53.二条城 その1

二条城は、京都の有名な観光地で世界遺産にも登録されていて、最近では海外からも多くの観光客が訪れています。この城を築いたのは、最後の天下人で江戸幕府の初代将軍となった徳川家康です。しかし、家康以前の将軍や天下人たちにも、それぞれの「二条城」があったことはご存じでしょうか。現在残っている二条城は、家康が築いたものだけですが、それまでの「二条城」たちの集大成のような城なのです。

立地と歴史

二条城は、京都の有名な観光地で世界遺産にも登録されていて、最近では海外からも多くの観光客が訪れています。この城を築いたのは、最後の天下人で江戸幕府の初代将軍となった徳川家康です。しかし、家康以前の将軍や天下人たちにも、それぞれの「二条城」があったことはご存じでしょうか。現在残っている二条城は、家康が築いたものだけですが、それまでの「二条城」たちの集大成のような城なのです。歴史家は、これら将軍や天下人たちが、京都の中心地に築いた城を、一連の「二条城」として取り扱っています(当時から「二条城」と呼ばれているのは現在の二条城のみで、以前のものは歴史的名称となります)。

現在の二条城

将軍・天下人たちの二条城

最初に「二条城」を築いたのは、室町幕府第13代将軍の足利義輝です。それまでの将軍は、「花の御所」と呼ばれた御殿に住んでいましたが、防御性はあまり考慮されていませんでした。義輝が将軍となった当時は将軍家の権威が低下し、義輝自身も有力家臣との対立で、京都に落ち着くことさえできませんでした。1558(永禄元)年、ようやく京都を実質支配していた三好長慶との和議により、京都を拠点にすることができました。彼は自身の御所の造営を、「二条武衛陣」と呼ばれた斯波氏の屋敷地を使って開始しましが、それは本格的な堀に囲まれた城でした。最終的には堀は二重になり、石垣も築かれました。将軍といえども、防御を考慮せざるを得ない状況だったからです。(当時も「武家御城」「御城構」など呼ばれました。)こうして城を拠点とした義輝の政治はしばらくは安定しますが、1564年に実力者の三好長慶が亡くなると、家臣との対立が再燃します。1565(永禄8)年5月19日、警備が手薄なところを三好一門の軍勢に襲われ、義輝は殺害され、義輝二条城も炎上しました。義輝は剣の達人であったと言われ、自ら太刀を振るって戦いましたが、多勢に無勢、力尽きました。

足利義輝肖像画、国立歴史民俗博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
花の御所、「洛中洛外圖上杉本陶版」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
義輝二条城の推定位置(赤枠内)、左下の堀に囲まれた区画が現・二条城(Google Mapを利用)

次の二条城の主は、第15代将軍・足利義昭でした。義昭二条城は、これまでも「旧二条城」という通称で、以前の二条城たちの中では最も有名です(当時は「武家御城」「公方様の御城」などと呼ばれました)。1568(永禄11)年、織田信長とともに上洛し、将軍になりましたが、三好三人衆に宿所を襲われたため、翌年、義輝二条城と同じ場所に、城を築くことにしたのです。一般的には、信長が義昭にプレゼントしたというイメージが強いですが、信長は堀や石垣など土木工事を担当し、建物や庭園などは他から移築したものが多かったようです。それでも信長は陣頭指揮を取ったり、高さが8メートル近い高石垣群をわずか2ヶ月半で完成させたり、その石垣の材料に石仏を徴発したり、多くのエピソードが残っています。そして、この義昭二条城には、記録上初めて「天主」と呼ばれる建物がありました。三重の櫓だったようです。日本城郭史上においても、重要な城だったのです。もちろん城の周りは二重の堀で囲まれていました。天皇が行幸するための部屋もあったそうです。やがて義昭と信長が対立するようになると、義昭は自身で二条城の強化を行います。しかし1573(元亀4)年には、京都の外の槙島城に移り、そこで信長に反抗しましたが敗れ、義昭二条城も信長によって破却されてしまいました。

足利義昭坐像、等持院霊光殿蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
義昭二条城の推定位置(青枠内)、赤枠内が義輝二条城(Google Mapを利用)
発掘され、京都御苑内に移築復元された義昭二条城の石垣

次はあまり有名ではありませんが、信長の二条城で、1576(天正4)年に自身の京都の宿所とするため、貴族の屋敷地を譲り受けて築いたものです。当時は「二条御新造」「右大将家二条新邸」などと呼ばれました。立派な御殿や行幸の間があったことは確かですが、詳しい内容はわかっていません。それに、義昭二条城と比べると、規模はかなり小さかったのです。更には、信長はこの二条城に1577年からわずか2年間しか住んでおらず、当時の皇太子・誠仁(さねひと)親王に献上し、京都では寺に滞在していました。そしてそのまま1582(天正10)年6月12日の本能寺の変を迎えることになるのです。信長ほどの力があれば、義昭二条城をしのぐ城を作るのは容易だったはずですが、こういった行動は信長の独自の考えに基づいていたのでしょう。その本能寺の変のとき、信長の嫡男・信忠もわずかな配下とともに妙覚寺に宿泊していました。彼は「二条御所」と呼ばれていた信長二条城に移動し、ここで明智光秀軍を迎え撃ったのです。少なくとも、寺よりは防御体制が整っていたことがわかります。しかし、この度も多勢に無勢、城は落城し、信忠は自害しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
信長二条城の推定位置(緑枠内)、青枠内が義昭二条城(Google Mapを利用)
織田信忠肖像画、総見寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康の二条城

信長の後に天下人となった豊臣秀吉は、京都での居城として有名な聚楽第を築城しました。この城は、二条よりも北方に、それまでの二条城をはるかに凌ぐ規模で築かれ、天皇の行幸が実施されたことでも知られています。城の役割としては二条城を引き継いだものと言えるでしょう。ただ、秀吉は聚楽第を建設する前に、二条の地に妙顕寺城という城を築いて京都での居城としています。天守があったとも言われています。調査研究が進めば、二条城のラインアップに本格的に加わってくるでしょう。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「聚樂第屏風圖」部分(三井記念美術館所蔵)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
秀吉が築いた妙顕寺城の推定位置(茶枠内)(Google Mapを利用)

1600(慶長5)年の関ケ原の戦いで勝利し、天下人となった徳川家康は、その翌年、京都での居城建設を始めました。これが現代に残る二条城です。その工事は、西国大名を動員する天下普請として行われ、正に天下人のデモンストレーションとなりました。城は1603(慶長8)年に完成し、天守は3年後に追加されましたが、大和郡山城からの移築と言われています。城の範囲は、現在の二条城とは異なり、その東側半分強の大きさで、正方形の形をしていました。堀はまだ一重だったようです。御殿は一つで、現在の二の丸御殿がそれに当たります。そのため、この時期の二条城は「慶長度二条城」とも呼ばれたりします。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
慶長期二条城の範囲(紫枠内)(Google Mapを利用)
慶長二条城が描かれた「洛中洛外図」、メトロポリタン美術館所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その当時家康は、京都の南にあった伏見城を通常の滞在先としていて、1603(慶長8)年に将軍宣下を受けたのもここでした。一方、二条城は京都での儀式の場として活用されました。将軍となった家康は、室町幕府の先例に倣い、朝廷に拝賀の礼を行いましたが、その出発地は二条城でした。またその後、勅使を二条城に迎え、祝賀の催しが開かれました。家康は2年後に早くも、将軍の座を息子の秀忠に譲りますが、秀忠も同様に将軍就任の儀式を二条城で行いました。やがて幕府と豊臣家の関係に緊張が高まる中、1611(慶長16)年には、二条城で家康と秀吉の遺児・秀頼の対面が実現します。成長した秀頼を見た家康は、このとき豊臣家を滅ぼす決意をしたとも言われています。そしてついに家康が豊臣家と対決した大坂冬の陣(1614(慶長19)年)、大坂夏の陣(翌年)のときには、二条城は家康の本営となりました。1615(慶長20)年5月に豊臣家を滅ぼした家康は、二条城で8月まで戦後処理を行いました。様々な戦勝祝いの催しが開かれましたが、そこでは豊臣に加担したとして切腹となった大茶人・古田織部の名物茶器が配られました。また、7月には朝廷や公家を統制するための「禁中並公家諸法度」が二条城で発布されました。家康は、二条城を硬軟取り混ぜた演出の場として、最大限活用したのです。

豊臣秀頼肖像画、養源院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大坂夏の陣図屏風、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
古田織部肖像画、「茶之湯六宗匠伝記」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀忠・家光の二条城

家康は、後顧の憂いを断ち、1616(元和2)年に亡くなりましたが、後を継いだ秀忠、家康の孫の家光には、幕府の安定のためにやるべきことがありました。それは、朝廷との関係の強化です。秀忠は1620(元和6)年に、娘の和子(かずこ、後にまさこ)を、後水尾天皇の中宮として入内させました。彼女の入内の行列は、二条城から出発しました。これで、秀忠は天皇の義父になったわけです。そして、総仕上げとして行われたのが、天皇の二条城への行幸です。秀吉が行った後陽成天皇の聚楽第行幸を意識し、これを超えるイベントを行おうとしたのでしょう。

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家光肖像画、金山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
後水尾天皇肖像画、宮内庁書陵部蔵、尾形光琳筆 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川和子(東福門院)肖像画、光雲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この一大イベントは1626(寛永3)年に行われるのですが、それまでに二条城は大改修されました。そのため、改修後の二条城は「寛永度二条城」とも呼ばれたりします。現在に残る二条城が完成した時期でもあります。まず、城の敷地が西側に拡張され、四角形を2つ重ねたような形になりました。その西側の方に、本丸が新たに作られ、内堀に囲まれました。これで全体が二重の堀に囲まれるようになったようです。本丸の中には、そのときまでに家光に将軍職を譲り大御所となった秀忠のための、本丸御殿が作られました。本丸の隅には、新たに天守が築かれましたが、伏見城からの移築と言われています。それまであった東側の敷地は二の丸とされ、それまでの御殿も改造され、今に残る「二の丸御殿」となりました。御殿前にある豪華絢爛の「唐門」もそのとき作られました。更に、二の丸の南側には、天皇のための行幸御殿も作られました。城の正面入口の東大手門は2階建ての櫓門でしたが、天皇が通るのを見下げる形になるので、単層に改装されました。(行幸後に、現在見られる2階建てに戻しました。)

現在の二条城の航空写真(Google Mapを利用)
現存している二の丸御殿
行幸の際に作られた唐門
単層に改装された東大手門が描かれた洛中洛外図、千葉県立中央博物館蔵、同博物館サイトから引用
現在の東大手門

「寛永行幸」と呼ばれる二条城への行幸は、1626(寛永3)年9月6日から5日間に渡って行われました。御所から二条城まで、天皇や中宮・和子以下9千人の行列がつづき、京都の町には見物人が詰めかけました。期間中には城で、豪華な饗応、贈り物の交換、舞楽・蹴鞠・和歌などが催されましたが、興味深いものとしては、天皇が2度天守に登ったことです。行幸御殿があった二の丸と、天守と本丸御殿がある本丸との間には堀がありましたが、ここに二階建ての廊下橋がかかっていて、天皇が外に出ることなく天守に行けるようになっていました。天皇は3日目に天守に登りましたが、天気が悪くて眺望が悪かったらしく、最終日に御所に戻る前、再度天守に赴いたとのことです。この大イベントは、多くの絵巻物・文書に記録され、語り継がれることになりました。幕府によるものとはいえ、平和の訪れを象徴する出来事になったのです。同時に、二条城にとってもこれが最盛期でした。その後、家光は1634(寛永11)年、ギクシャクしていた後水尾上皇(5年前譲位)との関係修復のため、上洛し二条城に入ります。それ以降2百年以上、将軍の上洛はなくなり、二条城は一旦長い眠りにつきます。

「二条城行幸図屏風」部分、出展:京都国立博物館
ここに廊下橋がありました

家茂・慶喜の二条城

その約200年間、二条城は「二条在番」と呼ばれた幕府の役人が管理していましたが、使われることはありませんでした。火災や天災により、本丸御殿や天守が消失し、二の丸御殿も荒れ果てていました。(行幸御殿は、御水尾上皇のために移築されました。)幕末になり、幕府と、有力諸藩を後ろ盾にする朝廷との関係が緊張してくると、京都とともに二条城が再び表舞台に現れます。1862(文久2)年に公武合体政策により、皇女和宮と結婚した14代将軍・徳川家茂が翌年、将軍として229年振りに上洛することになったのです。当時の孝明天皇が、将軍・家茂の義父になり、2百年前の徳川秀忠と同じ立場ですが、幕府と朝廷の立場が逆転したような感じです。二条城では、本丸に仮御殿が、天守台には火の見櫓が建設されましたが、不十分だったようです。幕府の権威や経済力は衰えており、将軍一行の旅費にも節約の通達が出される程だったのです。よって、将軍・家茂の滞在時には、主として修繕された二の丸御殿が使われました。家茂は都合3回上洛しましたが、長州征伐が行われた時期で、本営の大坂城にいることも多く、1866(慶応2)年7月に病気で亡くなった場所も大坂城でした。

徳川家茂肖像画、徳川記念財団蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後を継いだ徳川慶喜は、以前から家茂の後見として京都に長期間滞在していましたが、基本的に二条城には宿泊していませんでした。将軍でなかったということもありますが、二条城は公式の場で仕来りが多く、自由に動けないためと本人が語っています。家茂が亡くなった5ヶ月後に二条城で将軍宣下を受けてもなお、近くの小浜藩邸「若州屋敷」に滞在し続けました。二条城に移ったのは、1867(慶応3)年9月、有名な大政奉還の1ヶ月前でした。内大臣に任官したタイミングだったようです。10月12日、慶喜は幕臣や一門大名を二の丸御殿黒書院に集め、大政奉還の主旨を説明しました。翌日には、大広間に諸藩重役を集め、書類を回覧した後、希望者にも説明を行いました。そして14日に朝廷に提出、15日に受理と進みます。これは、慶喜が討幕派の矛先をかわし、政局の主導権を維持しようとした動きでした。しかし、薩長中心の討幕派は、「倒幕の密勅」「王政復古の大号令」などで反撃し、12月9日に慶喜の「辞官納地」が決定され、二条城に伝えられました。これは討幕派の挑発でしたが、周りの家臣や一門衆が激高する中、慶喜は12日に大坂城に退去しました。京都での偶発的な合戦を避けるためでした。

将軍時代の徳川慶喜 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「大政奉還図」、邨田丹陵作、聖徳記念絵画館蔵、10月12日の黒書院での場面を描いています (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後二条城は、慶喜を護衛していた水戸(慶喜の出身藩)・本圀寺勢に任されます。しかし、翌年1月に鳥羽・伏見の戦いが始まると、朝廷側に引き渡されました。そして、2月3日、明治天皇が二条城に行幸し、幕府討伐の詔を発せられたのです。二条城は、徹頭徹尾、ときの政治の象徴的な場として使われたのでした。

「二条城太政官代行幸」、小堀鞆音作、聖徳記念絵画館蔵、明治天皇の行幸の場面を描いています (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「二条城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

19.川越城 その1

川越城は、関東地方の中央部、現在の埼玉県川越市にあった城でした。旧城下町は蔵造りの街並みとしてよく知られ、「小江戸」とも呼ばれて、多くの観光客を引きつけています。城と城下町は、将軍の都・江戸(現在の東京)と深い関わりを持ちながら発展してきました。

立地と歴史

川越城は、関東地方の中央部、現在の埼玉県川越市にあった城でした。川越市は蔵造りの街並みとしてよく知られ、「小江戸」とも呼ばれて、多くの観光客を引きつけています。実は蔵造りのほとんどは、江戸時代ではなく、明治時代の1893年の川越大火の後に再建されたものです。しかし、市街地そのものは川越城の城下町に由来しています。また、城と城下町は、将軍の都・江戸(現在の東京)と深い関わりを持ちながら発展してきました。

川越市の範囲と城の位置

蔵造りの元祖、大沢家の住宅(重要文化財)、川越大火で焼け残り蔵造りの街の先駆けとなりました
街のシンボル、時の鐘

太田道灌が築城

川越地域は、北と東西の三方を、蛇行した入間川に囲まれています。そのため、川越の名前の由来は、「川」を「越」えて行かなければならない場所である、とされています。最初にこの地域を治めたのは、12世紀から14世紀まで入間川西岸(蛇行した川の外側)に住み着いた河越氏であると言われています。河越氏の館があった場所は、後の川越城のところではありませんでした。川越城を最初に築いたのは、扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏の重臣であった太田道灌で、1457年のことでした。親族の山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏とともに、1455年から足利氏と戦っている最中でした。両軍は、関東地方最大の大河・利根川をはさんで対峙していました。上杉側は利根川の西岸に陣取っていたため、川の後方に新しい城をいくつも築く必要があったのです。川越城は、そのための主要な3つの城の一つで、他は江戸城と岩槻城でした。

城周辺の地図

河越氏館跡
太田道灌座像(複製)、川越市立博物館にて展示
「江戸図屏風」左隻部分、17世紀、国立歴史民俗博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

川越夜戦の舞台

川越城はやがて扇谷上杉氏の本拠地となりました。16世紀の初め頃、山内上杉氏との間で内部抗争が起こったとき、この城は戦いの最前線となりました。山内上杉氏が、入間川を隔てた、河越氏の元館だったところを陣屋として再利用していたからです。この内部抗争の間、北条氏が関東地方に侵攻し、ついには1537年に川越城を占領します。両上杉氏はようやく危機に気づき、講和を結んで城を取り返そうとしました。1545年10月になって、北条綱成(ほうじょうつななり)が守る川越城を、大軍をもって包囲しました。

山内上杉氏が河越氏館に堀を築いた跡

その当時は城の規模は小さく、土造りの曲輪がいくつか、武蔵野台地の端に築かれているだけでした。しかし城は、自然の要害として入間川周辺の沼沢地に三方(南北と東)を囲まれていました。残りの一方(西)と城の周辺には、人工の堀切や堀が築かれていたと考えられています。1546年の4月、北条氏の当主、北条氏康(ほうじょううじやす)が城を救援にやってきました。彼は上杉軍に対し、城はもうすぐ降伏するから城兵を助けてやってほしいと懇願し、油断させました。4月20日、氏康は上杉軍に夜襲をかけ、これが川越夜戦と呼ばれた戦いです。城の中心部からわずか800mのところ、東明寺(とうみょうじ)の辺りで激戦が繰り広げられました。この戦いにより、関東地方での北条氏の覇権が確立し、上杉氏は没落しました。

城周辺の起伏地図、新河岸川に囲まれた微高地が武蔵野台地

城跡東方にある伊佐沼、城の周りもこのようであったと思われます
現在の東明寺
北条氏康肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

徳川将軍家の逗留地

関東地方は16世紀の終わりには徳川氏の領地となり、1603年には徳川幕府が設立されました。その際、江戸城が将軍の本拠地となったため、川越城は江戸城の北の守りを固める存在となりました。そして、将軍の信頼が厚い酒井氏が城主となったのです。それ以外にも、初代将軍・家康や3代将軍・家光は、狩りに出たときには度々川越城に逗留しました。将軍と川越の関係を表わす興味深いエピソードがあります。同じく将軍に信頼された天海僧正が、1599年に川越の喜多院を再興しました。ところが、1638年の大火により焼失してしまいます。それを聞いた時の将軍・家光は、直ちに喜多院を復興するよう命じたのです。それだけではなく、彼自身が江戸城の建物を提供し、その中には家光誕生の間や、乳母の春日局の化粧の間が含まれていました。この建物は喜多院に現存しています。

「江戸図屏風」に描かれた川越城本丸、中にある建物が将軍が泊った宿泊所とされています、出典:国立歴史民俗博物館
徳川家光肖像画、金山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
喜多院(多宝塔)
喜多院に残る旧江戸城御殿の建物

江戸の防衛拠点、衛星都市として繁栄

川越城と周辺地域は、川越藩として何人もの譜代大名によって引き継がれました。その中には老中として政権中枢で活躍する人もいました。そのうちの一人が松平信綱で、彼は城の拡充も行いました。新しい曲輪や櫓・門を築くことで城の範囲を倍にしました。しかし城は従来と同じように基本的には土造りで、天守もありませんでした。館の集合体のような姿をしていたようです。敵の侵入を防ぐ手段としては、他の城のような高石垣や櫓を使う代わりに、土塁・土塀・水堀によって複雑な通路を形作りました。また、川越街道や水路の新河岸川とともに、農地が開発され、城下町も整備されました。産業が発展し、素麺、絹織物、そして今でも有名な川越芋などの名産品が、その頃既に世界有数の都市となっていた江戸に提供されました。その結果、城下町は大いに栄えました。

拡張された後の川越城の模型、向こう側に見えるのが喜多院、川越市立博物館にて展示
現代も名産品である川越いも

城の中心は、二の丸にあった御殿でした。本丸には将軍の宿泊所があったからです。しかし将軍が来なくなると、いつしかなくなっていました。1846年に二の丸御殿が燃えてしまうと、川越藩は本丸に御殿を再建することを決めました。その当時は西洋船が日本近海に出没していて、川越藩はその脅威から江戸湾を守るための警備を担当していました。そのため藩財政は大いに逼迫していたのですが、御殿は領民による増税負担や寄付もあって1848年に完成しました。

「江戸図屛風」に描かれた川越城二の丸、出典:国立歴史民俗博物館
現存する本丸御殿

「川越城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。