159.芥川山城 その3

そこに行けば、なぜそこに城があったかわかります。

その後

芥川山城が廃城となった後、城跡の一部は農地となりました。江戸時代には、山麓にいた村人たちが山頂に三好長慶をを祀る祠を建てました。その祠は今でもあります。高槻市は、1993年以来城跡の調査研究を続けてきました。その結果、この城が日本の歴史の中で独特かつ重要であることがわかったのです。また、市は城跡を国の史跡に指定されるよう活動しています。

三好長慶を祀る祠 (licensed by ブレイズマン via via Wikimedia Commons)
本丸にある標柱
現存している大手門石垣

私の感想

私がこの山の山頂に立ったとき、なぜ長慶がこの城を本拠地に選んだのかわかったような気がしました。長慶は、山頂から彼が支配する摂津国一帯を見渡すことができました。その国で何が起こっているのか把握し、必要であればすぐに行動することができたのです。更に、この城に住むことで安全を確保できました。また、想像するに長慶は芥川山城から生駒山地を見て、そこを次の本拠地にしようと考えたのではないでしょうか。そうすれば、南北両側から彼の支配国を監視でき、統治をもっと安定できるからです。

山頂からの眺め
飯盛城があった生駒山地

飯盛城、芥川山城の位置と摂津国の範囲

ここに行くには

JR高槻駅から塚脇行きか下の口行きの高槻市営バスに乗り、塚脇バス停で降りてください。
東京から高槻駅まで:東海道新幹線に乗り、京都駅で京都線に乗り換えてください。

リンク・参考情報

芥川城跡/高槻市ホームページ
・「歴史群像55号、戦国の堅城 摂津芥川山城」学研
・「歴史群像166号、三好長慶伝」学研

これで終わります。
「芥川山城その1」に戻ります。
「芥川山城その2」に戻ります。

159.芥川山城 その2

城跡と景色両方楽しめます。

特徴

バス停から歩く

現在、芥川山城跡は個人所有となっていて、公園として整備されてはいません。観光客は通常バス停から歩くことになります。そこからどの山に登ってどうやって城跡に行ってよいのか迷うかもしれません。そこで、高槻市ウェブサイトから「三好山山頂へのアクセス」という案内図をダウンロードして持っていかれてはどうかと思います。バス停から15分程歩くと、道は2つに分かれます。どちらを選んでも大丈夫です。

城周辺の地図

バス停周辺
三好山山頂へのアクセス(出展:高槻市ウェブサイト)

塚脇ルート

1つは塚脇ルートで、山の東側をまわっていて、比較的なだらかです。たくさんの曲輪跡を目にすることができますが、フェンスで囲ってあるため中には入れません。通れる場所は限られています。道に対して直角に交差している土塁が見えます。これは竪土塁と呼ばれていて、道以外の他の場所から敵が侵入するのを防ぐためのものです。両側に空堀がある狭い土橋もあります。目的は竪土塁と同様です。食い違い虎口のようなものも見ることができます。

塚脇ルートに向かいます
フェンスの脇を通る道
竪土塁 (licensed by ブレイズマン via via Wikimedia Commons)
土橋
食い違い虎口らしき遺構

大手筋ルート

もう一つの道は大手筋ルートで、山に向かってまっすぐ登っていきます。その分急で、岩がごつごつしています。山の入口辺りに古い石垣がありますが、城があった時代のものではないようです。この道もフェンスで囲まれており、更にはイノシシ除けに設けられたドアを通り抜けねばなりません。通り過ぎた後にきちんと閉めるようにしてください。15分程登っていくと、大手門の石垣が見えてきます。中心部分は崩れてしまっていますが、城があった当時のものです。

ルート入口周辺にある石垣
大手筋ルートの様子
イノシシ除けのためのドア
大手門の現存石垣

素晴らしい本郭からの眺め

2つの道は石垣の上の方で合流し、頂上にある本郭に近づいていきます。急に視界が開け、大阪平野の雄大な景色が現れます。更に数分登っていくと、ついに本郭に到着します。本郭は、整地され広場になっています。発掘の成果として、前方では櫓のような建物の跡が見つかり、後方では三好長慶の御殿のものであったかもしれない礎石が見つかっています。ここでも素晴らしい景色が堪能でき、大阪市のビル群や、芥川山城の後長慶が本拠地とした飯盛城があった生駒山地まで見渡せます。

2つのルートの合流点
突然視界が開けます
本郭
大阪市のビル群も見えます
生駒山地

「芥川山城その3」に続きます。
「芥川山城その1」に戻ります。

159.芥川山城 その1

三好氏が治めた戦国時代の代表的な山城

立地と歴史

戦国時代の山城

戦国時代の16世紀、近畿地方では戦は日常茶飯事でした。戦国大名たちは普段は京都のような平坦地にある館に住み、非常時に山城を使っていました。ところが、そのやり方は、次の戦がいつ起こるのかわからない中では大変危険なことになったのです。その結果、彼らは常に山城に住むようになりました。その山城の頂上には館があり強力な防衛システムを備えていました。芥川山城は、この地方の代表的な山城だったのです。

城の位置

三好長慶が本拠地とする

この城は最初は1516年に、足利幕府の重臣であった細川高国によって築かれましたが、三好長慶の本拠地として有名です。長慶は四国の阿波国(現在の徳島県)出身で、細川氏に仕えていました。彼は、他の幕府の家臣たちが内輪もめを続ける一方で、政治軍事両面で力をつけていきます。彼の実力が将軍であった足利義輝に拮抗した時、義輝は長慶を殺そうとしました。長慶は将軍を京都から追放し、1553年に彼自身による統治を開始しました。同じ年に彼はまた芥川山城に居を定めるのです。

三好長慶肖像画、大徳寺聚光院蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
足利義輝肖像画、国立歴史民俗博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

防御力と権威を備えた山城

この城は、摂津国(ほぼ現在の大阪府北部に当たる)三好山の頂上にありました。この山自身が非常に防御力が強く、北と西側は摂津峡に囲まれていました。この城に行くには、東側から峰伝いに行く方法と、南側から谷沿いに行く方法がありました。長慶自身も以前にこの城を攻めたことがあり、そのときにこの城の強さを認識したようです。

城周辺の起伏地図

城の復元想像図(現地説明板より)

山の頂上は本郭となっていて、御殿がありました。他の多くの曲輪が本郭東側の峰の周辺に配置されていました。通路はこれらの曲輪に沿っていて、土塁・土橋・空堀・食い違い虎口などの構造物により、容易に進めないようになっていました。また、大手道が本郭の南側を通っていましたが、とても急であり、石垣を備えた大手門によって守られていました。この石垣は、この城の権威をも表していて、日本の城の中では石垣を意識的に使った最も早い事例の一つであるとされています。

本郭周辺の想像図(現地説明板より)
本郭東側の曲輪群想像図(現地説明板より)
大手道と石垣の想像図(現地説明板より)

織田信長も一時滞在

長慶は1560年に彼の息子にこの城を譲り、飯盛城に移っていくのですが、芥川山城は三好氏の重要な拠点として使われ続けました。1568年、織田信長が近畿地方を制するために上洛します。このとき信長は芥川山城を占領、滞在し、部下にこの城を与えました。しかし、信長が天下統一を進めていくにつれ、芥川山城のような城は必要なくなってしまいます。この城はその後廃城となりました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「芥川山城その2」に続きます。