13.白河小峰城 その2

城跡は公園となりましたがその後、城跡整備の方針は変更されることになりました。松平定信により城建物の詳細図面が残されていたからです。城を元通りの姿に戻せないか検討が始まったのです。これは現代の日本において、城の大型の建物を元通りに再建する最初の試みでした。

その後

明治時代には城跡は公園となり、昭和時代には野球場が建設されたりしました。しかしその後、城跡整備の方針は変更されることになりました。市民から多くの要望があり、また松平定信により城建物の詳細図面が残されていたからです。城を元通りの姿に戻せないか検討が始まったのです。これは現代の日本において、城の大型の建物を元通りに再建する最初の試みでした。

1970年代の城周辺の航空写真

松平定信が残した三重櫓の詳細図面、現地説明板より

ところが、これには法律上の大きな問題がありました。日本の建築基準法は、13mを超える高さの木造建築物に厳しい規制を課していたのです。この法律によれば、白河小峰城三重櫓のような大型の古い形式の木造建築物を、新しく作ることはできませんでした。そのため、この櫓は建築物としてではなく、工作物として復元作業が続けられました。この扱いであれば、法律の許容内でした。そしてついに1991年に完成となりました。しかし、また新たな問題が発生します。政府当局が、櫓のほとんどの部分にビジターを入れてはいけないと言ってきたのです。「建築物ではないから」が、その理由でした。最終的には1993年に、歴史的建造物に対する例外規定ができたことで、三重櫓は全面的にビジターに公開されることになりました。

復元された三重櫓

特徴、見どころ

今でも威厳のある城跡

現在、城山公園と呼ばれる白河小峰城跡の前に立ってみると、今でも広大に城を覆っている石垣群の上に、スリムに復元された三重櫓が乗っかっていて、とても印象的です。公園の正面入口は、かつては二の丸入口で、そこには太鼓門がありました。二の丸は今では広場になっていて、くつろいだり、運動したりすることができます。敷地の一部には、小峰城歴史館、二の丸茶室などの公共施設があります。

城周辺の航空写真

二の丸入口(太鼓門跡)
広場となっている二の丸
かつての太鼓門と二の丸の姿、小峰城歴史観展示の模型より

その先にある城の主要部分は、今でも内堀と二段の石垣に囲まれていて、とても強そうに見えます。この二段の構えは、上の方にある本丸を下の方の竹の丸・帯曲輪が囲んでいる形になっています。主要部分に入るには、堀を渡る土橋と清水門跡を進んでいく必要があります。この門は城では最大の門でした。実は白河市は2026年までにこの門を復元する予定でいます(2024年3月時点の情報)。次に右に曲がって石段を登っていくと竹の丸に至りますが、そこでは三重櫓が間近に迫って見えます。

清水門跡
竹の丸に向かいます
竹の丸
かつての清水門から竹の丸周辺の姿、上記模型より

復元された櫓と門のコンビネーション

三重櫓のとなりには、櫓に続き2004年にオリジナルと同様に復元された前御門も見えます。この櫓と門の取り合わせはとても見栄えがして、城の権威をも高めています。門を入っていくと本丸となります。今は広場となっていますが、かつては城主のための御殿がありました。

竹の丸から見える三重櫓と前御門
本丸御殿跡
かつての本丸御殿の姿、上記模型より

三重櫓は本丸の北西隅に立っています。その構成はシンプルに正方形の3フロアを積み上げていて、1辺11.7m(6間四方)の一階、1辺7.8m(4間四方)の二階、そして一辺3.9m(2間四方)の三階から成っています。それぞれの階には簡素な屋根が付き、壁は白い漆喰と黒い板壁の2色構成です。そのシンプルさがかえって櫓を美しく見せています。

本丸内部から見た三重櫓

外も内も元通りに復元された三重櫓

櫓には本丸の内側から入っていきます。この櫓を復元したときの経緯もあって、係員が櫓の内部に常駐していて、ビジターの安全を常にチェックしています。例えば、規定によって一階から上には同時に5人のビジターしか入れないことになっています。この櫓が、最小限の安全設備と説明板を除き、オリジナルのものと全く同様に復元されているからです。一階を歩いてみると、中はあまり明るくなく、柱が多く立っていることに気付かれるでしょう。その柱には、1868年の戊辰戦争のときに激戦地となった稲荷山の松の木が使われています。そこには、戦争のときに生じた弾痕を見ることができます。

櫓の一階内部
一階の柱に残された弾痕

また一階の北側と東側には石落とし、狭間、格子窓といった防御システムがあります。この両サイドは本丸の外側を向いていて、敵の攻撃を受ける可能性がありました。

一階に備えられた石落とし
一階に備えられた狭間(黒い四角部分)

二階と三階に上がるときには、とても急な階段を登ることになるので気を付けて下さい。但し、復元のときに付けられた手すりとロープを使うことができます。

二階に登るための急階段
階段を上から見下ろしています

上の階に行くに従い、フロアは狭くなり、最上階ではまるで箱の中にいるようです。この階にもまた他の階と同じような防御システムがあります。この櫓は実戦的に作られたということがわかると思います。格子窓を通じてということにはなりますが、外の景色を見ることもできます。

二階内部
三階内部
格子窓越しの景色

「白河小峰城その3」に続きます。
「白河小峰城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

29.松本城 その1

松本城は長野県松本市にある城で、現存する素晴らしい5層天守により有名です。城が位置する松本盆地は古代より、周辺の山々から流れてきた豊かな水が湧き出る地としても知られていて、現代の市街地でも多くの現役の井戸を目にすることができます。

立地と歴史

小笠原氏が追放され、帰還するという本懐を待ち続けた城

松本城は長野県松本市にある城で、現存する素晴らしい5層天守により有名です。城が位置する松本盆地は古代より、周辺の山々から流れてきた豊かな水が湧き出る地としても知られていて、現代の市街地でも多くの現役の井戸を目にすることができます。そのため、この地はもともと「深瀬(ふかせ)」または「深志(ふかし)」と呼ばれていました。「深く流れる水」という意味だったようです。中世の頃には、信濃国(現在の長野県)の守護であった小笠原氏がこの地を本拠地としていました。多くの戦いが起こった戦国時代には、小笠原氏の家臣、島立右近(しまだてうこん)が1504年に、主君の本拠地・林城防衛のために、深志城を築城しました。これが松本城の前身となります。ところが1550年に、武田氏により城は落城し、小笠原一派は追放されてしまいました。

松本市の範囲と城の位置

市街地にある井戸(西堀公園井戸)
こちらは名も無き井戸か

武田氏は深志城を強化し、盆地の平地部分にある城であっても、強力な防御拠点にしようとしました。まず、城を三重の水堀で囲みました。堀に囲まれた曲輪部分は、真ん中から順に、本丸、二の丸、三の丸とされました。加えて、女鳥羽川(めどばがわ)の流路が、総堀(一番外側の堀)に沿うように変えられ、城の防御力はますます高まりました。武田氏はまた、城の門を改良し、前面に馬出しを加えました。馬出しとは、小さな丸い曲輪で、狭い通路によって門とつながっていました。これは、武田氏が開発し、頻繁に使われた防御システムです。城の基本的な構造は、武田氏によって完成されたと言われています。しかしこの時点では、城は基本的には土造りでした。

江戸時代の松本城の模型、松本市立博物館にて展示、三重の堀に囲まれています
城の東側にわずかに残る総堀
わずかに残る総堀の内側にあった土塁(西総堀土塁公園)
女鳥羽川
上記模型にある馬出し、現在では全て撤去されています

小笠原氏が戻ってくる機会が1582年に突然やってきました。織田信長が武田氏を滅ぼし、またその信長も本本能寺の変で明智光秀に殺されてしまったのです。その当時徳川家康に仕えていた小笠原貞慶(おがさわらさだよし)はその翌年、33年ぶりに城に帰還したのです。貞慶はそれを祝して、城の名前を「松本」と変えました。その名前は、「本(もと)懐」を「待つ(松)」というところから付けられたと言われています。しかし、状況はまた急激に変わりました。1590年には天下人の豊臣秀吉により、貞慶は主君の家康とともに、関東地方に移封となりました。秀吉は松本城を、家康の重臣であり、秀吉の下に出奔した石川数正(いしかわかずまさ)に与えました。

小笠原氏の家紋、三階菱  (licensed by Minamoto at fr.wikipedia via Wikimedia Commons)
「長篠合戦図屏風」に描かれた石川数正  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

石川氏が天守を築き城を近代化

数正は、秀吉によって好まれた先進技術によって城の近代化を始めました。1592年に数正が亡くなってからは、子の康長(やすなが)が引き継ぎました。康長は曲輪群を石垣で囲み、本丸には5層の天守を築きました。彼はまた、主要な門の馬出しを桝形に置き替えました。桝形とは、石垣や門の建物に囲まれた、四角い防御スペースのことを言います。これらの門は、三の丸の大手門、二の丸の太鼓門、本丸の黒門のことです。城の工事は1594年に完成しました。しかし、この工事は突貫で行われたため、民衆には苦痛を与えました。地元の言い伝えによれば、太鼓門に使われる巨石を運んでいた人夫が不満を言ったところ、康長はそれを聞き、直ちにその人夫の首を刎ねたそうです。それ以来、その石は玄蕃石(げんばいし)と呼ばれるようになりました。「玄蕃」とは康長の官職名でした。

城周辺の地図

上記模型にある大手門、手前は女鳥羽川
現在の大手門跡
復元された太鼓門
太鼓門にある玄蕃石
復元された黒門

城の建物には、秀吉の特別な許可により、金箔を貼った屋根瓦が使われました。この許可は、秀吉の親族か、信頼のある重臣にのみに与えられました。その重臣たちの城にも金箔瓦が使われていて、小諸城上田城甲府城沼田城駿府城など家康がいた関東地方周辺に配置されました。松本城を含むこれらの城は、家康包囲網を形成し、家康を監視し、且つ脅威を与えていました。康長は、秀吉の死後に家康が天下を取ったときも、家康に味方することで何とか生き残りました(金箔瓦は当然廃棄されました)。ところが、1613年に彼はついに家康によって改易されました。その理由ははっきりしないのですが、可能性として、家康は石川氏が彼の下を去ったことに報復したという面もあったでしょう。

家康包囲網の城

小諸城跡
上田城跡
甲府城跡
沼田城跡
駿府城跡

月見櫓建設により天守が完成

その後、小笠原氏が再度松本城に復帰するのですが、1617年にはまた明石城に転封となりました。城とその周辺地域は松本藩となりますが、江戸時代の間、いくつもの親藩や譜代大名によって引き継がれました。その間、城に関する重要な出来事がいくつかありました。その一つが松平直政(まつだいらなおまさ)が城を治めたときに起こりました。彼は、将軍の徳川家光が松本城に立ち寄るという計画を聞き(その後取りやめとなりますが)、1634年に新しく月見櫓を天守に付け加えました。それまでは天守は全く戦を想定して作られていました。しかし、月見櫓は完全に娯楽のために築かれたものです。これによって天守は、違った趣の建物が融合した、現在の姿になりました。

松平直政肖像画、月照寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
月見櫓(外観)
月見櫓(内部)
月見櫓(右側)を従えた松本城天守

二番目の出来事は、1727年の松本大火のときです。大火により、天守となりの本丸御殿は焼けてしまいましたが、天守そのものは幸運にも無事でした。人々は、中に祀られていた二十六夜神(にじゅうろくやしん)が天守を救ったのだと考えました。また城下町は、南北を貫く善光寺街道と東西を走る野麦街道が交差する場所として、大いに繁栄しました。城下町には多くの番所があり、もし敵が攻めてきたときには容易に城に近づけないようになっていました。

本丸御殿跡
現在も天守に祀られている二十六夜神
上記模型の松本城城下町
上記模型の番所部分

「松本城その2」に続きます。

81.松山城 その2

天守までの長い道のり

その後

明治維新後、山麓にあった建物は撤去されたり失火により焼失しました。そして日本陸軍が二の丸と三の丸を含むエリアを使用しました。第二次世界大戦後は、市民会館、NHK放送局、博物館、図書館、病院、学校、球場などの公共施設として使われました。二の丸は、そこにあった病院と学校が他所に移設された後、最終的には1992年に二の丸史跡庭園として整備されました。外側から見ると、修復された石垣と復元された城壁により、まるでオリジナルの御殿のように見えます(城壁の内側は名称の通り御殿ではなく庭園となっています)。三の丸は、広大な広場を持つ公園として一般に公開されており、イベントなどが開催されています。球場などが移設された後は、城の歴史を突き止めるための発掘作業も並行して進められています。

1970年代の城周辺の航空写真

復元された二の丸の外周部分
庭園となっている二の丸内部
三の丸の球場跡地
広場になっている三の丸

一方、天守を含む山上の多くの建物が残っていました。1933年初めの時点では、44棟もの現存建物がありました。ところが同じ年に放火により35棟に減り、1945年の空襲により24棟に減り、1949年にはまたも放火により21棟になりました。松山市は1950年にその21棟の現存建物を重要文化財に指定し、1958年には他の建物の復元を開始しました。これまで、31棟の建物が1992年までにオリジナルの工法で、ほとんどが木造で復元されています。つまり、山上にある建物の数は1933年時点よりも多くなっているのです。更には城山公園と呼ばれる城の全域は、1952年以来国の史跡に指定されています。

山上にある多くの現存または復元建物群

特徴、見どころ

黒門口から山上へ

現在、山の上の松山城を訪れるのには4つのルートから選べます。最も一般的なのは東雲(しののめ)口で、ロープウェイかリフトに乗って簡単に頂上付近までたどり着くことができます。しかし歴史ファンの方なら、城までの大手道であった黒門口から歩いていかれることをお勧めします。

山上への案内図、現地説明板より

このルートは三の丸の奥の方からスタートし、御殿があった二の丸の傍を通り過ぎます。このルート上には建物は残っていませんが、今でもすばらしい石垣に囲まれています。まず、黒門、栂門(つがもん)、槻門(けやきもん)という3つの門跡を通る間に5回曲がらなければなりません。それから更に、頂上に至るオリジナルの石段が残る曲がりくねった山道を登っていきます。

黒門口周辺の地図

スタート地点にある黒門跡
栂(つが)門跡
二の丸(右側)の脇を通り過ぎます
槻(けやき)門跡
頂上に向かう山道

大手門周辺の堅い守り

登っていくと頂上近くの大手門跡に着きます。また、そこでは本丸を囲むすばらしい高石垣も見えますし、たくさんのロープウェイかリフトに乗ってきたビジターが別の方向からやってきます。ここが東雲口ルートとの合流地点になっているのです。

本丸周辺の地図

大手門跡に到着
本丸の石垣

次に、天守が見える方に向かう道を進みますが、これは行き止まりで敵を欺くための罠であり、本丸に入るためには180度曲がっていかねばなりません(行き止まりの道の方は立入禁止になっています)。その次には現存する戸無門がありますが、戸がないのは敵を引き付けるためとも言われています。敵はきっとこの辺りで大いに困惑したことでしょう。

前方に天守が見えます
まっすぐ行くと行き止まりです
次に進むためには180度曲がります
戸無門

戸無門をくぐると、復元された筒井門が現れます。この門は単独に立っているように見えますが、実は現存する隠門(かくれもん)がとなりにあるのです。筒井門から攻め入る敵は、隠門から出てくる守備兵の反撃を受けてしまうでしょう。

筒井門
隠門
後ろから見た筒井門(右)と隠門(左)

本丸からの素晴らしい眺め

そして、復元された太鼓門を通れば、ついに本丸に到着します。本丸の中心部は広場のようにも見えますが、周辺には復元された井戸、巽(たつみ)櫓、馬具櫓などがあります。それに、ここは間違いなく天守や、松山市街地・瀬戸内海など周辺地域を眺めるビュースポットです。

太鼓門
井戸
本丸内部
天守の姿
本丸から見た松山市街地

「松山城その3」に続きます。
「松山城その1」に戻ります。