反対勢力や倭寇を取り締まるために「海禁」政策(私的な海外貿易や海外渡航の禁止)を実行しました。また、漢民族が再建した王朝の正当性(以前の「元」は異民族国家)を示すため、日本を含む周りの国々に、宗主国(明)への朝貢を求めたのです(招撫使)。1372年には中山王国に使節が送られました。当時の王、察度は直ちにその弟を進貢使として明に派遣しています。続いて、南山王や北山王も明への朝貢を始めました。この時代はグスク時代の中でも、特に「三山時代」と呼ばれています。

洪武帝肖像画、国立故宮博物院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここから北山王国と今帰仁城を、外部の記録から追ってみます。中国の史書(「明実録」)によると、北山王は1383年から1415年の間に、19回明と交易を行っています。その間の王は、怕尼芝(はにじ)、珉(みん)、攀安知(はんあんち)の3代です。公的な場では、馬や硫黄などを献上し、冠帯衣服や貨幣などを賜っていました。きっと、他の場所でも色々なものを交易していたのでしょう。ただ、中山王国と比べると、回数はだいぶ劣りますので、それが国力の差になっていったとも考えられます。

「進貢船図」、沖縄県立博物館・美術館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

次に、琉球国最古の現存地図を見てみます。真ん中には初期の首里城の姿が描かれていて、15世紀中ごろの状況と考えられています。この頃は、北山王国はなくなっているのですが、北(上)の方に、今帰仁城が「伊麻奇時利(いまきじり)城」として載っているのです。もう一つ注目は「雲見泊」として現在の運天港も記載されていることです。運天港は那覇港と並ぶ天然の良港だったのです。

「琉球國図」、沖縄県立博物館・美術館蔵

今までのストーリーは、いかがだったでしょうか。客観的なデータのおかげで、北山王国や今帰仁城の存在と繁栄が理解いただけたと思います。ただ、グスクの名前が今と全然ちがっていて、今でも漢字とその読み方が変わっているのが気になります。「新参者の統治」という意味の「いまきじり」が、「みやきせん」→「いまきじり」→「なきじん」と変化してきたと言われます。しかし他にも、最初から「みやきせん」と呼んでいたのではないかという説や、語源についても、魚が寄り付く場所という意味の「なきずみ」であるという説もあります。名前だけでも奥が深いものです。

今帰仁城の伝説と実態

次は外部からはわからない、王国とグスクの生い立ちを、沖縄内部の情報から探りましょう。地元の言い伝えや琉球王国の史書によると、はるか昔、天帝の子孫・天孫氏が首里城を築いてから、その流れをくむ者が、今帰仁城主になったとされています。これは、神話ということなのでしょう(前北山時代)。

次に出てくるのは、浦添城のときにもご紹介した源為朝で、なんと彼は運天港に上陸したというのです。ここにも為朝伝説があるのです。そして、その子が琉球王に、孫が今帰仁城主になったそうです。13世紀くらいのことになるでしょうか(中北山時代)。そしてその後、一つの王国が3つに分かれたというストーリーです(後北山時代)。

源為朝を描いた江戸時代の浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

続いて、今帰仁城の発掘成果をご紹介します。これまでに中心部の主郭などが発掘され、グスクには、4つの時代区分があることがわかりました。主郭の様子を時代順にご説明します。まず第1期です(13世紀末~14世紀前期)。時期は、先ほどの伝承では2番目の終わり頃でしょうか。発掘した結果では、その頃にグスクができたことになります。館は掘立柱で、防御のための柵で囲われていて、周りも本格的石垣ではなく、石積や版築による土塁でした。使っていた土器も、地元産が多かったとのことです。

第1期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
第1期の出土土器(沖縄産)、現地説明パネルより

次が第2期です(14世紀中期)。時期は、三山時代に入った頃です。大発展した感じです。中にはグスクらしい礎石建ての正殿が建てられ、規模が大きくなって、周りに石垣も築かれました。中国産の陶磁器の使用も増えてきました。

第2期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
第2期出土の青磁環耳瓶(中国産、今帰仁村歴史文化センターにて展示

そして最盛期の第3期です(14世紀後半~15世紀前期)。北山王国が明と交易をおこなっていた時期と一致しています。規模も最大になったのですが、なによりも、出土した当時の交易品が、その繁栄を表しています。

第3期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
主郭で発掘された中国銭、今帰仁村歴史文化センターにて展示

特にびっくりするが、以下の出土品です。これら6つの中国産青磁碗は、土の中からそのまま出てきたのです。意図的に埋められていたようです。重要な祈りの儀式が行われたのかもしれません。

中国産青磁一括出土品、今帰仁村歴史文化センターにて展示

グスク全体の規模としても、このときまでに並行して拡張され、10の曲輪を持つとされる、沖縄屈指の大型グスクになったと考えられます。

今帰仁城模型、今帰仁村歴史文化センターにて展示

そして、優美な石垣も築かれたのです。本土の城と違って、当時はこの石垣の上を直接、兵士が走り回っていたそうです。塀とか櫓はなかったとのことです。

大隅(うーしみ)の石垣

王国と今帰仁城の生い立ちストーリー、いかがだったでしょうか。為朝伝説にも夢があっておもしろいのですが、発掘の成果などから考えると、やはり小さな按司が、貿易などで成長して、王国を築いたと思えます。現在のところ、この見解が定説になっています。

北山王国の滅亡

いよいよ、クライマックスです。実は北山王国滅亡のストーリーも、尚巴志の琉球統一のプロセスとともに、2つの説があるのです。定説の方からご説明します。こちらのプロセスは、琉球国史書のうち、新しい方の記載をもとにしています(「中山世譜」など)。古い史書の記載を、中国の記録などと照合し、改めているとのことです。こちらは、尚巴志が北山王国(1416年)、南山王国(1429年)の順に攻略しています。

定説での北山王・攀安知(はんあんち)は、武勇に優れていましたが、淫逆無道であったとされます。彼は、重臣の本部平原(もとぶていばら)とともに、中山王国を攻めることを計画します。北山配下の按司たちは、そのことを中山王・思昭に告げたのです。思昭の子・尚巴志が、按司たちと今帰仁城を攻めることになりました。尚巴志軍は優勢でしたが、堅固な城を攻めあぐね、計略を用います。重臣の本部平原を買収したのです。平原は、攀安知を城外で戦うように仕向け、城に火を放ちました。異変に気付いた攀安知は、平原を伝家の宝剣「千代金丸」で成敗しますが、時すでに遅し・・・。悲運を嘆き、グスクを守護する霊石を切りつけ、自害しようとしてもなぜか切れなかったので、宝剣を川に投げ捨て、別の刀で自害しました。これが定説による今帰仁落城のストーリーです。悪人は滅ぶべくして滅ぶ、みたいな筋書です。

グスクの守護岩があったといわれる御嶽・テンチジアマチジ

次は「異説」として、古い史書(「中山世鑑」)による統一プロセスをご紹介します。この説では、北山攻略をもって琉球統一(1422年)としていますが、事実としてその後も南山王国が明と交易をしています(1429年まで)。だから定説では修正されたのですが、この時期の南山は、尚巴志の傀儡だったという意見もあるのです。こちらも捨てたものではないように思います。それに城攻めの内容は、中国の史書とは関係ないのに、全然ニュアンスが違うのです。

異説では、北山王国が存在するうちに琉球統一が進んでいて、配下の按司も中山王国に服属していきました。劣勢となった攀安知は、一族郎党を集め、彼らを鼓舞し、中山と最後の決戦をすべく、城の防備を固めました(下記補足1)。それを周りの按司たちから聞いた尚巴志は、今帰仁城に大軍で攻め寄せます。しかし堅固な城は、いくら攻めてもなかなか落ちません。そこで尚巴志軍は一計を案じます。その地を知る按司が、夜裏側(グスクの南西側)から忍び寄り、グスクに火を放ったのです。それを合図に総攻撃が始まりました。最期を悟った攀安知は、尚巴志軍に突撃、ついには宝剣で切腹し、引き抜いた剣でグスクを守護するイベの岩を切り刻み、剣を川に投げました(下記補足2)。定説と比べると潔い最期と感じます。

(補足1)「今の人々の多くは心変わりして、我が方は小勢となったが、多数を恐れて一戦もせずに降参するのは、如何にも口惜しいことだ。そして、山北国をうち建てた祖先に恥をさらすことにもなる。さあ、中山の軍は攻め寄せて来るがよい。これを一蹴して手柄を見せようではないか。攻め寄せる中山軍がたとえ数万騎あろうと、これを打ち破ることは雑作もないことだ。もし命運尽きて、この戦に敗れることがあれば、そのときは潔く自害して、名を後世に残そうぞ。さあ者共、仕度をせよ。怖気づいて世の笑いものになるな」(山北王(攀安知)のことば、「訳注 中山世鑑」より)

(補足2)「さあ、イベも、そしてイベにおわす神も供に冥土に旅立ちましょう」(山北王(攀安知)のことば、「訳注 中山世鑑」より)

城の裏側(南側)を守っていた志慶真門(しじまじょう)跡

その剣はその後、中山王に献上され、現在国宝になっています。2つのストーリー、いかがだったでしょうか。もちろん定説の重みは感じますが、どちらも沖縄の伝承がもとであれば、古い方が事実を伝えているかもしれないし、異説の方が真に迫っているようにも思えます。皆さんはどうお感じでしょうか。

宝剣「千代金丸(複製)」、今帰仁村歴史文化センターにて展示

その後

北山王国を滅ぼした尚巴志は、次男の尚忠を、北山監守として今帰仁城に置きました。尚忠は、尚巴志が亡くなると、琉球国王を継いだ人物です。今帰仁城は、琉球統一後も、重要な拠点であり続けたのです。この監守制度は、王統が第二尚氏になっても続き、第二監守時代と呼ばれています。一世から十四世まで続き、「山北今帰仁城監守来歴碑記」にその由来が刻まれています。

「山北今帰仁城監守来歴碑記」今帰仁村歴史文化センターにて保管

発掘調査による時代区分だと第4期に当たります。この時代にも監守の住居と思われる建物がありました。面白いのは、この時代のものとして、ベトナム製・タイ製の陶磁器や、本土の備前焼も出土していることです。

第4期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
ベトナム製陶磁器
備前焼

ところが、第二監守五世・向克祉(しょうかくし)の時代に大事件が起こるのです。1609年、薩摩藩の島津氏による琉球侵攻があったのです。慶長14年3月7日、約3千名の薩摩軍は、80艘以上の船に乗り出航しました。7日に奄美大島に到着、まず奄美諸島を制圧します。ここは、琉球王国の支配下にありましたが、この侵攻をきっかけに薩摩藩の直轄地になりました。薩摩軍が次に向かったのが、運天港でした。3月25日のことです。そして薩摩軍が滞在した数日間のうちに、今帰仁城や城下が放火されたととれる記録があります(下記補足3)。更にその間に、北山監守の向克祉が謎の最期を遂げるのです。29日、薩摩軍は浦添、那覇方面に向かいました。今帰仁城は廃城になり、北山監守は城下、そして首里に移っていきました。

(補足3)今きじんの城は無人であるらしい。不意に掃討を開始し、方々へ放火などした。(「琉球渡海日々記」、現代語訳は「広報なきじん」より)

現在の運天港
主郭にある火神の祠

グスク跡には火神(ひのかん)の祠が建てられ、祈りの場所になりました。ようやく静かな時を迎えたと言えるでしょう。監守の石碑が建てられたのもこの時代のことです。文化財として注目されるようになったのは、戦後のことでした。1972年には国の史跡に指定され、2000年には世界文化遺産に登録されました。並行して現存する石垣の修復、失われた石垣の復元など、史跡整備も進められました。それで私たちが今、すばらしいグスクを見学できるのです。

「今帰仁城 その2」に続きます。

201.武蔵松山城 その3

戦国時代の関東地方の3大英雄、上杉謙信・武田信玄・北条氏康が、同じ戦いで一同に会した(または会しそうになった)のは、この城でのケースだけだったのではないでしょうか。

特徴、見どころ

防御の要、三ノ曲輪

次の三ノ曲輪は幅広い曲輪で、防御の要の位置にあるように見えます。進行方向左側(南側)にはこの城には珍しい土橋を経由して馬出しが設定されています。

城周辺の地図

現地案内図に、三ノ曲輪から馬出し、腰曲輪、二ノ曲輪に向かう通路へのルートを追記(赤矢印)
三ノ曲輪
三ノ曲輪から馬出しに至る通路
馬出し

更にその先には腰曲輪があるのですが、ほぼ通路のみという細さでまるで壁のようになっています(但し曲輪の上も周りも藪に覆われていて、外観上よくわからなくなっています)。腰曲輪の端の下方には井戸があったそうです。

腰曲輪の上は藪に覆われています
腰曲輪の外側も藪です

馬出しからは細い通路も出ていて、二ノ曲輪へのバイパスになっています。いずれも、防衛用と連絡用の用途で使われたと思われます。

馬出しから二ノ曲輪に向かう通路
通路から二ノ曲輪に向かう階段

二ノ曲輪から本曲輪へ

次の二ノ曲輪とその内側の空堀は、山頂の本曲輪を囲い込むように作られています。二ノ曲輪と本曲輪との間の空堀は城では最大のもので、双方を行き来するのにかなりのアップダウンを要します。

現地案内図に、三ノ曲輪から二ノ曲輪、二ノ曲輪から本曲輪に向かうルートを追記(赤矢印)
三ノ曲輪から二ノ曲輪へ
二ノ曲輪
二ノ曲輪から本曲輪との間の空堀を見下ろしています
空堀の底

そして本曲輪に到着です。曲輪の内部にはコンクリートの基礎が残っていて、現代になって神社が建てられ、そして撤去された跡です。(現代の搦手道はその神社の参道のようです。)ここでは発掘が行われ、土塁跡、火災や再造成の痕跡が見つかりました。また、本曲輪側からは二ノ曲輪に向かって櫓台が張り出しています(この上に城址碑があるのですが、2024年2月時点では立入禁止になっています)。

本曲輪に向かって登ります
本曲輪
コンクリートの基礎は神社跡
本曲輪から張り出している櫓台
2017年時点の櫓台跡の城址碑

本曲輪からの眺めは、周りに繁茂している木々のため、それ程よくありません。中心となる曲輪だけあって、近くの根古屋道沿いには兵糧倉跡、搦手道沿いには太鼓曲輪など、籠城を想定した名前の曲輪が連なっています。

本曲輪からの眺望
本曲輪と兵糧倉跡を結ぶ土橋
兵糧倉跡
城跡の搦手口

その後

武蔵松山城が廃城となった後、城があった地域は天領(幕府の直轄領)となりました。江戸時代には、城の城下町は宿場町として繁栄します。その後は川越藩領になり、最終的に前橋藩領となったときには飛び地であることから、町中に松山陣屋が置かれました。武蔵松山城跡はそのまま放置されていたようで、私有地(耕地)となっていましたが、主要部は1926(大正14)年に県の史跡に指定されました。その一方で、周辺部の曲輪群は戦後に市街地として開発され、その一部は武蔵丘短期大学のキャンパスとなっています。史跡に指定された区域では2003(平成15)年から発掘調査が2回行われています。その結果、武蔵松山城跡は2008(平成20)年に、菅谷館(城)跡、杉山城跡、小倉城跡とともに「比企城館跡群」として国の史跡に指定されました。

松山陣屋跡
かつて曲輪の一つだった武蔵丘短期大学
城跡から発掘された遺物、吉見町埋蔵文化財センターにて展示

関連史跡、名物

・吉見百穴(よしみひゃくあな)
武蔵松山城跡に隣接する吉見百穴は、古墳時代後期の横穴墓群です。加工しやすい凝灰岩の岩山の斜面に多数の墓穴が掘られ、その数は219個に及ぶとされています。当初は緑泥片岩で作られた蓋で覆われていましたが現在では失われ、山に多くの穴が開いているのが見えて、とても奇抜です。墓に使われたと判明したのは大正時代のことで、江戸時代には不思議な穴として「百穴」と呼ばれていました。武蔵松山城が現役だった戦国時代にはどうだったのでしょうか。一説には、武田信玄が城を攻めたときに、百穴を見て城の岩山を掘る戦法を思い付いたとされています。吉見百穴は第二次世界大戦中に都市部の空襲が激しくなったとき、地下軍需工場として利用されました(その箇所は2024年4月現在立入禁止)。軍需工場建設の際は、武蔵松山城跡も工区に含まれ、近くまで入り組んでいた市野川の流路が変更されました。

吉見百穴
戦国時代にこれらの穴は見えたのでしょうか
地下軍需工場跡
左側が現在の市野川、右側の道路が元の流路

・石戸城跡
謙信が武蔵松山城救援のために着陣した石戸城の跡は、現在の北本市石戸宿(住所地)にあります。その名の通り、鎌倉街道の宿場町の北側にあり、西側を流れる荒川(当時は入間川)の河岸段丘上にありました。また、東側は沼沢地であり、現在では北本自然観察公園になっています。まさに、交通の便と防御力を兼ね備えた城だったのです。この城は15世紀中頃に太田氏によって築城され、本拠地の岩槻城と武蔵松山城の中継地点として使われました。謙信が武蔵松山城を救援するための拠点として相応しい場所です。現在は藪に覆われた曲輪が堤防上の道沿いに残っているだけですが、立地の良さを実感できます。また、東側の自然観策公園内に、北条氏がこの城を攻めたときに一晩で築いたと言われる「一夜堤」があります。自然の障壁に守られていた城であったことがわかります。

石戸城周辺の地図

石戸城跡
堤防沿いの荒川旧流路
一夜堤

・やきとり(やきとん)
東松山市の名物の一つにやきとり(やきとん)があります。「やきとり」といっても、豚のカシラ肉を串焼きにして、みそだれをつけて食べるものです。昭和30年代に、当時は高級品だった肉としては安く手に入ったカシラ肉を、うまく活用して広まったそうです。

東松山名物「やきとん」

私の感想

岩山の上の城であるにもかかわらず、とことん土造りにこだわっているところが、いかにも東国の城らしいと思いました。しかも防御のため、ほぼ空堀や切岸の築造に特化しているのが潔く、弱点(高さがあまりない)を克服し、利点(激しいアップダウンで敵を疲弊させる)にしていることに敬意さえ覚えます。しかし1点だけお願いしたいことがあるとすれば、この城の歴史をもっとPRしていただきたいことです。戦国時代の関東地方の3大英雄、上杉謙信・武田信玄・北条氏康が、同じ戦いで一同に会した(または会しそうになった)のは、私が知る限り、この城でのケースだけだったのではないでしょうか。それ以外にも、この城には多くのエピソードがあります。それらを知ってもらうことで、この城の魅力がより広まるのではないでしょうか。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏康肖像画、小田原城所蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
吉見百穴から見た武蔵松山城跡

ここに行くには

車で行く場合:関越自動車道東松山ICから約5kmのところです。吉見百穴の駐車場を使える他、搦手口近くに小さいですが駐車スペースがあります。
公共交通機関を使う場合は、東武東上線東松山駅から「鴻巣免許センター」行きバスに乗り、「百穴入口」または「武蔵丘短大前」バス停で降りてください。

吉見百穴駐車場
搦手口近くの駐車スペース

リンク、参考情報

比企城館跡群松山城跡、吉見町
松山城跡(比企城館跡群)、東松山市観光協会
・「松山城合戦/梅沢太久夫著」まつやま書房
・「謙信越山/乃至政彦著」ワニブックス
・「歴史群像50号、戦国の堅城 武州松山城」学研
・「企画展 越山、上杉謙信侵攻と関東の城」埼玉県立嵐山史跡の博物館
・「企画展 戦国の比企 境目の城」埼玉県立嵐山史跡の博物館
・「関東の名城を歩く 南関東編/峰岸純夫・齋藤慎一編」吉川弘文館
・「日本の城改訂版第107号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「武蔵松山城その1」に戻ります。
「武蔵松山城その2」に戻ります。

178.能島城 その3

もしここに行くのにたっぷり時間がある方は、自転車を使って行ってみてはいかがでしょうか。この城跡の近くを、「しまなみ海道」サイクリングロードが通っているからです。

特徴、見どころ

二の丸を歩いて回る

二の丸は、三の丸より一段高くなっていて、本丸を通路のように囲んでいます。この曲輪は、住居や見張りのための場所として使われたと考えられています。ここを歩きながら眼下の見どころもチェックできます。例えば、先ほど沖合の船から見た船溜まりなどです。その海岸上には、人工的な溝があり、通路と波打ち際を仕切っています。

城周辺の地図

二の丸
二の丸から見た船溜まり
船溜まりにある人口の溝

また、「矢びつ」と呼ばれる曲輪が、島の北西の岬上にあります。この場所では水兵たちが、対岸の鵜島に向かって矢を射る練習をしていたと言われています。

二の丸から見た「矢びつ」
カレイ山から見た「矢びつ」

今も昔も絶景を楽しんだ本丸

そしてついに、頂上の本丸に到着します。ここでは360度周りを見渡すことができ、まさに絶景です。昔の水兵たちは、この海峡で起こったことは全て、ここから把握できたことでしょう。発掘調査によると、ここには物見櫓があり、多くの「かわらけ」と呼ばれる陶器が発見されました。「かわらけ」は当時、宴会や儀式の都度、使い切りで用いられていました。すなわち、水軍のメンバーたちは、このような景色を見ながら、この島の頂で宴会を楽しんでいたということになります。

本丸に上っていきます(右側)
本丸の上
北側の景色(瀬戸内海)
東側の景色(鵜島)
南側の景色(鯛崎島)
西側の景色(大島)
カレイ山から見た本丸

また、この島の別の岸では不思議な大穴(直径が約1m、深さが約2m)が見つかっています。歴史家たちは貯水池として使われたのではないかと言っていますが、ガイドの方はこれがお風呂だったらさぞ面白いだろうと想像を逞しくされていました。

大穴のレプリカ、今治市村上海賊ミュージアムにて展示

その後

この島は村上水軍が引き上げから後、江戸時代には畑地として利用されていました。しかし前述の通り、いつしか無人島になっていました。1931年に、島には桜の木が植えられました。それ以来、桜の名所となり、開花の季節には地元の人たちを乗せた船が通っていました。ところが最近その桜の木は、その根が城跡を破壊しているということで全部伐採されてしまいました。現地では、わずかに残っている切株がベンチ代わりに使われています。一方、城跡自体は、1953年に国の史跡に指定されています。また、近年では村上水軍の城として、日本中で人気が高まってきています。

ベンチとなっている切り株

私の感想

これまでどの城にも船で乗り付けたことはなかったので、能島城跡への訪問は特別な経験となりました。今回のツアーに参加することで、城がどのように使われ、今はどのように注意深く保全されているのか理解することができました。また、このような場所では他とは全く違う暮らし方をした人たちがいたことも教えられました。もしかすると私が知らないだけで、現在でも似たような生活をしている人たちがいるのかもしれません。それから、もっとこの城跡に人気が出て、城跡への定期船が運行されるようになってほしいとも思いました。

村上海賊ミュージアムも見どころの一つです

ここに行くには

ここに行くには基本的には車を使われることをお勧めします。本州方面からは西瀬戸自動車道北大島ICから約5分、四国方面からは西瀬戸自動車道南大島ICから約15分かかります。宮窪漁港または村上海賊ミュージアムの駐車場を使うことができます。

但し、もしここに行くのにたっぷり時間がある方は、自転車を使って行ってみてはいかがでしょうか。この城跡の近くを、「しまなみ海道」サイクリングロードが通っているからです。例えば、四国の今治市にいたならば、今治駅で自転車を借りて、すぐにサイクリングロードに乗り出すことができます。

今治市側のサイクリングロード

来島海峡にかかっている来島海峡大橋を渡り、しばらくは大島を進んでいきます。

来島海峡にかかる来島海峡大橋
大橋の上
大島上のサイクリングロード

ツアー船が出る港は、大島の北端にあります。今治駅から約22km離れたところです。

自転車で現地に到着です

リンク、参考情報

能島城跡、今治地方観光協会
今治市村上海賊ミュージアム
・「日本の城改訂版第126号」デアゴスティーニジャパン
・「瀬戸内の海賊/山内譲著」新潮選書
・「村上水軍全紀行/森本繁著」新人物往来社
・「小早川隆景のすべて」新人物往来社編

これで終わります。ありがとうございました。
「能島城その1」に戻ります。
「能島城その2」に戻ります。

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