2.五稜郭 その1

函館戦争の舞台となった西洋式城郭

立地と歴史

函館に築かれた西洋式城郭

五稜郭は、日本で作られた最も初期の西洋式城郭の一つで、明治維新における重要な歴史の舞台となりました。また、北海道函館市の最も有名なシンボルの一つとなっています。1854年に日本は米国などいくつかの西洋諸国に対して開国し、下田港と函館港を開港場としました。その当時日本を統治していた徳川幕府は、函館港を直轄地とすることにし、函館奉行所を設置して前述した国々との関係をコントロールしようとしました。奉行所は最初は港近くの函館山の麓にありました。しかし、その立地では海側と山側両方から攻撃される可能性があるとの指摘がされました。そのため、幕府は港の傍に弁天岬台場を築き、奉行所を港から3km離れた内陸の方に移しました。そこは、西洋の軍艦から砲撃を受けても、安全であるとされる場所だったのです。

城の位置

これら2つの建設工事の責任者は、洋学者の武田斐三郎(たけだあやさぶろう)でした。彼は西洋の軍学書から多くの知識を習得しており、奉行所を5つの稜堡(りょうほ)を持った星形の西洋式城郭として設計しました。また、稜堡の間に5つの半月堡(はんげつほ)を加えることも考えていましたが、恐らくは予算不足のために正面の一つだけが築かれました。この新城郭は1864年に完成し、五角形の城郭を意味する、五稜郭と名付けられました。この城のスタイルは西洋式でしたが、建設工事に使われた技術は日本の伝統的工法によるものでした。5つの突起を伴う星形の基礎部分は土造りで、部分的に石垣が使われました。石垣の一部は、「跳ね出し」と呼ばれる技法が使われ、上から二番目の列の全ての石が突き出していて、よじ登ってくる敵を防げるようになっていました。星形の構造の外側には水堀が掘られました。奉行所の建物は内側に日本式建築として作られました。

武田斐三郎 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
五稜郭之図、最終設計図の一つとされている、市立函館博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現存する「跳ね出し」石垣
函館奉行所の写真、1868年冬 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

旧幕府脱走軍が占拠

1868年に明治維新が起こったとき、函館奉行所を含む五稜郭は最初は平穏に新政府側に引き渡されました。ところが、幕府海軍副総裁の榎本武揚は、旧幕府艦隊を率いて江戸湾を脱出し、彼ら自身の政府を設立するために北海道に向かいました。この艦隊は、土方歳三など優秀な指揮官を含む4千名近い兵士を乗せていて、また当時最強の軍艦であった開陽丸を含んでいました。これを聞いた新政府の役人は五稜郭を離れ、本州の方に退避しました。そのため、旧幕府脱走軍は労することなく五稜郭を占拠し、ここを彼らの本拠地としました。また、南北海道にある松前城などの他の城も占領しました。そしてついには新政府からの独立を宣言したのです。これは新政府にとっては到底受け入れられないことでした。更に逃亡軍にとって痛手だったのは、最強の開陽丸が先ほどの戦いの最中に江差沖で座礁し、沈没してしまったことです。

榎本武揚写真、1868年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
土方歳三写真、田本研造撮影、1868年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
松前城
開陽丸の写真、1866年8月 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江差港に博物館として復元された開陽丸

新政府軍の攻撃により開城

新政府は、北海道攻略に1万名以上の兵力と、開陽丸の後に最強と目されていた甲鉄艦を含む艦隊を準備し、黒田清隆に率いさせました。旧幕府脱走軍は五稜郭の防御を強化し、四稜郭と呼ばれたもう一つの西洋式城郭を築きました。新政府軍は1869年に南北海道に侵攻しましたが、兵力においても装備においても旧幕府脱走軍より勝っていました。そして、松前城や四稜郭は見る間に新政府軍の手に落ちました。弁天岬台場や残存していた逃亡軍側の艦隊は、函館港において新政府軍側の艦隊相手に奮戦しました。新政府側の朝陽丸が撃沈されてしまった程です。しかし、兵糧や弾薬が尽きたことでついには降伏せざるを得ませんでした。土方も、函館港の見方を支援しようとして駆けつける途中に狙撃され命を落としました。五稜郭は孤立してしまいました。

黒田清隆写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
甲鉄艦の絵、1933年出版 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
四稜郭跡
弁天台場の写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

五稜郭からの砲撃は新政府軍の艦隊には届きませんでした。一方、甲鉄艦からの砲撃は易々と五稜郭に命中しました。大砲の性能が短い間に飛躍的に進化を遂げたからです。五稜郭内にある函館奉行所の建物にあった太鼓櫓の銅板の屋根が目標物にされたと言われています。榎本はついに、黒田からの降伏勧告を受け入れました。函館戦争と言われたこれら一連の戦いは、新政府の支配が完全に確立した歴史事件とされています。

現在の五稜郭

「五稜郭その2」に続きます。

82.大洲城 その1

多くの大名たちが大洲城とその地域を発展させてきました。

立地と歴史

宇都宮氏が最初に築城

大洲城は、四国の伊予国の南部(南予地方)にあった城で、その場所は現在の愛媛県大洲市にあたります。この城は最初は14世紀に宇都宮氏によって、地蔵ヶ嶽と呼ばれた丘の上に築かれました。この立地は、大洲宇和島街道と肱川(ひじかわ)との結節点の近くであり、交通の要衝でした。宇都宮氏は、やがて15世紀後半から16世紀にかけての戦国時代には伊予国の戦国大名の一つとなります。(その後中国地方の毛利氏の四国出兵により、大名の地位を追われました。伊予国は毛利氏の親族、小早川隆景が一時治めました。)

伊予国の範囲と大洲城の位置

藤堂高虎が近代化

豊臣秀吉が天下統一を果たした後、秀吉の家臣であった藤堂高虎が1595年に大洲城(を含む南予地方)を領有しました。彼は宇和島城を本拠地としていましたが、大洲・宇和島両方の城を近代化したのです。高虎によってどのように大洲城が近代化されたのか詳細はわかっていません。その遺跡は現在の大洲城の地下にあるからです。しかし、高虎が城の基本的な構造を作り上げたと考えられています。本丸は、城の東から北へ向かって流れていた肱川沿いにありました。二の丸は、川の反対側の丘の麓にありました。本丸・二の丸両方の曲輪は、南側と西側を内堀に囲まれていました。また、三の丸と外堀がそれらの外側にあったのです。堀の水は、肱川から引かれており、そのため、この城は川城というべきものでした。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊予国大洲城図、出典:国立国会図書館

脇坂安治が天守築造か

1609年、脇坂安治(わきざかやすはる)が洲本城から大洲城に移され、大洲藩の初代藩主となりました。彼が本丸に四層の天守を建てたと言われています。また、歴史家の中には安治が洲本城の天守を大洲に移したのではないかと考えている人もいます。最近の調査によると、双方の天守台の大きさがほとんど同じだったからです。台所櫓と高欄櫓という2基の二階建て櫓が天守の両側に建てられ、渡櫓によって連結されていました。他にも多くの櫓がそれぞれの曲輪の重要地点に建てられました。

脇坂安治肖像画、龍野神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
洲本城の天守台石垣と模擬天守
大洲城天守と台所櫓の古写真、現地説明板より

加藤氏が幕末まで継承

1617年、加藤氏が米子城から大洲城に転封となり、城と大洲藩を13代に渡って江戸時代末期まで統治しました。大洲藩は大藩ではなく(石高6万石)、裕福ではありませんでしたが、産業振興に努めました。例えば、砥部焼、和紙、木蝋などです。また、藩校の明倫館を設立し、藩士の教育を行いました。幕末の頃には、藩士の一人、武田斐三郎(あやさぶろう)が藩校修了の後、西洋軍学を学びました。彼はついには北海道の函館に、日本で初めての西洋式城郭である五稜郭を建設しました。そこで徳川幕府の指揮官として活躍したのです。

加藤氏の初代、加藤貞泰肖像画、大洲市立博物館所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
武田斐三郎 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
五稜郭

大洲城に関しては、平和の時代には二の丸が城の中心部となり、御殿や倉庫が建てられ、大手門やいくつかの櫓によって囲まれていました。

元禄五年大洲城絵図に描かれた二の丸、城内展示より

「大洲城その2」に続きます。