175.勝瑞城 その1

中世阿波国の中心地

立地と歴史

細川氏の守護所としてスタート

勝瑞城は、四国の阿波国(現在の徳島県)の中心地として14世紀中頃から16世紀後半まで栄えました。この城は、最初は足利幕府の重臣であった細川氏によって、この国の守護の公邸(守護所)として立ち上げられました。阿波国は肥沃な土地であり、日本の中心地であった京都にも近かったのです。また、この城は四国で一番の大河である吉野川沿いにあり、水上交通の便が良く、交易にも適していました。その結果、この城は細川氏の重要な拠点となったのです。

城の位置

三好氏の本拠地として発展

16世紀中頃、細川氏の配下であった三好長慶が細川氏に代わって権力を握りました。長慶は日本の中心地を支配するために京都の近くにあった飯盛城を居城とし、一方彼の弟である三好実休(じっきゅう)は勝瑞城に住んでいました。三好氏はもともとは阿波国出身でした。三好氏は、細川氏がそうだったように、勢力を保つためには、京都と阿波との間で緊密な連携を必要としました。例えば、兄の長慶が危機に陥ったときには、実休は阿波から大軍を率いて京都がある近畿地方で戦いました。

三好長慶肖像画、大徳寺聚光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
飯盛城跡
三好実休肖像画、妙國寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

実休はまた、勝瑞城を拡張しました。この城は規模を拡大し、水堀に隔てられた幾つもの曲輪を持ち、そこには御殿(主殿、会所など)や枯山水の庭園がありました。発掘の結果、高価な中国製陶磁器が取り引きされ、宴会や闘鶏などの行事が頻繁に行われていたことがわかっています。この城は、自然の障壁として吉野川などに囲まれてはいましたが、城そのものには土塁などの防御のために必要な特別の構造物はありませんでした。それは、阿波国の政治が大変安定していたため、防御の必要がそれ程なかったからとも考えられます。城の水堀は、水位の調節や、貯水池としての役割があったものと思われます。このときまでは、この城は「勝瑞館」と呼ぶべきものだったかもしれません。恐らく城としての特徴的なものがなかったからです。

「勝瑞館」跡

長宗我部氏に攻略される

ところが、16世紀後半に長慶と実休が亡くなった後は、状況が変わりました。勝瑞城は、三好氏の力が弱まってくるにつれ、内輪もめや戦さに巻き込まれていきます。更には、土佐国(現在の高知県)の有力な戦国大名である長宗我部元親が、阿波国を手に入れようとしました。そこで三好氏は、そのとき日本の中心地を領有していた天下人の織田信長に助けを求めました。信長の部下で、後に信長の後継として天下人となる羽柴秀吉は、書状を送り、勝瑞はもっと防御を強化すべきだと述べています。三好氏は、勝瑞城を拡張し、高い土塁や深い水堀に囲まれた、戦さの際立てこもることができる詰めの部分を付け加えました。ここにおいて、ついに「勝瑞城」と呼べるべきものとなりました。

長宗我部元親肖像画、秦神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「勝瑞城」跡

1582年に信長が突然本能寺の変で殺された後、三好氏は単独で長宗我部氏と戦わなければならなくなりました。同じ年、勝瑞城の南で、両者による中富川の戦いが起こりました。三好氏は残念ながら敗れてしまい、勝瑞城に一月近く籠城しました。しかし、三好氏は城から撤退し、長宗我部氏はついに勝瑞城を獲得したのです。城はただちに廃城となってしまいますが、それは恐らく戦いを乗り切るのは不十分とみなされたからでしょう。その後は、阿波国では一宮城のような山城が主流となりました。

一宮城跡

「勝瑞城その2」に続きます。

59.姫路城 その3

毎回この城に行くたびに新しい発見があります。

特徴(大天守)

大天守は5層で6階+地階という構造です。この天守は望楼型という形式です。この形式の天守には、通常は入母屋式の屋根を持つ大型の櫓の上に、小さな望楼が立っています。しかし、姫路の天守には、他の天守には通常ある最上階の欄干がないため、スマートに見えます。この天守は、後に層塔型として発展することになる後期望楼型として分類されています。

姫路城大天守(後期望楼型)
犬山城天守(望楼型)
福山城天守(層塔型)

屋根は多くの華頭窓や千鳥破風によって装飾されています。火災を防ぐため、白い漆喰が壁だけではなく、屋根瓦の間にも厚く塗りこめられていいます。それが城を白鷺のように見せています。一方、戦いのために多くの石落としや狭間も装備されています。天守の中に入ることはできますが、とても人気があるので、1時間以上並んで待たなければいけないかもしれません。更に、同時に中に入ることができる人数も制限されています。豪華な外見と違って、内部は実に実用的です。天守は実際には正に戦いのための場所なのです。

大天守の美しい装飾
大天守の内部 (licensed by alisdair via Wikimedia Commons)

内部には、長い籠城で多くの兵士を収容するための洗い場、厠、倉庫があります。また、内部では石落としや狭間を兵士がどのように使うのか見学することもできます。大天守は主に日本の大柱(東と西)によって支えられています。西大柱は実は腐ってしまい、そのため1959年に行われた昭和の大修理で新しいものに交換されました。そのとき東大柱の根元も修理されました。3階より上ではこれらの柱をはっきり見ることができます。

大天守内の洗い場 (licensed by Corpse Reviver via Wikimedia Commons)
西大柱  (taken by あけび from photoAC)

特徴(城の側面と背面)

城周辺の地図

姫路城には側面や背面であってもたくさんの見所があります。そのうちのいくつかを紹介しましょう。まずは、姫山の正面山裾のところでは、「野面積み」と呼ばれる自然石を使って積まれた階段状の石垣を見ることができます。羽柴秀吉か黒田官兵衛によって作られたと言われています。この石垣は、この城で最も古い曲輪の一つと言われている上山里曲輪を囲んでいます。

上山里曲輪を囲む古い石垣

城の右側面に回り込むと、内堀から分かれ出た堀の端が見えます。この近くには内船場蔵という船荷のための倉庫がありました。この堀は船着き場として使われていたのです。

船着き場として使われた内堀

井戸曲輪の東側の石垣は、この城で最も高い石垣の一つです。更には、大天守の右側には二層目に大入母屋が見え、とても際立っています。石垣との組み合わせは写真を撮るにはもってこいです。

井戸曲輪下の高石垣
大天守の右側面
大天守と高石垣のコンビネーション

城の裏側では、もう一つ堀の末端を見ることができます。実はこの端っこはこの城の渦巻き状の堀の始発点なのです。姫山の裏側はいまだ自然のままに残っていて、大天守との取り合わせは独特の眺望です。この辺は、内堀が二重になっていて、二周目の堀が始まる所でもあります。これらが城の裏側を強力に守っていたのです。

堀の始発点
裏山から見える大天守
二周目の堀

「姫路城その4」に続きます。
「姫路城その2」に戻ります。

63.鳥取城~Tottori Castle

この城は、2つの城が詰まっているように見えます。
This castle looks like two packed castles.

立地と歴史~Location and History

鳥取城の戦い~The battle of Tottori Castle

鳥取市は中国地方にある鳥取県の県都です。鳥取市は、鳥取砂丘、梨の産地、そして鳥取城があることで知られています。鳥取城は最初は戦国時代に山名氏によって、「久松山」と呼ばれる263mの高さがある山の上に築かれました。その当時一般的であった典型的な山城でした。戦国時代の後半、中国地方のほとんどは毛利氏に属していましたが、織田氏がこの地方の侵略を狙い、後に天下人豊臣秀吉となる部下の羽柴秀吉を派遣しました。毛利もまた、織田の攻撃から城を守るため、一族の吉川経家を送ります。
Tottori City is the prefectural capital of Tottori pref. in the Chugoku Region. The city is known for Sand Dunes, pears and the Tottori Castle. The castle was first built on a 263m high mountain called “Kyusho-zan” by the Yamana clan in the “Sengoku” or Warring States Period. It was a typical mountain castle which was popular at that time. In the late Sengoku Period, most of Chugoku Region belonged to the Mori clan, but the Oda clan aimed to invade the region, and sent his man, Hideyoshi Hashiba, the later ruler as Hideyoshi Toyotomi. Mori also sent their relative Tsuneie Kikkawa to protect the castle from Oda’s attack.

城の位置~The location of the castle

1581年7月、有名な鳥取城の戦いが始まります。秀吉は城周辺の地域の食料を全て買い上げたと言われています。経家は鳥取城への補給線を確保するため、いくつもの支城を築きました。秀吉は素早くその支城を確保し、水軍により日本海からの海上輸送路も封鎖しました。その結果、城は孤立したのです。
The famous battle of Tottori Castle happened in July, 1581. It is said Hideyoshi bought up food in the area around the castle. Tsuneie built several branch fortresses to keep supply chains for Tottori Castle. Hideyoshi quickly gained those fortresses and made his navy block the sea lane at the Japan Sea. As a result, the castle was isolated.

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵~The Portrait of Hideyoshi Toyotomi, attributed to Mitsunobu Kano, owned by Kodaiji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀吉は、鳥取城の背後わずか1.4kmのところ、「太閤ヶ平」と呼ばれる標高251mの山に大規模な本陣を建設しました。彼はまた、城を幾重もの砦、土塁、空堀で取り囲みました。秀吉はたとえ女子どもであっても城から脱出することを決して許しませんでした。食い扶持を減らさせないためです。包囲戦は3ヶ月続き、経家はついに城と彼の命を差し出す代わりに城兵の命を助けることを条件に降伏しました。
Hideyoshi constructed a large stronghold on a 251 m high mountain called “Taiko-ga-naru”, in the back of Tottori Castle, only 1.4 km away from it. He also surrounded the castle by making fortresses, earthen walls, and dry moats multiply. He never allowed anyone including women and children to escape from the castle, because they would consume the food. The siege lasted for three months. Finally Tsuneie surrendered offering the castle and his life in exchange for the lives of the other defenders.

城周辺の地図~The map around the castle

江戸時代は池田氏が統治~The Ikeda clan governs it in the Edo Period

江戸時代になって、池田氏が城とその周辺の地域を支配しました。彼らは広大な領地を持っており、統治のため多くの施設を必要としました。池田氏は、山の麓に多くの建物と石垣を築きましたが、城の拡張には不足を感じていたようで、一時は新しい本拠地として米子城などに移ることも検討しました。結局移転は中止となります。
In the Edo Period, the Ikeda clan governed the castle and the area around it. They had a large territory, so they needed many facilities to govern. The clan built many buildings and a lot of stone walls at the foot of the mountain. However, they felt insufficient in extent of the castle, so they once considered another castle like Yonago Castle as their new home base. Eventually, the plan was canceled.

鳥取城の古地図、江戸時代~An old map of Tottori Castle, in the Edo Period(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

鳥取城は、何度も地震や火事に見舞われますが、江戸時代の末まで拡張と修繕が続けられます。「巻石垣」と呼ばれる丸い形をしていて石垣を支える役目の珍しい石垣があります。城のためにこのような石垣が使われた唯一の例です。
Tottori Castle was kept with improvements and repairs until the end of the Edo Period, though it suffered earthquakes and fires several times. There are rare stone walls called “Maki-ishigaki” which are round shaped to support other stone walls. It is the only case to use such stone walls for a castle.

巻石垣~The round shaped stone walls called “Maki-Ishigaki”

特徴~Features

城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle

江戸時代の城「山下ノ丸」~The castle in the Edo Period “Sange-no-maru”

現在、鳥取城跡は久松公園として残っています。ここを訪れる人は最初は通常三の丸前の擬宝珠橋を歩いて渡っていきます。ここは城の大手筋に当たり、2018年に復元されました。復元方法は、基本は伝統的なものですが、元々あった遺跡を保護する最新の手法を取り入れています。今、城門を復元する工事が進められています。二つの門が2023年までに復元される予定です。
Now, the ruins of Tottori Castle remain as Kyusho Park. Visitors first usually walk across the Giboshi style bridge (its poles have ornamental tops) in front of the Sannomaru enclosure. It was on the formal route to the castle and restored in 2018. The way it was restored was basically traditional, but used the present techniques to preserve the original ruins. The construction for restoring the castle gates is continuing today. Two gates will be completed by 2023.

擬宝珠橋と三の丸~The Giboshi style bridge and the Sannomaru enclosure

明治時代に建てられた仁風閣を右手に見ながら遺跡を歩いていくと、二の丸の方に登っていけます。
If you go around the ruins seeing Jinpu-kaku, a building built in the Meiji Period on the right, you can go up to the Ninomaru enclosure.

仁風閣と背後の二の丸~Jinpu-kaku and the Ninomaru enclosure behind(taken by 眠鯨 from phtotoAC)

その入口の門は「西坂下御門」と呼ばれ、現時点のこの城では唯一の復元建物です。
Its entrance gate called “Nishi-Sakashita-Gomon” is the only restored building at this point.

二の丸の入口「西坂下御門」~The entrance of the Ninomaru enclosure “Nishi-Sakashita-Gomon”

多くの石垣が残っていますが、1943年の鳥取地震による崩壊の後、最近修復されたものです。この曲輪には、江戸時代後期にこの城の主要な建物であった三階櫓がありました。
A lot of stone walls remain, but they were repaired again recently after collapsing due to the 1943 Tottori Earthquake. There was the Three-story Turret, main building of the castle in the late Edo Period in the enclosure.

現存する石垣~The remaining stone walls
三階櫓があった二の丸の古写真~The old photo of the Ninomaru enclosure with the the Three-story Turret(licensed under Public Domain via Wikimeidia Commons)

天球丸は、二の丸の隣の一段高いところにあります。その経歴は二の丸と同様ですが、巻石垣がその一部分を支えています。これらの曲輪はまとめて「山下ノ丸」と呼ばれ、山の裾野にあり、元来は江戸時代に築かれました。
The Tenkyu-maru enclosure is next to and higher than Ninomaru. The history of it is similar to Ninomaru, and the round stone walls partly support it. Those enclosures together called “Sange-no-maru” or the Enclosures under the Mountain were originally developed in the Edo Period.

天球丸周辺~Around the Tenkyu-maru enclosure

戦国時代の城「山上ノ丸」~The castle in the Sengoku Period “Sanjo-no-maru”

それから、戦国時代の城の方に登っていくことができます。天球丸の脇にある中坂口から進みます。
Then, one can climb up to the castle of the Sengoku Period. You can go the Nakasaka route beside Tenkyu-maru.

中坂口~the Nakasaka route

ハイキングのような感じで30分程登っていくと、頂上に着きます。昼間であれば、家族連れやペットも一緒の地元の人たちで賑わっています。
It takes around 30 minutes to reach the top just like a hiking. Local people including families and pets also enjoy it in the daytime.

山上部分~The top part of the mountain

ここには、戦国時代末期に築かれた「天守」があったのですが、残念ながら1692年の落雷により焼けてしまいました。この頂上部分は「山上ノ丸」と呼ばれています。
There was the Main Tower or “Tenshu” that was built in the end of Sengoku on the top, but it was unfortunately burned down by a lightning in 1692. The top area is called “Sanjo-no-maru” or the Enclosures above the Mountain.

天守跡~The ruins of the Main Tower

山上からは、市街地、日本海、鳥取砂丘と素晴らしい景色を楽しめます。
From the top, you can get great views of the city area, Japan sea and Sand Dunes!

山上からの景色~A view from the top
鳥取砂丘も見えます~You can see the Tottori Sand Dunes

後ろの方を振り返ってみると、秀吉の本陣跡も、間近にほとんど同じ高さに見ることができます。秀吉と経家は、3ヶ月の長期籠城戦の間、お互いを注視しつつ戦っていたのです。何と苛酷だったことでしょう。
If you look around the back, you can also see the ruins of Hideyoshi’s stronghold in close at almost the same level. That meant Hideyoshi and Tsuneie were watching each other in the siege for the long three months. How severe it was!

秀吉の本陣跡も見えます~You can also see the ruins of Hideyoshi’s stronghold

その後~Later History

明治維新後、鳥取城は廃城となり、建物は撤去されました。そして、以前の藩主だった池田氏が1890年から1943年の間城跡を所有していました。池田氏は1907年に洋風の迎賓館として仁風閣を建てたのです。今は博物館として残り、その建物自体が重要文化財に指定されています。その後、1943年からは鳥取市の所有となり、1957年には国の史跡に指定されました。市は2036年までに、二の丸の三階櫓を復元することを計画しています。
After the Meiji Restoration, Tottori Castle was abolished and its buildings were demolished. The former lord Ikeda clan owned the ruins between 1890 and 1943. The clan built Jinpu-kaku, a western style guest house for VIP in 1907, which remains as a museum, designated itself as an Important Cultural Property. After that, the ruins have belonged to Tottori City since 1943, designated as a National Historic Site in 1957. The city is planning to restore the Three-story Turret in Ninomaru by 2036.

仁風閣~Jinpu-kaku(licensed by 663highland via Wikimedia Commons)

私の感想~My Impression

池田氏が鳥取城に残り、他に行かなかったのは、やはりこの城の歴史と有名さからだと思います。次にここを訪れるときには、是非秀吉の本陣があった太閤ヶ平に行き、鳥取の歴史をより深く学びたいと思います。
I think the reason why the Ikeda clan decided to stay and not to leave Tottri Castle was that it had a long history and name value. I would like to visit Taiko-ga-naru where Hideyoshi’s stronghold was to learn more about the history of Tottori the next time I go there.

山の上も下も城でした~Both of above and foot of the mountain are the ruins

ここに行くには~How to get There

ここに行くには、電車と「バスかタクシーか徒歩」にすることをお勧めします。城跡の周りにはあまり駐車場がないからです。
鳥取駅から:グリーンバスに乗り、仁風閣県立博物館バス停で降りてください。歩くと約30分かかります。
I recommend you using train and “bus or taxi or walk” to get there. Because there are few space to park around the ruins.
From JR Tottri station: Take the green bus, and take off at the Jinpukaku-kenritsuhakubutsukan bus stop. Or it takes about 30 minutes on foot.

街から城の頂上が見えます~You can see the top of the castle form the town

リンク、参考情報~Links and References

国指定史跡「史跡鳥取城跡附太閤ヶ平」にようこそ!(Tottori City Official Website)
・「歴史群像161号、戦国の城/因幡鳥取城攻囲戦」学研(Japanese Magazine)
・「よみがえる日本の城6」学研(Japanese Book)