195.延岡城 その3

城巡りの楽しみとは・・

特徴、見どころ

最後の防衛拠点、本丸

千人殺しの石垣を見た後には、石垣の脇の石垣を登って本丸に向かいます。通路は左に曲がり、これも石垣に囲まれた四角い空間に入り、再び左に曲がって本丸の内部に入ります。この四角い空間は桝形と呼ばれ、本丸の入口を防御しています。石垣の上には門の建物がありました。本丸の内部は今は二の丸のように広場になっています。よって、市街地を眺めるビューイングスポットになっています。かつては、千人殺しの石垣に囲まれて、敵を撃退するための最後の防御拠点となっていたはずです。

石段を登って本丸へ行きます

城周辺の地図

今でも時を告げる鐘楼

本丸のとなりの丘の頂上は、天守曲輪とよばれていますが、実際には天守はありませんでした。この曲輪は小さいので、むしろ物見のために使われたのではないでしょうか。ここには鐘楼があり、鐘守が今でも日に6回、鐘を撞いて時を知らせています。1877年の西南戦争のときに太鼓櫓が焼けた後、1878年から140年以上にも渡って続けられています。単純なことですが、休日もなしに続けるということは今では大変貴重なことです。この曲輪の下には恐らくは天守の代用として、三階櫓が築かれていました。しかし残念ながら1682年に焼失し、現在では石垣台のみが残っています。

天守曲輪にある鐘楼、延岡市ホームページより引用
三階櫓跡  (licensed by PIXTA)

住宅地に隣接する二の丸石垣

お時間があれば、ここも素晴らしい石垣に囲まれている二の丸の西側面の方に行ってみてください。この石垣は城を攻撃してくる敵を防ぐために築かれ、石垣の外側には内堀がありました。しかしその外側の部分は、狭い通路を挟んで住宅地になっています。そのため、この石垣をすぐそばで見ることができますし、現代的な住宅とのコントラストを面白く感じます。

城周辺の航空写真、二の丸石垣は住宅地に近接しています

私の感想

延岡城跡に行ってみるまでは、この城と千人殺しの石垣を築いた高橋元種のことは全く知りませんでした。城や城跡に行くことの楽しみの一つは、実際に現物を見たことでより興味を持ったり、本で読んだりメディアを見ただけより、いろいろと考えてみることができることだと思います。

千人殺しの石垣

ここに行くには

車で行く場合:東九州自動車道延岡ICから約10分かかります。城跡の周りにビジター向け駐車場がいくつかあります。
公共交通機関を使う場合は、JR延岡駅から歩いて約20分かかります。または駅から九州保健福祉大学行きの宮崎交通バスに乗って市役所前バス停で降りるか、まちなか循環バス内回り線に乗って九電前・市役所西バス停で降りてください。
東京または大阪から延岡駅まで:飛行機で宮崎空港に行き、JR線に乗ってください。

リンク、参考情報

延岡城跡・城山公園、延岡観光協会
・「よみがえる日本の城18」学研
・「日本の城改訂版第63号」デアゴスティーニジャパン
・YouTube 延岡青年会議所チャンネル「【延岡城下町プロジェクト】続日本100名城 延岡城!その魅力を徹底解明!」

これで終わります。ありがとうございました。
「延岡城その1」に戻ります。
「延岡城その2」に戻ります。

195.延岡城 その2

城のハイライト、千人殺しの石垣

その後

明治維新後、延岡城は廃城となり、ほとんどの城の建物は撤去されました。太鼓櫓などいくつかの建物はしばらくの間残っていました。ところがこの櫓も焼け落ちてしまいました。1877年の西南戦争として知られる、維新の英雄であった西郷隆盛が政府に対して反乱を起こしたときです。西郷の軍は南方の鹿児島から熊本城への攻撃を開始したのですが、城の占領に失敗し撤退を強いられ、今度は九州各地で戦いを展開しました。延岡はそのうちの一つでした。実は延岡城は既に政府軍によって確保されていたのですが、味方の海軍が誤って城に砲撃を始めました。城にいた友軍は城は既に落ちていることを示すために自ら櫓に火をつけたのです。

延岡の地で西郷軍と政府軍との間で行われた和田越決戦の碑  (licensed by shikabane taro via Wikimedia Commons)

もう一つのこの城の興味深いエピソードは、千人殺しの石垣に関するものです。実は、このニックネームは城が廃城になった後、明治時代に初めて現れたのです。石垣の基礎となった石には隙間があり、そこに子供たちが入って遊んでいたと言われています。そのような様子を見た誰かが想像し、この石垣の素晴らしさを表わすために千人殺しのストーリーを考えたのではないでしょうか。

千人殺しの石垣

特徴、見どころ

市街地となった砂州

現在、JR延岡駅から歩いて延岡城跡に向かう場合は、五ヶ瀬川にかかる橋の一つを渡っていきます。橋からは、城跡がある丘が少し遠くの方に見えます。2つの川に挟まれた砂州は、多くの官公庁ビルが建つ現代的な市街地になっています。かつてあった堀も残っていません。そのため、簡単に城跡の東端に到着します。

延岡周辺の地図

城山公園となった城跡

城跡は城山公園という名の公園になっていて、北側と南東側に2つの入口があります。前者は城の大手道であり、後者は搦手道でした。両方ともビジター向けによく整備されています。もし北側の入口に行こうとして、丘の周りを歩いていくと、古い石垣が部分的に丘を覆っているのが見えます。そして、復元された北大手門を通って公園に入っていきます。

城周辺の地図

復元された北大手門 (licensed by ja:User:Sanjo via Wikimedia Commons)

ニックネームがあったために石垣を改修

門を通り過ぎて、二の丸に入っていくと、早くも城のハイライトである千人殺しの石垣が姿を現します。この石垣は二の丸のすぐ上にある本丸を囲んでいるので、二の丸からは間近に見ることができます。見るからに壮観であり、石工たちが粗野な自然石を使ってどうやって19mもの高さに積み上げたのか想像だにできません。石垣の隅の基部の石、つまり石垣の崩壊を起こすかもしれなかった石を見てみると、コンクリートで固められています。その場の説明版を読んでみると、1935年の昭和天皇のこの城への訪問前に固められたとあります。事実としては千人殺しの石垣という異名は廃城後に作られた、素晴らしい石垣であることを表わす誇張表現だったのです。ところが、天皇は第二次世界大戦前は「現人神」という扱いだったため、延岡の人たちは万万が一にも不祥事が起こらないよう石に手を加えたのでしょう。

この写真では基部のコンクリートで固められた部分がよく見えます (licensed by ja:User:Sanjo via Wikimedia Commons)

「延岡城その3」に続きます。
「延岡城その1」に戻ります。

195.延岡城 その1

高橋元種が築いた総石垣造りの城

立地と歴史

日向国唯一の総石垣造りの城

延岡は、かつては日向国と呼ばれた宮崎県の北部に位置する工業都市です。日向国は南北に長く、平地と山地が入り組んでいます。よって、17世紀後半に伊東氏が君臨していた時期を除き、江戸時代の末期まで多くの小領主によって分割されていました。これらの小領主たちは、佐土原城や飫肥城のような主に自然の地形を利用した土造りの城に住んでいました。しかし、延岡城はこの国では唯一の総石垣造りの城であり、高橋元種(たかはしもとたね)によって築かれました。

宮崎県の範囲と城の位置

佐土原城
飫肥城

才能に恵まれていた高橋元種

元種は、元は日向国の北の筑前国の一部を支配していた秋月氏の出身で、高橋氏に養子に出されました。1587年に豊臣秀吉が天下統一事業のために九州地方に侵攻したとき、元種とその出身母体の秋月氏は、秀吉に早期に降伏しその事業の手助けをしました。元種は秀吉に気に入られ、九州が平定された後、秀吉により延岡地方の領主に抜擢されました。元種は、上役に対して随分よい印象を持たれる人物だったようです。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀吉が亡くなった後の1600年、徳川家康に率いられた東軍と、豊臣氏を支持する石田三成に率いられた西軍が、関ヶ原において天下分け目の戦いを行います。元種は西軍に属し、関ヶ原近くの大垣城に留まっていました。元種が西軍の関ヶ原の敗戦を聞いたとき、彼は直ちに東軍に寝返り、西軍の諸将を殺害し、家康に降伏したのです。その結果、彼の領地は家康が設立した徳川幕府によって安堵されました。元種は機を見るに敏であったのです。

大垣城

砂州の上に築かれ防御力が強い城

その後、元種は延岡城と呼ばれるようになる新しい本拠地を、五ヶ瀬川(ごかせがわ)と大瀬川(おせがわ)に挟まれた砂州にある丘の上にに築きました。天守曲輪、本丸、二の丸、三の丸が階段状に築かれ、これらの曲輪は総石垣造りでした。しかし実際には、天守曲輪には天守は築かれませんでした。砂州は、城を含む武家屋敷部分と町人地に分けられ、堀によって隔てられていましたが、たった一つの橋によってつながっていました。その上、砂州を囲む川には当初は橋がかかっていませんでした。防御の観点からはとても望ましい立地だったのです。もし敵がなんとか丘の麓にある大手門にたどり着いたとしても、頂上に達するには更に5つの門を過ぎ、11回も曲がらねばなりませんでした。

「日向国延岡城絵図」、出典:国立国会図書館デジタルコレクション

城で最もすばらしい石垣は「千人殺しの石垣」と呼ばれ、高さが約19mあります。これは九州地方では、熊本城、小倉城に次ぎ、3番目の高さです。トップの2つの城は、加藤清正や細川忠興のような豊臣秀吉や徳川家康配下の大大名が築いたものであり、彼らは元種のような一地方大名よりずっと大きな領土を持っていました。またこの石垣は、自然石を用いて積まれていて、優れた石工職人の集団を招かなければ、当時はそのような高さに積むことは不可能でした。元種は、われわれば想像するよりずっと財力や中央とのコネを持っていたに違いありません。この「千人殺し」のニックネームは、石垣の規模を表していて、もし隅の基部の石を引き抜いたなら、石垣が崩れてその下にいる敵の兵士を千人も殺せるだろうという例えから来ています。

延岡城の千人殺しの石垣

元種、突然改易される

元種は1613年に突然、幕府から改易されてしまいます。彼は、津和野藩でトラブルを起こし逃亡した彼の妻の親族を、かくまっていたのです。津和野藩の藩主、坂崎直盛は偏執的で、このことを幕府に訴えたのです。たったこれだけのことで、このような深刻な結果を本当に招いたのか、今だに不確かですが、事実として元種は短い間に現れ、そして去っていったのでした。彼の業績はもっと研究されるべきでしょう。延岡城とその周りの地域は延岡藩として、有馬氏に引き継がれ、城には櫓がいくつも築かれて1656年に完成しました。平和であった江戸時代には、川と城の間に橋がかけられ、天守曲輪にあった太鼓櫓は人々に時を知らせていました。幸いにも延岡城では幕末まで戦いは起こらず、そのときには内藤氏が城と藩を治めていました。

坂崎直盛肖像画、個人蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「延岡城その2」に続きます。