178.能島城 その1

能島城は、瀬戸内海の芸予諸島のうち、宮窪瀬戸と呼ばれる狭い海峡の真ん中に位置する能島にあった城です。この城は、芸予諸島で活躍した3つの村上水軍の一つ、能島村上氏によって築かれ使われていました。

立地と歴史

瀬戸内海航路の案内役、村上水軍

能島城は、瀬戸内海の芸予諸島のうち、宮窪瀬戸と呼ばれる狭い海峡の真ん中に位置する能島にあった城です。この城は、芸予諸島で活躍した3つの村上水軍の一つ、能島村上氏によって築かれ使われていました。近代以前において、沿岸航海は主要な交通手段の一つでした。瀬戸内海は、最も重要な航路の一つであり、畿内と西日本をつないでいました。しかし、芸予諸島には数多くの島があり、その間の狭い海峡により、海流は急速かつ複雑となっています。例えば来島海峡では、海流の向きとスピードは、主に月の引力により頻繁に変わります。ここを通る船は今でも海上交通センターの指示や信号に従って航行する必要があります。

城の位置

来島海峡

中世において瀬戸内海のような海を航行する際には、優秀な水夫や水先案内人が必要とされました。更には、当時は単独で航行すること自体が危険な行為になりかねませんでした。中央政権の警察力がまだ貧弱だったからです。それぞれの地方は、その地の領主か、場合によっては海賊ような者によって治められていたのです。また、当時の人たちは、他人の領地を通り過ぎる時には通行料を払うべきという感覚も持っていました。村上水軍もその地方領主の一部であったのですが、瀬戸内海を航行する船の安全を保証する存在として台頭しました。彼らについての最も早い記録として、1349年に能島村上氏が弓削島周辺の警備を行ったというものがあります。彼らの警備システムは次のようなものでした。警護料(基本的には積荷の10%だったと言われています)を支払った船に対しては安全な航路を案内する一方、支払わない船に対しては小早船(こばやぶね)と呼ばれる高速艇で追いかけ、海賊行為を働くというものでした。

復元された小早船、今治市村上海賊ミュージアムにて展示

能島村上氏の本拠地として築城

村上水軍はやがて、3つの氏族に分かれていきました。因島村上氏、能島村上氏、来島村上氏です。彼らの勢力圏はそれぞれ、芸予諸島の北側、中間、南側に当たりました。能島は宮窪瀬戸にある小さな島で、北方の鵜島、南方の大島に挟まれた場所にありました。宮窪瀬戸は、瀬戸内海を通る最も最短のルートの一つの途中にあったのです。ところが、その地点の海流のスピードは最大で10ノットに及び、絶えず変化しています。また、能島周辺の海は浅瀬で渦を巻いていて、不慣れな船は制御不能に陥ってしまいます。水軍のメンバーにとっては能島は、彼らが普段暮らしていた大島から約300m沖合にあって、大声で連絡が取りあえる範囲内でした。緊急事態が発生したときにも、お互いに助け合う態勢が取りやすくなっていたのです。能島の頂部からは海峡の全体を見渡すことができ、大島にある山の上で焚かれた烽火や、大島の山あいを超えて四国までも見通すことができました。能島村上氏の本拠地としてうってつけの場所だったのです。

能島周辺のジオラマ(能島部分に赤丸を付加)、今治市村上海賊ミュージアムにて展示
能島から見た対岸の大島、大声が届くかどうか
大島にある「幸賀屋敷」と呼ばれる能島村上氏が住んでいた場所

能島城は、14世紀から16世紀の間に存在していました。島は整地され、その上にはいくつもの曲輪や建物が築かれました。水軍の兵士はそこに住むか、あるいは駐屯していて、海峡を防御していただけでなく、交易や漁業にも従事していました。城を防衛する仕組みは少なく、島の側面に人工的に切岸が設けられた程度でした。島を囲む海そのものが障壁となっていたからです。代わりに、島の海岸には船着き場、荷上場、メンテナンス場などが設けられました。一方で、島には水、食料、その他必要な資材は一切なかったため、他の島から運び込む必要がありました。

能島城の想像図、今治市村上海賊ミュージアムにて展示

「日本最大の海賊」となる

村上水軍はまた、他の戦国大名を支援して戦いに参加することもありました。能島村上氏の場合は、近くの中国地方で最大の戦国大名であった毛利氏の支族、小早川氏と友好関係を築いていました。シビアな戦国時代を生き残るためには、強力な村上水軍の力が必要とされたのです。大友氏などの他の戦国大名も、能島村上氏に味方になるよう働きかけました。そして能島村上氏が一時、大友氏側に乗り換えたことがあったのですが、小早川氏は自身の水軍によって能島城を攻撃、包囲して、城への補給を断つ作戦に出ました。そのことで能島村上氏は、小早川氏側に再び戻ってきたという事件もありました。

当時の小早川氏の当主、小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

能島村上氏の力は16世紀後半、村上武吉(むらかみたけよし)が当主のときにピークに達しました。彼の水軍が参加した中で最も有名な戦いといえば、1576年に毛利氏と織田氏との間で起きた第一次木津川口の戦いでしょう。この戦いでは、武吉の水軍(武吉の弟によって率いられていました)も加わった毛利水軍が、石山本願寺(現在の大坂城)に兵糧を運び込もうとしますが、織田水軍に妨害されていました。村上水軍は、焙烙(ほうろく)と呼ばれた爆弾を織田軍の船に投げ入れ、爆発させ沈めたのです。水軍による補給作戦は成功しました。1586年、ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスは瀬戸内海を航行中に能島城に立ち寄りました。フロイスは著書「日本史」の中で「彼らは日本最大の海賊である」と述べています。フロイス一行は過所船旗(かしょせんき)と呼ばれる通行許可証をもらい受け、それによって広範囲の安全な航海を保証されたのです。

第一次木津川口の戦いの想像図、今治市村上海賊ミュージアムにて展示
ルイスフロイス来訪時の想像図、今治市村上海賊ミュージアムにて展示
現存する過所船旗の一つ、山口県文書館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

水軍と城の突然の終焉

3つの村上水軍家は、基本的にはお互いに協調していましたが、やがて違う道を歩むことになります。来島村上氏は、後に天下人となる羽柴秀吉の勧誘により、織田氏側に付きました。これにより、武吉は来島村上氏の領土を占領しました。ところが、これが彼にとっての不幸につながります。やがて秀吉による天下統一が進んでいくと、武吉は秀吉から来島村上氏への領土返還を要求されました。武吉は村上一族の独立維持ということを願っていたようなのですが、それも叶わなくなります。能島村上氏のその時の主君であった小早川氏が秀吉によって九州地方に転封となったとき、武吉も能島城を含む、全て領地から離れなければならなくなったのです。

大島から見た能島城跡

「能島城その2」に続きます。

173.新高山城 その1

新高山城が築かれた新高山は沼田川の西岸にありますが、その対岸にはもう一つの山、高山があります。この地方の領主、小早川氏は最初は新高山ではなく、高山に城を築きました。戦国時代に跡を継いだ小早川隆景が、一族の本拠地を新高山に移したのです。

立地と歴史

小早川氏が最初は高山に築城

新高山(にいたかやま)城は、現在の広島県三原市の新高山に、有力な戦国大名、小早川隆景によって築かれ、使われた城です。新高山(標高198m)は沼田川の西岸にありますが、その対岸にはもう一つの山、高山(標高190m)があります。この2つの山は、川を挟んで良いコントラストをかもしていて、度々別名として、新高山は雄高山(おすたかやま)と、高山の方は雌高山(めすたかやま)と呼ばれています。なぜ新高山の方が「雄(おす)」なのかは、「雌(めす)」と呼ばれる方より険しい地形をしているからのようです。実は、隆景の先代までの小早川氏は、最初は新高山ではなく、高山に城を築きました。隆景は、一族の本拠地をある理由で新高山に移したのです。

三原市の範囲と城の位置

城周辺の起伏地図

小早川氏はもともと、13世紀に鎌倉幕府に仕えていたときに、関東地方からこの地にやってきました。幕府は小早川氏の貢献に対して、平家を打倒したときには沼田荘を、承久の乱の後には竹原荘を恩賞として与えました。小早川氏は時が経つうちに、沼田小早川氏と竹原小早川氏の2系統に分かれていきました。高山城は、沼田小早川氏によって彼らの本拠地として、高山に築かれました。しかしいつ築かれたかはっきりとはわかっていません。2つの小早川氏は時には対立することもありましたが、総じて協力し、勢力拡大を図りました。その結果、芸予諸島で活動していた武士たちの力を取り込み、彼らは小早川水軍と呼ばれるようになりました。椋梨(むくなし)氏といった小早川氏の支族は、一族の中で重臣となり、当主を支えていました。

小早川氏の家紋、左三つ巴  (licensed by BraneJ via Wikimedia Commons)

竹原小早川氏の本拠地、木村城の位置

ところが、多くの戦が起こった戦国時代の16世紀になると、小早川氏を取り巻く状況は悪化しました。小早川氏がいた安芸国(広島県西部)は、約30もの小早川氏のような小領主たちによって分割されていました。そのため、西からは大内氏、北からは尼子氏のような有力な戦国大名によって狙われることになったのです。例えば、高山城は1539年に一時大内氏によって占拠され、1543年には尼子氏によって攻撃されたりしました。それに加えて、両小早川氏の当主は相次いで若死にするということが起こり、一族にとって危機となりました。

当時の大内氏当主、大内義隆肖像画、龍福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
当時の尼子氏当主、尼子晴久肖像画、山口県山口博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

毛利氏から来た小早川隆景が新高山城を築城

その折、後に中国地方一の大大名となる毛利元就が、救世主として現れました(ある人たちにとっては乗っ取り屋とも言えますが)。元就もまた安芸国の小領主の一人でしたが、やがて領主たちのリーダーとなったのです。1543年、元就は、跡継ぎのいなくなった竹原小早川氏の養子として、息子の隆景を送り込みました。また、沼田小早川氏の重臣たちと謀り、隆景を沼田小早川氏をも継がせようとしたのです。1552年、幼く盲目だった当時の当主を追放し、乗っ取りを実行しました。その結果、隆景は両小早川氏を統一することになりました。この統合後、隆景が最初に行ったことは、高山城を離れ、近くに新高山城を築くことでした。

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

隆景がこのようなことをした理由は以下のように考えられています。まず、城を移転することは人心一新につながります。またこのことにより、配下の武士たちが城周辺に集住することになり、隆景を中心とした新たなヒエラルキーが形成されました。次に、新高山城が築かれた山は、高山城があった山よりも険しい岩山であり、防御面で有利であったことが挙げられます(そのため、これらの山が「雄」「雌」として対比されていたのでしょう)。最後に、山麓部分が川岸に接していたので、沼田川から瀬戸内海に通じる水上交通を利用するのに便利であったということもあったでしょう。

沼田川から見た新高山(雄高山、左側)と高山(雌高山、右側)

城だけでなく、文化センターとしても機能

小早川氏の記録によれば、1561年に元就が新高山城に10日間滞在しました。1560年に元就が陸奥国守護に就任したことを祝すため、隆景が招待したのです。彼らはその滞在の間、配下の武士、家族、従者を含めた儀式や宴会を開催しました。その記録には、山の中腹にはゲストをもてなす「会所」と呼ばれる建物があったと書かれています。彼らは、座敷から能を観劇し、庭では蹴鞠を楽しみました。歴史家は、そこには「主殿」と呼ばれる公式行事が行われる建物や、「清所」と呼ばれる台所もあったと推測しています。当時は通常これらの建物がセットになっていたからです。元就と隆景はまた、山頂部分あった別亭での連歌の会に参加しました。隆景は更に、太平記の講読会や、茶会を開催したりしました。この城には、私設図書館や茶室もあったということになります。総括すると、この場所は、戦いのための城だっただけではなく、周辺地域の文化センターの役割も果たしていたということになります。

会所があったと思われる新高山中腹(匡真寺跡)

隆景は、偉大な父親の子息だっただけではなく、自身も優れた戦国大名でした。元就の死後、隆景は実家の毛利氏を支え続け、豊臣秀吉による天下統一の時代を乗り切りました。秀吉は、天下統一と中国朝鮮への侵攻計画を果たすため、隆景と小早川水軍を頼りました。隆景はついに、独立した大大名となり、更には秀吉政権の下、五大老の一人ともなりました。その一方で、沼田川の河口に水軍基地として三原城を築城しました。この城は時の経過とともに拡張され、隆景が引退した1596年には本城となりました。その陰で、新高山城は廃城となってしまいます。新高山城の石垣などの廃材は、三原城に運ばれ再利用されました。

三原城跡
現在の新高山

「新高山城その2」に続きます。

70.岡山城~Okayama Castle

この都市は城と一緒に発展してきました。
The city has developed with the castle.

立地と歴史~Location and History

岡山市の起源~The origin of Okayama City

岡山市は中国地方の岡山県の県都です。この市は岡山城を基盤に発展してきました。この城は現在、日本有数の庭園である後楽園と共に旭川に沿った観光地として知られています。しかし実際には多くの市街地がこの城の一部分から派生しているのです。
Okayama City is the capital of Okayama prefecture, Chugoku Region. The city has been developing based around Okayama Castle. The castle is now known for as a tourist spot alongside Asahigawa River with Korakuen, one of the most famous gardens in Japan. Actually, a lot of the city area comes from the part of the castle.

城の位置~The location of the castle

旭川沿いの岡山城(右)と後楽園(左)~Okayama Castle (on the right) and Korakuen Garden (on the left) alongside Asahigawa River

戦国時代、宇喜多氏が最初に旭川のデルタ地帯にあった丘の一つ、石山に城を築きました。宇喜多秀家は石山の東にあったもう一つの丘に城を拡張しました。この丘は岡山と呼ばれており、岡山城と、岡山市という名前両方の起源だったのです。
In the “Sengoku” or Warring States Period, the Ukita clan first built a castle on one of the hills called Ishiyama on the delta of Asahigawa River. Hideie Ukita expanded the castle into another hill in the east of Ishiyama. The hill was called Okayama, the origin of Okayama Castle and the name of the city.

現在の石山の地点~The present spot of “Ishiyama”
石山から見た城の中心部~The center of the castle from Ishiyama

古い形式の天守~Old type Main Tower

秀家は天下人の豊臣秀吉に気に入られ、五大老の一人になり、大きな天守の建造を許されました。この天守は第二次世界大戦まで残っており、五階建てで、古い型である「望楼型」と呼ばれるものでした。入母屋造りの屋根を持った大きな櫓の上に、小さな望楼がありました。その石垣の基礎とその上の一階は、丘の形に沿って建造されました。これらは最も初期の天守の形式を残していると言われ、日本最初の本格的天守を持った安土城とも比較できるものです。
Hideie who was trusted by the ruler, Hideyoshi Toyotomi, became one of the five chief ministers, and was allowed to build a large Main Tower or “Tenshu”. The Tenshu remained until World War II. It was a five story building in an old style called “boro-gata” or look-out tower style. It had a small look-out tower on a large scale turret with hip-and-gable roofs. Its base stone walls and the first story above were constructed along the shape of the hill. They are said to remain the very first Tenshu style compared with that of Azuchi Castle, the first typical Tenshu in Japan.

宇喜多秀家肖像画、岡山城蔵~The Portrait of Hideie Ukita, owned by Okayama Castle (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
第二次世界大戦前の岡山城の古写真~An old photo of Okayama Castle before World War II(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

岡山城の完成~Completion of Okayama Castle

この城の城主は、秀家が1600年の関ヶ原の戦いで敗れた後変わります。江戸時代には、小早川氏、そして池田氏が城と城下町の拡張を続けました。旭川は、自然の障壁として城のデルタ地帯の北から南東へ流れています。結果として城は西の方角へ広がりました。水堀はその方角に向かって五重にも掘られました。
The lords of the castle were changed after Hideie was defeated in the battle of Sekigahara in 1600. The Kobayakawa clan, then the Ikeda clan continued to improv the castle and the castle town in the Edo Period. Asahigawa River flows along the delta of the castle from the north to the southeast being a natural hazard. As a result the castle was expanded into the west direction. They made water moats quintupled towards the direction.

備前国岡山城絵図部分、江戸時代~Part of the illustration of Okayama Castle in Bizen Province, in the Edo Period(出典:国立公文書館)

城を守るため、多くの門や櫓も建てられました。1700年、後楽園が川向かいの城とは反対側に作られました。その頃には既に平和な時代になっていたのです。
They also built many turrets and gates to protect the castle. In 1700, Korakuen garden was made in the opposite of the castle across the river. It shows it had already been in peace at that time.

後楽園の風景~A view of Korakuen Garden(taken by grandstream from photoAC)

特徴~Features

街中の遺跡~Ruins in City Area

城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle

現在、岡山城の中心部である本丸は、烏城(カラスの城という意味)公園として整備されています。この名前は天守が黒く塗られていたことによります。公園は岡山駅から2kmのところにあります。城はかつてはその中間辺りまで広がっていました。そのため、公園の外にもいくつか城の遺跡があります。例えば、以前は西の丸で現在の市街地に残っている西手櫓です。この櫓は重要文化財に指定されています。でもビルに囲まれてさみしそうに見えます。
Now, the center of Okayama Castle, Honmaru enclosure has been developed as Ujo Park (Ujo means Crow Castle). The name comes from the Tenshu being painted black. The park is about 2 km from Okayama Station. The castle once spread to half of the way in the past, so there are some ruins of the castle outside the park. For example, Nishite Turret on the former Nishinomaru enclosure remains in the city area. It is designated as an Important Cultural
Property, but it looks lonely among modern buildings.

西手櫓 ~Nishite Turret

石山曲輪跡は公園の近くにあります。ここは城の最初の中心地でした。現在は駐車場として使われています。曲輪を覆う石垣は江戸時代に作られたようです。
The ruins of Ishiyama enclosure is near the park. It was the first center of the castle, and is now used as a parking lot. The stone walls covering the enclosure seem to be built in the Edo Period.

石山曲輪~Ishiyama enclosure

本丸の遺跡~Ruins in Honmaru

本丸周辺の航空写真~The aerial photo of around Honmaru

以前の本丸であった公園には二つの入口があります。その一つは内堀の上の目安橋を渡っていくルートです。これは本丸に至る大手道でした。もう一つは川沿いにある廊下門を通るもので、本丸の裏門に当たります。ここからは川にたたずむ城の姿が望めます。
The park, the former Honmaru, has two entrances. One of them is the route crossing Meyasu-bashi Bridge over the inner moat. It was the Main Route or “Ote-Michi” to Honmaru. The other is going through Roka-mon Gate beside the river, the back gate of Honmaru. You can have a good view of the castle with the river.

目安橋~Meyasu-bashi Bridge
廊下門~Roka-mon Gate

本丸は三段に分かれています。低い段は「下の段」と呼ばれ、門の周辺を指します。真ん中の段は「表向」と呼ばれ、居住や統治のための御殿がありました。ここには重要文化財である月見櫓が残っています。この櫓は、本末の外側からも素晴らしい石垣とともに鑑賞できます。上の段は、「本段」と呼ばれ、最も古い箇所です。不明門がその入り口にあります。ここには創建以来の天守と、藩主の御殿がありました。
Honmaru has three levels of the ground. The lower level called Genodan is the area around the gates. The middle level called Omotemuki is where the hall for official residence and governance was. Tsukimi Turret remains there as an Important Cultural Property. It can also be seen with excellent stone walls from outside Honnmaru. The upper level called Hondan is the oldest part. Akazuno-mon Gate is its entrance. It had the original Tenshu and the main hall for a lord.

下の段~The lower level
表向~The middle level
月見櫓(内側)~Tsukimi Turret(inside)
月見櫓(外側)~Tsukimi Turret(outside)
不明門~Akazuno-mon Gate
本段~The upper level

現在の天守は、外観復元され、博物館として使われています。本段を囲む石垣は元々秀家により築かれました。とても古風に見えます。
The present Tenshu has been apparently restored and used as a museum. The stone walls surrounding Hondan were originally built by Hideie. They look very old.

外観復元された天守~The apparently restored Tenshu
本段を囲む石垣~The stone walls surrounding the upper level

その後~Later History

明治維新後、岡山城は廃城となり、ほとんどの建物は撤去されました。本丸であった場所は学校の敷地として使われました。他の場所は市街地に変わっていき、堀は埋められました。元からあった天守は国宝として残りました。しかしながら、残念なことに1945年の岡山空襲で焼け落ちてしまいました。第二次世界大戦後、本丸は烏城公園として整備されました。1966年に天守は外観復元されまます。廊下門と不明門の2つの門も同時に外観復元されました。
After the Meiji Restoration, Okayama Castle was abandoned and almost all of its buildings were demolished. The Honmaru area was used as the ground for a school. The other areas of the castle were turned into the city area with their water moats being filled. The original Tenshu remained as a National Treasure. However, it was unfortunately burned down by the Okayama Air Raid in 1945. After World War II, the Honmaru area was been developed as Ujo Park. Tenshu was apparently restored in 1966. The two gates, Roka-mon and Akazuno-mon , were also restored apparently at the same time.

岡山城の鯱~A golden grampus of Okayama Castle

私の感想~My Impression

今は烏城公園と名付けられた岡山城に是非行っていただきたいです。後楽園と一緒に見学すればとてもよい思い出になります。願わくば、元の天守を見て、中に入ってみたかったです。あと、岡山市にはもっと市民に、岡山城が市の起源であることを知らせてもらいたいです。例えば、現存して街中に残る西手櫓はもっと知られるべきと思います。
Okayama Castle which is now named Ujo Park is a good place to visit. You can have great views and experience together with Korakuen Garden. I wish I could see and enter the original Tenshu. I also hope that officials will let people know the castle is the origin of Okayama City. For example, the remaining Nishite Turret among the city area should be known more to people.

西手櫓 ~Nishite Turret

ここに行くには~How to get There

車で行く場合:山陽自動車道の岡山ICから約20分かかります。公園に駐車場があります。
岡山駅から行く場合:駅の東口の岡山駅前電停から路面電車に乗って、城下電停で降りてください。岡山駅から歩いた場合、約20~30分かかります。
If you want to go there by car: It takes about 20 minutes from the Okayama IC on the Sanyo Expressway. The park offers a parking lot.
From Okayama Station: Take the tram from the Okayama-ekimae stop in front of the east exit of the station, and get off at the Joka stop. Or It takes about 20 to 30 minutes on foot from the station.

リンク、参考情報~Links and References

岡山城-川面に映える漆黒の城Okayama Castle
岡山城-川面に映える金烏城(Okayama City Museum)
・「よみがえる日本の城5」学研(Japanese Book)