194.佐伯城 その1

関ヶ原の戦いの後、大名の多くは城を平地や低い丘陵に築きました。しかし毛利高政の選択は当時としてはとても珍しく、強力な城を山上に築くというものでした。

立地と歴史

毛利高政が築城

佐伯(さいき)市は、九州地方の大分県南東部に位置していて、農業、林業、漁業が盛んなことで知られています。特に佐伯港は県で最も多くの水揚高があります。この市は、毛利高政が最初に築いた佐伯城の城下町を発祥としています。彼はまた、城と町を含む佐伯藩の創始者でもあり、藩は17世紀から19世紀の江戸時代の間、ずっと継続しました。

佐伯市の範囲と城の位置

佐伯港

高政はもとは、現在の愛知県西部にあたる尾張国の出身で、後に天下人の豊臣秀吉となる羽柴秀吉に仕えていました。天下統一がなった後、1592年に秀吉により朝鮮侵攻に派遣され、武将として活躍します。秀吉はこの貢献に応え、1595年に高政に対して豊後国(現在の大分県)の日田(ひた)郡と玖珠(くす)郡を領地として与えました。以前の領主であった大友氏は秀吉により改易されていたので、その後釜になったのです。高政は、その領地にいる間、角牟礼(つのむれ)城などいつくかの城を改修しました。

毛利高政木造、佐伯市歴史資料館の説明板より
角牟礼城跡

1598年に秀吉が亡くなると、徳川家康率いる東軍と、豊臣家を支持する石田三成率いる西軍との間で1600年に天下分け目の関ヶ原の戦いが起こりました。高政は西軍に加わりますが、東軍が勝利します。彼は直ちに東軍に降伏しますが、他の西軍に加わった大名たちの行く末からすると高政も、家康が設立した徳川幕府によって改易や処刑といった処分を受けても不思議はありませんでした。しかし、豊後国の別の場所(佐伯)に転封となるだけで済んだのです。彼が生き残った理由としては、高政が懇意にしていた東軍の有力大名であった藤堂高虎が救いの手を差し伸べたことが考えられます。もう一つは恐らく、高政自身が優れた築城術と統治能力を乗っていたことも挙げられるでしょう。彼はまた、優れた銃術家でもありました。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
毛利高政が使ったとされる大鉄砲、佐伯市歴史資料館にて展示

関ヶ原後としては珍しい新規の山城

佐伯の地には既に、栂牟礼(とがむれ)城という優れた山城がありました。ところが、高政は1601年に新しい本拠地として新しい山城を築きました。それが佐伯城です。彼がわざわざ山城をもう一つ築いた理由としては、以下が考えられます。まず、新しい城は港や将来城下町となる場所に近く、当地のために便利だったからです。次に、この山城が築かれた山には、かつて八幡神社があり、そのため山自体も八幡山と呼ばれ、聖地とされていました。よってそこに城を築くことで、その権威を利用できたということです。それと、当時は徳川幕府と豊臣氏がまだ対立していて情勢が不安定であったことも挙げられます。日本の各大名たちは次なる戦いに備える必要がありました。大名の多くは城を平地や低い丘陵に築いていたのですが、高政の選択は当時としてはとても珍しく、強力な城を山上に築くというものでした。

栂牟礼城想像図、佐伯市歴史資料館にて展示
佐伯城の復元模型、佐伯市歴史資料館にて展示

佐伯城は1605年に完成しました。城を築いた山は標高145mで、山頂からは細長い峰が北と南西方向に伸びていました。その山頂と峰は総石垣で覆われていました。山頂部には本丸があり、天守が建っていました。二の丸は本丸のとなりにあり、廊下橋によりつながっていて、これが本丸への唯一の通路でした。二の丸には城主のための御殿がありました。この場所は決して広くありませんでしたが、城主もその家族も戦のような非常事態に備えるため、そこに住むことを余儀なくされたのです。城には峰の間の谷間に2つの貯水池があり、それぞれ雌池(めんいけ)と雄池(おんいけ)と呼ばれました。長い籠城戦を想定して作られ、ここもまた石垣に囲まれていました。

上記模型の本丸(右)と二の丸(左)部分、赤丸内が廊下橋
現在も石垣に囲まれている雄池

平和な時代となり山麓に御殿を建設

1615年に幕府が豊臣氏を倒した後は、状況は変わりました。幕府の統治は安定しました。これは、日本の大名たちがもう不便な山上の御殿に住まなくてもよいことを意味しました。佐伯藩の場合は、3代目の藩主、毛利高直が1637年に山麓に三の丸と新しい御殿を築いたのです。山頂の本丸にあった天守に関しては、三階建てであったとも言われますが、詳細についてはわかっていません。何らかの理由で城の初期の段階で残念ながら失われてしまったからです。

上記模型にも山麓に御殿があります
現在の佐伯城跡

「佐伯城その2」に続きます。

57.篠山城 その1

大坂城包囲網構築のために築かれた城

立地と歴史

天下人にとって重要だった丹波国

篠山城は現在の兵庫県丹波篠山市にありました。兵庫県は大きな県で、関西地方の西側全体をカバーしてしまっているほどです。しかし篠山城は、当時は兵庫県よりずっと小さい丹波国に属していました。それでも丹波国は日本の以前の首都、京都の北西すぐ背後にある丘陵地帯の位置にあったのです。つまり、丹波を制することは、京都を守護することと、西日本の大名たちが中央政界に影響を及ぼす何らかの行動を起こしたか監視するために、とても重要だったのです。

丹波国の範囲と城の位置

天下普請による築城

1600年の関ヶ原の戦いでは徳川家康が、豊臣氏を支持する石田三成を倒したことで、1603年に徳川幕府を設立し、征夷大将軍となりました。しかし、幕府の統制に従わない豊臣氏が大坂城に居座っていたことで、情勢はまだ不安定でした。更には、西日本には豊臣恩顧の大名がたくさんいて、将来幕府に反抗することも考えられました。こういった情勢に対する家康の策略は、大坂城の周辺に強力な城をいくつも築き、豊臣氏を封じ込めるとともに、豊臣氏と豊臣恩顧の大名を引き離すことでした。その城とは、名古屋城伊賀上野城彦根城、膳所城、京都の二条城、亀山城、そして篠山城です。これらの城塞群は幕府の命令に基づく天下普請により築かれ、豊臣恩顧の大名も自費によって動員されたのです。天下普請の間接的な目的としては、大名たちの財力を削ぐこと、そして強力な城のネットワークを見せつけることで、幕府に反抗しようとなどとは思わせないようにすることでした。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康が築いた大坂城包囲網

篠山城の建設は1603年に始まり、姫路城主の池田輝政が総奉行を務め、15ヶ国から20もの大名が動員されました。城の縄張りは、築城の名手とされた藤堂高虎が担当しました。篠山城は、篠山盆地の篠山という名の丘陵に築かれました。城の主要部は丘上にあり、自然の地形を利用しつつ、高石垣がその丘を覆いました。それ以外には、シンプルな四角い曲輪群で構成され、二重の水堀に囲まれていました。こういった縄張りの城は、建設するのが容易である一方、城の防御が弱くなってしまうという懸念があります。

池田輝政肖像画、鳥取県立美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
篠山城の主要部、篠山城大書院展示室にある城の模型より
城は二重の堀に囲まれていました、上記模型より

藤堂高虎の縄張り

この城が敵に容易に攻撃されないよう、高虎は城の出入り口の防御を固めるため、「桝形」を採用しました。桝形とは、防御のための四角い空間で、門や石垣により囲み、敵が来てもここで足止めできるようになっていました。もう一つの高虎が採用した防御システムは「馬出し」でした。馬出しとは、城の入口から突き出した四角い曲輪で、堀に囲まれた細い通路によってのみつながっていました。その馬出し曲輪の前にも別の堀がありました。そのため、曲輪の出入り口は両側面にあり、そこから守備兵が反撃のために出撃できるようになっていました。高虎はこれらの仕掛けを、自分自身の城である今治城で確立していて、今治城も篠山城と同時期の1604年に完成しました。

篠山城の大手馬出しと大手門の桝形、上記模型より
今治城
今治城の桝形、現地説明版より

天守は築かれず

こういった先進的な防御システムの一方、篠山城の本丸頂上には天守は築かれませんでした。実は、天守台石垣は築かれたのですが、天守自体は築かれなかったのです。その理由は、幕府がそういった決定を下したためで、天守がなくてもこの城は十分強力だと判断したとされています。他の理由としては、篠山城の建設工事に従事していた大名たちが、名古屋場建設の方に移らなければならなかったという事情もありました。そのため、篠山城はわずか1年半ほどの工事期間で完成しました。本丸には天守の代わりに櫓群が築かれ、二の丸には城主のための御殿が築かれ、城の主要部として機能しました。

篠山城天守台
天守が築かれなかった本丸、上記模型より
篠山城二の丸に復元された御殿の一部、大書院

この城の最初の城主は、徳川家康の親族とされた(松井)松平康重でした。1615年に幕府が豊臣氏を滅ぼした後は、江戸時代末期まで城主だった青山氏など、いくつもの譜代大名が入れ替わりで城主となり、篠山藩として西日本の外様大名の監視に当たりました。

松平康重肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
篠山城の全体図、現地説明版より

「篠山城その2」に続きます。

79.今治城 その3

この城は美しく且つ強固に作られています。

特徴、見どころ

裏門から出て内堀外を散策

城がある公園には山里門と呼ばれる裏門もあり、現在のものは1990年に復元されました。城から出るためには、そこから石段を下り、高麗門をくぐって狭い土橋を渡っていきます。この橋はもともとは木橋で、戦いが起こったときには落とせるようになっていました。この門の周辺は引っ込んでいて、その一方で橋の向こう側は突出した形になっています。

城周辺の航空写真

山里門
山里門につながった山里櫓を内堀外から見ています
山里門下の石段
高欄門と土橋
橋の向こう側は突出しています

公園を出てからは、内堀の外側を歩いて回ってみましょう。堀の幅は50~70mあり、内側の石垣は9~13mの高さがあります。まるで水に浮かぶ城のように見えます。

本丸の外側
まるで浮かんでいるように見えます
二の丸側から見ています

内堀の水源、今治港

城を見回った後は、城の内堀にどのように海水が引かれているのか見てみましょう。公園の正面入口の近くに、取水口が見えます。そこから水路に沿って水源の方に歩いて行きます。そして、城内の港(船入)であった今治港に至ります。かつての城の中堀の端に該当します。海水を水源としていることから、内堀の水面の高さは、潮の満ち引きによって変動します。

内堀側の取水口
海水を導く水路
今治港
港側の取水口

その後

明治維新後、今治城は廃城となり城の全ての建物はやがて撤去されるか、火事で燃えてしまいました。本丸には1872年に吹揚神社が設立され、1914年には二の丸部分も含めて吹揚公園が開園しました。そのために内堀の中の城の主要部分が残っているのです。一方で、内堀の外側は全て市街地となりました。1953年に城跡が愛媛県の史跡に指定されて以来、今治市は、これまで述べた通り城跡の整備と復元を進めています。

公園となった城の主要部分
もう一つの復元された櫓、武具櫓

私の感想

内堀周辺を歩き、堀と高石垣の素晴らしい景色を眺めてみて、今治城は極めて実用的にできていることに気付きました。なぜ藤堂高虎は内堀を約50mの広さに、石垣を約10mの高さに作ったのでしょうか。私は、石垣の上の守備兵が内堀の外側にいる攻撃兵に対し、銃と矢両方で効率的に反撃できるようになっていると思いました。一方で、攻撃側の銃や矢は役に立たないような距離と高さです。高虎はこのように城を設計したのではないでしょうか。今治城は美しいだけではなく、相当に強力だったのです。

守るのに丁度よい高さと幅なのかもしれません
模擬天守から場内を見ています

ここに行くには

車で行く場合:西瀬戸自動車道の今治北ICから約15分かかります。または、今治小松自動車道の今治湯ノ浦ICから約20分のところです。公園の正面口の横に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、今治駅から今治営業所行きの瀬戸内バスに乗り、今治城前バス停で降りてください。駅から歩いた場合には約30分かかります。
東京または大阪から今治駅まで:飛行機を使い、そこからバスか電車に乗って現地に行かれた方がよいでしょう。

正面入口横の駐車場

リンク、参考情報

今治城、今治市文化振興課
・「今治城の謎/土井中照著」メイドインしまなみ事務局
・「第12回高虎サミット 今治城・今治市村上海賊ミュージアム特別展総合図録」高虎サミットin今治実行委員会
・「よみがえる日本の城10」学研
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版
・「日本の城改訂版第6、55、86号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「今治城その1」に戻ります。
「今治城その2」に戻ります。