139.佐柿国吉城 その1

若狭国境の難攻不落の城

立地と歴史

粟屋勝久が城を再興

現在の福井県は、北東側の越前国と南西側の若狭国に分かれていました。戦国時代の16世紀、朝倉氏が越前を治め、若狭は武田氏が領有していました。佐柿国吉城は、これら両国の国境近くの若狭側にありました。佐柿という名前は城の周りの地域の名前から来ており、国吉は戦国時代より以前の何れかの時代にこの城を最初に築いた人物の名前に由来しています。当時の人々は、通常「佐柿城」と呼んでおり、もう一つの名前「国吉城」はその後によく使われるようになりました。その結果、歴史家や歴史愛好家はこの城を、これら2つの名前を使ってよく佐柿国吉城と呼んでいます。

城の位置

朝倉氏と武田氏とを比べてみると、朝倉の方が武田よりずっと強力でした。朝倉は若狭国にその勢力を広げようとしました。それに呼応して武田は朝倉に頼ろうとしたのです(度重なる国外出兵により国内が疲弊し、一揆や反乱が頻発していました)。ところが、重臣の一人、粟屋勝久を含む武田の家臣たちはそれに反発しました。勝久は朝倉氏が若狭国に侵入するのを防ぐために、廃城となっていた城を再興します。それが佐柿国吉城でした。その城は、越前国との国境近くの標高197mの急峻な山の上に築かれました。当時の人たちが若狭国に出入りするためには、その山際にある峠を通らなければなりませんでした。よって、この城は国の防衛の要だったのです。城主は通常は山下の谷にあった御殿に住んでいましたが、戦が勃発したときには城の山上部分を使ったのです。

城周辺の起伏地図

朝倉氏の攻撃を5回撃退

朝倉氏は若狭国での反乱を鎮圧するため、1563年から1567年までの間、5回にわたって佐柿国吉城を攻撃しました。ところが、反乱軍と城がとても強力だったため、全ての攻撃は失敗に終わりました。これらの戦いは、だいたい以下の様でした。武士とその家族、他の城の周りの人々は、弾薬、石材、木材を運んで山上の城に集まります。その一方で、一部の守備兵は城に向かう道沿いに隠れて待機します。攻撃兵がその道を通って城に近づいた時、守備兵は奇襲をかけたのです。その後、攻撃兵が山を登って中腹に差し掛かった時には、守備兵は銃や矢を打ちかけ、石や木材も一斉に投げ下ろしました。攻撃兵の多くは打たれ、谷底に落下していきました。また、攻撃兵が城の近くの町から財物や穀物を略奪したときには、守備兵は朝倉の陣地を夜襲しました。その結果、この城は難攻不落と言われるようになりました。

佐柿国吉城の想像図、若狭国吉城歴史資料館にて展示

天下を巡る戦いに関与

1570年に有力な戦国大名、織田信長が朝倉氏を攻めたことにより、ついに勝久に運が向いてきました。信長は越前侵攻中に佐柿国吉城を訪れ、勝久が率いる将兵の健闘を称えました。織田と朝倉の戦いは1573年まで続き、朝倉氏は滅亡しました。信長は若狭国を重臣の一人、丹羽長秀に与え、勝久は長秀に仕えることになりました。1582年の本能寺の変で信長が殺された後は、状況は急激に変化します。信長の部下であった羽柴秀吉と柴田勝家が主導権を巡って対立するようになったのです。勝家は越前国にいて、長重は秀吉に味方していました。これにより、佐柿国吉城は再び2つの国の緊張した国境に位置することになったのです。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
丹羽長秀肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

勝久の主君である長秀は、織田信長によって築かれた安土城の建設では総奉行を務めました。つまり、長秀は城の拡充についての先進的な技術を持っていたのです。佐柿国吉城は基本的には土造りの城でしたが、石垣を使った城に強化されました。最終的には、秀吉と勝家の間の戦いは別の場所で起こり、秀吉が勝利しました。秀吉による、そして徳川幕府に引き継がれた天下統一の間、この城は様々な城主に受け継がれました。石垣を使った改修は続けられましたが、山上部分はやがて放棄されました。その代わりに谷にある御殿部分のみが使われるようになりました。統治のために便利だったからです。そして、若狭国を含む小浜藩の藩主であった酒井氏が、1634年に佐柿奉行所を設置したとき、城は完全に廃城となりました。

安土城想像図、岐阜城展示室より
佐柿奉行所跡

「佐柿国吉城その2」に続きます。

156.鎌刃城 その1

先進的なシステムを持った山城

立地と歴史

近江国南北の境目の城

鎌刃城は、近江国(現在の滋賀県に当たります)にあった戦国時代の山城です。この城はこの国の中央部分にありましたが、当時この国は北部と南部に分けられていました。その結果、二つの戦国大名、南側は六角氏が、北側は浅井氏がこの国を治めていて、この城は双方から奪ったり奪われたりしていました。鎌刃城は、霊仙(りょうぜん)山の峰の一つ(標高384m)に築かれました。城の名の「鎌刃」は、両側が急崖になっているその峰の形から由来しています。この城は主要街道の一つ、中山道の近くにあり、戦の際にも移動する際にも便利な位置にありました。

近江国の範囲と鎌刃城の位置

城周辺の起伏地図

戦国時代の16世紀中盤、堀氏がこの城の城主でした。堀氏は、状況に応じてその主君を度々変えていました。一例として1553年に六角氏が鎌刃城を攻めたとき、堀氏は一旦逃亡して、結局は六角氏に降伏しその配下となりました。ところが、浅井氏が勢力を広げていると見ると浅井氏と同盟を結ぶことにしたのです。そして1570年に浅井氏が織田信長と戦ったときには、その当時の当主であった堀秀村は、信長の部下でその後天下人、豊臣秀吉となる羽柴秀吉の説得により、今度は信長の味方となりました。これは、境目の城の城主としての運命だったのかもしれません。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城主、堀秀村の過酷な運命

秀村が秀吉との共闘を始めてから、浅井氏は最後には滅亡しました。それだけでなく、1571年に鎌刃城が浅井氏に攻められたときには、秀吉は城を守る秀村を助けたりしました。そして、1573年には信長、秀吉、秀村は小谷城(浅井氏の本拠地)を攻め落としたのです。ところが、その成功のわずか1年後の1574年、秀村は家臣の落ち度により、信長から改易されてしまいます。改易の本当の理由については、今でもわかっていません。しかし、信長の苛烈な性格から来ていることは想像できます。歴史家の中には、パワーバランスの不均衡を指摘する人もいます。すなわち、秀村は信長との同盟により増々力をつけていました。そして、当時信長の重要な部下であった秀吉よりも領土を広げていました。信長は秀村による反乱を恐れたかもしれず、単に秀村から領地を取り上げたかったのかもしれません。中国のことわざ「狡兎(こうと)死 しして走狗(そうく)烹(に)らる」に言われているような、秀村にとっては過酷な運命でした。歴史家によれば、最後には秀村は秀吉や秀吉の弟、秀長に仕えたようです。

小谷城跡
豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

独自に発展した鎌刃城のシステム

鎌刃城は、1575年についに廃城となりました。歴史家は、この城は土造りで(後の時代の)他の城より劣っているのではないかと考えていました。早い時期に廃城となったからです。ところが、最新の発掘の成果によると、鎌刃城は実際には、他の山城に比べてずっと進んだシステムを備えていたことが判明したのです。鎌刃城の北の曲輪群のところには、天守のような、少なくとも三重の大櫓があったのです。この櫓は、守備兵が攻撃してくる兵に対して矢を放つために使われたと考えられています。また、その前面には大堀切があり、攻撃兵がそこに釘付けになれば、櫓の守備兵からはちょうど標的になるようになっていました。多くの曲輪は石垣によって囲まれていました。更に、城の中心部分の主郭には「虎口」と呼ばれる、石垣や石段に囲まれた四角いスペースがある入口がありました。このような形式のシステムに似たものとして、1579年に信長が築いた安土城などが挙げられます。これらの発見を目の当たりにすると、鎌刃城は安土城よりかなり先駆けていたのではないかと思ってしまいます。

鎌刃城大櫓の想像図、鎌刃城公式サイトより引用
安土城想像図、岐阜城展示室より

一方で、鎌刃城と安土城の間には、いくつか違うところもあります。鎌刃城の大櫓は土塁の上に据えられていて、石垣の上には建っていません。ここの石垣は、崩壊を防ぐために土塁を支えているだけです。安土城の場合は、その天守は石垣の上に直接乗っていました。鎌刃城の虎口は、御殿の門として作られていて防御のためではありません。安土城以後の虎口は、複雑な通路と組み合わされて、防衛のための能力を持っていました。歴史家は、鎌刃城で使われたシステムは独自に発展したが、そのうちに安土城から始まる別のシステムに置き換えられたしまったと考えています。それでも、鎌刃城の大櫓のデザインは、その後他の城に築かれる天守に影響したかもしれません。それは、後に天守を含む大坂城を築くことになる秀吉が、鎌刃城の秀村と一緒に働いたときに、きっとこの大櫓を見ていたはずだからです。

鎌刃城の石垣
安土城の天守台石垣
鎌刃城の虎口
安土城黒金門の虎口

「鎌刃城その2」に続きます。

143.美濃金山城 その1

勇猛な森氏の本拠地

立地と歴史

森氏の過酷な歴史

美濃金山城は、現在の岐阜県にあたる美濃国の東部にありました。この城は、北側を木曽川に、南側を中山道に挟まれた山の上にありました。多くの戦いが起こった戦国時代には、この場所は交通をコントロールできる重要地点でした。この城は最初は16世紀初頭に斎藤氏によって築かれたと言われています。初期の頃には、烏峰(うほう)城と呼ばれていました。その後、1565年に森氏が城主となってからより注目されるようになり、金山(かねやま)城と改名されました。森氏は、戦国時代から江戸時代初期までに3人の天下人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えました。森氏の歴史を見てみると、彼らの厳しい生き様と、その中でどうやって生き残ってきたのかがわかります。

城の位置

城周辺の起伏地図

当主や兄弟が次々に戦死

森可成(よしなり)は16世紀後半の森家の当主で、織田信長がまだ一地方の大名だった頃から仕えていました。そのため、信長が美濃国を手に入れたときに美濃金山城の城主に抜擢されたのです。しかし可成は、信長の命令により他国での多くの戦いにも従軍しなければなりませんでした。そして可成は、1570年に近江国(現在の滋賀県)での浅井・朝倉連合軍との戦いの中で戦死してしまいます。可成の息子、長可(ながよし)が父の跡を継ぎ、彼もまた信長の下で活躍しました。

浮世絵に描かれた森可成、落合芳幾作「森三左エ門可成」、1867年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
森長可肖像画、常照寺所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長可は、その勇猛さから鬼武蔵(官位として武蔵守を称していたことに由来)と呼ばれました。彼の三人の弟は信長の小姓となり、その内の一人、乱丸(蘭丸)は日本の歴史の中でも有名人です。信長が殺された1582年の本能寺の変を描く現代のドラマでは、信長役とともに、乱丸役も必ず演じられるからです。信長は実際乱丸を気に入っていたようで、長可が別の領主(信濃川中島)となった後、乱丸を3代目の美濃金山城主としました。しかし事実として、その小姓となった兄弟は三人とも本能寺の変で討ち死にしてしまいました。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』楊斎延一作、1896年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浮世絵に描かれた森乱丸、落合芳幾作「森蘭丸長康」、1867年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最後に一人だけ残った跡継ぎ

本能寺の変後、長可は美濃金山城に戻ってきて、信長の後継者となった豊臣秀吉に従いました。1584年、秀吉と徳川家康との間で小牧長久手の戦いが起こりました。長可は遊撃部隊に加わったのですが、家康はそれを察知し、密かに待ち伏せし奇襲攻撃をかけたのです。不幸にも長可は、銃撃により戦死してしまいました。その結果、森家の跡継ぎとしては、一番下の弟である忠政(ただまさ)だけが残ったのです。長可はその死の前、遺言を残しておりその中で、忠政は美濃金山城主になってはらなないと書いていました。彼の真の意図は不明ですが、忠政にこれ以上戦いに参加して死ぬことがないように配慮したとも考えられます。

「小牧長久手合戦図屏風」豊田市郷土資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

忠政は結局、秀吉の指示により、美濃金山城城主を含む長可の地位を継承しました。彼は秀吉に仕えましたが、彼の兄を殺したが秀吉死後の次の天下人と目される徳川家康に主君を変えました。この決断にはいくつもの理由があったでしょうが、生き残るためには冷静な判断が必要だったのです。1603年、彼はついに美作国の国主となり、それまでよりずっと大きい領地を手に入れました。ちなみに、既に1600年には美濃金山城から他の領地(兄の長可がいた信濃川中島)に移されていました。

美作津山城跡にある森忠政像

織豊系城郭の一つ

美濃金山城そのものについては、森氏によって改築され、強化されていました。この城があった山には階段状にいくつもの曲輪がありました。頂上には本丸が、中腹には出丸があり、その間には二の丸と三の丸がありました。この城は、当時信長、秀吉とその部下たちが日本中で築いた典型的な織豊系城郭の一つでした。このタイプの城には主に3つの特徴がありました。石垣を作ること、建物を礎石の上に築くこと、屋根に瓦を葺くことです。それ以前、これらの物は寺院、高級官庁や皇居にしか使われていませんでした。信長は、彼が築いた安土城に見られるように、彼と部下たちの城でそれらを使い始め、権威と権力を見せつけたのです。美濃金山城の曲輪も石垣で囲まれていました。少なくとも本丸の建物は、礎石の上に建てられ、屋根瓦が乗っていました。しかし、1600年に忠政が他の城に移された後に廃城となってしまいました。

安土城想像図、岐阜城展示室より
美濃金山城想像図、戦国山城ミュージアムにて展示

「美濃金山城その2」に続きます。