71. 福山城 その2

今回は、福山駅福山城口(北口)の前からスタートします。この場所は、昔は城の三の丸だったので、振り返ると二の丸の高石垣がどーんと迫ってきます。三の丸は平地にあったので、今はすっかり市街地になっていますが、山の上にあった本丸、二の丸が「福山城公園」として残っています。本丸まで簡単にアクセスできますが、いくつかあるコースのうち、お城らしさをより感じられる南側階段ルートを行ってみます。

特徴、見どころ

Introduction

今回は、福山駅福山城口(北口)の前からスタートします。この場所は、昔は城の三の丸だったので、振り返ると二の丸の高石垣がどーんと迫ってきます。三の丸は平地にあったので、今はすっかり市街地になっていますが、山の上にあった本丸、二の丸が「福山城公園」として残っています。本丸まで簡単にアクセスできますが、いくつかあるコースのうち、お城らしさをより感じられる南側階段ルートを行ってみます。

福山駅福山城口
二の丸の高石垣

ところで、その石垣の周りに堀は見られません。堀はみんな埋められてしまったのです。この駅前の広場(北口広場)が内堀の名残となっています。

広場では、内張が水辺として再現されています

駅近なので いきなり本丸へ

それでは、内堀を乗り越えるつもりで、二の丸の石垣沿いを歩いてみましょう。石垣の石が変色していますが、これは第二次世界大戦での空襲の火災で焼けた痕なのだそうです。歩いてみると、迫力を感じます。現代のビルにも負けていない感じです。

二の丸石垣

現代に作られた石段を登っていくと、どっしりとした伏見櫓が急に現れます。空襲を生き延びた現存建物の一つで、国の重要文化財に指定されています。その前は伏見城にあったことを示す刻印(「松ノ丸ノ東やくら」)も発見されています。つまり、言い伝えだけでなく、証明されているわけです。伏見城は3代あって、この櫓は3代目のものだろうと言われていますが、転用材が多く、地震の跡急拵えした2代目のものではないかという意見もあります(愛媛大学社会共創学部紀要「福山城伏見櫓に関する考察」)。

伏見櫓

先に進むと、これも現存している、本丸の正門・筋鉄御門(すじがねごもん、国の重要文化財)が控えています。敵だったら、伏見櫓と挟まれて、攻撃されそうです。こちらも伏見城から移されたと言われていて、名前の通り、その扉は筋金入りなのです。さすが本丸の正門だけのことはあります。

筋鉄御門
筋金入りの扉

本丸に入ると、伏見御殿跡があります。これも伏見城からの移築とされています。天守が向こうに見えます。

伏見御殿跡
外観復元天守

本丸には、もう一つ、現存建物があって、それが鐘櫓(かねやぐら、福山市重要文化財)です。「時の鐘」として城下に時間を知らせていたのですが、今でも自動で鳴っているそうです。

鐘櫓

二の丸を歩いてみよう

今度は、本丸下の二の丸をぐるりと歩いて、天守の裏側と本丸の搦手門(棗門)に回り込んでみます。まずは本丸の、復元された御湯殿を見上げてみましょう。これも元は伏見城からの移築と言われています。蒸し風呂(サウナ)と、せりだした座敷(物見の間)のセットになっています。ただし、時代によって間取りは異なっていたようです。本丸側からでは正直よくわからなかったのですが、二の丸側から見ると目立ちます。こういう造りを「懸け造り」といって、城郭建築では珍しい事例です。

御湯殿(二の丸側)
御湯殿(本丸側)

次に進むと、角のところに櫓が見えます。外観復元された月見櫓で、現在は貸会場や、   「キャッスルステイ」の宿泊場所になっているそうです。城も多角化の時代です。

月見櫓

角を曲がって見えるのが、もう一つの外観復元された「鏡櫓」です。現在は「文書館」として使われています。

鏡櫓

更に進むと、公園の入口がまたあります。「東側階段ルート」で、北側や南側より緩やかになっています。現代になって 作られた通路です。

東側階段ルート

その脇には別の入口もあります。こちらが城のオリジナルの門跡です(東上り楯門跡)。ただし、本丸に直通はしていません。せっかくなので、こちらに進みましょう。

東上り楯門跡

そして、二の丸を回り込むと、外観復元天守の北側が見えるところに至り、黒い鉄板張りの面がよく見えます。この鉄板張りは、北側の防御のためとも、風雨への備えとも言われています。オリジナル天守の資料を参考に、現在の天守リニューアル(2022年)のときに復元されました。

外観復元天守(北側鉄板張り)
オリジナル天守の北側鉄板張りの古写真、現地説明パネルより

その先の、本丸搦手門(棗門)を通って行けば、天守の表側に到着します。

搦手門付近から見た天守

天守の中は歴史博物館になっていて、外観と一緒にリニューアルされました。水野勝成の放浪時代についての展示もあります(撮影できる範囲は限られています)。

天守内部の展示の一例
水野勝成のコーナー

最上階からは街を展望できます。南側は先ほど見学した本丸です。次は、北側に向かってみます。

天守からの眺め(東側)
天守からの眺め(南側)
天守からの眺め(北側)
天守からの眺め(北側)

城の弱点? 北側を歩く

これから、城の北側が弱点ということで、幕末に長州軍が大砲を放ったという、円照寺がある山に行ってみます。その途中では、長州軍と福山城兵が戦った場所という赤門や、水野勝成が上水道の水を溜めるために作った蓮池を、見学するといいと思います。

赤門、福山市HPより引用
蓮池

円照寺の標柱があるところから登っていきます。

山への登り口

寺の入口がありますが、まだ登り道が続きます。

円照寺入口

上の方は神社になっています(本庄八幡神社)。

本庄八幡神社

境内の奥の方が開けています。

境内の脇に進みます

この辺が頂上のようです。城は見えるでしょうか。

頂上付近

なんとか見えました、ツートンカラーの天守です。

円照寺山から見える天守

福山の歴史スポット巡り(関連史跡)

鞆の浦

最初の関連史跡として、鞆の浦(鞆ノ津)に来てみました。鞆の浦のシンボルとして常夜灯が有名です。また、古い町並みが残っていることでも知られています。

常夜灯
古い町並み

史跡としては、江戸時代に港として使われた、5つのアイテム(常夜灯、雁木、波止、船番所、焚場)が残っていることがとても貴重なのです。常夜灯は、そのうちの一つです。

雁木
波止
船番所
焚場(たでば、ドッグのような施設)

こちらは、鞆城跡です、江戸時代には奉行所が置かれていました。今は、歴史民俗資料館の敷地になっています。やはりここはいい場所で、鞆の浦全体を見渡すことができます。

鞆城跡
鞆の浦歴史民俗資料館
鞆城跡からの眺め

おすすめは、朝鮮通信使が宿泊した場所の一つ、福禅寺です。境内の対潮楼からの景色は「日本で一番美しい景勝地(日東第一形勝)」として賞賛されました。柱が額縁みたいで、絵になる風景です。

福禅寺
対潮楼からの眺め

草戸千軒

次のスポットは、中世の港町・草戸千軒跡です。ここは、近くにある明王院です。背景の五重塔・本堂は、鎌倉・室町時代に建てられたもので、国宝に指定されています。草戸千軒の町と同じ頃から存在していました。当時は常福寺といって、草戸千軒はその門前町でもあったそうです。

明王院

町は、ここから見える芦田川の中州あたりにありました。当時、川は別の所を流れていて、町は三角州の上にあったようです。環境の変化(自然及び社会)によって町が消滅し、伝説的存在になっていましたが、芦田川の改修作業中に遺跡が見つかり、発掘されたのです。幻の町が発見されたのです。でも、川の中の遺跡には行けません。

草戸千軒町遺跡

そこで、現地で発掘されたものや、研究の成果が、福山城近くの広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)で展示されています。

広島県立歴史博物館
発掘・展示されている遺物(貯蔵用の陶器)
発掘・展示されている遺物(建築部材の一つ、壁木舞)
発掘・展示されている遺物(舶来磁器)
発掘・展示されている遺物(信仰に関するもの)

それらを基に、復原された町並みを歩いてみることもできます。草戸千軒は地域の港町だったので、こういう町がいろんな所にあったのでしょう。

復原された町並み

神辺城

最後は、神辺城跡です。福山城の前にあった城です。黄葉山(こうようざん)という山の上に築かれましたが、近くに神辺歴史民俗資料館があって、山頂近くまで車で上がってくることができます。

神辺歴史民俗資料館
資料館の駐車場

さっそく城跡に進みましょう。山道をまっすぐ進むと、鬼門櫓跡に着きます。景色がよくて、周辺一帯を見渡すことができます。このあたりは、備後国分寺が置かれるなど、古代から栄えた場所だったのです。

鬼門櫓跡
備後国分寺の模型、神辺歴史民俗資料館にて展示

それでは、本丸に向かいましょう。今は曲輪の敷地が残っているだけです。しかし福島正則の領地だったときには、石垣の上に神辺一番櫓(天守)がありました。福山城築城時に石垣と一緒に移されたのです。福山城にその跡があります。神辺城本丸の回りには、わずかながら石垣が残っています。

本丸
福山城に移された神辺一番櫓の古写真、福山城現地説明パネルより
福山城の神辺一番櫓跡
神辺城本丸周りに残る石垣

本丸下には段状に曲輪が続いています。それぞれに「二番櫓」「三番櫓」「四番櫓」があって、これらも福山城に移されました。山の上にこんなに櫓が並んでいたのです。

本丸下に続く曲輪群
神辺城の二番櫓跡
福山城の神辺二番櫓跡
神辺城想像図、現地説明パネルより

こちら側の景色もいいです。この城は、この辺りでは最適の拠点だったことがわかります。

三番櫓跡からの眺め

私の感想

神辺城を見てから再認識したのですが、福山城は、ただ新しいお城として作られたのではなく、新しい町と土地を開発するために築かれたのではないでしょうか。現地に行って感じることがとても大事だと、改めて思いました。

ライトアップされた伏見櫓
ライトアップされた御湯殿
ライトアップされた天守

リンク、参考情報

福山城博物館
広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)
福山の郷土史、大和建設株式会社
御湯殿の変遷について、備後歴史訪訪倶楽部
・「放浪武者 水野勝成/森本繁著」洋泉社
・「初代刈谷藩主 水野勝成展」刈谷市歴史博物館
・「中世瀬戸内の港町 草戸千軒町遺跡 改訂版/鈴木康之著」新泉社
・「新版 福山城」福山市文化財協会
・「シリーズ藩物語 福山藩/八幡浩二著」現代書館
・「阿部正弘/後藤敦史著」戎光祥選書ソレイユ
・「青年宰相 阿部正方」福山城博物館
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「史跡福山城跡整備基本計画」2020年10月28日 福山市教育委員会
・「福山城伏見櫓に関する考察/佐藤大規氏論文」愛媛大学社会共創学部紀要第7巻第2号

「福山城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

142.苗木城 その3

武士たちがこの城を長い間守り続けました。

特徴、見どころ

馬洗岩、二の丸、写真スポット

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馬洗岩
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

頂上から別の道を下っていくと、この辺りでは一番大きい巨石が見えてきます。ちょうど天守台の下にあり、馬洗岩と呼ばれていて、その周囲は約45メートルもあります。自然の力の偉大さを感じさせます。

上から見た馬洗岩
横から見た馬洗岩
天守台の下の方にあります

二の丸は、頂上からはずっと下の方にあり、かつては城主のための御殿がありました。その御殿は曲輪からはみ出すように作られており、ここでも懸け造りの工法が採用されていました。

二の丸
二の丸は天守台からずっと下にあります

更に、城跡全景を見てみたいときは、帰り道に別のルートを通ると写真スポットがあり、そこから見える城跡の姿も壮観です。

足軽長屋跡近くの脇道を行きます
展望台から見た写真スポット(そこだけ木が伐採されています)
城跡全景
天守台もよく見えます

その後

明治維新後、苗木城は廃城となり、城の全ての建物は撤去されました。城があった山は、木々に覆われ自然に帰っていきました。しかし、石垣を含む城の基礎部分は健在であったため、1981年に国の史跡に指定されました。この城跡は近年、自然の岩と石垣の組み合わせ、素晴らしい景色などのユニークな特徴により、知られるようになってきました。ビジターから城跡の主要部がよく見えるよう樹木を伐採するようなことも行われています。

天守台を見上げています
天守台で見られる懸け造り、自然石、石垣のコラボレーション

私の感想

苗木城には、自然石を使った最も古い形式から、そこから進化したものまで、6つのタイプの石垣があったと言われています。これは、苗木藩が250年以上続いた平和な江戸時代じゅう、住むには厳しい環境下において、石垣を築き、修繕し続けたことによります。このことに、強い印象を受けました。

城跡入口付近で見られる「谷積み」
大矢倉跡の裏手、北門跡で見られる「打ち込みハギ」
大矢倉跡で見られる「切り込みハギ」
頂上への登り口周辺で見られる「野面積み」

そして、苗木城と似たケースがあることを思い出しました。それは九州にある岡城のことです。この城も、苗木城と同じように岩山の上に築かれました。この城も防御力は最高でしたが、住むにはとても困難なところでした。そのため、明治維新の後は武士たちはあっという間に城から消え去ってしまったのです。

岡城跡

ここに行くには

この城跡を訪れるには車を使われることをお勧めします。
中央自動車道の中津川ICから約10分のところです。城跡周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、中津川駅から、付知峡倉屋(つけちきょうくらや)温泉行きか、 加子母(かしも)総合事務所行きの北恵那交通バスに乗り、苗木バス停で降りてください。バス停から歩いて約20分かかります。
(期間限定で、中津川駅から城跡まで直行のバスが出ているようです。)
東京か大阪から中津川駅まで:東海道新幹線に乗り、名古屋駅で中央本線に乗り換えてください。

中津川市苗木遠山史料館の駐車場
城跡入口前の駐車場

リンク、参考情報

国指定史跡 苗木城跡 中津川観光協会公式Webサイト
・「東海の名城を歩く 岐阜編/中井均 内堀信雄編」吉川弘文館
・「日本の城改訂版第4号」デアゴスティーニジャパン
・「よみがえる日本の城16」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「苗木城その1」に戻ります。
「苗木城その2」に戻ります。

142.苗木城 その2

石垣と自然石が融合している城跡

特徴、見どころ

城跡の入口から中心部へ

現在、苗木城跡には建物は残っていませんが、石垣と自然石を組み合わせた壮大な城の基礎部分を今でも見ることができます。まず、城跡の入口から入ったすぐ後の足軽長屋跡から、展望台がある山頂のすばらしい遠景が見えてきます。

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天守展望台
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

城跡のジオラマ、現地説明板より
城跡入口
足軽長屋跡
城跡の遠景
現地にあるかつての城の想像図

それから、自然石と加工された石が混ざったような壁沿いに、城跡の中心に向かって歩いていくと、三の丸の着きます。この曲輪の場所には、もともと防御のための深い空堀があったのですが、後に建物の敷地を増やすために埋められました。

自然石と石垣が混在している壁面
城跡の中心部へ
大矢倉跡から見た三の丸

大矢倉跡、そして山頂へ

その手前は大矢倉跡で、巨石と石垣を組み合わせた台座が残っています。その天辺まで登っていくと、山の頂がもっと間近に見えます。

大矢倉跡
大矢倉跡から見た城跡中心部
城跡中心部から見た大矢倉跡

山頂に登っていくためには、岩肌に沿った狭く曲がりくねった通路を歩いて行く必要があります。その道沿いには、多くの門や建物の跡があります。過去には、このような狭いスペースに建物がひしめき合っていたのです。

坂下門跡
武器蔵跡
玄関口門跡
山頂に至る通路付近のかつての城の想像図、現地説明板より

そして、ついに山頂の本丸に到着します。そこは今はなにもありませんが、それでも広いとは感じないと思います。かつては城主の居間などいくつかの建物がありました。

山頂の本丸

本物の天守にも劣らない展望台

天守台は、そこにある巨石そのものであり、かつての天守の代わりに今では展望台がその上に乗っています。その展望台も、元の天守と同じように懸け造りで作られています。その柱は、天守と同じ柱穴を使って立てられています。天守がどんなに素晴らしかったか、容易に想像することができます。

元天守だった場所
展望台が天守台の岩の上に乗っています
懸け造りの展望台
柱は天守と同じ柱穴を使っています

その上、展望台のデッキは元の天守の最上階と同じ大きさ、高さに設定されています。そこからは、木曽川や中津川市街を含む周辺地域の絶景を楽しむことができます。きっと城主も同じ景色を眺めていたことでしょう。

展望台のデッキ
展望台からの眺め

「苗木城その3」に続きます。
「苗木城その1」に戻ります。