78.丸亀城 その3

「ひとりぼっちの天守」を解消できないものでしょうか。

特徴、見どころ

裏側にもしっかり高石垣

三の丸に戻ると、裏出口から外に出ていくこともできます。城の裏側の方であっても高石垣があるのを見て、また驚かれるかもしれません。実は、現在の裏側の面は、1660年に変更されるまでは城の正面だったのです。その結果、この城は全て石垣で覆われることとなったのです。

三の丸の裏出口
裏側の高石垣

最後に山裾では、野面積みと呼ばれる自然石が積み上げられた、この城では独特の石垣を見ることができます。この石垣は、この城の他の石垣より古い方式により積まれています。よってもともとは、この城の最初の城主であった生駒氏によって築かれたのではないかと言われています。

山裾で見られる野面積みの石垣
タイプが違う石垣のコントラスト

その後

明治維新後、天守や大手門など現存しているものを除き、全て撤去または火災で失われました。城の跡地は第二次世界大戦まで日本陸軍によって使われます。内堀の外側は市街地となりました。丸亀市は1919年に山上に公園を開設しました。天守と大手門の建物は、1957年に重要文化財に指定されました。丸亀市は常に、石垣などの遺跡を保存するために努力しています。しばしば悪天候による被害を受けているからです。また、調査研究を行ったうえで、山上にあった櫓や塀を復元することも検討しています。

修理中の石垣
三の丸石垣

私の感想

城の前に立ったとき、素晴らしい高石垣に本当に感動しました。山上から見る景色も素晴らしいです。しかし、正直に言わせていただくと、天守は見事なのですが、どこか寂しそうに見えます。もし天守の周りの櫓や塀が復元されたら、明石城のように城のもとの姿がよみがえるのではないでしょうか。余談ですが、この街は、讃岐うどんでも有名です。城の周りにはうどん店がたくさんあります。旅がもっと楽しくなるでしょう。

本丸から見える讃岐富士
二の丸から見た天守
寂しいかもしれない天守
現存櫓の間の土塀が復元された明石城

ここに行くには

車で行く場合:
高松自動車場の坂出ICまたは善通寺ICから約20分かかります。
公園周辺にもいくつか駐車場があります。
電車で行く場合は、丸亀駅から歩いて約10分かかります。
東京または大阪から丸亀駅まで:
東海道新幹線または山陽新幹線に乗り、岡山駅で瀬戸大橋線に乗り換えてください。
もし、松山もしくは高知行きの特急に乗った場合には直接丸亀駅に到着します。
もし、高松行きのマリンライナーに乗った場合には坂出駅でもう一回予讃線に乗り換える必要があります。

マリンライナー  (licensed by Sui-setz via Wikimedia Commons)

リンク、参考情報

丸亀城(日本100名城・現存十二天守)、丸亀市
・「よみがえる日本の城13」学研
・「日本の城改訂版第9、78」号」デアゴスティーニジャパン
・「史跡丸亀城跡保存活用計画」丸亀市

これで終わります。ありがとうございました。
「丸亀城その1」に戻ります。
「丸亀城その2」に戻ります。

78.丸亀城 その1

先進的で素晴らしい石垣に覆われた城

立地と歴史

高松城の支城としてスタート

丸亀城は、讃岐国(現在の香川県)の讃岐平野の西部に位置する亀山と呼ばれる山上に築かれました。この平野の一部には、突起のような山がいくつかあり、例えば、飯野山はその美しい姿から讃岐富士として知られています。亀山は、それらの山のうちの一つですが、讃岐富士よりはずっと低い(標高が66m対422m)ものの、武士たちが城を築くには絶好の場所でした。

城の位置

城周辺の起伏地図

讃岐富士

奈良氏が亀山の上に砦を築いたのが最初と言われていますが、1597年に生駒氏が丸亀城という名前で城を築きました。生駒氏は、1587年から1640年までの間、豊臣氏とその後は徳川幕府に従うことで讃岐国を支配していました。丸亀城は、生駒氏の本拠地である高松城の支城だったのです。そして、1615年には徳川幕府から発せられた一国一城令により、一時廃城となってしまいます。城は不幸にも破壊されてしまい、その古い石垣の残骸が現代の発掘により見つかっています。

生駒氏の初代、生駒親正肖像画、弘憲寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高松城

山崎氏、京極氏により再建

1641年に生駒氏がお家騒動が原因で他に転封となった後、山崎氏が徳川幕府により讃岐国の西半分を与えられました。そして山崎氏は、新しい本拠地として丸亀城の再築を許可されたのです。亀山の周り中に三段の石垣が築かれました。その石垣は当時の最新の技術によって築かれ、それは貴重なものとなりました。当時は、新しい城を築くことは原則として認められなかったからです。この再建工事は30年間続きました。山崎氏は、跡継ぎがなかったことで工事中の1657年に徳川幕府により不幸にも改易されてしまいます。山崎氏の後釜となった京極氏が、1663年までに天守を築き、工事を完成させました。

丸亀城の天守と高石垣
丸亀城に移された京極高知肖像画、丸亀市立資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

石垣で固められた要塞

丸亀城の最終型は、以下のようになっていました。山の上には、本丸、二の丸、三の丸がありました。これら全ての曲輪は石垣で覆われ、山の高い位置で一体化していました。本丸は、最も高い位置にあり、天守と4基の隅櫓が多聞と土壁により連結されていました。二の丸と三の丸は本丸よりも低い位置にあり、ここにも櫓が何基かありました。内堀は山を囲んでいました。大手門は北側の内堀のすぐ内側にあり、搦手門は南側にありました。更には、武家屋敷が内堀の外側に建設され、ここもまた外堀により囲まれていました。

丸亀城の模型(丸亀城天守内で展示)
丸亀城の大手門と内堀
讃岐国丸亀絵図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)

京極氏は、丸亀城と丸亀藩を江戸時代の終わりまで統治しました。実は、城の城主は山裾にある御殿に住んでいました。これは平和な時代においては通常のやり方でした。いずれにせよ、丸亀城は石造りの要塞のように見えていたことでしょう。

山裾にあった御殿跡 (taken by あけび from photoAC)

「丸亀城その2」に続きます。

34.七尾城 その2

城の主要部はいまだに際立っています。

特徴、見どころ

駐車場から城の主要部へ

現在、車を使えば七尾城跡の主要部分に直接乗り入れることができます。城跡には今は城の建物はありませんが、城の基礎部分は健在です。長屋敷の下にある曲輪が駐車場になっています。駐車場からは、よく整備された道を歩いて、本丸の方に行くことができます。

城周辺の地図

駐車場
本丸に至る道

そのときには道すがら、本丸と長屋敷の間を隔てる大きく深い堀切や、本丸にある切岸と呼ばれる垂直に切り落とされた崖も見ることができます。これらは人工的に加工されたものです。

本丸と長屋敷の間を隔てる堀切
本丸下の切岸

最初に、桜馬場の下にある調度丸(ちょうどまる)に着きます。ここは武具が準備されている場所でした。もとあった大手道もまた調度丸に着くようになっていました。

調度丸
調度丸に至る大手道
調度丸の想像図(現地案内板より)

素晴らしい石垣群

次は桜馬場に登っていく途中に、大規模な五段積みの石垣が見えてきます。野面積みと呼ばれる自然石を積み上げる方法で作られています。表面が苔に覆われていてとても美しく見えます。前田利家により築かれたもので、この城の呼び物の一つです。

桜馬場への登り口
前田利家が築いた五段石垣
苔むした石垣

桜馬場の正面からは、遊佐屋敷を通ってまっすぐ本丸に行くことができます。しかしこの道は元からあったものではなく、約80年前に本丸に城山神社が創建されたときに作られたと言われています。そのおかげで、本丸の立派な三段の石垣を間近に見ることもできるわけです。

桜馬場の入口
遊佐屋敷
本丸にまっすぐ伸びる道
本丸の三段石垣

よく防御されていた本丸

本丸は、過去にはこの石垣と垂直に切り立った崖により、よく守られていました。元の本丸への道は、曲がりくねって裏側の方から回り込んでいました。そして、本丸の外側に配置された外桝形と呼ばれる四角い空間によって、防御されていました。

本丸を守る石垣と切岸
本丸の本来の入口にある外桝形

本丸の内部は、基本的には空になっていますが、城の記念碑が立っています。神社は天守跡にあります。天守は檜皮葺きか杮葺きであったと考えられています。発掘によっても瓦が発見されなかったからです。本丸からの眺めは素晴らしいです。もし天気がよければ、七尾湾と能登半島を含む七尾市の全景を見渡すことができます。

本丸の内部
本丸に立つ記念碑
天守跡に立つ城山神社
本丸からの眺め

「七尾城その3」に続きます。
「七尾城その1」に戻ります。