160.飯盛城 その1

最初の天下人、三好長慶の城

立地と歴史

三好長慶の本拠地となる

飯盛城は、河内国(現在の大阪府東部)の標高314mの飯盛山の上に築かれました。この山はまた、河内国と大和国(現在の奈良県)の国境であった生駒山地の北西支脈に当たりました。幾筋もの街道が山麓に通っており、城の近くには過去には深野池という池があり、大阪湾から城の周辺地まで船を使っての移動が可能でした。この城がいつ最初に築かれたかは不明ですが、1530年頃、木沢氏がこの城を拡張して、河内国の中では最大の城となりました。当時は山城が最もよく利用されていたのです。

飯盛城の位置と河内国の範囲

三好長慶は16世紀中頃の有力な戦国大名でした。彼の勢力は将軍であった足利義輝に拮抗し、この将軍を京都から追放することで、彼自身による統治を始めました。そのため、最近では、長慶は日本の中心地を支配したという意味で最初の天下人と見なされています。彼は幕府の権威なしで、それをなし遂げたのです(もっとも、通常は織田信長が最初の天下人とされていますが)。長慶は摂津国(現在の大阪府北部)の芥川山城を本拠地としていましたが、河内国と飯盛城を領有していた畠山氏を倒し、1560年に飯盛城に移ってきたのです。

三好長慶肖像画、大徳寺聚光院蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

石垣を権威の象徴として利用

飯盛城の範囲は、南北約700m、東西約400mに及びます。城には多くの曲輪があり、2つのグループに分かれていました。北部の曲輪群は、とても狭い峰上にあり、防御陣地として使われたと考えられています。一方、南部の曲輪群は比較的広く、住居として使われたと言われています。北側、東側、西側はとても急な坂となっていました。南側は緩い坂となっていましたが、その分城に至る道はとても距離がありました。

飯盛城の模型(大東市立歴史民俗資料館)

歴史家は、城に至る大手道は東側と考えています。この方面から川筋や谷筋に沿って城に向かうことができたからです。なぜ城の正面が東側であったのかもう一つ理由があります。最近、ほとんどの曲輪の東側は石垣に覆われていたことが分かったのです。これらの石垣は建物のためではなく、曲輪を支えるためだけに使われました。これは、恐らく石垣が正面に向いて、訪問者に対して城の権威を示していたのだと考えられます。信長の安土城が、城のために石垣を使った最初の例と言われてきました。ところが、この飯盛城の事例は安土城よりも20年近く早いのです。これが長慶が最初の天下人と言われるもう一つの理由になるかもしれません。

山の東側に現存している石垣

織田信長が廃城とする

長慶は近畿地方を支配し、敵と頻繁に交戦しました。彼は在城していた数年間で、時々連歌の会を開き、宣教師をも招いたりしました。ところが、1564年に彼は突然死んでしまいました。三好一族はまだこの城を維持していましたが、内紛を起こします。織田信長はこの状況を利用して1568年に上洛したのです。信長は天下統一を進めていく中で、1575年には飯盛城の破却を命じます。そしてこの城は廃城となりました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「飯盛城その2」に続きます。

159.芥川山城 その3

そこに行けば、なぜそこに城があったかわかります。

その後

芥川山城が廃城となった後、城跡の一部は農地となりました。江戸時代には、山麓にいた村人たちが山頂に三好長慶をを祀る祠を建てました。その祠は今でもあります。高槻市は、1993年以来城跡の調査研究を続けてきました。その結果、この城が日本の歴史の中で独特かつ重要であることがわかったのです。また、市は城跡を国の史跡に指定されるよう活動しています。

三好長慶を祀る祠 (licensed by ブレイズマン via via Wikimedia Commons)
本丸にある標柱
現存している大手門石垣

私の感想

私がこの山の山頂に立ったとき、なぜ長慶がこの城を本拠地に選んだのかわかったような気がしました。長慶は、山頂から彼が支配する摂津国一帯を見渡すことができました。その国で何が起こっているのか把握し、必要であればすぐに行動することができたのです。更に、この城に住むことで安全を確保できました。また、想像するに長慶は芥川山城から生駒山地を見て、そこを次の本拠地にしようと考えたのではないでしょうか。そうすれば、南北両側から彼の支配国を監視でき、統治をもっと安定できるからです。

山頂からの眺め
飯盛城があった生駒山地

飯盛城、芥川山城の位置と摂津国の範囲

ここに行くには

JR高槻駅から塚脇行きか下の口行きの高槻市営バスに乗り、塚脇バス停で降りてください。
東京から高槻駅まで:東海道新幹線に乗り、京都駅で京都線に乗り換えてください。

リンク・参考情報

芥川城跡/高槻市ホームページ
・「歴史群像55号、戦国の堅城 摂津芥川山城」学研
・「歴史群像166号、三好長慶伝」学研

これで終わります。
「芥川山城その1」に戻ります。
「芥川山城その2」に戻ります。

159.芥川山城 その2

城跡と景色両方楽しめます。

特徴

バス停から歩く

現在、芥川山城跡は個人所有となっていて、公園として整備されてはいません。観光客は通常バス停から歩くことになります。そこからどの山に登ってどうやって城跡に行ってよいのか迷うかもしれません。そこで、高槻市ウェブサイトから「三好山山頂へのアクセス」という案内図をダウンロードして持っていかれてはどうかと思います。バス停から15分程歩くと、道は2つに分かれます。どちらを選んでも大丈夫です。

城周辺の地図

バス停周辺
三好山山頂へのアクセス(出展:高槻市ウェブサイト)

塚脇ルート

1つは塚脇ルートで、山の東側をまわっていて、比較的なだらかです。たくさんの曲輪跡を目にすることができますが、フェンスで囲ってあるため中には入れません。通れる場所は限られています。道に対して直角に交差している土塁が見えます。これは竪土塁と呼ばれていて、道以外の他の場所から敵が侵入するのを防ぐためのものです。両側に空堀がある狭い土橋もあります。目的は竪土塁と同様です。食い違い虎口のようなものも見ることができます。

塚脇ルートに向かいます
フェンスの脇を通る道
竪土塁 (licensed by ブレイズマン via via Wikimedia Commons)
土橋
食い違い虎口らしき遺構

大手筋ルート

もう一つの道は大手筋ルートで、山に向かってまっすぐ登っていきます。その分急で、岩がごつごつしています。山の入口辺りに古い石垣がありますが、城があった時代のものではないようです。この道もフェンスで囲まれており、更にはイノシシ除けに設けられたドアを通り抜けねばなりません。通り過ぎた後にきちんと閉めるようにしてください。15分程登っていくと、大手門の石垣が見えてきます。中心部分は崩れてしまっていますが、城があった当時のものです。

ルート入口周辺にある石垣
大手筋ルートの様子
イノシシ除けのためのドア
大手門の現存石垣

素晴らしい本郭からの眺め

2つの道は石垣の上の方で合流し、頂上にある本郭に近づいていきます。急に視界が開け、大阪平野の雄大な景色が現れます。更に数分登っていくと、ついに本郭に到着します。本郭は、整地され広場になっています。発掘の成果として、前方では櫓のような建物の跡が見つかり、後方では三好長慶の御殿のものであったかもしれない礎石が見つかっています。ここでも素晴らしい景色が堪能でき、大阪市のビル群や、芥川山城の後長慶が本拠地とした飯盛城があった生駒山地まで見渡せます。

2つのルートの合流点
突然視界が開けます
本郭
大阪市のビル群も見えます
生駒山地

「芥川山城その3」に続きます。
「芥川山城その1」に戻ります。