14.水戸城 その2

水戸駅から城跡へは、左右の丘の間の大きな谷間を走る道を通っていくことができます。驚いたことにこの谷間は人工的に城の空堀として掘られたものです。

特徴、見どころ

道路となっている二の丸前の空堀

現在、水戸城跡はJR水戸駅のすぐ近くにあるので、とても行きやすくなっています。駅から城跡へは、大まかに2つの行き方があって、一つは駅から見て左側の丘の上にある三の丸に向かって坂を登って行く道を通るか、もう一つは左右の丘の間の大きな谷間を通る道を通るかになるでしょう。驚いたことにこの谷間は人工的に掘られたものです。もし後者の谷間の道を進んでいくと、以前城の空堀の一つだったこの場所のスケールを実感できるでしょう。また、右側の二の丸のどっしりとした土塁の上には、復元された角櫓(すみやぐら)が見えます。そうするうちに、両側の曲輪を渡る大手橋の下に着きます。

城周辺の航空写真、赤破線は水戸駅から空堀を通るルート

谷間を通る道(二の丸と三の丸の間の空堀)
復元された二の丸隅櫓
大手門下

かつて戦いがあった場所

その谷底の両側から、急な階段を通って曲輪の上に登って行くことができます。その高さは約12mあります。実は、この辺りは諸生党と天狗党との2度目の戦いがあった場所なのです。諸生党は大手門を破ろうとしますが失敗しました。そのため、藩校の弘道館に留まりました。天狗党はこれに攻撃を加え、撃破したのです。しかし、その結果として弘道館のほとんどの建物は焼けてしまいました。現在ではその正門とわずかな建物が残り、史跡及び歴史博物館となっています。

急な階段を登っていきます
大手橋の周辺
弘道館正門

復元された大手門

大手門はこの戦いの後にも残っていましたが、明治初期焼けてしまいました。現在目にする大手門は、2020年にちょうど復元されたばかりです。伝統的工法により、元と同じものを作りました。高さ約13m、幅約17mで、とても大きく、城の正面を飾るに相応しい姿です。この門の特徴の一つとして、瓦塀を使っていることがあり、瓦と漆喰を交互に積み重ねています。現在の門ではそれが完璧に復元され、とても美しいです。更には、発掘により見つかったオリジナルの瓦塀の一部を門の左下の窓から見学することができます。

復元された大手門
復元された大手門瓦塀
発掘された瓦塀も見ることができます

学校地区となっている二の丸

二の丸の内部には、かつては御殿、三階櫓(さんがいろ)、彰考館がありましたが、今では学校地区になっています。水戸藩の教育を重視する方針が引き継がれているのかもしれません。二の丸を貫く通りの両側には、白い壁が連なっていて、まるで城の建物が今でもそこにあるように見えます。しかし、ビジターは指定された場所以外は立ち入ることはできません。例えば、丘の北側を流れる那珂川の景色を見たいときは、同じ通路を行ってまた戻ってこなければなりません。その那珂川の景色自体はすばらしく、この川が城の天然の障壁だったことがわかると思います。

二の丸周辺の地図、赤破線は見晴台に至るルート、青破線は二の丸角櫓に至るルート

二の丸中央の通り
北側の見晴台に行くための通路
北側(那珂川)の眺め

似たように、復元された角櫓まで行って内装も見ることができますが、別のもっと長い通路を行き来する必要があります。

角櫓に行くための通路
内側から見た角櫓
角櫓の内部

「水戸城その3」に続きます。
「水戸城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

192.角牟礼城 その2

頂上への道は曲がりくねっていますが、早くもこの城のハイライトである、穴太積みの素晴らしい石垣が姿を現します。

特徴、見どころ

駐車場になっている三の丸

現在、角牟礼城跡はここが2005年に国の史跡に指定されて以来、玖珠町によって整備されています。この城跡に車で行く場合は、山麓から舗装された林道を通って中腹にある三の丸まで乗り着けることができます。ただし、林道の幅は狭いので、他の車とすれ違う時には注意してください。三の丸は駐車場になっているのですが、今なお石垣に囲まれています。その周辺には崩れた石が転がっているのも見えます。歴史家の中には、これは石垣群を築いた毛利高政が、朝鮮侵攻に参陣した経験から日本に持ち込んで築いた登り石垣が崩れたものではないかと推測している人もいます。

城周辺の地図

林道の入口
駐車場になっている三の丸
曲輪の周りに転がっている石

すばらしい穴太積みの高石垣

三の丸からは、上の方の城の中心部に向かって歩いていきます。また、この周辺では敵が自由に動き回れないようにするための土造りの縦堀を見ることができます。これは高政が城主として来る前に作られたものです。つまり、城の最終段階では古い構造物と新しい構造物が混在した形になっているのです。頂上への道は曲がりくねっていますが、早くもこの城のハイライトである、穴太積みの素晴らしい石垣が姿を現します。この石垣は自然石または粗く加工した石を使って積まれていますが、長さが約100m、高さは7m以上あります。一見粗野に見えるのですが、実は石を巧みに組み合わせて積まれています。かつての石工集団の独特の技術を実感することができます。

縦堀
ジグザグの道を登って行きます
高石垣が姿を現します
見事な穴太積み

大手門を過ぎて二の丸へ

その次には、現在の道に沿って大手門跡の脇を通り過ぎていきます。ここには防御力を備えた虎口と櫓門がありました。この門は同時に井戸曲輪の入口にもなっていて、その名の通りこの城のライフラインとなっていました。実は、かつては地元の人たちや歴史家は言い伝えに基づき、この門を「搦手門」と呼んできました。しかし現在では城の研究の進展により、この門は「大手門」とされています。公刊されているパンフレットや現地の案内板の中には、まだここを搦手門と記載しているものがあるので、その場合はご自身でここは「大手門」なんだと読み替えてください。

大手門跡
現地説明板ではまだここを「搦手門」と表記しています(赤丸内)

そうするうちに二の丸に近づいていきます。ここも石垣に囲まれています。発掘調査により、この曲輪では建物の礎石が見つかりました。またここには西門跡があり、かつては瓦葺きの門と大手門と似たような虎口がありました。ついでに申し上げますと、この門はかつては「大手門」とされていました。まとめてみると、穴太積みから上、二の丸から下の区域は、毛利高政によって確かに近代化された場所だと言うことができます。

二の丸に向かいます
二の丸の石垣
二の丸の内部
西門跡

「角牟礼城その3」に続きます。
「角牟礼城その1」に戻ります。

191.中津城 その3

中津市が石垣を積み直す際、古い石を新しいものに交換しようと考えていました。その石垣が城のオリジナルであると思っていなかったからです。

特徴、見どころ

本丸内のたくさんの神社

本丸には、中津神社、中津大神宮、奥平神社などたくさんの神社があります。その中でも興味深い存在が城井神社で、この城の中で孝高の息子、黒田長政に殺された地場の戦国大名であった城井鎮房(きいしげふさ)を祀っています。言い伝えによれば、長政は鎮房の恨みによる亡霊に苦しめられ、自身の行為を後悔してこの神社を創設したとのことです。

本丸周辺の地図

中津神社
中津大神宮
奥平神社(左側)
城井神社(中津耶馬渓観光協会ホームページより引用)
城井鎮房肖像画、天徳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

三の丸と二の丸

三の丸は本丸のとなりにありますが、現在では市街地となっています。ここには城の中心部に向かうための大手門の跡があります。城があったときに本丸の椎木門に至るためには、もう一つの門(黒門)も通っていく必要がありました。現代の住宅街の合い間に、大手門の立派な石垣の一部が残っています。

城周辺の地図

現在の三の丸
大手門の石垣、手前が黒田時代のもので、奥の方は細川時代に桝形空間を作るために増築されました
かつてはこのようになっていました、現地説明版より(白枠内が残存部分)

本丸の向こう隣りの場所、二の丸は公園になっていて、武家屋敷跡の礎石がいくらか残っています。

二の丸公園
武家屋敷跡

福沢諭吉旧居

他のお勧めの場所は、二の丸の東方約1kmのところにある福沢諭吉の旧居でしょう。福沢は16歳のときにこの家を買い、19歳のときまで住んでいました。彼は中津藩の下級武士階級出身であるので、この家屋は当時の下級武士が住んでいた家屋の一例と言えるでしょう。この家屋はよくメンテナンスされていて、例えば茅葺の屋根は、角材によって下から支えられています。土蔵造りの倉庫も残っていて、ここの2階で福沢が勉強していたそうです。

福沢諭吉旧居
家の内部
支えられている茅葺屋根
福沢が勉強していた土蔵

その後

明治維新後、中津城は廃城となり、本丸の御殿を除く全ての城の建物は撤去されました。御殿はしばらくは役所として使われましたが、1877年に西南戦争が起こったときにその混乱の中で焼け落ちてしまいました。その後、城跡は神社の敷地として使われたり、1964年には模擬天守が建てられました。この城跡に関する最近のトピックは、2002年に中津市の組織内で、川沿いの反対側にある本丸石垣を修理する際に論争があったことです。担当部署は、石垣を積み直す際、古い石を新しいものに交換しようと考えていました。その石垣が城のオリジナルであると思っていなかったからです。その工事がまさに行われようとしたとき、文化財部門が石垣はオリジナルではないか、そうであれば保存されるべきだと言ってきたのです。調査の結果、石垣は黒田孝高が最初に城を築いた当時のものだと判明し、古い石をそのまま使って積み直されました。中津市は、この石垣は九州地方で最も古い現存石垣であると言っています。

オリジナルの石を使って修繕された石垣

私の感想

現在の中津城を訪れてみて、最初は少々違和感を覚えました。そこにはオリジナルのものもあれば、模擬天守や神社のような後の時代に加えられたものが多く混在していたからです。しかし、この城や中津の先人の歴史を学んでみると、これらの文物は城や遺跡をいかに維持していこうとする彼らの努力の結果だということがわかりました。また、継続的に利益を出す必要がある民間企業にとって、城の建物を経営していくのは大変なことだということも理解できました。もし中津市周辺を旅行されるのであれば、中津城に寄ってあげてほしいです。

川岸から見た模擬天守

ここに行くには

車で行く場合:中津日田道路の定留(さだのみ)ICから約15分かかります。公園周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR中津駅から歩いて約15分かかります。
東京または大阪から中津駅まで:飛行機で大分空港に行って、そこから高速バスで大分駅に行き、日豊本線の列車に乗ってください。

本丸脇の駐車場

リンク、参考情報

中津城公式ホームページ
中津城(奥平家歴史資料館)、中津耶馬渓観光協会
破壊の危機からうまれたもの -中津市の事例-、文化遺産の世界
・「人物叢書315 黒田孝高/中野等著」吉川弘文館
・「シリーズ藩物語 中津藩/三谷紘平著」現代書館
・「歴史群像123号、戦国の城 豊前中津城」学研
・「よみがえる日本の城20」学研
・「日本の城改訂版第14号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「中津城その1」に戻ります。
「中津城その2」に戻ります。

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