70.岡山城 その2

今回はまず、岡山城に向かうコースを2つご紹介したいと思います。岡山駅から城の正面側に向かうコースと、旭川沿いを歩いて、城の裏門側に至るコースです。城に着いたら、天守に登ってみましょう。その後は、殿様気分で後楽園にも行ってみましょう。

特徴、見どころ

Introduction

今回はまず、岡山城に向かうコースを2つご紹介したいと思います。岡山駅から城の正面側に向かうコースと、旭川沿いを歩いて、城の裏門側に至るコースです。城に着いたら、天守に登ってみましょう。その後は、殿様気分で後楽園にも行ってみましょう。

岡山駅前の桃太郎像

岡山駅からの正面コース

岡山駅から岡山城までは、2キロくらいあるので、路面電車やレンタルサイクルを利用するのもいいでしょう。

路面電車
岡山市コミュニティサイクル 「ももちゃり」

駅前の「桃太郎大通り」をまっすぐ進むと、道の途中は、すっかり市街地になっていますが、外堀や中堀だった場所がわかるようにパネルが設置されています。

外堀跡
中堀跡

交差点に突き当たった場所は、内堀の中でした。右の方に向かうと、数少ない現存する城の建物の一つ、西の丸西手櫓が姿を現します(国の重要文化財に指定)。かつては、堀に向かってそびえていました。

突き当たりの交差点
西の丸西手櫓

次は、西の丸を回り込んでみましょう。西の丸の石垣が続きます。歩いている道も、堀だったのでしょう。やがて、石山門跡に着きます。建物は残念ながら戦災で燃えてしまいました。入口へは橋が堀を渡っていました。

西の丸石垣
石山門跡

更に進むと、今度は岡山城創建の地が見えてきます。石山の城(旧本丸)です。石垣は、池田氏の時代のもののようです。東側の入口から見ると、今は駐車場になっています。ちなみに、この辺から見える天守の姿は、スマートに見えて面白いです。

石山の城
石山の城への入口
西側から見た天守

いよいよ本丸です。本丸へは、内堀にかかる橋(目安橋)を渡っていきます。渡った先の本丸入口は枡形(四角い防御空間)になっています。内下馬門(うちげばもん)跡です。

目安橋
内下馬門跡

本丸は、三段構成になっていて、高い方から順に、本段、中の段(表向)、下の段と呼ばれています。特に中の段は、小早川・池田時代に拡張されました。門跡から進んでいくと、中の段の隅にある大納戸櫓跡の石垣が見えます。小早川氏の時代に築かれたと言われています。最初に歩いている低い場所が下の段です。

大納戸櫓跡
下の段、中の段の石垣が見えます

本段の石垣も、中の段の入口にかけて改修されています。宇喜多時代の石垣を、小早川・池田時代にかけて継ぎ足したり、修理したりしました。中の段の入口、鉄門(くろかねもん)跡を登っていくと、本段への入口、不明門(あかずのもん、再建)前に着きます。

本段(右)から中の段の入口(左)にかけての石垣
鉄門跡
不明門

旭川沿いの搦手?コース

次のコースは、京橋から旭川沿いに城にアクセスします。京橋は、宇喜多秀家の時代に最初に架けられたそうです。

現在の京橋
川沿いに展示されている江戸時代の京橋の橋脚

川沿いに東門跡、素軒屋敷櫓(そけんやしきやぐら)跡が現れます。こんなところにも門や櫓があったのです。続いて、二の丸伊木長門屋敷内櫓跡もあります。二の丸の重臣の屋敷内にも櫓があったようです。天守も見えてきました。

東門跡
素軒屋敷櫓跡
二の丸伊木長門屋敷内櫓跡
南側から見た天守

本丸に着いたら、石垣を見学しましょう(本段南東部の高石垣)。すごい迫力です。宇喜多秀家時代に築かれたもので、自然石を積み上げた野面積みの手法によります。高さが約15メートルあって、当時は屈指の高石垣でした。見ているうちに、安土城の石垣を思い出しました。やはり、安土城のやり方を引き継いでいるものがあるのでしょう。

本段南東部の高石垣
安土城二の丸の石垣

川沿いに戻って、天守の方に進むと、宇喜多時代と小早川時代の石垣の継ぎ目を見ることができます。後の小早川時代の方が、小さい石を使って積まれています。急いで作ったからなのでしょうか?池田氏の時代に作られた門(六十一雁木下門跡)の跡を見て進むと、天守台石垣に至ります。

2つの時代の石垣の継ぎ目、左側が宇喜多時代、右側が小早川時代
六十一雁木下門跡

オリジナルの天守が焼けたとき、外側の石垣の方に崩れてきたそうです。そのため、石垣も焼けてしまっています。まさに歴史の証人です。

天守台石垣
天守を見上げています

天守の近くにある、本丸裏手の廊下門(再建)から入ると、このコースも本丸・中の段に到着です。

天守のビュースポット
廊下門

天守登閣→御殿めぐり

それでは、不明門から本段の中に入っていきましょう。本段はお殿様の住居なので、普段はこの門が閉ざされていて、こういう名前になったと言われています。本段の中には、オリジナルの天守の礎石が並んでいます。天守焼失後に現在地に移されました。

不明門
オリジナル天守の礎石

現在の外観復元天守の中は歴史博物館になっていますが、最近リニューアルされました。例えば、「城主の間」が再現されていたり、3大名家の「それぞれの関ヶ原」の展示があったりします。

現在の天守(外観復元)
天守地階
城主の間(天守2階)
それぞれの関ヶ原・宇喜多パート(天守3階)
それぞれの関ヶ原・小早川パート(天守3階)
それぞれの関ヶ原・池田パート(天守3階)

天守5階には、金鯱が展示されています。実際に屋根に乗っているものも、同じ階から間近に見ることができます。最上階(6階)では、屋内からではありますが、周りの景色を楽しむことができます。天守1階には休憩コーナがあって、城の解説ビデオを視聴することができます。

展示されている金鯱(天守5階)
屋根の上の金鯱(天守5階から)
最上階からの景色(後楽園)
天守1階

その解説ビデオで殿様の一日を再現していたので、少しトレースしてみましょう。帰りは、天守の脇から廊下門の方に出てみます。お殿様が、本段の御殿から、政務を行った表書院に通ったルートだったからです。お殿様は、門の上の渡り廊下を渡ったのです。

天守から廊下門のところに出ました。

廊下門から、表書院に向かい、中の招雲閣で政務を行い、南座敷で書画に親しみました。現在では、地面の上に間取りが表現されています。そして家老と相談があるときには、茶室で行ってました。

奥が天守、左側が廊下門、手前が表書院のあった中の段
表書院の招雲閣(奥)、南座敷(手前)跡
茶室跡

それから中の段で面白いのが、掘り出された宇喜多時代の石垣が見学できることです。中の段を広げるときに埋められたものです。元は、門の一部だったのでしょうか。

宇喜多時代の石垣

殿様気分で後楽園へ

後楽園に行く前に、現存する月見櫓もチェックしていきましょう。この櫓は池田時代に立てられているので、天守台の石垣や、天守の建物とは雰囲気が違います。石落としが、ばっちりこちらを狙っていて、となりの石垣には銃眼が並んでいます。内側から見たときの優雅な姿とは全然違います。守りのために漆喰で塗り固めたので、戦災を生き残れたという話もあります。現在は、国の重要文化財に指定されています。

現存する月見櫓(外側)
石垣に並ぶ銃眼
内側から見た月見櫓

それでは、後楽園に向かいましょう。

城と後楽園を結ぶ月見橋
後楽園入口(正門)

ここでは、園外の景色も一体として考えているそうです。岡山城もその一つです。

後楽園と借景(操山)
後楽園と借景(岡山城)

かつては、タンチョウが放し飼いにされていました。現在は、秋冬にタンチョウの園内散策が披露されています。

現在の鶴舎

これが、藩主の居間だった延養亭(えんようてい)で、戦災で焼失しましたが復元されています。

延養亭

となりに、鶴鳴館(かくめいかん)という接待用の建物があったのですが、これも戦災で焼失し、戦後に岩国の吉川家のお屋敷(明治時代建築)を移築して、同名の建物として継続しています。

鶴鳴館(移築)

築山(唯心山)は、創建者・池田綱政の子、継政が作りました。ここからだと、芝生や池がよりきれいに見えますが、その中には田んぼ(井田、せいでん)もあります。それは後楽園(御後園)の当初の姿の名残りと言われています。

唯心山
唯心山からの景色(井田)

現存する建物の一つ、流店で休憩するのもいいでしょう。最後は、これも現存する廉池軒(れんちけん)の前にきました。池田綱政のお気に入りの場所だったそうです。貢献した家臣をここに招いたりもしていたそうです。

流店
廉池軒

リンク、参考情報

岡山城公式ウェブサイト
川面に映える金烏城 岡山城、岡山市
岡山後楽園
宇喜多直家公の足跡を巡る、岡山市・瀬戸内市観光連携事業実行委員会
・「現代語訳 備前軍記/土肥経平原著 柴田一編著」山陽新聞社
・「宇喜多直家・秀家/渡邊大門著」ミネルヴァ書房
・「「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家/大西泰正著」角川新書
・「宇喜多秀家: 秀吉が認めた可能性/大西泰正著」平凡社
・「シリーズ・実像に迫る13 宇喜多秀家/大西泰正著」戎光祥出版
・「歴史群像名城シリーズ12 岡山城/学研」
・「よみがえる日本の城5」学研
・「小早川隆景・秀秋/光成準治著」ミネルヴァ書房
・「百間川小史」国土交通省岡山河川事務所
・「池田家文庫絵図展(図録) 岡山藩の教育」岡山大学付属図書館、岡山市デジタルミュージアム

「岡山城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

70.岡山城~Okayama Castle

この都市は城と一緒に発展してきました。
The city has developed with the castle.

立地と歴史~Location and History

岡山市の起源~The origin of Okayama City

岡山市は中国地方の岡山県の県都です。この市は岡山城を基盤に発展してきました。この城は現在、日本有数の庭園である後楽園と共に旭川に沿った観光地として知られています。しかし実際には多くの市街地がこの城の一部分から派生しているのです。
Okayama City is the capital of Okayama prefecture, Chugoku Region. The city has been developing based around Okayama Castle. The castle is now known for as a tourist spot alongside Asahigawa River with Korakuen, one of the most famous gardens in Japan. Actually, a lot of the city area comes from the part of the castle.

城の位置~The location of the castle

旭川沿いの岡山城(右)と後楽園(左)~Okayama Castle (on the right) and Korakuen Garden (on the left) alongside Asahigawa River

戦国時代、宇喜多氏が最初に旭川のデルタ地帯にあった丘の一つ、石山に城を築きました。宇喜多秀家は石山の東にあったもう一つの丘に城を拡張しました。この丘は岡山と呼ばれており、岡山城と、岡山市という名前両方の起源だったのです。
In the “Sengoku” or Warring States Period, the Ukita clan first built a castle on one of the hills called Ishiyama on the delta of Asahigawa River. Hideie Ukita expanded the castle into another hill in the east of Ishiyama. The hill was called Okayama, the origin of Okayama Castle and the name of the city.

現在の石山の地点~The present spot of “Ishiyama”
石山から見た城の中心部~The center of the castle from Ishiyama

古い形式の天守~Old type Main Tower

秀家は天下人の豊臣秀吉に気に入られ、五大老の一人になり、大きな天守の建造を許されました。この天守は第二次世界大戦まで残っており、五階建てで、古い型である「望楼型」と呼ばれるものでした。入母屋造りの屋根を持った大きな櫓の上に、小さな望楼がありました。その石垣の基礎とその上の一階は、丘の形に沿って建造されました。これらは最も初期の天守の形式を残していると言われ、日本最初の本格的天守を持った安土城とも比較できるものです。
Hideie who was trusted by the ruler, Hideyoshi Toyotomi, became one of the five chief ministers, and was allowed to build a large Main Tower or “Tenshu”. The Tenshu remained until World War II. It was a five story building in an old style called “boro-gata” or look-out tower style. It had a small look-out tower on a large scale turret with hip-and-gable roofs. Its base stone walls and the first story above were constructed along the shape of the hill. They are said to remain the very first Tenshu style compared with that of Azuchi Castle, the first typical Tenshu in Japan.

宇喜多秀家肖像画、岡山城蔵~The Portrait of Hideie Ukita, owned by Okayama Castle (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
第二次世界大戦前の岡山城の古写真~An old photo of Okayama Castle before World War II(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

岡山城の完成~Completion of Okayama Castle

この城の城主は、秀家が1600年の関ヶ原の戦いで敗れた後変わります。江戸時代には、小早川氏、そして池田氏が城と城下町の拡張を続けました。旭川は、自然の障壁として城のデルタ地帯の北から南東へ流れています。結果として城は西の方角へ広がりました。水堀はその方角に向かって五重にも掘られました。
The lords of the castle were changed after Hideie was defeated in the battle of Sekigahara in 1600. The Kobayakawa clan, then the Ikeda clan continued to improv the castle and the castle town in the Edo Period. Asahigawa River flows along the delta of the castle from the north to the southeast being a natural hazard. As a result the castle was expanded into the west direction. They made water moats quintupled towards the direction.

備前国岡山城絵図部分、江戸時代~Part of the illustration of Okayama Castle in Bizen Province, in the Edo Period(出典:国立公文書館)

城を守るため、多くの門や櫓も建てられました。1700年、後楽園が川向かいの城とは反対側に作られました。その頃には既に平和な時代になっていたのです。
They also built many turrets and gates to protect the castle. In 1700, Korakuen garden was made in the opposite of the castle across the river. It shows it had already been in peace at that time.

後楽園の風景~A view of Korakuen Garden(taken by grandstream from photoAC)

特徴~Features

街中の遺跡~Ruins in City Area

城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle

現在、岡山城の中心部である本丸は、烏城(カラスの城という意味)公園として整備されています。この名前は天守が黒く塗られていたことによります。公園は岡山駅から2kmのところにあります。城はかつてはその中間辺りまで広がっていました。そのため、公園の外にもいくつか城の遺跡があります。例えば、以前は西の丸で現在の市街地に残っている西手櫓です。この櫓は重要文化財に指定されています。でもビルに囲まれてさみしそうに見えます。
Now, the center of Okayama Castle, Honmaru enclosure has been developed as Ujo Park (Ujo means Crow Castle). The name comes from the Tenshu being painted black. The park is about 2 km from Okayama Station. The castle once spread to half of the way in the past, so there are some ruins of the castle outside the park. For example, Nishite Turret on the former Nishinomaru enclosure remains in the city area. It is designated as an Important Cultural
Property, but it looks lonely among modern buildings.

西手櫓 ~Nishite Turret

石山曲輪跡は公園の近くにあります。ここは城の最初の中心地でした。現在は駐車場として使われています。曲輪を覆う石垣は江戸時代に作られたようです。
The ruins of Ishiyama enclosure is near the park. It was the first center of the castle, and is now used as a parking lot. The stone walls covering the enclosure seem to be built in the Edo Period.

石山曲輪~Ishiyama enclosure

本丸の遺跡~Ruins in Honmaru

本丸周辺の航空写真~The aerial photo of around Honmaru

以前の本丸であった公園には二つの入口があります。その一つは内堀の上の目安橋を渡っていくルートです。これは本丸に至る大手道でした。もう一つは川沿いにある廊下門を通るもので、本丸の裏門に当たります。ここからは川にたたずむ城の姿が望めます。
The park, the former Honmaru, has two entrances. One of them is the route crossing Meyasu-bashi Bridge over the inner moat. It was the Main Route or “Ote-Michi” to Honmaru. The other is going through Roka-mon Gate beside the river, the back gate of Honmaru. You can have a good view of the castle with the river.

目安橋~Meyasu-bashi Bridge
廊下門~Roka-mon Gate

本丸は三段に分かれています。低い段は「下の段」と呼ばれ、門の周辺を指します。真ん中の段は「表向」と呼ばれ、居住や統治のための御殿がありました。ここには重要文化財である月見櫓が残っています。この櫓は、本末の外側からも素晴らしい石垣とともに鑑賞できます。上の段は、「本段」と呼ばれ、最も古い箇所です。不明門がその入り口にあります。ここには創建以来の天守と、藩主の御殿がありました。
Honmaru has three levels of the ground. The lower level called Genodan is the area around the gates. The middle level called Omotemuki is where the hall for official residence and governance was. Tsukimi Turret remains there as an Important Cultural Property. It can also be seen with excellent stone walls from outside Honnmaru. The upper level called Hondan is the oldest part. Akazuno-mon Gate is its entrance. It had the original Tenshu and the main hall for a lord.

下の段~The lower level
表向~The middle level
月見櫓(内側)~Tsukimi Turret(inside)
月見櫓(外側)~Tsukimi Turret(outside)
不明門~Akazuno-mon Gate
本段~The upper level

現在の天守は、外観復元され、博物館として使われています。本段を囲む石垣は元々秀家により築かれました。とても古風に見えます。
The present Tenshu has been apparently restored and used as a museum. The stone walls surrounding Hondan were originally built by Hideie. They look very old.

外観復元された天守~The apparently restored Tenshu
本段を囲む石垣~The stone walls surrounding the upper level

その後~Later History

明治維新後、岡山城は廃城となり、ほとんどの建物は撤去されました。本丸であった場所は学校の敷地として使われました。他の場所は市街地に変わっていき、堀は埋められました。元からあった天守は国宝として残りました。しかしながら、残念なことに1945年の岡山空襲で焼け落ちてしまいました。第二次世界大戦後、本丸は烏城公園として整備されました。1966年に天守は外観復元されまます。廊下門と不明門の2つの門も同時に外観復元されました。
After the Meiji Restoration, Okayama Castle was abandoned and almost all of its buildings were demolished. The Honmaru area was used as the ground for a school. The other areas of the castle were turned into the city area with their water moats being filled. The original Tenshu remained as a National Treasure. However, it was unfortunately burned down by the Okayama Air Raid in 1945. After World War II, the Honmaru area was been developed as Ujo Park. Tenshu was apparently restored in 1966. The two gates, Roka-mon and Akazuno-mon , were also restored apparently at the same time.

岡山城の鯱~A golden grampus of Okayama Castle

私の感想~My Impression

今は烏城公園と名付けられた岡山城に是非行っていただきたいです。後楽園と一緒に見学すればとてもよい思い出になります。願わくば、元の天守を見て、中に入ってみたかったです。あと、岡山市にはもっと市民に、岡山城が市の起源であることを知らせてもらいたいです。例えば、現存して街中に残る西手櫓はもっと知られるべきと思います。
Okayama Castle which is now named Ujo Park is a good place to visit. You can have great views and experience together with Korakuen Garden. I wish I could see and enter the original Tenshu. I also hope that officials will let people know the castle is the origin of Okayama City. For example, the remaining Nishite Turret among the city area should be known more to people.

西手櫓 ~Nishite Turret

ここに行くには~How to get There

車で行く場合:山陽自動車道の岡山ICから約20分かかります。公園に駐車場があります。
岡山駅から行く場合:駅の東口の岡山駅前電停から路面電車に乗って、城下電停で降りてください。岡山駅から歩いた場合、約20~30分かかります。
If you want to go there by car: It takes about 20 minutes from the Okayama IC on the Sanyo Expressway. The park offers a parking lot.
From Okayama Station: Take the tram from the Okayama-ekimae stop in front of the east exit of the station, and get off at the Joka stop. Or It takes about 20 to 30 minutes on foot from the station.

リンク、参考情報~Links and References

岡山城-川面に映える漆黒の城Okayama Castle
岡山城-川面に映える金烏城(Okayama City Museum)
・「よみがえる日本の城5」学研(Japanese Book)