163.黒井城 その3

黒井城は地元の英雄である荻野(赤井)直正の城であるとともに、全国的に知名度がある明智光秀の事績でも知られています。

特徴、見どころ

山頂部分に到着

そこからもう少し登ると頂上です。2つ目のフェンス扉を過ぎると、これまで見てきた城跡とは別の姿が見えてきます。頂上にある曲輪群は全て石垣に囲まれています。これも山麓から見えていたものです。この城の姿の違いは、城のそれぞれの部分の完成時期によります。フェンス扉から上の部分は、明智光秀かその後の領主が完成させたもので、一方下の部分は荻野直正が築いてそのままになっているのでしょう。フェンス扉は恐らく、石垣に動物が侵入して破壊しないように設置されたのでしょう。

もうすぐ頂上です
2つ目のフェンス扉
手前の平坦地が東曲輪、奥は三の丸の石垣と左側面の入口

三つの曲輪と素晴らしい景色

山頂部分の縄張りは、三つの曲輪(手前の三の丸、真ん中の二の丸、後方の本丸)がつながった形になっていて、他の平坦な曲輪群(東曲輪など)に囲まれています。三つの曲輪にはそれぞれの側面に食い違いの虎口があります。石垣には自然石が使われていて、周辺の地域から集められたものです。歴史家は、これらの特徴は信長や家臣たちが築いた他の城でも見られると指摘しています。黒井城の石垣は、人々に権威を見せつけるために築かれたものとしています。

城主要部の地図

手前が三の丸、奥が二の丸
二の丸の入口
二の丸から三の丸の方を見ています
二の丸から本丸を見ています
本丸入口
本丸内部、「保月城(ほげつじょう)」は黒井城の別名

せっかく登ってきたので、最後は頂上からのすばらしいパノラマビューを楽しんでください。山麓から約200m登ってきた甲斐があると思います。

三の丸からの眺め
こちらは本丸からの眺め

その後

黒井城跡は1989年に国の史跡に指定されましたが、その場所は猪ノ口山にあるハイキングコースの一部にもなっていました。したがって、城跡を保存することと、ハイキングコースとして活用することの両立が必要です。丹波市は2018年に、黒井城跡整備基本計画を策定しました。そしてその計画に従って、山頂にある石垣によって作られた入口に保存のためのアルミニウム製の階段を設置しました。ところがハイカーからはその階段は景観を害するとの抗議が出たのです。その結果、階段は元のアルミニウムの地金の色から茶色に塗装されました。このような悩ましい議論が今後も続くと思われます。

茶色に塗られたアルミニウム製の階段(二の丸入口)

私の感想

私は現地で、赤井直正のTシャツを着て毎日登頂しているという方にお会いしました。その方にとって、黒井城は地元の英雄である直正の城なのだと思いました。一方丹波市などは、直正の跡継ぎから城を奪い、恐らくは石垣も築いた明智光秀との関わりも宣伝しています。この城は、全国的に知名度があるヒーローの業績でも知られているわけです。城跡の外観は、まさにその2つの時代を示していて、この城跡は日本の歴史における大いなる遺産と言えるのではないでしょうか。次回は、前回行けなかった直正が築いた他の砦群にも行ってみたいと思います。

山麓の休憩所にある直正(左)と光秀(右)のディスプレイ

ここに行くには

車で行く場合:舞鶴若狭自動車道の春日ICから約10分かかります。登山口手前にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR黒井駅から登山口まで歩いて約10分かかります。
東京から黒井駅まで:東海道新幹線に乗って、京都駅で山陰本線に乗り換え、福知山駅で福知山線に乗り換えてください。

リンク、参考情報

黒井城跡、丹波市ホームページ
・「明智光秀を破った「丹波の赤鬼」~荻野直正と城郭~/高橋成計著」神戸新聞総合出版センター
・「明智光秀の城郭と合戦/高橋成計著」戒光祥出版
・「日本の城改訂版第96号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「黒井城その1」に戻ります。
「黒井城その2」に戻ります。

163.黒井城 その1

黒井城は精強を誇った「丹波の赤鬼」荻野(赤井)直正の本拠地でした。明智光秀がこの城を包囲し落城寸前となりますが・・

立地と歴史

首都防衛のために重要だった丹波国

黒井城は、現在の兵庫県の一部に当たる丹波国西部にあった城です。丹波国は現在の人たちにはあまり馴染みがありません。国として大きくはなく、最終的には京都府と兵庫県に統合されてしまったからです。しかし、過去においては日本の首都だった京都のちょうど北西にあるという立地からとても重要視されました。特に戦国時代といった非常時には、京都を防衛したり攻撃したりするには、決定的な影響を及ぼす場所だったのです。1467年に応仁の乱が起こったときには、西軍の総大将だった山名宗全が丹波国を通過して上京しました。それ以来、丹波国の国人領主たちは中央政界を左右する政争や戦いに関与することになりました。

丹波国の範囲と城の位置

応仁の乱の様子、「真如堂縁起絵巻」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「丹波の赤鬼」荻野(赤井)直正の本拠地

赤井氏はそのような国人領主の一つで、細川氏のような京都を制圧した戦国大名に仕える一方で、丹波国での自らの影響力と領土の拡大に努めました。赤井直正は1529年に生まれ、幼少の頃に荻野氏に養子に出されました。赤井氏は、荻野氏の勢力を取り込むことで、より自分たちの存在を高めようとしたのです。それ以来、直正は苗字を荻野と改めましたが、生涯の間、実家の赤井家と一体となって活動しました。黒井城はもともと荻野氏の本拠地だったのですが、やがて直正のものとなりました。1554年、直正は養父の秋清(あききよ)を殺害します。これは秋清がその当時の天下人、三好長慶の支配に屈するという選択をしようとしたが、直正にとっては決して受け入れ難かったものだったためとも言われています。その後、直正は自身の通称を「悪右衛門」としています(当時の「悪」は単に「強い」という意味もありました)。しかし直正は一方で秋清を祀る寺も創設していて、これによれば彼の行動は個人的恨みに基づくものではなかったとも言えます。

荻野(赤井)直正のイラストレーション、現地説明版より

直正は政治家タイプではなく、優秀な将軍でした。たとえ時には国外の有力戦国大名のために働くことはあっても、他の国人領主と連携して一族の独立を維持したいと唯々欲していました。例えば1565年には、丹波国の守護代で三好氏を支持していた内藤宗勝を倒しました。丹波の北西隣りの但馬国の山名祐豊(すけとよ)が丹波国に攻めてきたときには、直正はこれを撃退し、逆に但馬国に攻め込みました。そして1575年には但馬の竹田城を占領するに至ったのです。この豪勇をもって、人々は彼のことを「丹波の赤鬼」と称しました。

竹田城跡

砦の集合体

黒井城は、標高海抜357mの猪ノ口(いのくち)山上に築かれました。その範囲はとても広く(全周は約8kmに及びます)、荻野氏の本拠地でした。ただ、城の形態としては当時全国的に見られた、自然の地形を生かした土造りの山城の一つでした。武士たちがきびしい戦国時代を生き抜くには、このような城に住み、自らを守る必要があったのです。広大な範囲をカバーするために、黒井城は砦の集合体として機能しました。本丸を含む城の主要部は山頂にあり、城の周囲や全ての支砦群を見渡せるようになっていました。そのため、城主はそこから各拠点の守備兵に指令を発することができたのです。それぞれの砦には明確な役割がありました。例えば、石踏(せきとう)の段や三段曲輪は、大手道上に築かれ、主要部の防衛を担っていました。東出丸は東の峰の防衛のために、西の丸は山上での居住地に使われていたという具合です。こういったやり方で、守備兵は敵からの攻撃を効率的に防げるようになっていました。唯一のこの城の弱点は、岩山であったためによい井戸がなかったことです。

黒井城跡の立体模型、春日住民センターにて展示

城周辺の起伏地図

直正の死後に明智光秀が占領

直正の精強さには、実際には自らに危機を招いてしまった面もあります。直正に攻め込まれた山名祐豊は、そのときの天下人、織田信長に助けを求めました。直正は一時は信長に臣従していたのですが、その時点ではその関係は解消されていました。信長もまた、重要な丹波国を直接統治することができる機会を狙っていました。信長は、重臣の明智光秀に命じ、1575年に丹波攻めを開始させました。最初は光秀の思い通りに事が進みました。有力な国人領主の一人、波多野秀治が光秀に味方したからです。光秀は次に直正の黒井城を包囲し、兵糧と水が尽きるのを待ちました。ところが、2ヶ月もの籠城で城が落ちるという寸前に、秀治が裏切ったのです。光秀は逆に攻められる側となり、撤退せざるをえませんでした。この結末は「赤井の呼び込み戦法」と呼ばれ、直正の評判をますます高めました。

明智光秀肖像画、本徳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
波多野秀治肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

黒井城は結局、直正の病死後の1579年に光秀によって占領されました。光秀は城を改修し、頂上に立派な石垣を築きました。城の強化を図るとともに、新しい支配者の権威を民衆に見せつけたのです。このやり方は、信長やその家臣たちが各地で度々行っていました。光秀は、重臣である斎藤利光を城代としました。この地は、利光の娘で後に将軍の大奥を取り仕切った春日局の出身地となります。光秀と利光は、1582年の本能寺の変で信長に反逆し殺します。しかし、次の天下人となる羽柴秀吉にすぐに討たれてしまいました。黒井城は、秀吉の何人かの家臣によって引き継がれますが、秀吉による天下統一の過程でやがて廃城となりました。領主や武士たちは、新しい時代に対処するために、必ずしも山城を必要としなくなったのです。

黒井城頂上部の石垣
春日局肖像画、麟祥院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「黒井城その2」に続きます。

171.備中高松城~Bicchu-Takamatsu Castle

この場所は秀吉の天下統一の出発点となりました。
This place was the start point of Hideyoshi’s unification of Japan.

立地と歴史~Location and History

織田と毛利の最前線~Front line between Oda and Mori

備中高松城は、備中国(現在の岡山県西部)と備前国(岡山県東部)の国境周辺にありました。この城の周辺地は、平坦で、沼地や足守川に囲まれていました。この城は典型的な「水城」で、最初は戦国時代に石川氏によって築かれました。
Bicchu-Takamatsu Castle was located around the boarder between Bicchu Province (the western part of now Okayama Pref.) and Bizen Province (eastern Okayama Pref.). The area around the castle is plain and was surrounded by marshes and the Ashimori-gawa River. The castle was a typical “water castle” and first built by the Ishikawa clan in the “Sengoku” or Warring States Period.

城の位置と備中国の範囲~The location of the castle and the range of Bicchu Province

1582年4月、織田信長は既に備前国を手に入れていましたが、毛利氏が保持していた備中国を攻めようとし、部下の羽柴秀吉(後の天下人豊臣秀吉)を派遣しました。
In April 1582, Nobunaga Oda who had already invaded Bizen Province aimed to invade Bicchu that the Mori clan had, sent his retainer Hideyoshi Hashiba (the later ruler Hideyoshi Toyonomi) there.

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵~The Portrait of Hideyoshi Toyotomi, attributed to Mitsunobu Kano, ownd by Kodaiji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

備中高松城の戦い~Battle of Bicchu-Takamatsu Castle

秀吉は当初は備中高松城を強攻しましたが、それは失敗しました。彼は攻め方を変え、長い堤防を築き、足守川の水を貯めて、城を水攻めにしました。その時、日本は梅雨の季節でした。城は完全に孤立してしまいます。この包囲戦は5月8日に始まり、約1か月続きます。一方で秀吉は、毛利の外交僧である安国寺恵瓊と講和の交渉をしますが、秀吉の講和条件は毛利にとって厳しすぎるものでした。
Hideyoshi at first attacked Bicchu-Takamatsu Castle, but failed. He changed his strategy to flood the castle by building long banks and damming the water from Ashimori-gawa River. It was just the rainy season in Japan at that time. The castle was completely isolated. The siege started on May 8th and lasted for about a month. Meanwhile Hideyoshi negotiated with Mori’s diplomatic priest, Ekei Ankokuji to make a peace treaty, but Hideyoshi’s conditions for the plan was too strict for Mori.

水攻めのジオラマ~The diorama of the flooding the castle(高松城址公園資料館)

秀吉は主君の信長に救援を要請し、交渉を成立させるか、決戦を行おうとしました。ところが、6月2日、信長は秀吉の援軍に向かうはずだった明智光秀に京都で殺されてしまいます。6月3日の夜、光秀から毛利への使者が偶然秀吉により捕らえられたと言われています。秀吉は主君の死を知り、当惑し嘆き悲しみますが、彼の軍師の黒田官兵衛が秀吉を励まし、天下を取る好機であると言ったといいます。秀吉はすぐに決心しました。彼は毛利との条件に妥協し、翌日には講和を結びました。毛利は事件のことを後日知りますが、時すでに遅しでした。秀吉は堤防を破り、周辺を水浸しにしたからです。
Hideyoshi asked his master, Nobunaga for help to finish the negotiation or have a showdown. However, on June 2nd, Nobunaga was killed in Kyoto by Mitsuhide Akechi who should be the reinforcement for Hideyoshi. It is said that the messenger from Mitsuhide to Mori was accidentally caught by Hideyoshi on the night of June 3rd. Hedeyoshi was upset and cried to hear about his master’s death, but his strategist, Kanbe Kuroda encouraged Hideyoshi and said this was the chance to take the power. Hideshori quickly made up his mind. He compromised his conditions with Mori, making the peace plan the next day. Mori knew about the incident after that, but they were too late, because Hideyoshi broke the banks to flood the area around.

明智光秀肖像画、本徳寺蔵~The Portrait of Mitsuhide Akechi, ownd by Hontokuji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、彼と1万人以上の兵士は、備中高松城から80km離れた本拠地の姫路城に2、3日で帰還しました。彼は全ての財産を兵士に分け与えました。勇躍した兵士たちは6月13日に光秀を打ち破ります。光秀の天下はたった11日で終わりました。(山崎の戦い)
Then, he and his over 10,000 soldiers turned back to their base Himegi Castle, about 80km from Bicchu-Takamatsu Castle in two or three days. He gave all of his properties to his soldiers. The braved troops defeated Mitsuhide on June 13th. Mitsuhide’s glory was only 11 days. (Battle of Yamazaki)

秀吉の動き~Hideyoshi’s movement

何が真相か~What is the truth?

ある作家は、この話はあまりに出来すぎだと言います。秀吉と毛利との講和の成立があまりに早すぎるというのです。講和条件には城主の清水宗治の死が含まれていました。たった1日でこのような重要な決定がなされ、実行されるものなのでしょうか。その作家は秀吉は事件の発生を予測し、準備を進めたのではないかと推測しています。更には、毛利方の僧侶恵瓊もそれを知っており、秀吉と共謀したのではないかということです。彼らは事の成就を待っていたのです。
A writer says that story was too good to be true. He argued that it was too quickly to make the decision between Hideyoshi and Mori. The conditions included the death of the castle’s lord, Muneharu Shimizu. How could they decide and execute such important matters within one day? He speculates that Hideyoshi had predicted the incident would happen and had prepared for that. In addition, the Mori’s priest Ekei might have known and shared that with Hideyoshi. They were just waiting for the result.

清水宗治の首塚~Muneharu’s grave

また、秀吉の早すぎる移動にも疑いがあります。この事自体は事実です。疑問点は、なぜ疲れ切った前近代の軍隊がこんな事ができたかです。姫路城での財物を含め、移動の準備も予め行っていたに違いないのです。この作家は秀吉は、光秀に信長を討つよう仕向けていたと考えています。
He also had doubts about Hideyoshi’s fastest movement. It is a fact. The question is why the tired pre-modern troops could do this. They must have also prepared for the movement as well as the properties in Himegi. The writer guessed Hideyoshi might lead Mitsuhide to attack Nobunaga.

姫路城~Himeji Castle

特徴~Features

城跡~The ruins of the castle

現在、備中高松城跡は、水上公園として一般に公開されています。実にのどかな雰囲気が漂っていて、資料館ではその歴史を深く学ぶことができます。本丸跡には、宗治の首塚などが残っています。
Now, the ruins of Bicchu-Takamatsu Castle is open to the public as a water park. It has a relaxed atmosphere, and a museum where we can lean more about its history. At the ruins of the Main Enclosure or Honmaru, Muneharu’s grave and so on remain.

水上公園~The water park
高松城址公園資料館~Takamatsu Castle Ruins Park Museum
本丸跡~The ruins of the Main Enclosure

堤防跡~The ruins of the bank

それから、「蛙が鼻」堤と呼ばれる秀吉が築いた堤防跡にも行ってみることをお勧めします。この堤防は約5mの高さと約3kmの長さでした。この堤跡は、堤防の端に当たっており、現在は当時より低くなってしまったように見えます。しかし、実際に見てみることで、堤防がどんなに巨大だったか想像することができるでしょう。
I also recommend you visiting the ruins of the banks Hideyoshi built called “Kawazugahana” bank. The banks had about 5m height and about 3km length. The ruins were just at the edge of the banks, and look lower than in the past, but you can imagine how large the banks were by seeing them.

「蛙が鼻」堤~“Kawazugahana” bank
土俵を埋めた跡~The ruin of buried earth bags
堤跡の遠景~A distant view of the ruins of the bank

その後~Later History

戦いの後、城は宇喜多氏の所有となりました。江戸時代には、城は廃城となってしまいますが、本丸跡地に将軍の旗本が住んでいました。城跡は、1929年に国の史跡に指定されます。1985年には城跡周辺の地域は、豪雨による水害に見舞われますが、城跡は沈まなかったそうです。現代になって、城の立地の確かさが証明されたわけです。
After the battle, the Ukita clan under Hideyoshi took over Bicchu-Takamatsu Castle. In the Edo Period, the castle was abandoned, and a Shogunal retainer lived at the ruins of Honmaru. The ruins were designated as a National Historic Site in 1929. In 1985, the area around the ruins suffered natural flood from harsh weather. However, the ruins never sunk. That prove the good location of the castle in present day.

洪水時(上)と普段(下)の地域の写真~The photo of the area, the upper is when flooding, the lower is usual(高松城址公園資料館)

私の感想~My Impression

秀吉は、彼の主君、信長の身に何かが起こることを予測していたはずです。彼はそれを信長に告げずに、独立の準備を進めたのです。彼もまた戦国武将の一人でした。むしろ驚くのは、恐らくは一部は彼自身が作ったであろう劇的な物語を、ほとんどの日本人が定説として信じていることです。秀吉恐るべし。
I think Hideyoshi must have predicted something would happen to his master, Nobunaga. He didn’t inform that to Nobunaga to prepare for his independence. He was just one of warlords. I’m rather surprised that his dramatic story probably partially made by himself has been believed to be the theory by most of Japanese people. He is incredible!

『高松城水攻築堤の図』、月岡芳年作、19世紀~”Water siege of Takamatsu castle”, attributed to Yoshitoshi Tsukioka, in the 19th century(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここに行くには~How to get There

車で行く場合:山陽自動車道の岡山ICから約10分かかります。城址公園に駐車場があります。
電車で行く場合:JR備中高松駅から歩いて約10分です。
東京、名古屋または大阪から備中高松駅まで:新幹線で岡山駅まで行き、吉備線に乗り換えてください。
If you want to go there by car: It takes about 10 minutes from the Okayama IC on Sanyo Expressway. The park offers a parking lot.
If you want to go there by train: It takes about 10 minutes on foot from JR Bicchu-Takamatsu Station.
From Tokyo, Nagoya, or Osaka to Bicchu-Takamatsu Station: Take the Shinkansen super express and transfer to Kibi local line at Okayama Station.

リンク、参考情報~Links and References

備中高松城址、おかやま観光ネット(Okayama pref. Official Site)
・「秀吉はいつ知ったか/山田風太郎著」ちくま文庫(Japanese Book)
・「よみがえる日本の城5」学研(Japanese Book)