86.大野城 その1

大宰府政庁は、九州諸国の支配や中国・朝鮮との外交を取り扱う「遠の朝廷(とおのみかど)」でした。大野城は、この大宰府の守護神だったのです。政庁の南門跡、正殿跡などには、柱が立っていた石(礎石)が並んでいます。そして、正殿跡に立つ石碑の背後には山が控えています。山は四王子山といいますが、その上に大野城があったのです。

立地と歴史

Introduction

今回は、まず大宰府政庁跡に来ています。大宰府政庁は、九州諸国の支配や中国・朝鮮との外交を取り扱う「遠の朝廷(とおのみかど)」でした。大野城は、この大宰府の守護神だったのです。政庁の南門跡、正殿跡などには、柱が立っていた石(礎石)が並んでいます。そして、正殿跡に立つ石碑の背後には山が控えています。山は四王子山といいますが、その上に大野城があったのです。この記事では、大宰府や大野城の成立と、歴史的背景についてご説明します。それらは、古代日本が迎えた危機と大きく関係しているのです。

大宰府政庁南門跡
大宰府政庁正殿跡と四王寺山

白村江敗戦後の防衛体制

大宰府と大野城が作られる少し前の、7世紀前半、朝鮮半島には3つの国が並び立っていました(高句麗・新羅・百済)。中国大陸では、618年に統一王朝の唐が成立し、朝鮮半島に勢力を伸ばそうとしていました。唐はまず、新羅と同盟して、百済を滅ぼします(660年)。百済の遺民は国の復興を目指し、友好関係にあった倭国(以下日本と表記)に救援を要請しました。皇太子で実力者だった中大兄皇子は援軍を送る決意をし、その結果起こったのが白村江の戦いだったのです(663年)。しかし日本・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗しました。その結果を受けて、皇子が恐れたのが、唐・新羅による日本侵攻でした。皇子は、日本の防衛体制を整備していくのです。

白村江の戦いの図(licensed by Samhanin via Wikimedia Commons)

朝廷の正史「日本書紀」によれば、敗戦の翌年(664年)、に対馬・壱岐・筑紫などに防人と烽火を配備し、警備体制を作りました。また九州北部に、防衛線として水城を築きました(下記補足1)。そして665年には、百済からの亡命官僚を派遣して、水城の背後に、大野城、基肄城を築城したのです(下記補足2)。

(補足1)(天智天皇3年)対馬嶋(つしま)・壱岐嶋(いきのしま)・筑紫(つくし)国等に防人(さきもり)と烽(すすみ)とを置く。また筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城(みずき)という。(日本書紀)

(補足2)「(天智天皇4年8月) 達率答㶱春初(だちそちとうほんしゅんそ)を遣わして城を長門(ながと)国に築かしむ。達率憶礼福留(おくらいふくる)・達率四比福夫(しひふくぶ)を筑紫国に遣わして大野(おおの)及び椽(き)二城を築かしむ。(日本書紀)

水城跡
大野城跡
基肄城跡

水城・大野城・基肄城は、直接には大宰府を守るために築かれました。それまでも大陸との外交や軍事を担う拠点はあったと考えられますが「大宰府」として整備されたのは、この頃のようです。その任務を行うだけなら、もっと海岸に近い方がよかったのを、きっと防衛のことも考えて、今遺跡が残っている場所にしたのでしょう。その後も整備は進み、朝鮮への最前線の対馬(金田城)からお膝元の大和(高安城)まで、城を築きました(667年)(下記補足3)。

(補足3)(天智天皇6年11月) 倭(やまと)国高安城(たかやすのき)・讃吉(さぬき)国山田郡の屋嶋城(やしまのき)、対馬国の金田城(かなたのき)を築く。(日本書紀)

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基肄城
金田城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
主要な古代山城の位置

金田城跡

中大兄皇子は、667年には、奈良の飛鳥から内陸の大津に都を移します。そして668年に即位し、天智天皇となりますが、670年に最初の戸籍「庚午年籍」を作成したのは、徴兵を行うための準備だったという意見があります。

大津宮跡 (licensed by Saigen Jiro via Wikimedia Commons)

ところで、天智天皇が築かせたのは、どんなお城だったのでしょうか。その頃のことなので、天守や高石垣はなかったとしても、山の上に曲輪をいくつも築いて、館や櫓をたくさん建てて、戦いに備えたのでしょうか。しかしそれは、中世の武士が築いたお城のイメージで、今回出てくるお城は「古代山城」または「朝鮮式山城」といわれるユニークなものだったのです。

古代山城とは?

古代山城または朝鮮式山城は、朝鮮で確立し、百済からの亡命者の指導のもとに、日本に導入された築城方式によって築かれました。先ほどご説明した通り、朝鮮半島では内乱や外国からの侵攻が続いていました。この築城方式は、土塁や石垣によって山を囲ってしまうというやり方で、当時の朝鮮の人たちは、敵軍が攻めてくると、その山城に逃げ込み、敵の補給を切れるのを待って、反撃に転じるという戦法を取っていました。一旦逃げ込む先として準備していたのです。その城の中には、倉庫などを建てて、備蓄もしていたのでしょう。この方式が、唐・新羅の連合軍による侵攻に備える日本にも、導入されたのです。

山を囲む土塁は、地形を生かしながら「版築(はんちく)」という方法で築かれました。板で囲った中に土を入れ、踏み固め、それを何層にも重ねていくのです。岡山県の鬼ノ城跡では、復元された版築土塁を見ることができます。土だけでこんな城壁ができるのです。その間には、城門や、角楼といって敵を攻撃するための施設も作られました。

版築を築くイメージ、大野城市ウェブサイトより引用
鬼ノ城の復元された版築土塁

石垣の方ですが。通常の城壁として使われる他、谷部分に作られた水門や、特別に防御や補強が必要な部分にも使われたようです。こんな大昔に石垣を使った城があったのです。これも、朝鮮半島からの技術導入だったのでしょう。しかし残念ながら、日本国内では技術承継されなかったと考えられます。それで石垣を本格的に使った最初の城は、信長の時代からとか言われるのでしょう(他に沖縄のグスクの事例あり)。

基肄城の水門石垣

古代山城は籠城に特化していたので、内部はシンプルで、兵舎・倉庫・貯水池などが作られました。

鞠智城の復元兵舎(licensed by 小池隆 via Wikimedia Commons)

ところで先ほど「日本書紀」に記録されている古代山城をご紹介しましたが、実は記録されていなくても、同じ目的で築かれたと思われる城跡も発見されています。版築のところで出てきた「鬼ノ城」はそのうちの一つです。そういった城跡が16ヶ所発見されていて「神籠石系山城」という名称で分類されています。最初、城跡の石列が発見されたときに、城の記録もないので、呪術や信仰のための遺跡と解釈されたときの名称を引きずっているのです。便宜上、記録があるものは「朝鮮式山城」ないものは「神籠石系山城」と分類する場合もあります。ただ、実態が同じであれば、分類することに意味がないという意見もあります。

鬼ノ城跡

大野城築城と外交戦

大野城は、古代山城の中でも最大級のもので、南北約3km、東西約1.5kmの範囲に、総延長約8kmの土塁を巡らせていました(外周は約7km)。地形図を見ると、山の峰をうまく使っていることがわかります。特に南北の部分は、土塁が二重になっています。さすが守護神だけあって、厳重です。規模が大きいので城門も多く、現在のところ、9ヶ所が確認されています。そのうち、大宰府につながる太宰府口城門は、重要な門の一つだったと考えられます。要の部分では石垣も築かれていて、大石垣など6ヶ所確認されていますが、特に百間石垣は、150メートル以上の長さで、北側の内周の土塁上にあります。

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Leaflet|国土地理院
城周辺の起伏地図

太宰府口城門跡
百間石垣

内部では、8地区、約70棟の建物跡が確認されていて、大部分が米を備蓄した倉庫と考えられています(櫓や役所のような建物もあった模様)。籠城戦の備えだけでなく、災害や飢饉に備えるという用途もあったのではないでしょうか。

増長天礎石群

大野城に築城に関わった亡命百済人として、憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくふ)の2人が日本書紀に記録されています。百済の都・扶余の扶蘇山城(プソサンソン)になぞらえたとも言われています。都の姿を再現させたかったのでしょうか。

百済の都・扶余と扶蘇山城の図、大野城市ウェブサイトより引用

その後は、史実の通り、唐・新羅は攻めてきませんでした。単純に助かったと思ってしまいますが、その裏では熾烈な外交戦があったのです。実は白村江の翌年から2年続けて、唐の外交団が来日しているのです。目的は記録されていませんが、何らかの要求があったのかもしれません。日本側は外交団に応対しながら、防衛体制を整備したのです。和戦両様です。唐は、百済の次は、高句麗を滅ぼそうとしていました。その最中の666年から、今度は高句麗が3回も日本にやってきます。これは明らかに救援要請だったのでしょう。667年には唐も、わずか4日間の滞在で、日本に使いを寄越しています。結局日本は、高句麗には加担せず、更に防衛体制を固めていきます。唐・新羅は、668年に高句麗を滅ぼしました。

そうなると、唐の次の狙いはどこでしょうか?日本と新羅は、その辺りから接近し始めていました。また、その頃、唐が日本に遠征するとの噂が流れていて(下記補足4)、日本が669年に遣唐使を派遣したり、唐からは671年に、捕虜を送還する目的で、2千人が来日したりしました。虚々実々の駆け引きに思えてしまいます。最初の戸籍が作られたのがその頃です。しかし結局、唐と新羅が戦いになり、675年に唐が撤収することで、新羅が朝鮮半島を統一するのです。そうなると、新羅と仲良くしていれば、日本の地位は安定します。結果的に、古代山城を実際に使わなくて済んだのです。ただ、来るか来ないか待っていたわけではなかったのです。やがて、701年に高安城が廃城になるなど(下記補足5)、古代山城の多くは廃止されたと考えられます。

(補足4)又消息を通じて云う、国家(唐)船艘を修理し、外倭国を征伐に託し、其の実新羅を打たんと欲す 百姓之を聞き、驚愕不安す(「三国史記」新羅本紀)

(補足5)高安城を廃(と)め、その舎屋、雑の儲物を大和国と河内国の二国に移し貯える。(続日本紀)

その後

ところが、大野城を含む大宰府周辺の3城は修繕され、存続したのです。籠城の準備のためでなく、常設の備蓄倉庫として使われたと考えられます。大野城の場合、倉庫が増築されていて、籠城用にしては多すぎるからです。

大野城の倉庫想像図、現地説明パネルより

また、新たに別の役割も与えられました。774年、城内に四王寺が建てられ、四天王像が置かれたのです。その頃、日本と新羅との外交関係が悪化していて、新羅が日本を呪詛しているという情報があって、それに対抗するためだったのです(下記補足6)。当時は、神仏や祈りの力も、物事を左右すると信じられていたのです。やり方は変わっても、守護神(仏)だったのです。この寺では、疫病の退散も祈願されました。仏教は。国家鎮護のための手段の一つだったのです。その頃は、敵国も疫病も、一緒の扱いでした。それ以来、お城の山が「大野山」「大城山」から「四王寺山」と呼ばれるようになりました。

(補足6)太政官符す 応に四天王寺埝像四躯を造り奉るべきこと〈各高さ六尺〉
(中略)聞くならく、新羅の兇醜、恩義を顧みず、早く毒心を懐き常に咒咀を為し、仏神誣し難く、慮或いは報応す。宜しく大宰府をして新羅に直する高顕の浄地に件の像を造り奉り、その災いを攘却せしむべし。よりて浄行僧四口を請い、おのおの像の前に当たり、一事以上最勝王経四天王護国品に依りて、日は経王を読み、夜は神咒を誦せ。但し春秋二時一七日ごとに、いよいよ益々精進し法に依りて修行せよ。よりて監已上一人その事を専当せよ。
(中略)供養の布施は並びに庫物および正税を用いよ。自今以後、永く恒例と為せ。(「類聚三代格」宝亀5年(774年)3月3日官符)

かつて四王寺があっと思われる付近にある毘沙門堂

大宰府と大野城の施設は、平安時代には衰退してしまったようですが、四王寺は、中世まで存続したと考えられています。その頃には、周辺で経塚が築かれ、そこにお経が収められていました。国の施設がなくなっても続いたということは、人々の祈りの場になったということです。:戦国時代には、中腹に岩屋城が築かれて、山の一部がお城として使われましたが、江戸時代(寛政年間)には「四王寺山三十三石仏」がお参りの場として作られました。昭和時代まではお参りが盛んだったようで、今でも石仏たちが残っています。城と山の歴史が、ずっと引き継がれているのです。

経塚に納められた経瓦の事例、東京国立博物館にて展示
岩屋城跡
四王寺山三十三石仏(十六番)

「大野城 その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

186.金田城 その1

金田城は、西日本にあった古代山城のひとつでした。これらの城は、663年に朝鮮で起こった白村江の戦いの後、朝廷によって築かれました。金田城は唐・新羅連合軍の侵攻の恐れに対峙する最前線に当たりました。金田城ががあった対馬は朝鮮からわずか約50kmのところに位置していたからです。

古代山城(朝鮮式山城)の一つ

金田城は、西日本にあった古代山城のひとつでした。これらの城は、663年に朝鮮で起こった白村江の戦いの後、朝廷によって築かれました。日本は百済を助けようとしましたが、唐と新羅の連合軍に敗れました。天智天皇は、連合軍による日本侵攻を恐れ、城の建設を命じたのです。金田城は連合軍の侵攻に対峙する最前線に当たりました。金田城ががあった対馬は朝鮮からわずか約50kmのところに位置していたからです。

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基肄城
金田城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
主要な古代山城の位置

白村江の戦いの図 、緑色部分が百済、青色部分が新羅 (licensed by Samhanin via Wikimedia Commons)

古代山城はまた、朝鮮式山城と呼ばれていて、これは朝鮮で確立し、百済からの亡命者の指導のもとに日本に導入された築城方式です。古代朝鮮(現在の北朝鮮と韓国に相当)では、中国からの侵攻と三国(百済、新羅、高句麗)による内乱が続いていて、多くの戦いが起こっていました。この築城方式は、石垣もしくは土塁により山の周りを囲ってしまうというやり方で、後に確立した日本式の城郭とは随分違っていました。当時の朝鮮の人たちは、敵軍に攻撃されると山城に逃げ込み、敵の補給が切れるのを待ってから、反撃に転じるという戦法を取っていました。この方式が、唐・新羅の連合軍による侵攻に迅速に備えるため、日本にも適用されたのです。

金田城跡のジオラマ、対馬観光情報館にて展示

山の全周を囲む石垣

朝廷は、最初の古代山城として、664年に水城を建設しました。その後、最古の公式の歴史書である「日本書紀」によると、大野城基肄(きい)城が665年に、高安城・屋島城・金田城が667年に築かれました。トータルでは、記録されているものもされていないものも含め、30近くもの古代山城が、想定された侵攻ルートである北九州から瀬戸内海に沿って築かれたと考えられています。また、朝廷は「防人(さきもり)」と呼ばれた兵士を東日本から徴発し、北九州地方に送って防衛と監視にあたらせました。それとともに、狼煙(のろし)によって情報伝達が迅速にできるようになっていました。

水城跡
大野城跡
基肄城跡

金田城は、対馬の中心部の浅茅(あそう)湾に面した城山(じょうやま)に築かれました。城は、現在の厳原(いずはら)港近くの対馬国府から北に約15km離れたところにありました。これは恐らく、城の使われ方が朝鮮の場合に準じて、避難所という位置づけだったからと思われます。その全周は約2.2kmで、大半が石垣によって囲まれていました。大半が土塁によって囲まれていた鬼ノ城(きのじょう)などの他の山城とは対照的です。金田城の北側と西側は、山の険しい峰に沿っていて、自然の要害となっていました。一方、南側は谷に向かって開いていて、城の入口であったようです。また、東側は湾に面していました。よってそれらの場所では、門や高石垣が築かれたりしていました。発掘の結果によると、城の内側には官庁や倉庫の建物はなく、防人が駐屯した兵舎のような建物があったと考えられています。

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城山山頂
Leaflet|国土地理院
城周辺の航空写真

浅茅湾
金田城の石垣(東南角石塁)
鬼ノ城の土塁

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城山山頂
Leaflet|国土地理院
城周辺の起伏地図

侵攻の脅威が遠のき短期間で廃城

城が築かれた一方で、外国との交渉が続けられていました。例えば、666年に唐と高句麗との戦いが始まりましたが、両方の国が日本に支援を求めてきました。天智天皇は667年に飛鳥からより内陸の大津に都を移しました。そして、恐らくは徴兵の準備のために670年に最初の戸籍(庚午年籍)を作成させました。668年に唐が高句麗を滅ぼした後は、日本と唐の緊張関係はピークに達しました。そのとき唐は実勢に、日本遠征計画を立てていたと言われています。しかし、670年に唐と新羅との戦いが始まったことで、その計画は中止になりました。そして新羅が唐を撃退し、676年に朝鮮統一を果たす結果となります。天智の跡をついだ天武天皇は新羅との友好関係構築に努め、日本への深刻な脅威は遠のきました。

大津宮跡 (licensed by Saigen Jiro via Wikimedia Commons)

その結果、古代山城を維持する必要がなくなりました。金田城を含む多くの古代山城は、7世紀の終わり頃までは修繕や拡張がなされていました。しかし、金田城については、8世紀初頭には廃城になったと考えられています。日本の最古の歌集である「万葉集」が8世紀終わり頃に編纂されましたが、そこには対馬で任務にあたっていた防人の短歌が収められています(巻14-3516:対馬の嶺は下雲あらなふ可牟の嶺にたなびく雲を見つつ偲はも)。しかし興味深いことに、この短歌が世に出たのは、城が廃城となってから1世紀近く経ってからということになります。金田城が現役であったのはわずか30~40年のことでした。

金田城跡(一の城戸)

「金田城その2」に続きます。

184.基肄城~Kii Castle

見張り台のような城
A castle like a lookout

立地と歴史~Location and History

古代山城の一つ~One of Ancient Mountain Castles

基肄城は、西日本にあった古代山城の一つです。663年に朝鮮で起きた白村江の戦いの後、朝廷により築かれました。日本は百済を助けようとしましたが、唐と新羅の連合軍に敗れたのです。天智天皇は、この連合軍による将来の侵攻の可能性を恐れ、百済からの難民の助けも借り、これらの城の築城を命じたのです。そのため、これらの城は「朝鮮式山城」とも呼ばれています。
Kii Castle is one of ancient mountain castles in western Japan. It was built by the Imperial Court after the Battle of Baekgang, Korea in 663. Japan tried to help Baekje, but was beaten by the ally of Tang and Silla. Emperor Tenchi, worried by the future possibility of invasion by this alliance, ordered the construction of these castles with the help of Baekje refugees. That’s why these castles are also called “Korean style mountain castles”.

白村江の戦いの図~The map about the Battle of Baekgang(licensed by Samhanin via Wikimedia Commons)

城特有の役割~Castle’s own Role

基肄城は、九州地方で記録がある五つのうちの一つです。その他は、大野水城麹池、そして金田です。それぞれの城には独自の役目がありました。基肄城は、物見のための城だったように思います。もし、連合軍が日本を攻めた場合、2つの考えられる侵攻ルートがありました。両方とも最初は金田城が築かれた対馬海峡にある対馬は通るでしょう。そして、壱岐島の辺りで2つに分かれることが推測され、一つは北の方角から博多湾経由で福岡平野に上陸し、もう一つは西の方角から有明湾経由で佐賀平野に上陸するものです。
Kii Castle was one of the five recorded ones in Kyushu region. The others were Ono, Mizuki, Kikuchi, and Kaneda. Each castle had its own role. I think Kii Castle was kind of a lookout castle. If the ally were to attack Japan, there would be two possible routes to enter from. Both would first pass through Tsushima Island on Tsushima Strait where Kaneda Castle was built. There are speculations that the routes may be divided around Iki Island, one would land on the Fukuoka plain through Hakata Bay from the north direction, and the other would land on the Saga plain through Ariake Bay from the west direction.

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基肄城Kii Castle
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
九州地方の5つの記録された古代山城の位置~The location of five recorded ancient mountain castles in Kyushu region

基山(標高404m)の上にあり、その頂上からは福岡、佐賀両平野が見渡せます。この城は主に佐賀の防衛の備えとされ、一方水城は福岡の方の備えとされました。基山には3つの峰(山頂、北峰、東峰)があり、南方になる谷を取り囲んでいました。それらの峰に沿って土塁が築かれ、その総延長は3.9kmありました。南側の谷には石垣が築かれ、排水口により水量を調整していました。城には4つの門があり、内側には倉庫や兵舎など多くの建物がありました。
Kii Castle was built on Kizan mountain (404m above sea level) and from its top both the Fukuoka and the Saga plains are visible. It was mainly prepared for the protection of Saga, while Mizuki was built for the protection of Fukuoka. Kizan mountain has three ridges (the top, the North Peak, and the East Peak) surrounding the valley on the south. The earthen walls were built along the ridges whose overall length was 3.9km. The stone walls were also built on the southern valley which had drains to control water. The castle had four gates and lots of buildings inside such as warehouses and barracks.

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山頂Top
Leaflet|国土地理院
城周辺の起伏地図~The relief map around the castle

戦国時代に再利用~It was reused in Sengoku Period

古書によれば、基肄城は665年に築かれ、698年に修繕されました。結果的には連合軍は幸いにも日本を攻撃しませんでした。城の倉庫や兵舎は8、9世紀頃はで使われたとする歴史家もいます。15、16世紀頃、戦国時代として知られる時期には、その立地の良さから戦国大名によって再び城は使われました。
Old books say that Kii Castle was built in 665, and repaired in 698. As a result, the ally fortunately did not attack Japan. Some historians believe that the castle’s warehouses and barracks were used until around the 8th and 9th centuries. Around the 15th and 16th centuries which is also sometimes known as “Sengoku” Period or the Warring State Period, the castle was used again by some warlords, because of its good location.

戦国時代の城跡~The ruins of the castle in the Sengoku Period

特徴~Features

現在(2021年2月)、城跡の中心部に入ることと、全体を歩き通すことはできません。2018年の西日本での豪雨によりこの辺りが深刻な被害を受けたからです。行政がこの地域の道路と山道の通行を禁止しているのです。このため、観光客は行政が許可したいくつかの地点のみ見ることができます。それでは、現在行くことができる2つの地点をご紹介しましょう。
Now (in February 2021), it is impossible for anyone to enter the center of the castle ruins, and walk straight through the whole area. This is because the area was seriously destroyed by the heavy rain in western Japan in 2018. The local government bans the use of roads and trails in that area. For this reason, visitors are able to see only some spots that the Local Government has opened. I will describe two spots you can visit now.

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基山山頂Summit of Kizan mountain
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図~The map around the castle

基山山頂~Summit of Kizan

ここは城の最高地点だった所で、土塁の西側部分に当たります。そしてまた戦国時代の城の本丸でもありました。その外側は急坂になっていて、現在ではグラススキー場のゲレンデとして使われています。山頂の麓には駐車場があり、城跡を訪れる際駐車することができます。15分程山頂の方に登っていくと、その途中に沢山の溝が見えてきます。それは何か入口のように見えるかもしれませんが、実は戦国時代の城主により作られた「いものがんぎ」と呼ばれる空堀跡なのです。
This was the highest spot of the castle and the western part of the earthen walls, as well as the Main Enclosure of the castle in Sengoku Period. The outside is steep slope, so it is now used as a grass ski ground. There is a parking lot on the foot of the summit where you can park your cars while visiting the ruins. Its 15 minutes climb to the top and on the way you will see many ditches . You may think they are some of the entrances, but they are, in fact, ruins of dry moats called “Imono-gangi”, made by the lord of the Sengoku castle.

土塁外側の急坂~The steep slope outside of the earthen walls
「いものがんぎ」と呼ばれる空堀跡~The ruins of dry moats called “Imono-gangi”

その空堀を越えていくと、土塁の上のよく開けた場所に至ります。土塁は南北に走っています。北の方角には基肄城を示す標識があり、福岡平野を望むことができます。
Over the dry moats, you will enter the widely open area, on the earthen walls. You can see the ridge of the mountain, the earthen walls, that goes both north and south. You can also have a view of the Fukuoka plain with the signboard of Kii Castle on the north.

基肄城の標識~The signboard of Kii Castle
福岡平野の眺め~A view of the Fukuoka Plain

次に、反対側の南の方角に向かってみると、人工の土盛りが見えてきます。これらは戦国時代の本丸の跡なのです。この本丸は山の頂に作られたのです。もう一つ、天智天皇に関わる記念碑がここにあります。山頂からは、佐賀平野を見渡すことができます。
Next, if you go to the opposite side on the south, you can find artificial mounds, which are also the ruins of the Main Enclosure in Sengoku Period. The Enclosure is situated on the top of the mountain. There is another monument for Emperor Tenchi. You can also see the Saga plain from the top.

南の方角を見る~Lookng at the south direction
戦国時代の本丸跡~The ruins of the Main Enclosure in Sengoku Period
天智天皇の記念碑~The monument for Emperor Tenchi
佐賀平野の眺め~A view of the Saga Plain

水門跡~Ruins of Water Gate

この場所は、城の南の部分に当たり、谷を埋めるため、水門と共に石垣が築かれました。石垣と水門の一部が今に残っています。ここに行くには違う道筋を進む必要があります。現存の石垣は全長26m、高さ8.5mあります。水門は石垣の下に設置され、住吉川の水を内側から外側に排出しています。
This spot was located on the southern part of the castle where the stone walls were built with the water gate to fill the valley. Part of the stone walls with the gate remain now. To visit them, you have to take a different route. The remaining stone walls are 26m long and 8.5m tall. The water gate is placed under the wall to drain the water of Sumiyoshi-gawa River from the inside to the outside.

水門跡~The ruins of the water gate(licensed by Wxrx via Wikimedia Commons)

その後~Later History

江戸時代(18、19世紀頃)においてでも、人々は基肄城が古代の遺跡であることを認識していました。というのは、公式の歴史書である「日本書紀」にこの城のことが記録されていたからです。城跡は最終的に1954年に国の特別史跡に指定されました。
Even in the Edo Period (around the 18th and 19th centuries), people recognized Kii Castle as ancient ruins, because the castle have been recorded in an official history book called “Nihon-Shoki”. The ruins were finally designated as a Special National Historic Site in 1954.

基肄城の土塁~The earthen walls of Kii Castle

私の感想~My Impression

私が基山山頂を訪れたとき、その山頂からは福岡・佐賀両平野の素晴らしい景色が見えました。そのときこの城はとても良い立地にあることが理解できたのです。役所によると城跡の中心地の道路は2022年3月までに復旧するとのことです。その後またこの城跡を訪れてみたいと思います。
When I visited the summit of Kizan, and saw great views both of the Fukuoka and Saga plains from the top, I really found out the castle had a very good location. The local government says that the roads in the center of the ruins will be repaired by March 2022. I would like to visit them again after that.

基山山頂付近~Around the top of Kizan mountain

ここに行くには~How to get There

ここには車で行くことをお勧めします。
九州自動車道の筑紫野ICから5km以内のところです。
もし基山町役場に立ち寄ることができれば、職員の方が城跡への道のりを詳しく教えてくれます。
I recommend you to go there by car at this point.
The ruins are within 5 km away from the Chikushino IC on Kyushu Expressway.
If you drop by at the Kizan Town hall, the officials will offer you the detailed routes to the ruins.

リンク、参考情報~Links and References

基肄城跡、基山町(Kizan Town Official Website)

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