194.佐伯城 その2

この城の石垣はそんなに高くはありませんが、山の形に合わせて積んでいるのでとても美しく見えます。

特徴、見どころ

4つの登山道

現在、佐伯城跡は佐伯市によってよく整備されています。城跡は、頂に素晴らしい石垣を残す山上部分と、御殿の門が残り歴史博物館もある山麓部分から構成されています。どちらから先に行くのかはその人次第ですが、ここではまず山上部分から行ってみることにしましょう。山頂へ至る登山道は4つあり、そのうちの3つは現存する門の近くの山の正面からスタートします。その3つとは、「独歩碑の道(郷土出身の小説家国木田独歩の記念碑が到着地点にあるための命名と思われます)」「翠明の道」「登城の道」です。「独歩碑の道」が一番なだらかで、山頂にある神社への参道として舗装もされています。「翠明の道」は、自然の山道といった感じで峰上を進みます。最後の「登城の道」が実はおすすめです。この道は急で、道の状態も不安定ですが、オリジナルの状態に近いと思われるからです。

城周辺の地図

独歩碑の道
独歩碑の道はゆるやかで舗装されています
翠明の道
翠明の道は峰上を進みます
登城の道

この「登城の道」は山の峰の間の谷間をジグザグに進んでいきます。谷沿いにはいくつも水流が流れていたり、倒木や崩れた石が転がっているので足元に気を付けて下さい。これらの石は、道沿いにあった石垣や石積みから崩れてきたように思われます。途中でまだ残っているものを目にするからです。

谷沿いに転がっている石
ジグザグに進む登城の道
道沿いに残る石垣

山上のすばらしい石垣

15分から20分登れば、今でもすばらしい石垣に覆われている山上部分に到着します。ここの石垣はそんなに高くはありませんが、山の自然に地形に沿って山上を全体的に覆っています。多段になっている箇所もあります。例えば熊本城などの他の城で見られるような高石垣ではありませんが、山の形に合わせて積んでいるのでとても美しく見えます。また、石の一部は白い色をしているので、これは石灰岩を使っているようです。つまり、設計段階から城を外観をよく見せようとしたものと思われます。

山上部分に到着
自然の地形に沿って築かれた石垣
白い石が使われている本丸の石垣

本丸への唯一の通路

登山道の終着点から進んでいくと左側の方に、本丸と二の丸をつなぐ廊下橋と呼ばれる石橋が見えてきます。実はこの橋は、かつては唯一の本丸への通路でした。そのため全ての登城者はまず二の丸に入ってからこの橋を渡り、狭い本丸の入口を通りました。戦いが起こったときには、この橋は落とされるか、使えないようになっていたかもしれません。

城の山上部分

廊下橋と二の丸入口が見えます
廊下橋
二の丸入口から入ります
廊下橋を渡って本丸へ
本丸から見た廊下橋

本丸の天守台には小さな祠があります。以前は毛利神社の大きな建物があったのですが、不幸にも第二次世界大戦のときの空襲で焼けてしまいました。現在本丸の出入りには、神社が創建したときに作られた、オリジナルの入口の反対側にある、新しい石段を使うこともできます。

本丸の石垣
天守台にある祠
かつて天守台にあった毛利神社の写真、佐伯市歴史資料館にて展示
新しく作られた石段

本丸からこの階段を下りて、もう一つの登山道「独歩碑の道」の終点のところまで来ると、門(冠水門)の跡があります。この場所は佐伯市街地や佐伯湾を望む絶好のビュースポットです。

冠水門跡
門跡からの景色

「佐伯城その3」に続きます。
「佐伯城その1」に戻ります。

194.佐伯城 その1

関ヶ原の戦いの後、大名の多くは城を平地や低い丘陵に築きました。しかし毛利高政の選択は当時としてはとても珍しく、強力な城を山上に築くというものでした。

立地と歴史

毛利高政が築城

佐伯(さいき)市は、九州地方の大分県南東部に位置していて、農業、林業、漁業が盛んなことで知られています。特に佐伯港は県で最も多くの水揚高があります。この市は、毛利高政が最初に築いた佐伯城の城下町を発祥としています。彼はまた、城と町を含む佐伯藩の創始者でもあり、藩は17世紀から19世紀の江戸時代の間、ずっと継続しました。

佐伯市の範囲と城の位置

佐伯港

高政はもとは、現在の愛知県西部にあたる尾張国の出身で、後に天下人の豊臣秀吉となる羽柴秀吉に仕えていました。天下統一がなった後、1592年に秀吉により朝鮮侵攻に派遣され、武将として活躍します。秀吉はこの貢献に応え、1595年に高政に対して豊後国(現在の大分県)の日田(ひた)郡と玖珠(くす)郡を領地として与えました。以前の領主であった大友氏は秀吉により改易されていたので、その後釜になったのです。高政は、その領地にいる間、角牟礼(つのむれ)城などいつくかの城を改修しました。

毛利高政木造、佐伯市歴史資料館の説明板より
角牟礼城跡

1598年に秀吉が亡くなると、徳川家康率いる東軍と、豊臣家を支持する石田三成率いる西軍との間で1600年に天下分け目の関ヶ原の戦いが起こりました。高政は西軍に加わりますが、東軍が勝利します。彼は直ちに東軍に降伏しますが、他の西軍に加わった大名たちの行く末からすると高政も、家康が設立した徳川幕府によって改易や処刑といった処分を受けても不思議はありませんでした。しかし、豊後国の別の場所(佐伯)に転封となるだけで済んだのです。彼が生き残った理由としては、高政が懇意にしていた東軍の有力大名であった藤堂高虎が救いの手を差し伸べたことが考えられます。もう一つは恐らく、高政自身が優れた築城術と統治能力を乗っていたことも挙げられるでしょう。彼はまた、優れた銃術家でもありました。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
毛利高政が使ったとされる大鉄砲、佐伯市歴史資料館にて展示

関ヶ原後としては珍しい新規の山城

佐伯の地には既に、栂牟礼(とがむれ)城という優れた山城がありました。ところが、高政は1601年に新しい本拠地として新しい山城を築きました。それが佐伯城です。彼がわざわざ山城をもう一つ築いた理由としては、以下が考えられます。まず、新しい城は港や将来城下町となる場所に近く、当地のために便利だったからです。次に、この山城が築かれた山には、かつて八幡神社があり、そのため山自体も八幡山と呼ばれ、聖地とされていました。よってそこに城を築くことで、その権威を利用できたということです。それと、当時は徳川幕府と豊臣氏がまだ対立していて情勢が不安定であったことも挙げられます。日本の各大名たちは次なる戦いに備える必要がありました。大名の多くは城を平地や低い丘陵に築いていたのですが、高政の選択は当時としてはとても珍しく、強力な城を山上に築くというものでした。

栂牟礼城想像図、佐伯市歴史資料館にて展示
佐伯城の復元模型、佐伯市歴史資料館にて展示

佐伯城は1605年に完成しました。城を築いた山は標高145mで、山頂からは細長い峰が北と南西方向に伸びていました。その山頂と峰は総石垣で覆われていました。山頂部には本丸があり、天守が建っていました。二の丸は本丸のとなりにあり、廊下橋によりつながっていて、これが本丸への唯一の通路でした。二の丸には城主のための御殿がありました。この場所は決して広くありませんでしたが、城主もその家族も戦のような非常事態に備えるため、そこに住むことを余儀なくされたのです。城には峰の間の谷間に2つの貯水池があり、それぞれ雌池(めんいけ)と雄池(おんいけ)と呼ばれました。長い籠城戦を想定して作られ、ここもまた石垣に囲まれていました。

上記模型の本丸(右)と二の丸(左)部分、赤丸内が廊下橋
現在も石垣に囲まれている雄池

平和な時代となり山麓に御殿を建設

1615年に幕府が豊臣氏を倒した後は、状況は変わりました。幕府の統治は安定しました。これは、日本の大名たちがもう不便な山上の御殿に住まなくてもよいことを意味しました。佐伯藩の場合は、3代目の藩主、毛利高直が1637年に山麓に三の丸と新しい御殿を築いたのです。山頂の本丸にあった天守に関しては、三階建てであったとも言われますが、詳細についてはわかっていません。何らかの理由で城の初期の段階で残念ながら失われてしまったからです。

上記模型にも山麓に御殿があります
現在の佐伯城跡

「佐伯城その2」に続きます。

91.島原城 その3

城は昔の威容を取り戻しました。

特徴、見どころ

二の丸と内堀

二の丸の方に歩いてみてはいかがでしょう。本丸から二の丸へは、水がなくなっっている内堀を越えて階段を下って上がります。過去には、両方の曲輪をつないでいた廊下橋があり、これが唯一の本丸の入口となっていました。内堀のどこからか、本丸を振り返って見てみると、城の防衛のために、石垣が巧みに配置されていることがわかると思います。二の丸は、現在では島原文化会館として使われています。

二の丸の方に向かいます
かつての本丸入口
内堀の底から本丸を見上げます

その後

明治維新後、島原城は廃城となり城の全ての建物は撤去されました。本丸は一時畑地となり、三の丸は学校用地として使われました。1957年、城跡は島原城公園となりました。天守と櫓が再建されたのは、1960年から1980年までの期間です。公園は再び、新たな島原城となったのです。島原市は、この城を市の観光の目玉として開発しています。

天守台石垣
再建された丑寅(うしとら)櫓
再建された西櫓

私の感想

島原城を訪れてみて、私はこの城の強力さと歴史の重み両方を感じました。現存している石垣がいかに巧みに築かれているか、城の中に入ったり出たりしてよくご覧になってはいかがでしょう。島原市は、これまで例えば1991年の雲仙岳噴火のような自然災害から被害を受ける一方、温泉のような自然の恵みも享受しています。この市は水の都としても知られています。城を訪れるのと一緒にその水を使った食べ物(そんめんなど)や飲み物(地酒など)を楽しまれてはいかがでしょう。

島原城の重厚な石垣
本丸から内堀を見下ろします
眉山の背後から雲仙岳が覗きます

ここに行くには

車で行く場合:長崎自動車道の諫早ICから約60分かかります。
城の中にある観光客向け駐車場を使用できます。
公共交通機関を使う場合は、島原鉄道の島原駅から歩いて約10分かかります。
東京か大阪から来られる場合は、まず飛行機で長崎空港に行かれることをお勧めします。その後、諫早駅行きのシャトルバスに乗り、そこで島原鉄道に乗り換えてください。

リンク、参考情報

島原城 公式ホームページ
・「原城発掘/石井進・服部英雄編集」新人物往来社
・「よみがえる日本の城21」学研
・「逆説の日本史13 近世展開編/井沢元彦著」小学館

これで終わります。ありがとうございました。
「島原城その1」に戻ります。
「島原城その2」に戻ります。