29.松本城 その2

現代の松本城に到着したら、まず何といっても天守を見て登って楽しむことです。この天守は、姫路城と並んで2基しか現存していない5層天守であり、国宝に指定されている5つの天守の一つであり、更には現存12天守の一つとなります。

特徴、見どころ

現代の松本城に到着したら、まず何といっても天守を見て登って楽しむことです。この天守は、姫路城と並んで2基しか現存していない5層天守であり、国宝に指定されている5つの天守(上記2つに加えて、彦根城犬山城松江城)のうちの一つであり、更には現存12天守の一つとなります。

松本城天守
姫路城天守
彦根城天守
犬山城天守
松江城天守

美しいが強力に防御された天守

天守に登る前に、本丸を囲む内堀の周りを歩いて、その美しい姿を見てみるというのもいいかもしれません。内堀の天守手前部分は約60mの幅があります。当時においては、堀脇から撃ちあげる敵の射撃を弱らせるが、天守から撃ちおろす守備兵の射撃は有効である距離だと言われています。また、もし敵が内堀を泳いで渡ることができても、守備兵は天守に備えられた石落としや狭間などから猛烈に反撃することができました。

城周辺の航空写真

天守前の内堀
天守入口近くの石落としと狭間

黒い天守の理由

黒々とした外観の松本城天守(そのため「烏城」とも呼ばれます)は、よく白亜の天守を持つ姫路城と対比されます。この黒い外観は、特別な黒漆で塗られた側壁(「下見板張り」と呼ばれます)によるもので、荒天にも耐えられるようになっています。姫路城の方は漆喰で塗り固められていて、それが天守を白く見せています。姫路城の方が松本城より後にできたのですが、松本城が建てられた当時は、城の壁全てに漆喰を使う方法では雨に耐えられなかったと言われています。つまり、この2つの城の築造期間の間に、壁を作る技術に顕著な進化があったことになります。他に黒壁を使った理由として考えられるのは、板壁は漆喰壁より松本盆地のような内陸部の寒い冬に強いということです。

松本城天守を見上げると、各層の上部は漆喰、下部が黒い下見板張りになっているのがわかります
姫路城は白い城の代表格

また、黒は豊臣秀吉が好んだ色で、白は姫路城が築かれた当時に徳川家康が自身の城によく使った色だという人もいます。いずれにせよ、この対照的な城を見ていろいろ想像するのは楽しいことです。

秀吉時代の大坂城天守、「大坂夏の陣図屏風」より、大阪城天守閣蔵   (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
家康時代の白い城の一つ、名古屋城

独特の望楼型天守

松本の天守は実際には、大天守、乾(いぬい)小天守と3つの櫓(渡櫓、辰巳(たつみ)櫓、月見櫓)が互いに連結された構成になっています。これを連結複合式といいます。一般的に「天守」というときは大天守のことを指します。この大天守は5層ですが内部は6階です。天守そのもののタイプは望楼型で、大きな櫓の上に小さな望楼が乗っている形式です。松本城の場合は、櫓の部分は1階と2階で、望楼部分は5階と6階で、真ん中に3階と4階を挟んでいます。しかし3階は、櫓部分の屋根裏になっていて屋根がありません。そのため、屋根で判別する層の数と階数が異なるのです。

左から乾小天守、(目立たない)渡櫓、大天守、辰巳櫓、月見櫓

更には、この天守は望楼型にしてはすっきりした外見をしています。その理由の一つとして、最上階に高欄がなく、壁に囲まれているということが挙げられるでしょう。通常望楼型には高欄があるものです。事実として当初は高欄の建築が計画されたのですが、途中で現在の形に変更されたのです。その結果、天守は少し頭でっかちとなりました。

最上階は壁に囲まれて少し頭でっかちになっています

「松本城その3」に続きます。
「松本城その1」に戻ります。

29.松本城 その1

松本城は長野県松本市にある城で、現存する素晴らしい5層天守により有名です。城が位置する松本盆地は古代より、周辺の山々から流れてきた豊かな水が湧き出る地としても知られていて、現代の市街地でも多くの現役の井戸を目にすることができます。

立地と歴史

小笠原氏が追放され、帰還するという本懐を待ち続けた城

松本城は長野県松本市にある城で、現存する素晴らしい5層天守により有名です。城が位置する松本盆地は古代より、周辺の山々から流れてきた豊かな水が湧き出る地としても知られていて、現代の市街地でも多くの現役の井戸を目にすることができます。そのため、この地はもともと「深瀬(ふかせ)」または「深志(ふかし)」と呼ばれていました。「深く流れる水」という意味だったようです。中世の頃には、信濃国(現在の長野県)の守護であった小笠原氏がこの地を本拠地としていました。多くの戦いが起こった戦国時代には、小笠原氏の家臣、島立右近(しまだてうこん)が1504年に、主君の本拠地・林城防衛のために、深志城を築城しました。これが松本城の前身となります。ところが1550年に、武田氏により城は落城し、小笠原一派は追放されてしまいました。

松本市の範囲と城の位置

市街地にある井戸(西堀公園井戸)
こちらは名も無き井戸か

武田氏は深志城を強化し、盆地の平地部分にある城であっても、強力な防御拠点にしようとしました。まず、城を三重の水堀で囲みました。堀に囲まれた曲輪部分は、真ん中から順に、本丸、二の丸、三の丸とされました。加えて、女鳥羽川(めどばがわ)の流路が、総堀(一番外側の堀)に沿うように変えられ、城の防御力はますます高まりました。武田氏はまた、城の門を改良し、前面に馬出しを加えました。馬出しとは、小さな丸い曲輪で、狭い通路によって門とつながっていました。これは、武田氏が開発し、頻繁に使われた防御システムです。城の基本的な構造は、武田氏によって完成されたと言われています。しかしこの時点では、城は基本的には土造りでした。

江戸時代の松本城の模型、松本市立博物館にて展示、三重の堀に囲まれています
城の東側にわずかに残る総堀
わずかに残る総堀の内側にあった土塁(西総堀土塁公園)
女鳥羽川
上記模型にある馬出し、現在では全て撤去されています

小笠原氏が戻ってくる機会が1582年に突然やってきました。織田信長が武田氏を滅ぼし、またその信長も本本能寺の変で明智光秀に殺されてしまったのです。その当時徳川家康に仕えていた小笠原貞慶(おがさわらさだよし)はその翌年、33年ぶりに城に帰還したのです。貞慶はそれを祝して、城の名前を「松本」と変えました。その名前は、「本(もと)懐」を「待つ(松)」というところから付けられたと言われています。しかし、状況はまた急激に変わりました。1590年には天下人の豊臣秀吉により、貞慶は主君の家康とともに、関東地方に移封となりました。秀吉は松本城を、家康の重臣であり、秀吉の下に出奔した石川数正(いしかわかずまさ)に与えました。

小笠原氏の家紋、三階菱  (licensed by Minamoto at fr.wikipedia via Wikimedia Commons)
「長篠合戦図屏風」に描かれた石川数正  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

石川氏が天守を築き城を近代化

数正は、秀吉によって好まれた先進技術によって城の近代化を始めました。1592年に数正が亡くなってからは、子の康長(やすなが)が引き継ぎました。康長は曲輪群を石垣で囲み、本丸には5層の天守を築きました。彼はまた、主要な門の馬出しを桝形に置き替えました。桝形とは、石垣や門の建物に囲まれた、四角い防御スペースのことを言います。これらの門は、三の丸の大手門、二の丸の太鼓門、本丸の黒門のことです。城の工事は1594年に完成しました。しかし、この工事は突貫で行われたため、民衆には苦痛を与えました。地元の言い伝えによれば、太鼓門に使われる巨石を運んでいた人夫が不満を言ったところ、康長はそれを聞き、直ちにその人夫の首を刎ねたそうです。それ以来、その石は玄蕃石(げんばいし)と呼ばれるようになりました。「玄蕃」とは康長の官職名でした。

城周辺の地図

上記模型にある大手門、手前は女鳥羽川
現在の大手門跡
復元された太鼓門
太鼓門にある玄蕃石
復元された黒門

城の建物には、秀吉の特別な許可により、金箔を貼った屋根瓦が使われました。この許可は、秀吉の親族か、信頼のある重臣にのみに与えられました。その重臣たちの城にも金箔瓦が使われていて、小諸城上田城甲府城沼田城駿府城など家康がいた関東地方周辺に配置されました。松本城を含むこれらの城は、家康包囲網を形成し、家康を監視し、且つ脅威を与えていました。康長は、秀吉の死後に家康が天下を取ったときも、家康に味方することで何とか生き残りました(金箔瓦は当然廃棄されました)。ところが、1613年に彼はついに家康によって改易されました。その理由ははっきりしないのですが、可能性として、家康は石川氏が彼の下を去ったことに報復したという面もあったでしょう。

家康包囲網の城

小諸城跡
上田城跡
甲府城跡
沼田城跡
駿府城跡

月見櫓建設により天守が完成

その後、小笠原氏が再度松本城に復帰するのですが、1617年にはまた明石城に転封となりました。城とその周辺地域は松本藩となりますが、江戸時代の間、いくつもの親藩や譜代大名によって引き継がれました。その間、城に関する重要な出来事がいくつかありました。その一つが松平直政(まつだいらなおまさ)が城を治めたときに起こりました。彼は、将軍の徳川家光が松本城に立ち寄るという計画を聞き(その後取りやめとなりますが)、1634年に新しく月見櫓を天守に付け加えました。それまでは天守は全く戦を想定して作られていました。しかし、月見櫓は完全に娯楽のために築かれたものです。これによって天守は、違った趣の建物が融合した、現在の姿になりました。

松平直政肖像画、月照寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
月見櫓(外観)
月見櫓(内部)
月見櫓(右側)を従えた松本城天守

二番目の出来事は、1727年の松本大火のときです。大火により、天守となりの本丸御殿は焼けてしまいましたが、天守そのものは幸運にも無事でした。人々は、中に祀られていた二十六夜神(にじゅうろくやしん)が天守を救ったのだと考えました。また城下町は、南北を貫く善光寺街道と東西を走る野麦街道が交差する場所として、大いに繁栄しました。城下町には多くの番所があり、もし敵が攻めてきたときには容易に城に近づけないようになっていました。

本丸御殿跡
現在も天守に祀られている二十六夜神
上記模型の松本城城下町
上記模型の番所部分

「松本城その2」に続きます。

29.松本城(Matsumoto Castle)

Location and History

松本城天守と埋橋(Matsumoto castle keep and Uzumi bridge)

松本城、特にその天守は現在の長野県松本市において際立った存在です。しかし、現在までの道のりは平坦ではありませんでした。16世紀に小笠原氏が最初にこの地に城を築き、しばらくして松本城と名付けました。1590年、石川氏がここに移され、城の拡張に手をつけ、そして天守を建てました。何度か改築の後、松平氏によって1633年に現在と同じ姿に至りました。
The Matsumoto castle, particularly its keep “Tenshu” is outstanding now in Matsumoto city, Nagano prefecture. But the road to present has not been smooth. In the 16th century, the Ogasawara clan first built the castle in this area. After a while, they named it Matsumoto castle. In 1590, the Ishikawa clan were transferred to the area and started to spread the castle and they also built the Tenshu. It was modified several times and reached the same appearance as now in 1633 by the Matsudaira clan.

松本城航空写真(The aerial photo of Matsumoto Castle)





Features

城の歴史は長いですが、城のシンボルはとにかく天守に尽きます。天守は「大天守」「乾小天守」2つの櫓「辰巳附櫓」「月見櫓」から成っていて、互いにつながっている構造です。大天守は、東日本で唯一の現存5層天守であり、黒く輝いている姿を見ることができるのは、下見板(板壁)に毎年特別な漆が塗られているからなのです。
In spite of its long history, the symbol of the castle is just the Tenshu. It consists of the large keep “Dai-Tenshu”, the Inui small keep “Sho-Tenshu”, and two turrets (Tatsumi-Tsuke Yagura and Tsukimi Yagura) which are connected to each other. Daitenshu is the only one remaining and its five-story castle keep in the east Japan. It has a brilliant black colored look coming from wooden side walls painted with special Japanese lacquer, annually.

天守西面、左から乾小天守、大天守(The west side of Tenshu. Inui Sho-Tenshu, Dai-Tenshu from the left)
天守南面、左から大天守、辰巳附櫓、月見櫓(The south side of Tenshu. Dai-Tenshu, Tatsumi-Tsuke-Yagura, Tsukimi-Yagura from the left)

松本城は、同じく5層の大天守を持つ姫路城とよく比較されるのですが、姫路城の方は西日本にあって白亜に塗られており、とても対照的です。松本城の天守はまた、国宝に指定されている現存5天守の1つとなっています(他は、姫路、彦根、犬山、松江)。
It is often compared with the Himegi castle’s equally five-story Dai-Tenshu painted in white clearly in the west Japan by contrast. Matsumoto castle’s Tenshu is also designated as one of the 5 remaining keeps of Japan’s national treasures (the others are Himeji, Hikone, Inuyama and Matsue).

「白い」姫路城天守(The “white” Himeji castle keep)

そもそも城の装備、例えば石落としや狭間などは正に戦いのために作られているのですが、それに加えてよくデザインされ、各層の屋根ともよくマッチしています。
Basically its devices such as machicolations and loopholes were built just for battles, they were also well designed and match each story’s roof.

松本城の石落とし(One of Matsumoto castle’s machicolations)takeen by あけび from photo AC

この城の美しく調和が取れた姿は、歴史ファンだけでなく、写真家、芸術家、一般の観光客を魅了しています。一例として、日本アルプスを背景にした松本城は、ともよい写真の主題になると思います。
Its beautiful total balance of the castle has been attracting not only history fans but also photographers, artists and everyday visitors. For example, Matsumoto castle with the background of the Japan Alps could be a very good photo subject.

日本アルプスを背景にした松本城(Matsumoto Castle with the background of the Japan Alps)

天守の中に入ることもできます。実は内部は6階建てです。ほとんど木材によりながら、こんなにも頑丈に作られていることに驚かれることでしょう。但し、内部はどちらかといえば暗く狭く、階段は急です。ですので動きやすい服装で登閣されることをおすすめします。
You can also get in the inside of the Tenshu which in fact consists of 6 floors. You may be surprised to see how strong it is built by using mainly wooden materials. But the inside is relatively dark and narrow, and stairways are steep. So it is recommended to wear comfortable clothes.

松本城天守の内部(A view of the inside of Matsumoto castle’s Tenshu)taken by あけび from photo AC

Later Life

その後の松本城はとてもシビアでした。まず江戸時代、本丸御殿が焼け落ちたとき、松本藩の藩士たちは必死に働き、天守に火が及ぶのを防ぎました。明治維新の後、他の建物が皆撤去されていき、ついには天守も売られてしまい、廃材として解体されるところでした。ここで社会運動家の市川量造が登場し、買主に待ってもらうよう頼み、その間に資金を集め、ついには買い戻しに成功しました。
The later life of Matsumoto castle was very severe. In the Edo period, when the Honmaru main hall was burned down, warriors of the feudal domain of Matsumoto worked their hardest to prevent Tenshu from burning. After the Meiji restoration, all of the other buildings were removed, and finally Tenshu was sold to possibly be for waste material. Ryozo Ichikawa, a social campaigner came out, then asked the buyer to suspend, after that he collected money to get it back, and was successful in the end.

明治時代の天守写真、松本城管理事務所蔵(The picture of Tenshu in the Meiji Era, owned by Matsumoto Castle Management Bureau)licensed under public domain via Wikimedia Commons

しかしながら、それだけでは不十分でした。このような大きく古い建物の維持には、継続的なメンテナンスが必要なのです。明治中期には、天守は柱の腐りから6度傾いてしまい、中にはコウモリが住む有様でした。ここでもう一人の救世主、学校の校長であった小林有也が登場し、城の修復に尽力しました。そしてついには松本城は国宝に指定されたのです。更には最近では、天守の周りに過去にあった門、黒門そして太鼓門が再建されています。
However, that was not enough for the castle. Such a large and old building is needed to do continuous maintenance to keep. In the middle Meiji era, Tenshu got to lean at about six degrees due to central pillars decayed, and bats lived in it. Another savior, school head Unari Kobayashi worked hard to repair the castle. At last the castle was designated as a national treasure. In addition, other traditional gates around Tenshu such as Kuromon and Taikomon has been rebuilt these days.

太鼓門(The Taikomon)

My Impression

もし天守に入りたいのであれば、十分な時間を確保していただいた方がよいと思います。恐らく天守に入る人たちの列に並ばなければならず、1時間近くは待つことになるでしょう。ここ数年有名どころの城巡りがブームになっているからです。
I would like to say that you would better have enough time to spend if you want to get in Tenshu, as there might be a long line. It may take nearly 1 hour in line because visiting famous castles has become more popular over the last few years.

天守南西面(The southwest side of the Tenshu)

そして、もう一つお願いとしては、この城を守ることに尽力した2人の功労者に敬意を表していただきたいのです。黒門の内側に、2人の顕彰碑があるので是非ご覧ください。
And my another suggestion is to show respect to two saviors who kept the castle intact, by looking at the plaque of them that is placed inside the gate of Kuromon.

黒門(The Kuromon) taken by あけび from photo AC

How to get There

松本駅またはバスターミナルから歩いて約15分。車の場合は、城の周辺にいくつか駐車場があります。
東京から:北陸新幹線で長野駅まで行き、篠ノ井線の普通列車に乗り換えてください(電車の場合)。または新宿バスターミナルから直行高速バスに乗ってください(バスの場合)。
It takes about 15 minutes on foot from the Matsumoto train station or bus terminal. When using a car, there are few parking lots around the castle.
From Tokyo: Go to Nagano on Hokuriku shinkansen super express, transfer local train on Shinonoi line (train). Or take a direct highway bus at the Shinjuku bus terminal (bus)

Links and Refernces

国宝松本城(National treasure Matsumoto Castle)