47.伊賀上野城 その1

大坂を守る拠点、攻める拠点となった城

立地と歴史

忍者の国から大坂を守る拠点に

伊賀上野城は、現在の三重県西部にあたる伊賀国にありました。伊賀はこの城よりも、恐らくは忍者の里としての方がよく知られているでしょう。実際、この城が1585年に築かれるまでは、この国は多くの小領主たちによって分割統治されていました。彼らは、自分たちを防御するために、特殊な知識や技能を身に着けていました。更には他の国の大きな戦国大名たちに雇われ、諜報員や特殊部隊として活動していました。それが現在忍者と呼ばれているのです。不幸にも、彼らは1581年に織田信長により征服されてしまいます。その後、信長の後継者、豊臣秀吉が天下統一を進めているとき、秀吉は筒井定次を伊賀の国主として送り込みました。

伊賀国の範囲と伊賀上野城の位置

筒井定次肖像画、義烈百人一首より、国文学研究資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀吉は大坂城を本拠地としてきました。そして、伊賀国は大坂から東日本に抜ける直線ルート上にありました。そのため、定次をそこに派遣し、1585年に伊賀上野城を築かせたのです。したがって、東方から敵が攻めてくるのをこの城で防ぐことが想定されていました。この城の東側には三重の天守がそびえていました。定次は、秀吉の死後、17世紀初頭に徳川家康が最後の天下人になったときにも、何とか生き残っていました。ところが、彼は1608年に家臣が彼の失政を訴えたことにより、徳川幕府から改易されてしまいます。歴史家は、幕府は実際には、定次が幕府とまだ大坂城にいた豊臣氏両方にいい顔をしていたのを快く思わず、排除したかったのだろうと推測しています。

豊臣時代の大坂城天守、「大坂夏の陣図屏風」より、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

藤堂高虎が大坂攻撃拠点として大改修

幕府は定次の後釜として、四国の今治城にいた藤堂高虎を伊賀国に移しました。高虎は、幕府の創設者、徳川家康に長く仕えている譜代大名ではありませんでした。しかし彼は、宇和島城大洲城、今治城などを築いたことで築城の名手として知られていました。また、幕府が江戸城名古屋城、京都の二条城など著名な城郭を築く際にも手助けをしていました。高虎は、これらのことで幕府の信頼を得ていました。幕府は高虎に対して、伊賀国の西方に位置する大坂城の豊臣氏に十分対抗できるだけの強力な城を築くよう期待したのです。高虎は、伊賀上野城を大改修することでこれに応えました。彼は、もし家康率いる幕府軍が大坂城で戦って敗れたとしても、家康を伊賀上野城に収容することさえ考えていました。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
宇和島城
名古屋城

高虎は、丘の上にあり城の中心部であった本丸を、大坂城がある西の方角に向かって拡張しました。彼は、石垣造りの職人集団である穴太衆(あのうしゅう)を招き、当時としては日本一高い石垣を本丸西側に築きました。この石垣が完成したことについて、高虎の記録史料(「公室年譜略」)は、大坂城の石垣よりも立派なものだと称えています。また高虎は、高石垣の背後に五重の天守の建設を始めました。ところが、その天守は1612年の大風により倒壊してしまいます。二の丸は、丘の麓の南側に築かれ、武家屋敷地として使われました。そして東西部分それぞれに大規模な大手門がありました。城の建設は、1614年に幕府と豊臣氏の戦いが始まったとき(大坂冬の陣)にもまだ続いていました。しかし、1615年に幕府が豊臣氏を滅ぼした(大坂夏の陣)ことで中止となりました。

伊賀上野城の高石垣
上野城下町絵図、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
西大手門の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦時のための居城

高虎は、伊賀上野城を支城として弟(藤堂高清)に与えたうえで、彼自身は津城を本拠地としました。津城は、伊勢国の海近くの平地に位置していました。伊勢も高虎の領地でした。彼は、津城を平時の居城とし、伊賀上野城は戦時のためのもう一つの居城としたのです。その後平和であった江戸時代には、藤堂家の重臣が伊賀上野城及び伊賀国を治め、筒井定次が元々いた場所にあった城代屋敷に居住していました。定次が築いた初代の天守はしばらくの間残っていたのですが、1633年の大風により、これもまた倒壊してしまったと考えられています。

津城跡
伊賀上野城城代屋敷跡
寛永期の絵図に描かれた城代屋敷、伊賀上野城にて展示

「伊賀上野城その2」に続きます。

139.佐柿国吉城 その1

若狭国境の難攻不落の城

立地と歴史

粟屋勝久が城を再興

現在の福井県は、北東側の越前国と南西側の若狭国に分かれていました。戦国時代の16世紀、朝倉氏が越前を治め、若狭は武田氏が領有していました。佐柿国吉城は、これら両国の国境近くの若狭側にありました。佐柿という名前は城の周りの地域の名前から来ており、国吉は戦国時代より以前の何れかの時代にこの城を最初に築いた人物の名前に由来しています。当時の人々は、通常「佐柿城」と呼んでおり、もう一つの名前「国吉城」はその後によく使われるようになりました。その結果、歴史家や歴史愛好家はこの城を、これら2つの名前を使ってよく佐柿国吉城と呼んでいます。

城の位置

朝倉氏と武田氏とを比べてみると、朝倉の方が武田よりずっと強力でした。朝倉は若狭国にその勢力を広げようとしました。それに呼応して武田は朝倉に頼ろうとしたのです(度重なる国外出兵により国内が疲弊し、一揆や反乱が頻発していました)。ところが、重臣の一人、粟屋勝久を含む武田の家臣たちはそれに反発しました。勝久は朝倉氏が若狭国に侵入するのを防ぐために、廃城となっていた城を再興します。それが佐柿国吉城でした。その城は、越前国との国境近くの標高197mの急峻な山の上に築かれました。当時の人たちが若狭国に出入りするためには、その山際にある峠を通らなければなりませんでした。よって、この城は国の防衛の要だったのです。城主は通常は山下の谷にあった御殿に住んでいましたが、戦が勃発したときには城の山上部分を使ったのです。

城周辺の起伏地図

朝倉氏の攻撃を5回撃退

朝倉氏は若狭国での反乱を鎮圧するため、1563年から1567年までの間、5回にわたって佐柿国吉城を攻撃しました。ところが、反乱軍と城がとても強力だったため、全ての攻撃は失敗に終わりました。これらの戦いは、だいたい以下の様でした。武士とその家族、他の城の周りの人々は、弾薬、石材、木材を運んで山上の城に集まります。その一方で、一部の守備兵は城に向かう道沿いに隠れて待機します。攻撃兵がその道を通って城に近づいた時、守備兵は奇襲をかけたのです。その後、攻撃兵が山を登って中腹に差し掛かった時には、守備兵は銃や矢を打ちかけ、石や木材も一斉に投げ下ろしました。攻撃兵の多くは打たれ、谷底に落下していきました。また、攻撃兵が城の近くの町から財物や穀物を略奪したときには、守備兵は朝倉の陣地を夜襲しました。その結果、この城は難攻不落と言われるようになりました。

佐柿国吉城の想像図、若狭国吉城歴史資料館にて展示

天下を巡る戦いに関与

1570年に有力な戦国大名、織田信長が朝倉氏を攻めたことにより、ついに勝久に運が向いてきました。信長は越前侵攻中に佐柿国吉城を訪れ、勝久が率いる将兵の健闘を称えました。織田と朝倉の戦いは1573年まで続き、朝倉氏は滅亡しました。信長は若狭国を重臣の一人、丹羽長秀に与え、勝久は長秀に仕えることになりました。1582年の本能寺の変で信長が殺された後は、状況は急激に変化します。信長の部下であった羽柴秀吉と柴田勝家が主導権を巡って対立するようになったのです。勝家は越前国にいて、長重は秀吉に味方していました。これにより、佐柿国吉城は再び2つの国の緊張した国境に位置することになったのです。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
丹羽長秀肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

勝久の主君である長秀は、織田信長によって築かれた安土城の建設では総奉行を務めました。つまり、長秀は城の拡充についての先進的な技術を持っていたのです。佐柿国吉城は基本的には土造りの城でしたが、石垣を使った城に強化されました。最終的には、秀吉と勝家の間の戦いは別の場所で起こり、秀吉が勝利しました。秀吉による、そして徳川幕府に引き継がれた天下統一の間、この城は様々な城主に受け継がれました。石垣を使った改修は続けられましたが、山上部分はやがて放棄されました。その代わりに谷にある御殿部分のみが使われるようになりました。統治のために便利だったからです。そして、若狭国を含む小浜藩の藩主であった酒井氏が、1634年に佐柿奉行所を設置したとき、城は完全に廃城となりました。

安土城想像図、岐阜城展示室より
佐柿奉行所跡

「佐柿国吉城その2」に続きます。

156.鎌刃城 その1

先進的なシステムを持った山城

立地と歴史

近江国南北の境目の城

鎌刃城は、近江国(現在の滋賀県に当たります)にあった戦国時代の山城です。この城はこの国の中央部分にありましたが、当時この国は北部と南部に分けられていました。その結果、二つの戦国大名、南側は六角氏が、北側は浅井氏がこの国を治めていて、この城は双方から奪ったり奪われたりしていました。鎌刃城は、霊仙(りょうぜん)山の峰の一つ(標高384m)に築かれました。城の名の「鎌刃」は、両側が急崖になっているその峰の形から由来しています。この城は主要街道の一つ、中山道の近くにあり、戦の際にも移動する際にも便利な位置にありました。

近江国の範囲と鎌刃城の位置

城周辺の起伏地図

戦国時代の16世紀中盤、堀氏がこの城の城主でした。堀氏は、状況に応じてその主君を度々変えていました。一例として1553年に六角氏が鎌刃城を攻めたとき、堀氏は一旦逃亡して、結局は六角氏に降伏しその配下となりました。ところが、浅井氏が勢力を広げていると見ると浅井氏と同盟を結ぶことにしたのです。そして1570年に浅井氏が織田信長と戦ったときには、その当時の当主であった堀秀村は、信長の部下でその後天下人、豊臣秀吉となる羽柴秀吉の説得により、今度は信長の味方となりました。これは、境目の城の城主としての運命だったのかもしれません。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城主、堀秀村の過酷な運命

秀村が秀吉との共闘を始めてから、浅井氏は最後には滅亡しました。それだけでなく、1571年に鎌刃城が浅井氏に攻められたときには、秀吉は城を守る秀村を助けたりしました。そして、1573年には信長、秀吉、秀村は小谷城(浅井氏の本拠地)を攻め落としたのです。ところが、その成功のわずか1年後の1574年、秀村は家臣の落ち度により、信長から改易されてしまいます。改易の本当の理由については、今でもわかっていません。しかし、信長の苛烈な性格から来ていることは想像できます。歴史家の中には、パワーバランスの不均衡を指摘する人もいます。すなわち、秀村は信長との同盟により増々力をつけていました。そして、当時信長の重要な部下であった秀吉よりも領土を広げていました。信長は秀村による反乱を恐れたかもしれず、単に秀村から領地を取り上げたかったのかもしれません。中国のことわざ「狡兎(こうと)死 しして走狗(そうく)烹(に)らる」に言われているような、秀村にとっては過酷な運命でした。歴史家によれば、最後には秀村は秀吉や秀吉の弟、秀長に仕えたようです。

小谷城跡
豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

独自に発展した鎌刃城のシステム

鎌刃城は、1575年についに廃城となりました。歴史家は、この城は土造りで(後の時代の)他の城より劣っているのではないかと考えていました。早い時期に廃城となったからです。ところが、最新の発掘の成果によると、鎌刃城は実際には、他の山城に比べてずっと進んだシステムを備えていたことが判明したのです。鎌刃城の北の曲輪群のところには、天守のような、少なくとも三重の大櫓があったのです。この櫓は、守備兵が攻撃してくる兵に対して矢を放つために使われたと考えられています。また、その前面には大堀切があり、攻撃兵がそこに釘付けになれば、櫓の守備兵からはちょうど標的になるようになっていました。多くの曲輪は石垣によって囲まれていました。更に、城の中心部分の主郭には「虎口」と呼ばれる、石垣や石段に囲まれた四角いスペースがある入口がありました。このような形式のシステムに似たものとして、1579年に信長が築いた安土城などが挙げられます。これらの発見を目の当たりにすると、鎌刃城は安土城よりかなり先駆けていたのではないかと思ってしまいます。

鎌刃城大櫓の想像図、鎌刃城公式サイトより引用
安土城想像図、岐阜城展示室より

一方で、鎌刃城と安土城の間には、いくつか違うところもあります。鎌刃城の大櫓は土塁の上に据えられていて、石垣の上には建っていません。ここの石垣は、崩壊を防ぐために土塁を支えているだけです。安土城の場合は、その天守は石垣の上に直接乗っていました。鎌刃城の虎口は、御殿の門として作られていて防御のためではありません。安土城以後の虎口は、複雑な通路と組み合わされて、防衛のための能力を持っていました。歴史家は、鎌刃城で使われたシステムは独自に発展したが、そのうちに安土城から始まる別のシステムに置き換えられたしまったと考えています。それでも、鎌刃城の大櫓のデザインは、その後他の城に築かれる天守に影響したかもしれません。それは、後に天守を含む大坂城を築くことになる秀吉が、鎌刃城の秀村と一緒に働いたときに、きっとこの大櫓を見ていたはずだからです。

鎌刃城の石垣
安土城の天守台石垣
鎌刃城の虎口
安土城黒金門の虎口

「鎌刃城その2」に続きます。