197.志布志城 その2

すばらしい模型を見てからシラス台地の城を体感

特徴、見どころ

埋蔵文化財センターのすばらしい模型

現在、内城と呼ばれる志布志城の主要部分のみが一般のビジター向けに整備されています。城跡は廃城となった後、自然の状態に戻っていっていたので、ビジターが安全に歩いて回ったり、道に迷ったりしないよう、行政により木道や案内板が設置されています。

城周辺の地図

内城に設置されている木道
内城に設置されている案内図

更には、本物の内城を訪れる前に是非、志布志市埋蔵文化財センターに行って、内城のすばらしい模型を見ていただきたいです。これは縦約2m、横幅約1.25mの200分の1スケールで、模型としてはかなり大きく、しかし大変精密にも作られています。この模型を見ることで、城の空堀がどんなに深く垂直に掘られ、多くの曲輪にどのように建物や柵が建てられていたのか事前学習することができます。また、大手道や搦手道の場所を模型でチェックしておけば、現地に行ったときにこれらのルートがどのように機能していたのか理解が深まるでしょう。

埋蔵文化財センターに設置されている内城の模型

威圧感のある矢倉場を通って大手道へ

内城跡は、志布志小学校の裏手の山の上にあります。城跡へ車で来られた場合には、小学校のとなりにあるビジター向け駐車場に車を停めることができます。駐車場からは、城跡の大手道に行きたいのなら駐車場前の道をまっすぐに進み、そうでなく手前の小学校前の交差点を左に曲がれば、搦手道の方に行きます。大手道に向かう場合には、道標の通り、小学校と古い家屋の間のとても狭い道を進みます。

ビジター向け駐車場
大手道の方に向かいます
狭い道を進みます

城跡には6つの主要な曲輪と多くの小曲輪があり、大手道入口に着く前に、最初の主要曲輪である矢倉場(やぐらば)の急崖が右側に立ちはだかります。現在のビジターでさえ何か恐怖を感じるほどです。過去にこの城に攻め込んだ敵は尚更のことだったでしょう。

内城周辺の地図、赤破線が駐車場から大手道までのルート、青波線が搦手道までのルート

右側に矢倉場が見えてきます
矢倉場の垂直な急崖
矢倉場の上にある建物跡
上記模型の矢倉場の部分

堀底を通る大手道

大手道は城の中心部分に向かって、深い空堀の底のジグザグの道を辿っていきます。この道は常にいくつもの高い位置にある曲輪に囲まれていて、守備兵がそこから敵を攻撃できるようになっていました。全ての曲輪が似たような垂直の崖と、虎口と呼ばれる防御力のある入口によって固められています。よって、それぞれの曲輪に到着するにもとても急で不安定なジグザグ道を登って行く必要があります。もし道を外れてしまった場合には、茂みに覆われた荒れた坂と火山灰による崩れやすい土にはまり込んでしまうでしょう。これらの構造物は全て、自然のシラス台地を加工して、人工的に作られたものなのです。

大手道入口
ジグザグに進む道
大手道の右側にある曲輪2の虎口
曲輪2の上
堀底を進む大手道
内城模型の該当部分

志布志港が見える本丸

空堀の中をしばらく歩いた後は、左側にある本丸の中に入っていくことができます。本丸は二段構成になっていて、今では建物はなく広場になっていますが、他の曲輪と同じように土塁に囲まれています。手前の低い方の段は、物見として使われていたようで、高い櫓が立っていたと考えられています。実際そこからは、さんふらわあ号が停泊している志布志港が見えます。過去には、城と志布志港での貿易が相互に関連していたという間接的な証拠とも言えるでしょう。

本丸入口
本丸下段
本丸下段から見える志布志港
内城模型の本丸部分
本丸下段から大手道を見下ろしています

上段の方は、城では一番高い場所で、居館のような大きな建物がありました。城主が、戦が起こったり他の必要な場合に、ここを使ったのかもしれません。曲輪の奥の方に、小さな祠だけがあります。その背後には巨大な空堀が控えています。

本丸上段
周りを囲む土塁
奥の方にある祠
祠の背後は深い空堀になっています

「志布志城その3」に続きます。
「志布志城その1」に戻ります。

15.足利氏館 その2

足利の街は中世都市の雰囲気を残しています。

その後

足利氏館が鑁阿寺になった後でも足利の街は、足利将軍家の出身地としてますます繫栄しました。鑁阿寺はその最盛期には12もの支院をその区画の外側に持っていました(一山十二坊と呼ばれました)。江戸時代には徳川幕府が町と寺院を保護しました。徳川将軍家が足利氏の親族である新田氏の子孫と称していたからです。つまり、彼らは全て源氏の末裔ということになります。

「一山十二坊図」、鑁阿寺蔵、足利市ホームページより引用

ところが明治維新後は鑁阿寺は衰亡し、全ての支院を失ってしまいました。明治初期の廃仏毀釈の運動によるものです。四角い区画内の鑁阿寺本体のみが生き延びました。城跡としては、1922年に足利氏館として国の史跡に指定されました。足利市は、足利学校や樺崎八幡宮(元の樺崎寺)を含む地域を史跡及び観光地として整備を続けています。

現在は「一山」のみが残ります

特徴、見どころ

土塁と堀に囲まれた館跡

現在、足利は中世都市の雰囲気を持ち続けています。足利氏館としての鑁阿寺がその中心となります。館の区画の一辺は約200mあり、土塁と水堀が館跡を取り囲んで残っています。堀にはアヒルや鯉が泳いでいます。かつて館として使われていた時には、土塁はもっと高かったかもしれず、堀は広く深かったかもしれませんが、現在のお寺にはちょうどよい感じです。

城周辺の航空写真

館跡に残る土塁と水堀
水堀で泳ぐ鯉
内側から見た土塁

国宝の本堂

区画の内部には、寺の建物だけがあり、館に関するものはありません。しかし、多くの現存の古い建物があり、要注目です。一番大きな建物である本堂は鎌倉時代の1299年に建てられたもので、国宝に指定されています。天辺の棟瓦を見てみると、三つの家紋が掲げられています。真ん中が皇室のもの(皇室の祈願所という意味合いのようです)、左側がかつて鑁阿寺の本山であった醍醐寺のもの、そして右側が足利氏の家紋です。棟瓦の両端の鯱瓦には避雷針が取り付けられていて、落雷による火事を防いでいます。

国宝の本堂
棟瓦にある3つの家紋
鯱瓦に取り付けられた避雷針

歴代政権が寺を保護してきた証

この寺の鐘楼も鎌倉時代に建造されたもので、重要文化財に指定されています。

重要文化財の鐘楼

経堂は室町時代の1407年に、関東公方の足利満兼(みつかね)により建てられたものです。

経堂(重要文化財)

東門と西門も足利荘の公文所により同じ時代に再建されたもので、こういった簡素な門はかえって武士の館のもののように見えます。

東門
西門

多宝塔と御霊屋は、徳川幕府により再建されたものです。こうやって見てみると、この寺が歴代の政権によっていかに保護されてきたのかがわかります。

多宝塔
御霊屋

「足利氏館その3」に続きます。
「足利氏館その1」に戻ります。

15.足利氏館 その1

足利氏の本拠地

立地と歴史

源氏の一族が足利荘を開発し定住

足利氏館は、現在の栃木県足利市の中心部に位置していました。実は、その場所は現在では鑁阿寺(ばんなじ)という有名なお寺になっています。そのため、私たちが通常想像する典型的な城のようには見えないかもしれませんが、この館跡は防御機能を伴った日本の武士の館の、初期の形態を残しているとされています。

鑁阿寺楼門(山門)

足利氏は、地方領主としてより、14世紀から15世紀の室町時代の足利幕府の将軍家としての存在の方がずっと知られているでしょう。しかし事実として足利氏の歴史は、12世紀に下野国(現在の栃木県)で足利荘(ほぼ現在の足利市に相当)を開発したときから始まりました。皇室の子孫で清和源氏の足利義国が、最初にその場所に定住し、足利氏の祖先となりました。

足利市の範囲と城の位置

鎌倉幕府が設立される前は、武士たちは自身で開発した土地を維持するためには、形式的に荘園として高位の貴族に寄付する必要がありました。そうでなければ、公的機関から領地を保証されることは一切なかったのです。そのために義国は足利荘となる地に定住し、大変な労力を投じて開発を進めました。それ以来、この一族は自身の苗字として、その地の名前である足利を名乗ったのです。義国の息子、足利義康は足利氏の創始者であり、最初に足利氏館を築いたと言われています。そして、館はその息子で2代目の義兼に引き継がれました。

伝・足利義兼肖像画、鑁阿寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

初期の武士の館の典型

館の特徴として挙げられるのは、そのエリアを囲む土塁とその外側の水堀でしょう。こられにより館の敷地は四角形に区切られ、歴史家はこのような典型的な武士の館を「方館(ほうかん)」と呼びならわしています。その四角形の一辺は約200mで、この館の形式は戦国時代の17世紀まで長い間踏襲されました。その類型として、武田氏館大内氏館などがあります。領主や武士たちは普段このような館に住み、戦のような緊急事態にも対処できるようにしていました。したがって、足利氏館は武士が建てた最も初期の日本の城の一つとみなされています。

足利氏館跡(現鑁阿寺)を囲む土塁と水堀
武田氏館の模型、甲府市藤村記念館にて展示
大内氏館跡(現・龍福寺)

義兼は12世紀末に。源氏の棟梁であり日本の武家政権で最初の将軍となった源頼朝による鎌倉幕府の設立に、頼朝の親族として貢献しました。義兼はまた信仰心が深く、館の中に持仏堂を建立し、仏画を掲げて祈りを捧げました。これが鑁阿寺の起源となります。更には、彼は隠居所として樺崎寺を建て、また足利学校の設立者の一人とも言われています。足利学校は、日本中世の最高学府の一つとなりました。これらにより、足利は中世における一大文化都市となったのです。

樺崎寺跡
現存する足利学校の「学校門」

足利氏は鎌倉時代を生き抜き室町将軍家に

その後源氏将軍の血筋が絶え、北条氏が執権として実権を握りましたが、義兼の息子、義氏は鎌倉幕府の重臣となりました。足利氏としても、現在の愛知県の一部にあたる三河国に新しい領地を獲得しました。そのため、義氏は普段は武家の都、鎌倉に住んでいました。そこには政所が設置され、領地全体をコントロールしていました。もとの本拠地であった足利荘でさえ、足利氏の当主ではなく当地に置かれた公文所の役人によって治められました。よって、義氏は足利の父親の館(足利氏館)を1234年に鑁阿寺とし、父親の冥福と氏族の繁栄を祈る場所としたのです。

足利義氏肖像画、江戸時代の作、鑁阿寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
足利荘の公文所が置かれたとされる勧農山(現・岩井山)

鎌倉幕府の他の重臣たちが北条氏によって粛清される中、足利氏は鎌倉時代を生き延びました。多くの足利氏当主は、北条氏から輿入れした母親から生まれました。そのために足利氏は、幕府で第2の地位を維持できたものと思われます。その一方で、多くの武士たちが足利氏に対して、源氏の棟梁を継ぐ者として世の中を変えてほしいという期待を持っていました。義氏から5代後の当主、足利尊氏は北条氏出身でない母親から生まれました。そういったことが尊氏が、後醍醐天皇やもう一人の源氏の子孫である新田義貞とともに、鎌倉幕府を倒す要因の一部になったと考えられています。

足利尊氏肖像画、浄土寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
後醍醐天皇肖像画、清浄光寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
新田義貞肖像画、藤島神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「足利氏館その2」に続きます。