164.洲本城 その2

山上に素晴らしい石垣が残っています。

特徴、見どころ

厳重に守られていた城の入口

現在、山上の洲本城跡は観光客向けに整備され、オリジナルの石垣が維持されています。もし車で来られる場合は、三熊山の山頂近くまで登って駐車することができます。三熊山はどの方角も急坂になっていますが、東南だけが緩い坂になっていて、自動車道はそこを通っています。城にとっては、そのような坂は弱点となってしまいます。そのため、大手門など、この城で最も強力な防御システムはこの方角に整備されました。実は、車を停める駐車場は曲輪の一つで、馬屋と呼ばれました(月見台とも呼ばれました)。ここからは、南の方角に素晴らしい紀伊水道を眺めることができます。そのために、この曲輪は見張り台として使われたものと思われます。

城周辺の地図

大手門跡
馬屋
馬屋からの眺め

駐車場から城の中心部にいくには最初、東の丸の石垣を右側に、南の丸の石垣を正面とする細い通路を歩いていかねばなりません。そして、東の丸の南門跡から入っていきます。

城周辺の地図

城の中心部への細い通路
入口は石垣に囲まれています
東の丸南門跡

門から入った後、これらの石垣(東の丸、南の丸隅櫓跡など)に登っていただくと、今通ってきた通路をはっきり見下ろすことができ、かつてはこの地点がどのように防御されていたのか理解することができます。

東の丸石垣から見下ろした場合
南の丸隅櫓跡から見下ろした場合
南の丸隅櫓跡

その後は、同じように石垣に囲まれている二の丸を通れば、本丸に到達します。

二の丸の石垣
二の丸の入口

城の権威の象徴だった本丸

本丸には、この城で最も素晴らしく、最も高い石垣があります。本丸は南側が正面となっていて、大石段と入口である虎口があります。虎口には内側に四角い空間があり、石垣に囲まれています。この部分はまた、内桝形と呼ばれています。周りを囲んでいる石垣にも上がってみることができ、虎口と四角い空間を見下ろしてその形を確認することができます。かつて石垣の上には櫓門の建物があったと考えられています。虎口はより強力な防御力をもち、城主の権威をも表していたことでしょう。

城周辺の地図

本丸の石垣
本丸大石段
本丸虎口
本丸虎口を見下ろす

模擬天守は現代の城のシンボル

本丸には、オリジナルの天守台石垣の上に模擬天守も建てられています。この天守は、近代的な展望台として1928年に昭和天皇の即位式(御大典)を記念して建設されました。しかし、老朽化と耐久性に問題があることで、現在では展望のためには使うことはできません。よって、この天守は、城のシンボルか、洲本市のランドマークとしてのみ存在しているのです。天守の下からでも北の方角に、以前城下町であった洲本市域や大阪湾の素晴らしい景色が見えます。この場所が城にとって、防御のためにも周辺地域を見渡す上でもとても良い立地だったことを、改めて理解できることと思います。

模擬天守
建造時に取り付けられたプレート
天守台石垣
天守台からの眺め

「洲本城その3」に続きます。
「洲本城その1」に戻ります。

164.洲本城 その1

淡路島にある素晴らしい城

立地と歴史

独立した淡路国に築かれた城

洲本城は、日本の本州と四国、そして2つの細い海峡(明石海峡と鳴門海峡)に挟まれた淡路島にありました。また、淡路島は播磨灘、大阪湾、紀伊海峡にも囲まれています。この島は、日本の中心とされた京都にも近く、近代以前には、特に海上交通をコントロールしたり監視したりするための重要な拠点と見なされていました。その結果、淡路島は、淡路国として独立した国となっていました(現在では兵庫県の一部となっています)。

城の位置

戦国時代の16世紀、三好氏の配下であった安宅(あたぎ)氏が最初に洲本城を築き、水軍を率いました。しかし、安宅氏は1581年に天下人の豊臣秀吉に降伏しました。秀吉は(一旦仙石久秀にこの城を与えますが)最終的には1585年に、部下の脇坂安治(わきざかやすはる)を洲本城に送り込みます。安治は、大洲城に転封となる1609年までの24年間、洲本藩の藩主としてこの城を統治しました。

脇坂安治肖像画、龍野神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

脇坂安治が大幅に強化

洲本城は、もともと土造りの単純な山城であり、三熊山の上に築かれました。その頂からは、周辺の海域(東側の大阪湾と南側の紀伊水道)を見渡すことができます。安治は、洲本城を大幅に改修し、山の上に石垣や天守を含む多くの櫓を築きました。こういった城の構造は、秀吉やその部下たちによって成された典型的な築城方法でした。この築城方法は、秀吉の天下統一事業の間、日本中に広まりました。城をより強化することで、人々に権威を誇示していたのです。安治はまた、山麓に御殿を築き、城下町を開設しました。彼は最後に、登り石垣と呼ばれる階段状の石垣を、山麓と山頂をつなぐ直通ルートとして建設しました。登り石垣は、安治を含む数名の大名が、朝鮮侵攻の際、連絡あるいは防衛のために開発したものです。洲本城にあるものは、現存する数少ない登り石垣の一つです。安治は、日本に戻った後、登り石垣を洲本城に応用したのです。これにより、洲本城は完成したとされています。

城周辺の起伏地図

本丸の石垣
登り石垣

一時は廃城に

ところが、安治が転封となった後、洲本城は他の大名たち(池田氏、蜂須賀氏)によって使用されませんでした。これは、淡路国がその大名たちの所領の一部になったこと(池田氏は播磨国、蜂須賀氏は阿波国が本拠)、淡路国では他の城を支城として使ったこと(岩屋城や由良城)がその理由です。更には、洲本城は、1615年に徳川幕府により発せられた一国一城令により一時廃城となってしまいます。山上の全ての建物は、当時淡路国と阿波国(現在の徳島県)を治めていた蜂須賀氏によって撤去されました。一説によると、洲本城が廃城となる前に、その天守が脇坂安治により大洲城に移設されたとのことです。大洲城の天守の形式が、安治が洲本城にいた時に一般的であった天守の形式の一つに該当するそうです。

淡路島にあった支城群の位置

大洲城

蜂須賀氏の支城として石垣を維持

1631年、蜂須賀氏は、何らかの理由で洲本城を淡路国の支城として復旧しました(交通の便のためとも言われています。それまで使っていた、大阪湾入口近くにあった由良城は廃城となりました)。蜂須賀氏は、家老の稲田氏を城代として城に派遣しました。しかし、城の中心部は山の麓に設定され、城主の御殿が再建されました(御殿は城主である蜂須賀氏のためであり、稲田氏は別の屋敷に住んでいました)。山の部分は基本的には脇坂氏が築いた石垣のみが維持され、新しい門がいくつか添えられただけでした。これは恐らく、蜂須賀氏にとって、本拠地の徳島城とは違い、洲本城はあくまで支城の一つであり、山上は非常時にのみ必要な場所だったからでしょう。この城の珍しい形態は、19世紀半ばの江戸時代末期まで維持されました。

淡路国(洲)本城下之絵図、江戸時代(出展:国立国会図書館)山上部分は既に石垣のみとなっています
山麓部分の城跡 (licensed by Reggaeman via Wikimedia Commons)

「洲本城その2」に続きます。