91.島原城 その3

城は昔の威容を取り戻しました。

特徴、見どころ

二の丸と内堀

二の丸の方に歩いてみてはいかがでしょう。本丸から二の丸へは、水がなくなっっている内堀を越えて階段を下って上がります。過去には、両方の曲輪をつないでいた廊下橋があり、これが唯一の本丸の入口となっていました。内堀のどこからか、本丸を振り返って見てみると、城の防衛のために、石垣が巧みに配置されていることがわかると思います。二の丸は、現在では島原文化会館として使われています。

二の丸の方に向かいます
かつての本丸入口
内堀の底から本丸を見上げます

その後

明治維新後、島原城は廃城となり城の全ての建物は撤去されました。本丸は一時畑地となり、三の丸は学校用地として使われました。1957年、城跡は島原城公園となりました。天守と櫓が再建されたのは、1960年から1980年までの期間です。公園は再び、新たな島原城となったのです。島原市は、この城を市の観光の目玉として開発しています。

天守台石垣
再建された丑寅(うしとら)櫓
再建された西櫓

私の感想

島原城を訪れてみて、私はこの城の強力さと歴史の重み両方を感じました。現存している石垣がいかに巧みに築かれているか、城の中に入ったり出たりしてよくご覧になってはいかがでしょう。島原市は、これまで例えば1991年の雲仙岳噴火のような自然災害から被害を受ける一方、温泉のような自然の恵みも享受しています。この市は水の都としても知られています。城を訪れるのと一緒にその水を使った食べ物(そんめんなど)や飲み物(地酒など)を楽しまれてはいかがでしょう。

島原城の重厚な石垣
本丸から内堀を見下ろします
眉山の背後から雲仙岳が覗きます

ここに行くには

車で行く場合:長崎自動車道の諫早ICから約60分かかります。
城の中にある観光客向け駐車場を使用できます。
公共交通機関を使う場合は、島原鉄道の島原駅から歩いて約10分かかります。
東京か大阪から来られる場合は、まず飛行機で長崎空港に行かれることをお勧めします。その後、諫早駅行きのシャトルバスに乗り、そこで島原鉄道に乗り換えてください。

リンク、参考情報

島原城 公式ホームページ
・「原城発掘/石井進・服部英雄編集」新人物往来社
・「よみがえる日本の城21」学研
・「逆説の日本史13 近世展開編/井沢元彦著」小学館

これで終わります。ありがとうございました。
「島原城その1」に戻ります。
「島原城その2」に戻ります。

91.島原城 その1

島原の乱に宿命づけられた城

立地と歴史

松倉氏が本拠地として築城

島原城は、九州地方の西部分に位置する島原半島にある城です。中世の期間、この半島の周辺地は、基本的には有馬氏が支配していました。16世紀後半の有馬氏の当主であった有馬晴信は、キリシタン大名として知られていました。そのため、キリスト教はこの半島周辺に急速に広まったのです。ところが、彼は1612年に徳川幕府により罰せられてしまいます。彼の息子も1614年に他の地に移されました。その後、松倉重政が1616年に徳川幕府により島原藩主として宛がわれました。彼は最初は有馬氏が居城としていた日野江城に住んでいましたが、すぐに自身の本拠地として新しい城を築くことを決めました。これが島原城で、1624年に完成しました。

城の位置

有馬晴信像複製、福井県坂井市台雲寺蔵、有馬キリシタン遺産記念館にて展示

島原藩は比較的小規模の藩であり、4万3千石の石高を有していました。ところが、この城は10万石の規模の藩の城に値すると言われていました。このことは、島原藩の領民が高い年貢に苦しみ、城の建設にも多くの労役に駆り出されていたことを意味します。この城には3つの曲輪があり、南から北に向かって一列に並んでいました。本丸と二の丸は内堀に囲まれており、廊下橋によってのみつながっていました。城の外から敵が本丸を攻めようとしても、まず二の丸の入口を攻撃する必要があったのです。

「島原城廻之絵図」部分に加筆、熊本県立図書館蔵、島原城天守閣の展示より
廊下橋跡

高石垣と5層の天守

また、全ての曲輪は屏風折れの高石垣に囲まれており、守備兵から見て死角をなくし、敵に対して側面攻撃を可能としていました。特に本丸には、天守と11もの櫓がありました。天守は5層で、典型的な層塔型に作られていました。他の城にある天守は通常、破風や火灯窓などの装飾がありました。島原城の天守は単純に四角いフロアが、上階に向かって逓減して積まれており、屋根も最小限のものでした。この方式により、天守の建設がより効率的になり、防衛にも適していました。

本丸の屏風折れの高石垣
復元された層塔型の天守

松倉氏の圧政により島原の乱が勃発

重政は、領民に圧政を加え、より多くの収入を得るために重税を課しました。徳川幕府がキリスト教を禁じた後は、改宗しないキリシタンを拷問しました。これは、幕府に忠誠を誓う彼なりのやり方だったようです。重政が亡くなった後、彼の息子、勝家は父親のやり方を踏襲し、更にエスカレートしました。クリスチャンを含む島原半島の人々は憤激し、1637年に島原の乱を起こしました。彼らはまず島原城を攻撃しました。反乱軍は、以前有馬氏に仕えていた浪人たちによって相当高いレベルまで訓練されていました。勝家はそのとき、城ではなく江戸に滞在していました。しかし、彼の部下たちが反乱軍を撃退しました。島原城は皮肉にも、住民たちと戦うことでその強さを証明したのです。

松倉氏の圧政の様子を再現した展示、有馬キリシタン遺産記念館
「島原の乱大手門の戦い」、島原城天守閣にて展示

反乱軍の人たちは、原城に3ヶ月籠城した後鎮圧されました。幕府は松倉氏に対して、島原藩の藩主から改易処分を言い渡しました。松倉勝家は、失政のかどで処刑されました。その後、いくつかの大名家が島原藩と島原城を江戸時代末まで統治しました。1792年、松平氏の施政下において、島原大変と呼ばれる大規模な天災が発生しました。雲仙岳で発生した噴火と地震が、その手前にある眉山の崩壊を引き起こしたのです。山からの土石流により、多くの人々が亡くなりました。島原城もこの災害により一部が破壊されました。

島原陣図屏風部分、秋月郷土館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より
原城跡
島原大変を記録した絵図、島原城天守閣にて展示

「島原城その2」に続きます。

94.大分府内城~Oita-Funai Castle

大分府内城は、現在はビル街の中にありますが、かつては海城だったのです。
Oita-Funai Castle is among the modern buildings now, but was a sea castle.

大分府内城の西南隅櫓と二ノ丸堀~Seinan-Sumi-Turret and Ninomaru-Moat of Oita-Funai Castle (taken by TECHD from photoAC)

立地と歴史~Location and History

大分市は大分県の県都です。府内は大分市の以前の名前です。つまり「大分府内」という名前は新旧両方の名前が組み合わさったものです。府内も同じように豊後国(大分県の以前の名称)の国府であり、中世においては長い間大友氏によって統治されました。大友氏は、大友氏館に住んでいましたが、そこは大分府内城とは違う場所です。その館は中世の典型的は領主館で、恐らく足利氏館と同じようなものだったでしょう。
Oita City is the capital of Oita Prefecture. Funai is the former name of the city. So, the name “Oita-Funai” is combined from both of new and old names. Funai was likewise the capital of Bungo Province (the former name of Oita Pref.) governed by the Otomo clan for many years in the Middle Ages. They had been living in the Otomo Clan Hall which is different from Oita Funai Castle. It was a typical hall for a lord in the Middle Ages probably like the Ashikaga Clan Hall.

大分府内城と大友氏館の位置関係~The location of Oita-Funai Castle and Otomo clan hall)

大友氏館庭園遺構~The ruins of the Otomo clan hall’s garden(出典:文化庁)

府内の城下町は、館を中心に繁栄しましたが、戦国時代としては防御力が不足していました。1586年に島津氏の侵攻があり、館を含む市街地は焼き尽くされてしまいます。当主の大友宗麟とその息子義統は、その一族の危機の間他所に避難を余儀なくされました。彼らは天下人の豊臣秀吉からの助けにより何とか生き延びましたが、宗麟の死後、義統は秀吉により改易されました。
The Funai castle town flourished around that hall, but it had weak defenses in the Warring States Period. In 1586, Shimazu clan’s invasion happened. The city including the hall was burned out . The master, Sorin Otomo and his son Yoshimune had to escape to another place, during the destruction of the clan. They could somehow survive due to the help from the ruler, Hideyoshi Toyotomi. However, Yoshimune was fired by Toyotomi after Sorin passed away.

大友宗麟肖像画、瑞峯院蔵~The portrait of Sorin Otomo, owned by Zuihoin(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして秀吉は彼の配下である福原直孝を、1597年に府内の領主とて派遣しました。直孝はもっと安全な城が必要と考え、荷の積み降ろし港の場所に新しい城を築き始め、「荷揚(荷を積むという意味)城」と名付け、その後いつしか「府内城」と改名されました。17世紀初期に、竹中氏が4層の天守や多くの櫓を含む城として完成させ、九州地方では有数な城となったのです。
Then, Toyotomi sent his man, Naotaka Fukuhara as the lord of Funai in 1597. Fukuhara thought that he needed to have a more secure castle. He started to build a new castle at a port of unloading, called “Niage Castle” (Niage means unloading), which was renamed to “Funai Castle” sometime later. In the first 17th century, the Takenaka clan completed the castle including the four-layer Tenshu keep and many turrets, becoming a prominent castle in Kushu region.

大分府内城でライトアップされた仮想天守~The illuminated virtual Tenshu on Oita-Funai Castle(taken by seama2 from photoAC)

城の中心は安全確保と交通の便のため、細い堤を挟んで大分川の河口に面していました。河口から、本丸から二の丸へ、更には三ノ丸まで外側に向かって広がっていて、水堀によって互いに隔てられていました。特に二の丸へは、「廊下橋」と呼ばれた二つの橋のみが通じていて、もしこれらの橋を落とした場合、本丸と二ノ丸は完全に外部から遮断されるようになっていました。
The center of the castle faced the estuary of Oita River across a thin bank for safety and transportation. From the estuary, the main enclosure “Honmaru”, to the second enclosure “Ninomaru” until the third enclosure “Sannomaru” spread towards outside, separated by water moats each other. Particularly, only two bridges called “Roka-Bashi” led to Ninomaru area. If these bridges were fallen, the Honmaru and Ninomaru could be shut down from outside.

豊後国府内城之絵図部分、江戸時代、コメントを付加~Part of the illustration of Funai Castle in Bungo Province in Edo Period, adding comments出典:国立公文書館)

しかし、松平氏統治下の1743年に城下町の大火による被害を被りました。天守を含むほとんどの城の建物が焼け落ちました。その後、櫓はいくつか再建されましたが、天守は再建されませんでした(天守台だけが残ります)。
But in 1743, under the Matsudaira clan’s governance, the castle suffered from a great fire around the castle town. Most of the buildings of the castle including Tenshu keep were burned down. After that, some turrets were restored, but Tenshu wasn’t (just the Tenshu base remains).

現存している人質櫓と天守台~The remaining Hitojichi-Turret and Tenchu base(licensed by Reggaeman via Wikimeia Commons)

特徴~Fertures

現在、本丸と二ノ丸の範囲は「大分城址公園」として公園になっています。この公園は今でも二の丸の水堀と石垣に囲まれています。しかし本丸の水堀は埋められていて、そのため公園の範囲はただ一つの曲輪のように見えます。ここにはまた櫓もあり、そのうち2つだけが元からあるものです(人質櫓と宗門櫓)。更には、一基の廊下橋が最近復元されました。
Now, the area of Honmaru and Ninomaru has been turned into a park called “Funai Castle Ruins”. The park is still surrounded by the Ninomaru water moat and stone walls. But the Honmaru water moat has been filled, so the park area looks like just one enclosure. It also has several turrets, out of whom only two turrets are original (Hitojichi-Turret and Shumon-Turret). In addition, one Roka-Bashi has recently been restored.

宗門櫓の裏側、修繕中か~The back side of Shumon-Turret, it appears being repaired.
復元された廊下橋~The restored Roka-Bashi bridge(licensed by Reggaeman via Wikimeia Commons)
廊下橋の内部~The inside of Roka-Bashi

ところが、公園の周りの地域は全て埋め立てられ、近代的な都市に変貌しています。歴史の知識がなければ、ここが海城だったとは想像できません。
However, all area outside the park has been filled in ground for the modernized city. No one can imagine that was a sea castle without historical knowledge.

城周辺の航空写真~An aeriel photo around the castle

その後~Later Life

明治維新後、大分県庁が本丸に置かれました。大正時代にその建物が新築拡張されることになり、本丸の水堀が埋め立てられました。第二次世界大戦では、米軍による大分空襲があり、城の現存櫓もいくつか焼けてしまいました。戦後市の復興計画により、城跡は大分城址公園となりました。県庁は以前の三ノ丸に移転し、そして本丸と二ノ丸の範囲は1963年に初めて県の史跡として指定されました。「西南隅櫓」「大手口多門櫓」「着到櫓」といった櫓が外観復元されました。それ以外に模擬櫓もあります。
After the Meiji Restoration, the Oita Prefectural Building was placed on Honmaru area. In the Taisho Era, the building was replaced to a new large one that caused the Honmaru water moat to be filled. In World War II, Oita Air Raid by the US Air Force burned out the Oita city area including several remaining turrets of the castle. After the war, with the reconstruction plan of the city, the castle ruins was turned into Funai Castle Ruins park. Prefectural Building was moved to the former Sannnomaru area, then the area within Honmaru and Ninomaru was first designated as a prefectural historic site in 1963. Some turrets such as “Seinan-Sumi-Turret”, “Oteguchi-Tamon-Turret” and “Chakuto-Turret” were externally restored. There are also some imitational turrets there.

大手口多門櫓~Oteguchi-Tamon-Turret(licensed by 663highland via Wikimedia Commons)

大分市は城跡の将来に向けた整備計画を検討しています。この計画によると、本丸石垣が部分的に復元され、地面に本丸水堀があったことを示す線が表示されることになっています。過去に海城があったことを周知したいようです。
Oita City is considering the development plan for the future of the ruins. They plan to restore part of the Honmaru stone walls and express the line of Hommaru water moat on the ground. They seem to let people know that there was a sea castle in the past.

2026年までの城跡整備計画マップ~The development planning map of the castle ruins by 2026 (大分市Websiteより引用)

私の感想~My Impression

面白いイベントが城址公園で開催されました。それは、鉄骨のフレームとLEDライトによって天守の姿を再現したものでした。このイベントは終わってしまったのですが、私が最近訪れたときにはまだフレームが残っていました。フレームが存在していれば、また再開することも可能と思います。そうなったらよいですね。
An interesting event was held in the ruin park. That was recreating of the image of the Tenshu keep by using a steel frame and lots of LED light bulbs. Though the event has finished, the frame remained when I visited the ruins recently. The show could be held again as long as the frame is there. Hopefully that will happen.

大分府内城の仮想天守~The virtual Tenchu in Oita-Funai Castle(taken by ぴょんにゃん from photo AC
仮想天守の骨組み(The flame of the virtual Tenshu)

ここに行くには~How to get There

車で行く場合:東九州自動車道大分ICから約20分です。城址公園内に駐車場があります。
大分駅から:徒歩で約15分かかります。バスの場合大分駅南口から「大分きゃんバス」に乗り、市役所前バス停で降りてください。
大分空港から大分駅まで:空港アクセスバス(エアライナー)に乗ってください。
If you want to go there by car: It takes about 20 minutes from the Oita IC on Higashikyushu Expressway. The park offers a parking lot inside.
From Oita station: It takes about 15 minutes on foot. Or take the Oita-Can-bus at the south entrance of the station, and take off at the Shiyakusho-Mae bus stop.
From Oita Airport to Oita st.: Take the Airpor Eepress Airliner bus.

リンク、参考情報~Links and Rererences

・よみがえる日本の城20、学習研究社(Japanese Magazine)
・大分城址公園整備・活用基本計画、大分市(Japanese Document)