50.彦根城 その1

幕府譜代筆頭、井伊氏の本拠地

立地と歴史

幕府が井伊氏を重要拠点に配置

彦根城は滋賀県の琵琶湖近くにあり、日本では最も人気のある歴史スポットの一つです。ここの天守は、現存12天守の一つであり、国宝5天守の一つでもあります。また、この城には5棟の重要文化財に指定されている建物もあります。城の主要部分も、これらの建物や石垣、その他の構造物とともにとてもよい状態で残っています。そのため、城がある区域は1956年以来、国の特別史跡に指定されています。

彦根城の現存天守(国宝)
彦根城の西の丸三重櫓(重要文化財)

徳川家康と石田三成の間で争われた1600年の関ヶ原の戦いの後、家康は天下人として日本の実権を握りました。家康は重臣の井伊直政を、三成が領していた琵琶湖沿いの地域の領主としました。直政は最初、三成が居城としてた山城の佐和山城にいたのですが、自身の居城としては不十分で、もっと強力かつ便利な城が必要と感じました。その当時は豊臣氏がまだ大坂城に健在で、更に西日本には、徳川ではなく豊臣が主君であると思っている大名が多くいました。彼らが結束して、家康が東日本に設立した徳川幕府を攻撃するかもしれなかったのです。直政の領地は、まさにその東日本への攻撃を防ぐための位置にあったのです。

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彦根城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置

井伊直政肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天下普請による築城

直政は1602年に亡くなってしまいますが、彼の息子、直継が新しい城の立地について家康に相談しました。そして、最終的には琵琶湖近くの約50mの高さがある低山上に城を築くことにしました。これが彦根城です。この城の建設は天下普請として行われ、10以上の他家の大名が合力しました。工事の完成を急ぐために、佐和山城など廃城となった城の廃材が活用されました。それでも城の規模が大きいため、1603年の開始以来、工事は長年に渡って続きました。

山上から山麓にかけて広がっている彦根城

城を守り易くするために、天守、御殿、櫓群がまとまって、且つそれらが石垣に囲まれ、山の峰上に築かれました。城の中心部分への敵の侵入を防ぐために、峰の両端周辺には深い堀切が掘られました。その上、5本の長い石垣(登り石垣)が山の斜面に築かれ、敵が(斜面の横方向を)スムースに動けないようにしました。

山上の城の中心部分(現地説明板より)
太鼓丸前の大堀切
大手門奥にある登り石垣

城の中心部分は三重の水堀に囲まれ、大手門はその堀を渡ったところに建てられました。大手門は、南西方向に向いており、その先には豊臣氏がいる大坂城がありました。この方角の堀の更に外側には芹川が流れており、4重目の堀ともいうべきものでした。

「彦根御城下惣絵図」(出展:彦根城博物館)
かつての大手門絵図(現地説明板より)
現在の大手門跡

平和な時代の城に転換

彦根城は、起工から約20年後の1622年に完成しました。ところが、工事期間中の1615年には状況が劇的に変わっていました。その年に徳川幕府が豊臣氏を滅ぼしたのです。その後、工事は彦根藩単独で行われ、居住や統治のための屋敷が作られました。その結果、城主のための御殿が、大手門とは反対側の山の麓に新たに築かれました。御殿に至る門は、まるで新しい大手門のごとく「表門」と呼ばれました。城の周辺には城下町も開発されました。城や町は、水上交通の便をよくするため、水路や内湖を通じて琵琶湖とつながっていました。

復元された御殿
現在の表門跡

幸いにして、平和であった江戸時代を通じて彦根城では戦さは起こりませんでした。城主であった井伊氏は、譜代大名筆頭として幕府中枢でも重要な役目を果たしました。265年間続いた江戸時代の間、10人しか任命されなかった大老の内、5人は井伊氏が輩出したのです。その中で一番有名なのは、何といっても幕末に大老となった井伊直弼でしょう。彼は、1858年に日米修好通商条約を結ぶことによって開国を推し進めました。ところが不幸にも、彼は1860年に江戸城の桜田門外において、反対派の浪人に暗殺されてしまいました。この事件により、徳川幕府の権力、権威は衰えることになり、明治維新へのきっかけとなったのです。

井伊直弼肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸城桜田門

「彦根城その2」に続きます。

87.肥前名護屋城 その1

秀吉の最大にして最後の野望

立地と歴史

朝鮮侵攻のための巨大な陣城

肥前名古屋城は、豊臣秀吉の朝鮮侵攻を進めるために築かれた陣城で、九州北西部にありました。秀吉は、16世紀後半に天下統一を成し遂げた天下人として知られています。彼は、1590年の小田原征伐にて、小田原城に立てこもる北条氏を下すことで統一を完成させました。ところが、天下統一の間もない1591年に、秀吉は中国征服を宣言し、日本中の大名たちにその準備をするよう命じました。秀吉配下の多くの大名や武士たちも、この新たな領地が得られる計画に賛同しました。天下統一後の戦がない中、日本国内では新たな領地を得ることができなかったからです。

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名護屋城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小田原城

秀吉はまた、朝鮮に近い九州の地に陣城を築くよう大名たちに命じました。これが肥前名護屋城です。陣城とはそもそも一回限りで使われ、単純な作りでした。秀吉はかつて小田原征伐のときに、もう一つの豪華に作られた陣城である石垣山城を築きました。ところが、肥前名護屋城はさらに大きく、強力に作られました。その大きさは、秀吉の本拠地の大坂城に次ぐほどでした。この城の建設は、大名たちによる割り普請の結果、わずか8ヶ月で完了しました。約120の大名たちが集まり、城の周りに彼ら自身のための陣屋の建設も行いました。この城が築かれた場所は、もともと単なる漁村でした。ところが、ここは極めて短期間に日本有数の都市になったのです。20万人近くの兵士たちがこの軍事都市から朝鮮に渡り、10万人以上の人たちがここに留まりました。

石垣山城跡
大坂城
肥前名護屋城、城下町、各大名の陣屋敷地の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)

豪華かつ強力な作りの城

肥前名護屋城の一番高い場所には、天守と御殿を伴う本丸がありました。登城ルートは五つありました。主なものとしては、大手口、搦手口、そして山里口が挙げられます。大手口は、南方から本丸の東側にあった三の丸に、東出丸を経由して通っていました。本丸の大手門は、この三の丸に向かって開いていました。搦手口は、本丸の西側にあった二の丸の外側から始まっていました。ところが、このルートは直接本丸には至らず、その南側を回り込んで東側の三の丸に通じていました。歴史家の中には、こちらの方がより防御がしっかりしているため、搦手口こそが本当の大手口であったのではと推測しています。山里口は、三の丸より低く、またその北側にあった山里丸に通じていました。茶室が付属した秀吉の居館が、手前の方に建てられました。全ての曲輪は石垣で囲まれており、城を強固にするとともに、秀吉の権威を見せつけていました。

名護屋城模型の本丸及び天守部分
現地案内図に3つの主要登城ルートを加筆
名護屋城模型の秀吉居館部分(手前の方)

長引く戦いと秀吉の死による挫折

朝鮮侵攻は1592年に始まりました(文禄の役)。この戦いはもとは中国征服が目的でしたが、必然的にその途上にある朝鮮で戦いが起こりました。日本軍は、最初は短期間のうちに朝鮮のほとんどを占領しました。秀吉は、肥前名護屋城に居座り、そこから軍を指揮していました。彼はそのよい知らせを聞き、満足した様子で、中国と朝鮮をどのように分割するかということまで計画しました。ところが、中国の明王朝から派遣された援軍や、朝鮮の義勇兵や水軍による反撃により戦線は南朝鮮で膠着しました。1593年には明王朝からの使節が停戦交渉のために肥前名護屋城を訪れました。

1592年の釜山鎮の戦いを描いた「釜山鎮殉節図」 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日本の軍船、安宅船の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)
明軍の武器、フランキ砲の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)

この交渉は長期間続きました。しかし決裂し、1597年に戦いが再び朝鮮南部で起こりました(慶長の役)。戦意に乏しい日本軍は、無益な戦争を明軍と戦わねばなりませんでした。朝鮮の無辜の人民も多く殺されました。1598年の秀吉の死の直後、ようやく日本軍は朝鮮から引き上げました。この戦いの失敗は、豊臣氏の凋落と徳川幕府の設立を早める結果となりました。肥前名護屋城は、撤退とともに廃城となり、静かな場所へと戻っていきました。

1597年の蔚山城の戦いを描いた「蔚山籠城図屏風」部分、 福岡市立博物館所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「肥前名護屋城図屏風」、佐賀県立名護屋城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「肥前名護屋城その2」に続きます。

136.鳥越城 その1

加賀一向一揆の歴史とその果たした役割

立地と歴史

一向宗の台頭

鳥越城は、現在の石川県白山市にあたる、加賀国の白山山麓にありました。この城は、加賀国一向宗門徒の最後の抵抗地とされており、加賀一向一揆として知られる闘争の中で、彼らは戦国大名と最後の一兵まで戦ったのです。1467年に起こった応仁の乱の後は、日本のほとんど全ての人たちは自衛しなければならなくなりました。足利将軍家の権威が著しく衰えてしまったからです。これが戦国時代と呼ばれている時代です。領主層や武士だけでなく、農民や商人、そして寺院の僧までが、領地や権益を守るために武装する必要がありました。

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鳥越城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置

応仁の乱の様子、「真如堂縁起絵巻」より  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

一向宗は、仏教の宗派の一つで、この時代に国中に広まりました。この宗派では、「南無阿弥陀仏」と唱えされすれば極楽に行けると称したため、多くの人々が信仰しました。この単純な教義に加えて、15世紀後半に第8代の宗主であった蓮如が精力的に活動し、(講などと呼ばれる)地方組織を構築し、特に、加賀国を含む現在の中部地方に広まりました。この組織はもともと宗教のために存在していましたが、時代の状況の中で、政治、経済、そして軍事的な色彩も帯びていきました。戦国大名でさえ、他の大名と戦うために一向宗に援軍を求めたりしました(例えば幕府の管領、細川政元が1506年に畠山氏と戦ったとき、当時の宗主、実如は援軍を政元側に派遣しました)。一向宗が何かのために戦ったとき、その行為は一向一揆と呼ばれ、全国的に大きなインパクトを与えました。その結果、一向宗はまるで戦国大名とその配下の武士のように振舞うようになりました。その本拠地は、後の大坂城となる石山本願寺にありました。

蓮如影像  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
石山本願寺の模型、大阪城天守閣蔵 (licensed by ブレイズマン via Wikimedia Commons)
現在の大坂城

百姓の持ちたる国の城

加賀国では、一向宗の中でも最も強固な組織化がなされていました。その組織内の人々は加賀一向一揆と呼ばれ、当初は加賀国の守護、富樫氏を支持していましたが、やがて戦うことになり、ついにはこれを倒しました。このことは、富樫氏が高い税を賦課したのが原因ですが、一向宗に属していた地元領主たちが領地を富樫氏から奪いたかったという事情もあったのです。彼らは、国を自分たちで治めるために、後の金沢城となる尾山御坊を設立しました。加賀国は、「百姓の持ちたる国」として知られました。尾山御坊は、加賀一向一揆の本拠地であり、恐らくは城のような姿をしていたのでしょう。加賀一向一揆はまた、国の防衛のために多くの支城を持っていました。鳥越城はその内の一つでした。

金沢城内ある極楽橋、その名前の由来は尾山御坊時代に遡ると言われています
現在の金沢城
現代に復元された鳥越城

鳥越城は、加賀一向一揆の内部組織である山内衆(やまのうちしゅう)の拠点でした。この城は、手取川と大日川(だいにちがわ)の合流時点の上流側にある山の上に築かれました。頂上には本丸があり、他の曲輪は本丸の周辺や山の峰に沿って配置されていました。全ての曲輪は自然の地形を生かしながらの土造りで、空堀によって隔てられていました。このような城は「山城」として、その当時日本中で見られたのです。山内衆のリーダーであった鈴木出羽守が、織田信長の攻撃から防御するためにこの城を築いたと考えられています。

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鳥越城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

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鳥越城
Leaflet|国土地理院
城周辺の起伏地図

鳥越城は自然の地形を生かして築かれました

加賀一向一揆の最後

織田信長は有力な戦国大名で、1570年代から1580年代にかけて天下統一を進めていました。彼は宗教勢力に対して、政治的軍事的領域から手を引くよう求めていました。もし、寺院側がその要求を断った場合、信長は1571年の比叡山焼き討ちのように、その寺院を徹底的に破壊しました。それ以前の1570年には、信長は一向宗に対して本拠地の石山本願寺から退去するよう求めていました。一向宗はそれを断り、それから石山合戦として知られる11年にもわたる戦いを行ったのです。信長の部下たちもまた、加賀一向一揆を含む一向宗の地方組織を攻撃しました(柴田勝家が北陸方面に派遣され、加賀一向一揆と戦いました)。山内衆は、1580年に石山本願寺が信長に降伏した後でさえ、鳥越城で信長の軍勢と戦い続けました(城を取ったり取られたりする激戦でした)。しかし、ついには落城し、戦いに生き残った者も殺されました。1582年のことです。これが、加賀一向一揆の最後の抵抗とされています。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
石山合戦図、和歌山市立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
加賀一向一揆の最後の拠点となった鳥越城

「鳥越城その2」に続きます。