57.篠山城 その2

城の主要部を訪れます。

その後

明治維新後、篠山城は廃城となり、御殿の一部である大書院(おおしょいん)を除き、全ての城の建物は撤去されました。大書院はしばらくの間、学校や集会所として使われていましたが、残念なことに1944年に失火により焼失してしまいました。第二次世界大戦後には、二重の堀のうち、内堀は公園造成のために埋め立てられました。しかし、1956年に城跡が国の史跡に指定されてからは、風向きが変わりました。丹波篠山市は、2000年に大書院を復元したり、内堀を掘り起こしたりして、城跡を歴史公園として整備しています。

焼失前の大書院の写真、1943年、個人蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
2000年に復元された大書院
掘り返された内堀

特徴、見どころ

大手門跡から桝形が残る主要部入口へ

現在篠山城跡は、現存する武家屋敷群や城下町の街並みとともに、丹波篠山市によりよく整備されています。ビジターは通常、北側にある外堀前の大手門跡から城跡巡りを始めます。残念ながら大手門とその前にあった馬出しは、破壊されてしまっていて、その痕跡のみが残っています。

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大手馬出し
Leaflet|国土地理院
城周辺の航空写真

大手馬出し跡

外堀と内堀を通り過ぎて中心部に向かう通路を歩いていくと、城の主要部の入口である表門(おもてもん)及び鉄門(くろがねもん)跡に至ります。ここは今でも二重の桝形を形作っている石垣に囲まれています(更に、二重の桝形はもう一つの中門によって仕切られていました)。よって、大手門も似たような仕組みであったのだと想像できます。

北側の外堀
外堀を渡る通路
大手門があった辺り
内堀を渡る土橋
表門跡、背後が桝形になっています
2つめの桝形に入っていきます(色が違う舗装部分が中門跡)
鉄門跡

復元された二の丸大書院

城の主要部は、前面が二の丸で、後ろの方が本丸となっています。史料館が付属している復元された大書院に入っていきましょう。最初に入る場所が史料館であり、そこでは城の歴史を学ぶことができます。

史料館の入口
史料館の展示の一部

それから大書院に入りますが、中の様子がどうだったのか実際に見て回ることができます。大書院は過去には公式行事のために使われ、正面玄関の上の印象的で大型の入母屋式屋根が目を引きます。現代のビジターは、その玄関からではなく、側面から大書院に入り、部屋を囲む回り廊下を歩いていきます。部屋は8つあり、上段の間、倉庫として使われた闇がり(くらがり)の間、待機場所となっていた虎の間などです。

大書院(正面)
ビジターは正面から見て右側面から入っていきます
虎の間
この辺りが正面玄関の内側
上段の間

大書院の向こう側には、藩主が暮らした住居地区の平面展示、埋門(うずめもん)跡などがあります。

二の丸の住居跡平面展示
埋門跡

本丸と眺めがよい天守台石垣

本丸は城で一番高い位置にあります。江戸時代の間はその内部は空になっていましたが、最後の城主であった青山氏を祀る青山神社が、1882年の設立以来ここにあります。

手前が二の丸、奥が本丸
本丸にある青山神社

大きな天守台石垣が本丸の角地にあり、市街地を望むビューイングスポットになっています。遥かには、三角形の形をした高城山も見えます。そこには八上城(やがみじょう)跡があり、戦国時代に使われていました。天守台石垣の隅には、江戸時代にその大きさに比して随分小さな単層の櫓が建てられていました。

天守台石垣
天守台の上
八上城跡
江戸時代の天守台の様子、、篠山城大書院史料室にある城の模型より

「篠山城その3」に続きます。
「篠山城その1」に戻ります。

81.松山城 その2

天守までの長い道のり

その後

明治維新後、山麓にあった建物は撤去されたり失火により焼失しました。そして日本陸軍が二の丸と三の丸を含むエリアを使用しました。第二次世界大戦後は、市民会館、NHK放送局、博物館、図書館、病院、学校、球場などの公共施設として使われました。二の丸は、そこにあった病院と学校が他所に移設された後、最終的には1992年に二の丸史跡庭園として整備されました。外側から見ると、修復された石垣と復元された城壁により、まるでオリジナルの御殿のように見えます(城壁の内側は名称の通り御殿ではなく庭園となっています)。三の丸は、広大な広場を持つ公園として一般に公開されており、イベントなどが開催されています。球場などが移設された後は、城の歴史を突き止めるための発掘作業も並行して進められています。

Leaflet|国土地理院
1970年代の城周辺の航空写真

復元された二の丸の外周部分
庭園となっている二の丸内部
三の丸の球場跡地
広場になっている三の丸

一方、天守を含む山上の多くの建物が残っていました。1933年初めの時点では、44棟もの現存建物がありました。ところが同じ年に放火により35棟に減り、1945年の空襲により24棟に減り、1949年にはまたも放火により21棟になりました。松山市は1950年にその21棟の現存建物を重要文化財に指定し、1958年には他の建物の復元を開始しました。これまで、31棟の建物が1992年までにオリジナルの工法で、ほとんどが木造で復元されています。つまり、山上にある建物の数は1933年時点よりも多くなっているのです。更には城山公園と呼ばれる城の全域は、1952年以来国の史跡に指定されています。

山上にある多くの現存または復元建物群

特徴、見どころ

黒門口から山上へ

現在、山の上の松山城を訪れるのには4つのルートから選べます。最も一般的なのは東雲(しののめ)口で、ロープウェイかリフトに乗って簡単に頂上付近までたどり着くことができます。しかし歴史ファンの方なら、城までの大手道であった黒門口から歩いていかれることをお勧めします。

山上への案内図、現地説明板より

このルートは三の丸の奥の方からスタートし、御殿があった二の丸の傍を通り過ぎます。このルート上には建物は残っていませんが、今でもすばらしい石垣に囲まれています。まず、黒門、栂門(つがもん)、槻門(けやきもん)という3つの門跡を通る間に5回曲がらなければなりません。それから更に、頂上に至るオリジナルの石段が残る曲がりくねった山道を登っていきます。

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黒門
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
黒門口周辺の地図

スタート地点にある黒門跡
栂(つが)門跡
二の丸(右側)の脇を通り過ぎます
槻(けやき)門跡
頂上に向かう山道

大手門周辺の堅い守り

登っていくと頂上近くの大手門跡に着きます。また、そこでは本丸を囲むすばらしい高石垣も見えますし、たくさんのロープウェイかリフトに乗ってきたビジターが別の方向からやってきます。ここが東雲口ルートとの合流地点になっているのです。

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大手門
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
本丸周辺の地図

大手門跡に到着
本丸の石垣

次に、天守が見える方に向かう道を進みますが、これは行き止まりで敵を欺くための罠であり、本丸に入るためには180度曲がっていかねばなりません(行き止まりの道の方は立入禁止になっています)。その次には現存する戸無門がありますが、戸がないのは敵を引き付けるためとも言われています。敵はきっとこの辺りで大いに困惑したことでしょう。

前方に天守が見えます
まっすぐ行くと行き止まりです
次に進むためには180度曲がります
戸無門

戸無門をくぐると、復元された筒井門が現れます。この門は単独に立っているように見えますが、実は現存する隠門(かくれもん)がとなりにあるのです。筒井門から攻め入る敵は、隠門から出てくる守備兵の反撃を受けてしまうでしょう。

筒井門
隠門
後ろから見た筒井門(右)と隠門(左)

本丸からの素晴らしい眺め

そして、復元された太鼓門を通れば、ついに本丸に到着します。本丸の中心部は広場のようにも見えますが、周辺には復元された井戸、巽(たつみ)櫓、馬具櫓などがあります。それに、ここは間違いなく天守や、松山市街地・瀬戸内海など周辺地域を眺めるビュースポットです。

太鼓門
井戸
本丸内部
天守の姿
本丸から見た松山市街地

「松山城その3」に続きます。
「松山城その1」に戻ります。

74.岩国城 その2

この城のことをもって知ってみましょう。

その後

明治維新後、山麓にあった居館は1885年に吉香(きっこう)公園となりました。錦帯橋は277年間残りましたが、1950年のキジア台風により発生した洪水のために流されてしまいました。岩国市の人たちは、1953年に元の工法で橋を復元しました。老朽化のため、2004年には再度再築されました。そのためか橋はまだ新しいように見えます。1922年以来、国の名勝に指定されています。

現在の錦帯橋

岩国城に関しては、1963年に山の上の天守が再建されました。しかし、山麓から錦帯橋とともにもっとよく見えるよう、元あった位置より約50m移動した場所に建てられました。1964年には山麓と山頂を結ぶロープウェイが開業し、観光客が多く訪れるようになりました。

山麓からもよく見える現在の岩国城天守

特徴、見どころ

錦帯橋から再建天守へ

現在、岩国城周辺を訪れるビジターにとっては、城そのものにはあまり興味はないかもしれません。まず最初には、錦帯橋を眺めて歩いて渡ってみたいでしょう。また、ロープウェイに乗って山の頂上まで行き、錦帯橋を含む周辺の素晴らしい景色を眺めてみたいでしょう。再建された天守に行ってみるのは、3番目になってしまうでしょうか。麓から見る錦帯橋の景色の引き立て役といった感じです。しかし、この城のことをもっと知ってみると、新たな一面を発見できると思います。

錦帯橋を渡ります
ロープウェイの車窓からの眺め
山上から見える錦帯橋

ロープウェイの山頂駅から降りた後は、城へ向かう2つのルートの案内板が目に入ります。それによれば、左側の道に行くよう促されていますが、実は右の方がおすすめです。それは、右の道に行けば、城の正面の方に出られるからです。道の右側には石垣の端の部分が、三角形の石の列となって並んでいるのが見えます。左側には、二の丸の立派な石垣も見えます。更に進んでいくと、出丸が前面にはみ出しています。ここには、桝形と呼ばれる四角い防御のための空間が内側にあり、そこが城の大手門となっていました。その門跡の内側が二の丸となっていますが、内部は今では改変され現代風のロックガーデンになっています。

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ロープウェイ山頂駅
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

案内板では左側の広い道が推奨されています
今回は右側の山道を選びます
二の丸下の石垣
張り出している出丸の石垣
出丸の石垣を見上げています
大手門跡
二の丸内部

再建天守とオリジナルの天守台

本丸は、二の丸の北隣にあります。再建された天守が眼前に立ちはだかってとても目立ちます。この天守のデザインは、オリジナルのものを描いたと言われる断面図を元に作られているので、恐らく外観はオリジナルに近いはずです。この天守は4層ですが、三階がはみ出しています。こういったタイプの天守は珍しく、南蛮造りと呼ばれています。実際には現代的なビルディングで、内部は歴史博物館や展望台として使われています。オリジナルの天守台も発掘調査をもとに、元の位置に復元されています。

二の丸から再建天守のある本丸の方を見ています
「南蛮造り」の再建天守外観
「断面図」についての岩国城内の展示
最上階展望台からの眺め
復元されたオリジナル天守台

「岩国城その3」に続きます。
「岩国城その1」に戻ります。