119.杉山城 その3

縄張り研究者たちは杉山城に注目しています。

特徴、見どころ

城の中心、本郭

本郭は、この城ではもっとも大きく、かつ高い位置にある曲輪です。ここには南北と東側の三つの入口(虎口)があります。南側でシミュレートしてみたように、北側と東側の虎口もまた、曲輪群と空堀により固く守られていました。この城の城主は、全ての方角の状況を把握し、的確な判断を下せたことでしょう。

本郭
本郭と、北側及び東側の曲輪群の位置
本郭の北虎口
本郭の東虎口
本郭から見た東側の曲輪群

更には、この城にはバイパスルートも設定されていますが、その内のいくつかは袋小路になっています。この城の縄張りを見ると、迷路のようだと思われるかもしれません。城を攻める敵にとってはその通りでしょう。しかし、守る方にとっては非常によく設計された要塞なのです。

袋小路と思われる場所の位置
南二の郭の袋小路
井戸郭の先の袋小路

その後

杉山城跡は、1980年代頃までは一般には知られていませんでした。縄張り研究者たちのみがこの城に関心を持っていたのです。彼らは1987年以来、城の縄張り図を掲載した事典や雑誌を刊行してきました(「中世城郭研究」など)。これらの書籍では、杉山城の縄張り図が最も多く掲載されているものの一つでした。これにより、この城は少しずつ知れ渡ってきたのです。2002年から2007年に発掘が行われた後、この城跡は2008年に「比企城館跡群」の一つとして国の史跡に指定されました。

この現地案内図も立派な縄張り図です

私の感想

もし杉山城がもっと大きくて、櫓、門、石垣などを備えていたとしたら、姫路城のような、ずっと後に作られた見事な城のように見えるのではないでしょうか。杉山城は、先進的な城の設計を先取りしていたことになります。しかし個人的には、この城の歴史的価値よりも、それを築いた努力に敬意を表します。この城の知られざる築城者は、少ない予算、資材、作業者しか確保できなかったに違いありません。この城の目的は限られていたからです。その築城者は、困難な状況下でもどうやって優れた仕事ができるか懸命に考えたことでしょう。もし十分な予算があれば、すごい城を作るのは容易だったかもしれません。杉山城は、現代の私たちにとっても、限られた資源でどうやっていい仕事をするのかを示すよい教材だと思うのです。

姫路城
杉山城跡

ここに行くには

ここに行くには、車を使われることをお勧めします。
関越自動車道の嵐山小川ICから約15分の所です。
城跡に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、東武東上線の武蔵嵐山駅からせせらぎセンター行きのときがわ町路線バスに乗り、田黒バス停で降りてください。
バス停から歩いて約20分かかります。

城跡の駐車場

リンク、参考情報

国指定史跡 杉山城跡公式ホームページ
・「杉山城の時代/西股総生著」角川選書
・「歴史群像61号、戦国の堅城 武蔵杉山城」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「杉山城その1」に戻ります。
「杉山城その2」に戻ります。

119.杉山城 その2

この城への攻撃シミュレーション

特徴、見どころ

大手口から本郭への仮想攻撃

今日、杉山城跡は観光客向けに史跡としてよく整備され、維持されています。城跡は、一時木々や藪に覆われていましが、今ではほとんどが除去されています。そのため、城の土造りの縄張りをはっきりと確認することができます。それでは、敵になったつもりでこの城への攻撃をシミュレートしてみましょう。

杉山城跡入口
城跡の現地案内図

例えば、南側からこの城に迫ってみたとします。最初、出発点として大手口に立ってみましょう。実は、ここから本郭に至るためには5つもの曲輪を通り過ぎなければなりません。

大手口
大手口から本郭までの曲輪とその順番(現地案内図に加筆)

外郭から馬出郭、南三の郭へ

外郭と呼ばれる最初の曲輪に入るためには、その入口の前で左に曲がる必要があります。守備側は、攻撃側が左に曲がる前に、左側面に反撃することができます。

外郭に入るのに左折します
外郭から見た入口に向かう通路
外郭への攻撃ルート(赤矢印)と外郭からの反撃方向(青矢印)

外郭に入った後、2つ目の曲輪は馬出郭です。馬出郭に着くには、空堀を越えていかなければなりません。そこには、木橋がかけられていたかもしれませんが、戦いが起きた時には落とされたでしょう。この空堀を渡るときには、南三の郭の屈曲した土塁から右側に反撃されます。

馬出郭の前にある空堀
南三の郭の屈曲した土塁
空堀から見た南三の郭
南三の郭から見た空堀
馬出郭への攻撃ルート(赤矢印)と南三の郭からの反撃方向(青矢印)

馬出郭は、南三の郭の入口から突き出た小さな空間です。南三の郭土塁の他の屈曲部分から、同じように、この場所にいる敵を撃退できるようになっています。

馬出郭
南三の郭から見た郭の屈曲部と馬出郭
南三の郭入口で左を向くと屈曲部がすぐ傍にあります
南三の郭への攻撃ルート(赤矢印)と南三の郭からの反撃方向(青矢印)

本郭の堅い防御

その後、南三の郭を通り過ぎて、何とか南二の郭にたどり着いたとします。そこでは、本郭の高い土塁が立ち塞がります。しかも、本郭への直通通路は見当たりません。そこで、左側の井戸郭の方に移動せざるを得ません(この曲輪の入口も他の曲輪と同じように防御されています)。

南三の郭
南二の郭から見える本郭土塁
井戸郭から見た本郭と南二の郭間の空堀
井戸郭
南二の郭と井戸郭への攻撃ルート(赤矢印)と守備側の反撃方向(青矢印)

井戸郭は本郭に通じています。空堀にかかる木橋によって本郭に接続されていたのです。しかし、ここでも前方の本郭の上から、正面と左側面に反撃を受けることになります。本郭の土塁は、攻撃側を包囲するように形作られているのです。結局、攻撃側は、通り過ぎる曲輪と同じ数だけ側面攻撃(横矢)を受け、損害を被ることになります。

この辺りに木橋がかかっていました
井戸郭に側面攻撃をかけるための屈曲
本郭から見た井戸郭
本郭への攻撃ルート(赤矢印)と本郭からの反撃方向(青矢印)

「杉山城その3」に続きます。
「杉山城その1」に戻ります。

117.岩櫃城(Iwabitsu Castle)

岩櫃城は、防りが固そうに見えますが、実は攻撃のための城なのです。
Iwabitsu Castle looks like defensive, but actually aggressive.

岩櫃山と潜龍院跡(Mt. Iwabitsu and the ruins of Senryuin)

Location and History

過去において信濃国(現在の長野県)と上野国(群馬県)の間を結ぶ街道がいくつかありました。最も有名なのは中山道ですが、その他の一つとして信州街道があり、信濃の上田と上野の沼田をつないでいました(現在の国道145号線に相当します)。戦国時代の後半に武田氏配下であった真田氏は、この信州街道に沿って信濃から上野に向けて攻撃を仕掛けました。岩櫃城はこの途上にあり、真田氏が改修を行い、上野攻略のための重要拠点としました。
There were several roads between Shinano Proivnce (now called Nagano Prefecture) and Kozuke Province (Gunma Prefecture) in the past. The most famous one was Nakasendo, and one of the others was Shinshu-Kaido connecting Ueda in Shinano and Numata in Koduke (equivalent to current the National Route 145). In the late Warring States Period, the Sanada clan under the Takeda clan attacked from Shinano to Koduke along this Shinshu-Kaido. Iwabitsu Castle was on the way, renovated by the Sanada clan to be an important site for the capture of Koduke.


国道145号線の周辺地図と岩櫃城の位置(The map around National Route 145 and the location of Iwabitsu Castle)

この城は岩櫃山にありましたが、山頂ではありませんでした。そこは岩山で危険であったからです(現在でも登頂には登山の装備が必要です)。それで城の中心は、山の中腹にありました。つまり、城の背後は自然の要害である岩山により守られていたということです。また、もう一つの障壁として吾妻川にも守られていました。
The castle was located on Mt.Iwabitsu, but not on the top, because the spot is too rocky and dangerous to stay (Even now, climbing to the top requires a modern climbing equipment). So the center of the castle was halfway up the mountain. This means that the behind the castle was protected by rock as a natural hazard. The castle also had another hazard, the Agatsuma River.

現地案内所にある城のミニチュアモデル(The miniature model of the castle at the information center at the site)

この城は最初は南北朝時代に土豪により作られたと言われています。その後真田幸隆が大変な苦労をしてこの城を手に入れました。そして彼の息子である真田昌幸が改修したのです。
It is said the castle was first built in the North-South Court Period by a local clan. After that, Yukitaka Sanada got it with great difficulty. His son, Masayuki Sanada renovated it.

真田昌幸像、個人蔵(The portlait of Masayuki Sanada, privately owned)licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons

1582年3月、真田の主君である武田勝頼は織田信長の侵攻により滅亡の危機を迎えていました。昌幸は、勝頼をこの城に迎え入れ、支えていくことを考えました。彼はまた、勝頼のために山の麓に館を作りました(現在の潜龍院跡)。しかしながら、勝頼がすぐに死んでしまったため、計画は実現しませんでした。
Sanada’s master, Katsuyori Takeda faced the crisis of destruction due to Nobunaga Oda’s invasion in March 1582. Masayuki thought about accommodating and supporting the master in this castle. He built the hall for Katsuyori at the foot of the mountain as well(What is now called “the ruins of Senryuin”).However, it didn’t happen as Katsuyori died shortly.

潜龍院跡(The ruins of Senryuin)

一方、真田は何とかこの城を維持することができましたが、戦国時代が終わったとき、この城は必要がなくなったため、1614年に昌幸の息子、真田信之により廃城とされました。
On the other hand, Sanada somehow manage to keep this castle. When the Warring States Period ended, the castle was not needed, and was abandoned by Masayuki’s son, Nobuyuki Sanada in 1614.

真田信之像、個人蔵(The portlait of Nobuyuki Sanada, privately owned)licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons

Features

岩櫃山は南に向かって岩の頂が際立っていますが、城跡は北西の方向に向いており、山の背後に残されています。城跡は、山の尾根の上にあり、そこから「本丸」「二の丸」「中城」といった曲輪が広がっており、それらもまた自然の障壁に守られていました。
Mt.Iwabitsu has a great rocky looking part facing the south, but the castle ruins remain at back of the mountain facing the north east direction. They are on a ridge of the mountain spreading down several enclosures called “Honmaru”, “Ninomaru” and “Nakashiro” surrounded by natural hazards.

岩櫃山の正面(The front of Mt. Iwabitsu)

城跡の麓にたどり着くには、たった一本の細く曲がりくねった道しかありません。その入り口はまた「柳沢城」という支城によっても守られていました。
There is only one narrow and winding road to reach the foot of the ruins. The entrance was also protected by the branch castle called “Yanagisawa Castle”.

城跡への道(The road to the ruins)

ここまで聞くと、この城は守りがとても固いと思われるでしょうが、この城には別の側面もあるのです。まず、尾根の上の曲輪は空堀や溝により区切られていますが、まるでネットワークのようです。これらは敵を防ぐためだけではなく、連絡のためにも使われたようです。
You may feel the castle was very defensive, however it had a different perspective. First, enclosures on the ridge are separated by dry moats or ditches like network. The network seemed to be used not only for preventing enemies, but also for connection.

空堀、兼通路(Dry moats or passages)

この城にはまた、山麓に天狗丸と呼ばれる曲輪と城下町があり、多くの兵士や住民を収容できました。
The castle also had an enclosure called Tengu-Maru and the castle town at the foot that could accommodate a large numbers of soldiers or residents.

天狗丸跡(The ruins of Tengu-Maru)

更には、尾根の上の本丸はそれ程大きくなく、指令所として使われたのではないでしょうか。
In addition, Honmaru on the ridge is not so large that might be used for the headquarter.

本丸跡(The ruins of Honmaru)

つまるところ、この城は真田の攻撃拠点として使われたと思うのです。郷土史家の山崎一は、このような城のレイアウト(縄張り)を「陽の縄」と言っています。
Overall, I think the castle was used for Sanada’s base to attack. Hajime Yamazaki, a local historian says that such a layout is called a bright layout “You-no-Nawa”.

二の丸から本丸を見上げる(Lookimg up Honmaru from Ninomaru)

Later Life

この城の立地のこともあり、廃城後の岩櫃城の遺跡は長い間そのまま放置されてきました。山崎氏が最初に城跡を調査したのは、1970年代のことでした。彼は調査の結果を公表し、それがきっかけで城跡は1972年に町の史跡に指定されました。そしてつい最近の2019年10月に国の史跡にも指定されました。これからこの城跡がどうのように整備されるのかとても楽しみです。
Because of its location, the ruins of Iwabitsu Castle had been left as they were for a long time after being abandoned. Yamazaki first investigated the ruins in the 1970s. He published his achievement, then the ruins were designated as a local historic site in 1972. They also became a national historic site just recently in October 2019. I’m looking forward to seeing how they are developed in the future.

本丸にある岩櫃城の標柱(The signpost of Iwabitsu Castle at Honmaru)

My Impression

歴史に「もしも」はないと言われますが、多くの歴史ファンはもし勝頼が岩櫃城に来ていたらどうなっていただろうと空想を逞しくしています。私ももしそうであれば、武田と織田の戦いは長引いたと思うのです。この城であれば大軍を前にしばらくは持ちこたえられるからです。そうしたら、歴史は史実と変わっていたでしょう。なぜなら信長の予想外の大勝利は彼を自己満足や自信過剰に陥らせたからです。それが、この勝利からわずか3ヶ月後の本能寺の変での彼の死につながったのです。
It is said that there is no “if” in history. But many history fans enjoy speculating what would happen if Katsuyori came to Iwabitsu Castle. I imagine the battle between Takeda and Oda would be longer as the castle could hold out against large troops for a while. Then, history might change from that fact, because Nobunaga’s unexpected great victory made him complacent and overconfident. That led to his death in the Honnoji Incident in June 1582, just three months after the victory.

岩櫃山の麓にある潜龍院跡(The ruins of Senryuin on the foot of Mt. Iwabitsu)

How to get There

岩櫃城跡へは:車の場合は、平沢登山口に駐車してください。電車の場合はJR吾妻線群馬原町駅から駐車場まで歩いて約40分です。駐車場から本丸までは更に歩いて約20分です。
To the ruins of Iwabitsu Castle: When using car, park at the Hirasawa starting point for a climb. When using train, it takes about 40 minutes on foot from the Gunma-Haramachi station on JR Agatsuma line to the parking lot. it takes another about 20 minutes on foot from the parking lot to Honmaru.

潜龍院跡へは:車の場合は、古谷登山口に駐車してください。電車の場合はJR吾妻線郷原駅から駐車場まで歩いて約20分です。駐車場から潜龍院跡までは更に歩いて約15分です。
To the ruins of Senryuin: When using car, park at the Furuya starting point for a climb. When using train, it takes about 20 minutes on foot from the Gobara station on JR Agatsuma line to the parking lot. it takes another about 15 minutes on foot from the parking lot to the ruins.

東京駅から群馬原町駅または郷原駅まで:上越新幹線に乗り、高崎駅で吾妻線に乗り換えてください。
From Tokyo to Gunma-Haramachi or Gobara station: Take the J0etsu Shinkansen super express to Takasaki station, and transffer to Agatsuma local line.

Links and References

岩櫃なび(Iwabitsu Navi, only Japanese?)
・「群馬の古城 北毛編/山崎一」あかぎ出版(Japanese Book)
・「真田太平記 1岩櫃の城/池波正太郎」朝日新聞社(Japanese Book)