11.二本松城 その1

多くの大名が欲しがった重要な城

立地と歴史

二本松氏が築城後、伊達氏などが所有

二本松城は現在の福島県二本松市にあった長い歴史を持つ城です。この城は東北地方の重要な街道であった奥州街道沿いにあり、会津郡など他の重要な内陸部の地域にも接続していました。14世紀初頭に足利幕府が設立されたとき、幕府は親族の畠山氏を東北地方にその地の支配のために派遣しました。畠山氏はそこに定着し、15世紀初頭に二本松城を築きました。最初は単純な山城でしたが、後に変化をとげていきます。

城の位置

彼らはのちに二本松氏と名乗るようになり、城とその周辺の地域を長い間支配しました。戦国時代の16世紀後半、有力な戦国大名の一人であった伊達政宗が二本松城を攻撃し、1586年に二本松氏はついに降伏しました。それ以来この城は、伊達氏の本拠地であった会津郡の若松城の支城となりました。若松城の城主は、蒲生氏、上杉氏、加藤氏と変わっていきましたが、二本松城も石垣が築かれるなど改修されました。

伊達政宗像、仙台市博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
若松城

江戸時代は概ね丹羽氏が統治

江戸時代の1643年、丹羽氏が徳川幕府によりこの城に移され、城は二本松藩の藩庁として使われました。丹羽氏は併せて城の大改修を行います。山の頂上に天守台石垣が築かれましたが、実際に天守が築かれたかどうかは全く分かっていません。山麓には城主のための御殿も築かれました。また、城の防衛システムも整備されました。奥州街道が城の近くから丘を越えた向こう側に移されました。街道から城に行くには、丘にある大手門を通らなければなりませんでした。城の周辺地は郭内と呼ばれ、大手門を含む5つの門によって守られていました。丹羽氏は江戸時代末期まで平和裏の内に城を治めます。

初代二本松藩藩主、丹羽光重肖像画、大隣寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
奥州二本松城之絵図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)

戊辰戦争で一日で落城

ところが、明治維新が起こった1868年、この城は戊辰戦争に巻き込まれました。新政府軍がまだ徳川幕府を支持していた二本松藩を攻撃したのです。そのとき藩の多くの武士は、二本松城の南にあった白河小峰城に、味方に加勢するために派遣されていました。そのため、12歳から17歳の少年兵を含む数少ない守備兵で城を守らざるをえませんでした。そして、突然の攻撃による混乱の中、 城はわずか1日で落城しました。藩の重臣など何名もの武士は自刃し、ほとんどの城の建物は焼け落ちました。少年兵の多くも殺され、この悲劇の戦いを象徴する二本松少年兵として語り継がれています。

白河小峰城
二本松城と二本松少年隊の銅像

「二本松城その2」に続きます。

130.高島城 その1

かつては湖畔にあった城

立地と歴史

古い歴史を持つ諏訪地域と諏訪氏

長野県の諏訪地域は、諏訪湖や諏訪大社のような観光地で有名ですが、いずれも高島城と関係があります。諏訪大社は日本最古の歴史書である古事記に出てくる神様に由来すると言われています。その神様は、諏訪氏の祖先であるとも言われており、諏訪氏は戦国時代の16世紀前半まで諏訪郡(現在の諏訪地域と同じ範囲)の領主であり、諏訪大社の大祝(おおほうり)でもありました。そしてその頃は山城に居住していました。

諏訪湖周辺の航空写真

諏訪大社 (licensed by Saigen Jiro via Wikimedia Commons)

武田信玄による侵攻

信濃国(現在の長野県)のとなり、甲斐国(現在の山梨県)の有力な戦国大名、武田信玄は信濃国に侵攻しようとします。彼は諏訪氏を1542年に滅ぼし、諏訪郡を支配しました。武田氏は1582年に織田信長により滅ぼされますが、信長は同じ年に殺されてしまい混乱が訪れます。諏訪郡の人々は、諏訪大社の大祝であった諏訪氏の親族を新しい領主、諏訪頼忠として迎え入れました。

信濃国の範囲と諏訪郡の位置(ハイライト部分)

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

日根野高吉が築城

16世紀の終わりに豊臣秀吉が権力を握ったとき、彼は配下の日根野高吉を諏訪郡に送り込みました。諏訪頼忠は無念にも別の国に転封となってしまいます。高吉は、西日本から当時最先端であった技術を持ち込み、諏訪湖の畔に新しい城を築き、高島城と名付けました。この城は4つの曲輪を持ち、湖に面して一列に並んでいました。一本の道が一番端にある曲輪に通じているだけで、城を守るのに適していました。

高島城の縄張り (licensed by Fraxinus2 via Wikimedia Commons)

本丸は石垣に囲まれていましたが、湖畔に築くのにはとても困難が伴いました。その石垣は実は木組みの筏の上に築かれ、軟弱な地盤でも安定するようになっていました。本丸には三層の天守もあり、その当時の東日本ではまだ珍しいものでした。また、他の城では通常天守の屋根には瓦を使っていましたが、ここの天守の屋根は杮葺きとなっていました。その理由は、木製の屋根板により軟弱な地盤上の天守を軽くすることができ、更にこの地域の寒冷な気候にも耐えることができたからです。

石垣に囲まれた本丸
元あった天守の古写真(諏訪高島城にて展示)

諏訪氏が復活して城を維持

徳川幕府が豊臣氏に代わり天下を取った後の1601年、諏訪氏は諏訪郡に戻ってきました。1600年の関ヶ原の戦いのときに幕府に大いに貢献したからです。諏訪頼忠の子、頼水は高島藩の藩主となり、高島城に居を構えました。平和な江戸時代の間、諏訪湖にたたずむ高島城の姿は、この地域の名所となり「諏訪の浮き城」と呼ばれました。葛飾北斎などの浮世絵師がこの景色を画材として描きました。一方、農地開発と洪水防止のため、諏訪湖の干拓が江戸時代を通じて行われました。高島城は湖から遠ざかっていきます。

諏訪氏の家紋「諏訪梶葉(すわかじのは)」 (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)
葛飾北斎「富嶽三十六景」より「信州諏訪湖」、江戸時代

「高島城その2」に続きます。

30.高遠城 その2

自然の要害による城は、桜の名所となりました。

特徴、見どころ

現在、高遠城跡は高遠城址公園となっていて、桜の名所としてとても有名です。このため、公園は多くの人たちで賑わいます。桜の季節には入園料が必要で営業時間も設定されています。対照的に、桜の季節以外は静かで、入園料はなく、いつでも開いています。これは繁忙期に入園者の数をコントロールするための措置で、公園の門は北と南に2つあるだけです。よって、いつ公園を訪れるか予め決めておく方がよいでしょう。

城周辺の地図

公園北口に向かうルート

公園北口はかつては二の丸の入口でした。もし町の方から来られるのでしたら、この入口から入るのが便利でしょう。城跡への坂道を登った後、恐らくは江戸時代に築かれた大手門石垣が見えてきます。現在の道は三の丸を通って、搦手門に至っています。

坂道を登って大手門跡へ
大手門石垣

道の左手には大手門の建物が見えます。この建物は一時移築され縮小されましたが、現在の場所に戻されています。

大手門建物

三の丸には今も藩校であった進徳館の建物が残っています。

進徳館

そして、中堀の向こうにある公園北入口に到着します。内側には1936年に建てられた観光客向けの休憩所「高遠閣」があります。

公園北口
高遠閣

公園南口を通るルート

城周辺の地図

南口はかつては外堀の外側にあった法幢院(ほうどういん)曲輪の入口でした。この曲輪はもともと寺でした。高遠町歴史博物館から来られるようでしたら、この入口から入るのが便利でしょう。博物館から城跡を見上げると城が自然の地形を利用して作られたことがよくわかると思います。山の崖はかつて敵にとっては自然の障壁でしたが、現在城跡への通路はよく整備されています。

博物館周辺から城跡を見上げます
公園南口

南口から入り、法幢院曲輪を通って外堀にかかる白兎(はくと)橋を渡って行きます。

法幢院曲輪
白兎橋
外堀

堀の内側にある南曲輪からまた土橋を通って二の丸の方に歩いて行きます。

南曲輪
二の丸に向かいます
二の丸

桜が見事であろう本丸

防御を重視した縄張りのため、本丸に行くには二の丸を通って行く必要があります。本丸は城の中心部であり、今も内堀に囲まれています。この堀は今なお深いですが、ほぼ乾いた状態であるため、堀の底に行ってみることもできます。

内堀の底

入口の前の内堀には桜雲橋がかけられていて、桜の季節にはこの辺りが一番の写真スポットと言われています。

桜雲橋

本丸入口には、問屋門という古い門がありますが、町の方から移築されたものです。

問屋門

本丸の中からは、この周辺地域の景色をよく見渡すことができます。

本丸
本丸からの景色

本丸には太鼓櫓がありますが、もともと搦手門脇にあり人々に時を知らせていました。1877年に現在地に移築され、更には1912年に立て直されたのです。

太鼓櫓

「高遠城その3」に続きます。
「高遠城その1」に戻ります。