192.角牟礼城 その3

頂上にある本丸には多くの石が横たわっていす。毛利高政が本丸の北側だけに築いた石垣を修理中ということです。

特徴、見どころ

本丸は改修途中か

ところが、これまでとちがって頂上の本丸は違う様相です。本丸の周りには石垣がありませんが、人工的に山肌を削った土造りの切岸があります。これもまた、高政がやってくる前にこの城で採用された手法です。この曲輪を回り込んでいく自然の山道風の通路を歩いていきます(本丸にまっすぐ通じる工事用の通路が別途ありますが、ビジターは使わないようにとの掲示があります)。

城周辺の地図

本丸の周りの切岸
本丸にまっすぐ通じる工事用通路
山を回り込んで本丸に向かう道

その途中には展望所があり、多くのメサやビュートを伴う玖珠地域の素晴らしい眺めを楽しむことができます。とても美しい景色です。

展望所
玖珠地域の素晴らしい景色

そして頂上にある本丸に着くのですが、そこには多くの石が横たわっているが見えます(2023年5月時点)。これは、高政が本丸の北側だけに石垣を築いていたことによります。これが崩れて今修理中ということのようです。高政は、転封の直前まで、本丸も改修しようとしていたのかもしれません。

本丸虎口
本丸内部
修繕中の石垣の石

山麓の森藩に関する史跡

山麓では、久留島氏が設立して森藩に関する見どころもあります。藩主は、現在は公園になっている陣屋に居住していました。また、陣屋のとなりの丘の脇には、回遊式の池泉庭園を造り、その庭園は今でも残っています。

久留島氏が作った庭園

その手前には、7mの高さの一枚岩が立っていて「童話碑」と彫刻されています。この岩は陣屋に元々あったものではありませんが、藩があったころに近くの川の船着き石として使われていました。1949年になってそこから現在の場所に移され、町出身の著名な童話作家、久留島武彦にちなんで名付けられました。彼は、城主一族の子孫でした。

庭園前にある童話碑

城主だった頃の久留島氏はまた、丘の上に石垣を築き、その上に「栖鳳楼(せいほうろう)」という茶室を建設しました。これも現存しています。この茶室は、城を築くことを許されていなかった藩主が、城の代わりにしたものだと言われています。

栖鳳楼 (licensed by ムカイ via Wikimedia Commons)

その後

角牟礼城の調査は1993年に始まりました。それによって、城跡には今に至るまで、天下統一のとき、秀吉の部下たちが多くの地域で築いた穴太積みの石垣が、ここでもよい状態で残っていてることがわかりました。また、この城跡では中世から江戸時代にかけての城の進化のプロセスが見て取れることもわかりました。その結果、城跡は2005年に国の史跡に指定されました。玖珠町は、この町を童話の里であるとともに、穴太積みの石垣が残る地としてもアピールしています。

角牟礼城の穴太積みの石垣

私の感想

玖珠地域を訪れたとき、私はそこにとても独特の雰囲気を感じました。この地域が山に囲まれていて、この中にある小さな山や丘がちょっと変わっていて、後からこれらがメサやビュートであるとわかりました。この地域の自然の特徴からその歴史に関する民話も生まれています。この町の愛称「童話の里」にも結び付く何かがあったのかもしれません。角牟礼城もこの地域の特徴と外から来た人たちが交わり、よりユニークな存在になったのでしょう。この辺りを旅することがあれば、玖珠地域と角牟礼城に立ち寄ってみてはいかがでしょう。

角牟礼城の三の丸の石垣

ここに行くには

車で行く場合:大分自動車道の玖珠ICから数分のところです。城跡周辺にいくつか駐車場があります(山上の三の丸のところや山麓にある公園など)。
公共交通機関を使う場合は、JR豊後森駅から梶原行きの大分交通バスに乗って、山麓にある上伏原バス停で降りてください。そこから山頂に向かう山道を登って行くことができます。
東京または大阪から豊後森駅まで:大分空港か福岡空港まで飛行機で行って、レンタカーを借りるのがよいかもしれません。

リンク、参考情報

角牟礼城跡、玖珠町観光協会
・「よみがえる角牟礼城/石井進監修、玖珠町編集」新人物往来社
・「歴史群像179号、地形から読み解く 瀬戸内の海賊城と近代要塞」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「角牟礼城その1」に戻ります。
「角牟礼城その2」に戻ります。

191.中津城 その3

中津市が石垣を積み直す際、古い石を新しいものに交換しようと考えていました。その石垣が城のオリジナルであると思っていなかったからです。

特徴、見どころ

本丸内のたくさんの神社

本丸には、中津神社、中津大神宮、奥平神社などたくさんの神社があります。その中でも興味深い存在が城井神社で、この城の中で孝高の息子、黒田長政に殺された地場の戦国大名であった城井鎮房(きいしげふさ)を祀っています。言い伝えによれば、長政は鎮房の恨みによる亡霊に苦しめられ、自身の行為を後悔してこの神社を創設したとのことです。

本丸周辺の地図

中津神社
中津大神宮
奥平神社(左側)
城井神社(中津耶馬渓観光協会ホームページより引用)
城井鎮房肖像画、天徳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

三の丸と二の丸

三の丸は本丸のとなりにありますが、現在では市街地となっています。ここには城の中心部に向かうための大手門の跡があります。城があったときに本丸の椎木門に至るためには、もう一つの門(黒門)も通っていく必要がありました。現代の住宅街の合い間に、大手門の立派な石垣の一部が残っています。

城周辺の地図

現在の三の丸
大手門の石垣、手前が黒田時代のもので、奥の方は細川時代に桝形空間を作るために増築されました
かつてはこのようになっていました、現地説明版より(白枠内が残存部分)

本丸の向こう隣りの場所、二の丸は公園になっていて、武家屋敷跡の礎石がいくらか残っています。

二の丸公園
武家屋敷跡

福沢諭吉旧居

他のお勧めの場所は、二の丸の東方約1kmのところにある福沢諭吉の旧居でしょう。福沢は16歳のときにこの家を買い、19歳のときまで住んでいました。彼は中津藩の下級武士階級出身であるので、この家屋は当時の下級武士が住んでいた家屋の一例と言えるでしょう。この家屋はよくメンテナンスされていて、例えば茅葺の屋根は、角材によって下から支えられています。土蔵造りの倉庫も残っていて、ここの2階で福沢が勉強していたそうです。

福沢諭吉旧居
家の内部
支えられている茅葺屋根
福沢が勉強していた土蔵

その後

明治維新後、中津城は廃城となり、本丸の御殿を除く全ての城の建物は撤去されました。御殿はしばらくは役所として使われましたが、1877年に西南戦争が起こったときにその混乱の中で焼け落ちてしまいました。その後、城跡は神社の敷地として使われたり、1964年には模擬天守が建てられました。この城跡に関する最近のトピックは、2002年に中津市の組織内で、川沿いの反対側にある本丸石垣を修理する際に論争があったことです。担当部署は、石垣を積み直す際、古い石を新しいものに交換しようと考えていました。その石垣が城のオリジナルであると思っていなかったからです。その工事がまさに行われようとしたとき、文化財部門が石垣はオリジナルではないか、そうであれば保存されるべきだと言ってきたのです。調査の結果、石垣は黒田孝高が最初に城を築いた当時のものだと判明し、古い石をそのまま使って積み直されました。中津市は、この石垣は九州地方で最も古い現存石垣であると言っています。

オリジナルの石を使って修繕された石垣

私の感想

現在の中津城を訪れてみて、最初は少々違和感を覚えました。そこにはオリジナルのものもあれば、模擬天守や神社のような後の時代に加えられたものが多く混在していたからです。しかし、この城や中津の先人の歴史を学んでみると、これらの文物は城や遺跡をいかに維持していこうとする彼らの努力の結果だということがわかりました。また、継続的に利益を出す必要がある民間企業にとって、城の建物を経営していくのは大変なことだということも理解できました。もし中津市周辺を旅行されるのであれば、中津城に寄ってあげてほしいです。

川岸から見た模擬天守

ここに行くには

車で行く場合:中津日田道路の定留(さだのみ)ICから約15分かかります。公園周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR中津駅から歩いて約15分かかります。
東京または大阪から中津駅まで:飛行機で大分空港に行って、そこから高速バスで大分駅に行き、日豊本線の列車に乗ってください。

本丸脇の駐車場

リンク、参考情報

中津城公式ホームページ
中津城(奥平家歴史資料館)、中津耶馬渓観光協会
破壊の危機からうまれたもの -中津市の事例-、文化遺産の世界
・「人物叢書315 黒田孝高/中野等著」吉川弘文館
・「シリーズ藩物語 中津藩/三谷紘平著」現代書館
・「歴史群像123号、戦国の城 豊前中津城」学研
・「よみがえる日本の城20」学研
・「日本の城改訂版第14号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「中津城その1」に戻ります。
「中津城その2」に戻ります。

191.中津城 その2

一般的には新しい石垣はより加工された石を使います。ところが、中津城の石垣の場合は真逆のように見えるのです。

特徴、見どころ

民営となっている模擬天守

現在、中津城跡は「中津城公園」という観光地として整備されています。そのように言う理由は、城跡の本丸石垣の角に、大変よく目立つ五層の天守があるからです。しかし、これは模擬天守であり、元はオリジナルの他の櫓があった場所に建てられたものです。以前城主であった奥平家が経営していた会社が、観光振興のために建設したのです。その経緯によりこの天守では、奥平家歴史資料館として奥平氏が支配した中津藩の歴史を主に展示しています。しかし赤字運営のために、奥平家は天守を他の民間会社に売却しました。現在の中津城は、唯一の民間経営の城とされていて、現地では民間企業らしくお客を呼び込む従業員の姿が見られるかもしれません。もし、城の創立者である黒田孝高のことをより知りたければ、天守の手前にあって、中津市が運営している黒田官兵衛資料館に行ってみてはいかがでしょう。

中津城の模擬天守
模擬天守の入口側
天守(奥平家歴史資料館)の中の様子
展望台から見える中津川の眺め
黒田官兵衛資料館の展示の一部

黒田時代と細川時代の石垣が共存

城に関する歴史的遺物は、石垣や水堀など、主に本丸にあります。本丸北側の石垣を見てみると、石垣は右側の古い部分と左側の新しい部分に分かれています。古い部分のかつては角であった継ぎ目がはっきりと見て取れます。一般的には新しい石垣はより加工された石を使います。ところが、中津城の石垣の場合は真逆のように見えるのです。左側の新しい石垣の石は自然石で、右側の古い石垣の石は前者よりずっと加工されているのです。その理由は、創始者の黒田孝高が新しい城の建設を急ぐために、近くにある古代山城の唐原山城(とばるさんじょう)の石を運んできて使ったからだそうです。

城周辺の航空写真

左側が細川時代の新しい石垣、右側が黒田時代の古い石垣
天守の石垣は細川時代のものか?

本丸は今でも中津川沿いに位置していますが、その間は遊歩道があるコンクリートの護岸壁となっています。川と城を一緒に眺めながら遊歩道を歩いてみるのもよいでしょう。古代山城にあった石を使って築かれた石垣が、川沿いに並んでいます。この石垣の上に建物を築くことで、川の方から見た城の見栄えが良くなるようにしていたと思われます。しかし今ではその石垣の上に現代の住居や神社の建物があって、面白いコントラストとなっています。本丸の端には水門の石垣があって、過去には城と川が直接つながっていたことがわかります。

川沿いの遊歩道へ
川沿いに残る黒田時代の石垣
この石垣台の上に天守のような大櫓があったかもしれないようです
石垣の一部には現代住宅が乗っかっています
水門跡の石垣 (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)

川の反対側には、孝高が最初に築いた別のタイプの石垣があります。この石垣は長く伸びていますが、そんなに高くはありませんし、細川氏の時代に使われていたものより小さな自然石を使って築かれています。最近になって手前にある水堀と一緒に修繕されて、その周りを歩いてみることができます。

川と反対側にある石垣と堀
向かい側には遊歩道と中津市歴史博物館があります

本丸の新旧正門

更には、神社の鳥居がある本丸の正面入口では、その石垣の断面を見ることができます。それは、この入口が明治時代にこの石垣を壊した場所に作られたからで、鳥居は昭和になってから建てられました。

本丸の正面入口
石垣の断面(内部に見える石垣が黒田時代のもので、細川時代に積み増しているようです)
入口のもう片側の石垣は上半分が撤去されていましたが復元されています

この現在の正面入口の近くには、オリジナルの本丸正門である椎木門(しいきもん)跡があります。この場所は今も石垣に囲まれています。この門の背後には防衛のために別の石垣で囲まれた扇形のスペースがあったのですが、今では一部しか残っていません。

椎木門跡
扇形の石垣のうち残存部分
かつてはこのようになっていました、現地説明版より(赤枠内が残存部分)
今は門の内側は開けています

「中津城その3」に続きます。
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