53.二条城 その2

東大手門は、現在のビジターにとって、唯一の出入口になります。立派で厳重そうに見える門ですが、入ってみると内部は、脇に番所はあるものの、開放的なスペースになっています。これは、この門が正門で、儀礼的な行事があったときに使われたことと関係がありそうです。。

その後

二条城は、明治時代になってからは、皇室の離宮として使われました。大正天皇の即位礼の饗宴の場にもなりました。1939年(昭和14)年からは史跡になり、城の東大手門の前には「史跡 旧二条離宮」という標柱が建てられました。こういった経緯から史跡の正式名称は「元離宮二条城」となっています。1994年(平成6年)からは、「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されています。

大正天皇即位饗宴を描いた絵画(licensed by Ninijo via Wikimedia Commons)
史跡の標柱が前に立っている東大手門

特徴、見どころ

華やかな二条城二の丸

東大手門は、現在のビジターにとって、唯一の出入口になります。立派で厳重そうに見える門ですが、入ってみると内部は、脇に番所はあるものの、開放的なスペースになっています。これは、この門が正門で、儀礼的な行事があったときに使われたことと関係がありそうです。。

二条城の航空写真、東大手門は右下(Google Mapを利用)
東大手門の内側、正面に見えるのは番所

角を曲がって、二の丸御殿の正門「唐門」に向かいます。切妻造り・檜皮葺きで、唐破風の四脚門という、高い格式の造りなのですが、とにかく金色の装飾が目立っていて、外国人観光客にも大変な人気です。

唐門

東大手門から、唐門を通って、二の丸御殿に至るというのが、昔も正規ルートだったようです。二の丸御殿は、寛永行幸のときに改修されたものが、豪華な障壁画とともに残っていて、国宝に指定されています。

二の丸御殿

残念ながら内部は撮影できませんので、外観から御殿について、説明します。御殿は6つの建物から構成されていて、正面の「遠侍(とおざむらい)」は最大のものです。玄関(車寄)と待合室として使われましたが、裏側には「勅使の間」と呼ばれる天皇からの使者専用の部屋もありました。次の建物は「式台」で、将軍への用件や、献上物を取り次ぐ場所です。裏側は取次役の老中の控室になっています。

二の丸御殿の航空写真(Google Mapを利用)
式台

次が、将軍と公式に対面する場である「大広間」です。大政奉還が諸藩に伝えられた場所であり、ここまでが江戸城などで言えば「表」に当たります。4番目の「蘇鉄(そてつ)の間」は「表」と「奥」をつなぐ建物です。名前の由来は、佐賀藩から送られたソテツが外に植えられたことによるそうです。そのソテツは今でも庭園に残っています。

左側が蘇鉄の間、右側が大広間、ソテツの木も手前に見えます

続いては黒書院で、将軍の御座所や、内輪の人たちとの対面の場所として使われました。有名な大政奉還を描いた絵は、この建物での場面です。

黒書院
「大政奉還図」、邨田丹陵作、聖徳記念絵画館蔵、黒書院での場面を描いています (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最後が、一番奥の白書院(はくしょいん)で、将軍の私的な場として使われました。

白書院

意外と城らしい?二条城本丸

本丸は、二の丸よりもお城らしいかもしれません。内堀にかかる橋を渡って、本丸に行ってみましょう。かつてここは二階建ての廊下橋でした。廊下部分は解体されましたが、その部材は保管されているそうです。橋を渡ったところには、本丸櫓門が残っています。

かつては二階建ての廊下橋でした


門の内側はしっかり石垣に囲まれていて、二の丸より厳重そうに見えます。「桝形」という構造です。

本丸櫓門内側の枡形構造

本丸の中に入っていくと、優雅な感じに戻ります。皇室の離宮になってから庭園として整備されたからでしょう。現在ある本丸御殿も、明治時代に桂宮家の御殿が移築されたものです。大正天皇が、皇太子時代によく滞在していました。

現在の本丸御殿

かつて天皇が登った天守があった、天守台に登ってみることもできます。有識者会議で、天守の復元案も提案されているそうです。

天守台外観

本丸からは、櫓門とは反対側の西虎口経由で外に出ます。建物は残っていませんが、ここも四角いスペースに区切られていて、守りが固そうです。

本丸西虎口

本丸の周りにも、守りを固める仕組みが残っています。例えば、本丸に入ったときの櫓門と橋の前の通路は、鳴子門と桃山門という2つの門に挟まれています。

鳴子門
桃山門

それから、本丸の周りの北側には北中仕切門が、南側には南中仕切門があります。これらは、敵を防ぐためや、普段の警備のために設けられました。

北中仕切門
南中仕切門

更には地味ですが、本丸の外、西側に土蔵が2つ残っています(城全体では3つ)。米蔵として使っていたそうで、かつては10棟ありました。籠城の備えもできていたのです。

土蔵(北側)
土蔵(南側)

天守台の外側、西南隅櫓の内側では、季節の花も見ることができます。

私が行ったときは、アジサイが見頃でした

二条城の周りを歩こう!

普通の観光は城内だけかもしれませんが、当記事はまだ続きます。一周約1.9キロメートルの二条城の外周を歩いてみましょう。

二条城東側は観光客で混雑しています

北側を歩いていくと、北大手門が見えてきます。正門の東大手門に次ぐ格式のある門で、向かいにあった幕府の役所、京都所司代との連絡に使われたと考えられています。城の創健当初からそのままか、寛永行幸のときに建て直されたのか、わかっていないそうです。

北大手門

しばらく進むと、城の東側と西側の四角形の継なぎ目が見えてきます。

城の東と西の継なぎ目

一部ですが、お堀端に散策路があって、堀や石垣を見ながら歩くことができます。

散策路から見える石垣と堀

城の西側に入ると、西門跡があります。ここは城の通用口で、通常はここが出入口でした。儀礼用の東と北の大手門とちがって、間口は狭く、内側は枡形となっています。普段使うところなので、防御も考えられていたのです。残念ながら、城の中からも近づけないようになっています。ちなみに、徳川慶喜はこの門から退去したそうです。

西門跡

最後のコーナーには、現存する西南隅櫓があります。同じく現存する東南隅櫓周辺とは、対照的な静けさです。

西南隅櫓

東側の堀からは、外に水が流れ出ています。実はこの場所は、二条城の前は、古代からの湧水池「神泉苑」の一部だったのです。現在ある神泉苑は、築城に伴い、縮小されたものです。現在もお堀の水は、この湧水と、ポンプ汲み上げによる地下水を使っているそうです。この城は京都の自然の恵みも取り込んでいたのです。

かつての神泉苑跡を示す石碑
堀水が流れ出ています

旧二条城たちの史跡はどこに?

ここからは旧二条城たちの史跡に行ってみましょう。しかし城跡はほとんど残っておらず、基本的には、それぞれの二条城があった場所に石碑があるだけです。

各二条城の推定位置、義輝二条城(赤枠内)、義昭二条城(青枠内)、信長二条城(緑枠内)、秀吉の妙顕寺城(茶枠内)、(Google Mapを利用)
足利義輝邸(義輝二条城)跡
旧二条城(義昭二条城)跡、京都市ホームページから引用
二条殿(信長二条城)跡
妙顕寺城跡、京都市ホームページから引用

ただし、これまでも「旧二条城」と呼ばれてきた義昭二条城については、地下鉄工事のときに発掘された石垣の一部が、京都御苑の椹木口(さわらぎぐち)から入ったところと、現・二条城の西側に、復元展示されています。

京都御苑にある旧二条城(義昭二条城)復元石垣
現・二条城内にある旧二条城(義昭二条城)復元石垣 (licensed by Tomomarusan via Wikimedia Commons)

紹介したい義昭二条城の史跡は他にもあります。この城の石垣を、織田信長が築いたとき、石材として、石仏までも調達しました。その石仏たちの一部も発掘されて、二条城から西に10kmほど行った「洛西竹林公園」で展示されているのです。

洛西竹林公園に展示されている石仏たち

当時日本に来ていた宣教師のルイス・フロイスは「信長は調達した石仏の首に縄をつけて工事現場まで引かせた、仏像を進行していた京都の住民たちはそれを見て大変恐怖した」と著書に書いています。実際、石仏たちの多くは、当時よく信仰されていた阿弥陀仏で、意図的に破壊された跡も見られるそうです。

意図的に破壊されたと思われる石仏

現代の日本人であっても、こうして安置されているのを見ると、安心します。

私の感想

それぞれの二条城の歴史を追ってみると、意外に落城したり、城主が退去したりしたケースが多かったことがわかります。やはり、京都は攻めやすく、守りにくいということなのでしょうか。それでも、京都にはずっと居たくなるような魅力があるのでしょう。こうして現在の二条城に至っているわけで、改めて二条城は一城にしてならず、天下は一日にしてならずと思いました。

二条城二の丸の庭園(左)と黒書院(右)

リンク・参考情報

世界遺産 元離宮二条城(オフィシャルサイト)
・「よみがえる日本の城19」学研
・「歴史群像名城シリーズ11 二条城」学研
・「二条城を極める/加藤理文著」サンライズ出版」
・「歴史群像185号、戦国の城 山城旧二条城」学研
・「天下人と二人の将軍/黒嶋敏著」平凡社
・「研究紀要 元離宮二条城 第三号」京都市 元離宮二条城事務所
・「洛西竹林公園石仏調査レポート」丸川義広氏論文
城びと~「最後の将軍」徳川慶喜と幕末三名城 第1回【慶喜と二条城】
気ままに江戸♪~有名な「大政奉還」の絵はどこを描いたか

これで終わります。ありがとうございました。
「二条城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

194.佐伯城 その2

この城の石垣はそんなに高くはありませんが、山の形に合わせて積んでいるのでとても美しく見えます。

特徴、見どころ

4つの登山道

現在、佐伯城跡は佐伯市によってよく整備されています。城跡は、頂に素晴らしい石垣を残す山上部分と、御殿の門が残り歴史博物館もある山麓部分から構成されています。どちらから先に行くのかはその人次第ですが、ここではまず山上部分から行ってみることにしましょう。山頂へ至る登山道は4つあり、そのうちの3つは現存する門の近くの山の正面からスタートします。その3つとは、「独歩碑の道(郷土出身の小説家国木田独歩の記念碑が到着地点にあるための命名と思われます)」「翠明の道」「登城の道」です。「独歩碑の道」が一番なだらかで、山頂にある神社への参道として舗装もされています。「翠明の道」は、自然の山道といった感じで峰上を進みます。最後の「登城の道」が実はおすすめです。この道は急で、道の状態も不安定ですが、オリジナルの状態に近いと思われるからです。

城周辺の地図

独歩碑の道
独歩碑の道はゆるやかで舗装されています
翠明の道
翠明の道は峰上を進みます
登城の道

この「登城の道」は山の峰の間の谷間をジグザグに進んでいきます。谷沿いにはいくつも水流が流れていたり、倒木や崩れた石が転がっているので足元に気を付けて下さい。これらの石は、道沿いにあった石垣や石積みから崩れてきたように思われます。途中でまだ残っているものを目にするからです。

谷沿いに転がっている石
ジグザグに進む登城の道
道沿いに残る石垣

山上のすばらしい石垣

15分から20分登れば、今でもすばらしい石垣に覆われている山上部分に到着します。ここの石垣はそんなに高くはありませんが、山の自然に地形に沿って山上を全体的に覆っています。多段になっている箇所もあります。例えば熊本城などの他の城で見られるような高石垣ではありませんが、山の形に合わせて積んでいるのでとても美しく見えます。また、石の一部は白い色をしているので、これは石灰岩を使っているようです。つまり、設計段階から城を外観をよく見せようとしたものと思われます。

山上部分に到着
自然の地形に沿って築かれた石垣
白い石が使われている本丸の石垣

本丸への唯一の通路

登山道の終着点から進んでいくと左側の方に、本丸と二の丸をつなぐ廊下橋と呼ばれる石橋が見えてきます。実はこの橋は、かつては唯一の本丸への通路でした。そのため全ての登城者はまず二の丸に入ってからこの橋を渡り、狭い本丸の入口を通りました。戦いが起こったときには、この橋は落とされるか、使えないようになっていたかもしれません。

城の山上部分

廊下橋と二の丸入口が見えます
廊下橋
二の丸入口から入ります
廊下橋を渡って本丸へ
本丸から見た廊下橋

本丸の天守台には小さな祠があります。以前は毛利神社の大きな建物があったのですが、不幸にも第二次世界大戦のときの空襲で焼けてしまいました。現在本丸の出入りには、神社が創建したときに作られた、オリジナルの入口の反対側にある、新しい石段を使うこともできます。

本丸の石垣
天守台にある祠
かつて天守台にあった毛利神社の写真、佐伯市歴史資料館にて展示
新しく作られた石段

本丸からこの階段を下りて、もう一つの登山道「独歩碑の道」の終点のところまで来ると、門(冠水門)の跡があります。この場所は佐伯市街地や佐伯湾を望む絶好のビュースポットです。

冠水門跡
門跡からの景色

「佐伯城その3」に続きます。
「佐伯城その1」に戻ります。

194.佐伯城 その1

関ヶ原の戦いの後、大名の多くは城を平地や低い丘陵に築きました。しかし毛利高政の選択は当時としてはとても珍しく、強力な城を山上に築くというものでした。

立地と歴史

毛利高政が築城

佐伯(さいき)市は、九州地方の大分県南東部に位置していて、農業、林業、漁業が盛んなことで知られています。特に佐伯港は県で最も多くの水揚高があります。この市は、毛利高政が最初に築いた佐伯城の城下町を発祥としています。彼はまた、城と町を含む佐伯藩の創始者でもあり、藩は17世紀から19世紀の江戸時代の間、ずっと継続しました。

佐伯市の範囲と城の位置

佐伯港

高政はもとは、現在の愛知県西部にあたる尾張国の出身で、後に天下人の豊臣秀吉となる羽柴秀吉に仕えていました。天下統一がなった後、1592年に秀吉により朝鮮侵攻に派遣され、武将として活躍します。秀吉はこの貢献に応え、1595年に高政に対して豊後国(現在の大分県)の日田(ひた)郡と玖珠(くす)郡を領地として与えました。以前の領主であった大友氏は秀吉により改易されていたので、その後釜になったのです。高政は、その領地にいる間、角牟礼(つのむれ)城などいつくかの城を改修しました。

毛利高政木造、佐伯市歴史資料館の説明板より
角牟礼城跡

1598年に秀吉が亡くなると、徳川家康率いる東軍と、豊臣家を支持する石田三成率いる西軍との間で1600年に天下分け目の関ヶ原の戦いが起こりました。高政は西軍に加わりますが、東軍が勝利します。彼は直ちに東軍に降伏しますが、他の西軍に加わった大名たちの行く末からすると高政も、家康が設立した徳川幕府によって改易や処刑といった処分を受けても不思議はありませんでした。しかし、豊後国の別の場所(佐伯)に転封となるだけで済んだのです。彼が生き残った理由としては、高政が懇意にしていた東軍の有力大名であった藤堂高虎が救いの手を差し伸べたことが考えられます。もう一つは恐らく、高政自身が優れた築城術と統治能力を乗っていたことも挙げられるでしょう。彼はまた、優れた銃術家でもありました。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
毛利高政が使ったとされる大鉄砲、佐伯市歴史資料館にて展示

関ヶ原後としては珍しい新規の山城

佐伯の地には既に、栂牟礼(とがむれ)城という優れた山城がありました。ところが、高政は1601年に新しい本拠地として新しい山城を築きました。それが佐伯城です。彼がわざわざ山城をもう一つ築いた理由としては、以下が考えられます。まず、新しい城は港や将来城下町となる場所に近く、当地のために便利だったからです。次に、この山城が築かれた山には、かつて八幡神社があり、そのため山自体も八幡山と呼ばれ、聖地とされていました。よってそこに城を築くことで、その権威を利用できたということです。それと、当時は徳川幕府と豊臣氏がまだ対立していて情勢が不安定であったことも挙げられます。日本の各大名たちは次なる戦いに備える必要がありました。大名の多くは城を平地や低い丘陵に築いていたのですが、高政の選択は当時としてはとても珍しく、強力な城を山上に築くというものでした。

栂牟礼城想像図、佐伯市歴史資料館にて展示
佐伯城の復元模型、佐伯市歴史資料館にて展示

佐伯城は1605年に完成しました。城を築いた山は標高145mで、山頂からは細長い峰が北と南西方向に伸びていました。その山頂と峰は総石垣で覆われていました。山頂部には本丸があり、天守が建っていました。二の丸は本丸のとなりにあり、廊下橋によりつながっていて、これが本丸への唯一の通路でした。二の丸には城主のための御殿がありました。この場所は決して広くありませんでしたが、城主もその家族も戦のような非常事態に備えるため、そこに住むことを余儀なくされたのです。城には峰の間の谷間に2つの貯水池があり、それぞれ雌池(めんいけ)と雄池(おんいけ)と呼ばれました。長い籠城戦を想定して作られ、ここもまた石垣に囲まれていました。

上記模型の本丸(右)と二の丸(左)部分、赤丸内が廊下橋
現在も石垣に囲まれている雄池

平和な時代となり山麓に御殿を建設

1615年に幕府が豊臣氏を倒した後は、状況は変わりました。幕府の統治は安定しました。これは、日本の大名たちがもう不便な山上の御殿に住まなくてもよいことを意味しました。佐伯藩の場合は、3代目の藩主、毛利高直が1637年に山麓に三の丸と新しい御殿を築いたのです。山頂の本丸にあった天守に関しては、三階建てであったとも言われますが、詳細についてはわかっていません。何らかの理由で城の初期の段階で残念ながら失われてしまったからです。

上記模型にも山麓に御殿があります
現在の佐伯城跡

「佐伯城その2」に続きます。