47.伊賀上野城 その2

足がすくむような高石垣

特徴、見どころ

市街地から城代屋敷跡へ

現在、伊賀上野城は上野公園の一部となっていて、大体城の本丸が今の公園に該当します。二の丸を含む他の曲輪は、市街地になっています。もし近くにある上野市駅からこの城を訪れるのでしたら、その駅周辺はかつては二の丸の範囲内でした。例えば駅の近くには、ここに東大手門があったことを示す標柱のみが立っています。

城周辺の地図

二の丸東大手門跡

駅から公園にまっすぐ伸びる道は、かつては城の東内堀でした。そして、公園の東側に入って行きますが、そこは筒井定次が最初に城を築いた場所でした。しかし現在は、そこに筒井時代の初代天守があったという標柱があるだけです。そこでは主に、江戸時代の石垣に囲まれた城代屋敷跡を見ることができます。

かつて東内堀だった道
公園(本丸)の東側
筒井時代の天守跡 (licensed by ブレイズマン via Wikimedia Commons)
城代屋敷跡
城代屋敷跡を囲む石垣

復興天守と豊富な展示

公園の西側に行ってみると、二代目天守のための現存天守台石垣の上に復興天守が乗っているのが見えます。復興天守はオリジナルではなく、恐らくは予算不足のために天守台の大きさに比して、随分小さく作られています。しかし、昭和時代の1935年に建てられた伝統的な和式の木造建築です。その内部には、城や、城を改築した藤堂高虎に関する多くの展示物があります。天井下の梁にはアトラクションとして忍者のフィギアも張り付いています。

復興天守
復興天守内の展示
天守からの眺め(北側)
梁に張り付いている忍者のフィギア

日本有数の高石垣

この城のハイライトは、間違いなく公園の西側面に西内堀とともにある、現存高石垣でしょう。この石垣は29.5mの高さがあり、日本の全ての城の中で一番高いと言われてきました。ところが調査の結果、日本一の高さの石垣は、大坂城本丸東側にあるものと判明したのです。それは32mの高さです(大坂城の現在の石垣は、伊賀上野城の石垣が築かれ、そして徳川幕府が豊臣氏を滅ぼした後に、幕府により再建されたものです)。その大坂城の石垣は下部の6mの部分が堀水の水面下に隠れていて、調査するまでは本当の高さが知られていなかったのです。対照的に伊賀上野城の29.5mの石垣は、ほとんどが堀の水面上に見えています。そのためにずっと日本一と言われていたのではないかと推察します。しかし見た目上はまだ日本一ということでもよいのではないでしょうか。

伊賀上野城の高石垣
大坂城本丸東側の高石垣 (taken by kimtoru from photoAC)

その高石垣の頂上部分に近づいて行って、下を見下ろすこともできます。しかし、安全柵などはありませんので、十分に気を付けてください。そこには、「危険」「注意」と書いた看板や、ロープが張られたコーンがあるだけです(ロープを超えていくことは止めましょう)。

「危険」の看板
「注意」の看板
ロープが張ってある所は危ないです

注意しながら石垣の端に立ち、見下ろしてみると、足がすくむような高さです。しかし、その高石垣が巧みに築かれていることも実際に見ることでわかります。ちなみに、その29.5mというのは、傾きがある石垣の底から頂上までの長さです。垂直上の高さは20.6mとのことです。それでも、高虎の素晴らしい仕事ぶりを実感するには十分な高さです。

石垣の端に近づきます
端から石垣を見下ろします
足がすくむような高さです

「伊賀上野城その3」に続きます。
「伊賀上野城その1」に戻ります。

47.伊賀上野城 その1

大坂を守る拠点、攻める拠点となった城

立地と歴史

忍者の国から大坂を守る拠点に

伊賀上野城は、現在の三重県西部にあたる伊賀国にありました。伊賀はこの城よりも、恐らくは忍者の里としての方がよく知られているでしょう。実際、この城が1585年に築かれるまでは、この国は多くの小領主たちによって分割統治されていました。彼らは、自分たちを防御するために、特殊な知識や技能を身に着けていました。更には他の国の大きな戦国大名たちに雇われ、諜報員や特殊部隊として活動していました。それが現在忍者と呼ばれているのです。不幸にも、彼らは1581年に織田信長により征服されてしまいます。その後、信長の後継者、豊臣秀吉が天下統一を進めているとき、秀吉は筒井定次を伊賀の国主として送り込みました。

伊賀国の範囲と伊賀上野城の位置

筒井定次肖像画、義烈百人一首より、国文学研究資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀吉は大坂城を本拠地としてきました。そして、伊賀国は大坂から東日本に抜ける直線ルート上にありました。そのため、定次をそこに派遣し、1585年に伊賀上野城を築かせたのです。したがって、東方から敵が攻めてくるのをこの城で防ぐことが想定されていました。この城の東側には三重の天守がそびえていました。定次は、秀吉の死後、17世紀初頭に徳川家康が最後の天下人になったときにも、何とか生き残っていました。ところが、彼は1608年に家臣が彼の失政を訴えたことにより、徳川幕府から改易されてしまいます。歴史家は、幕府は実際には、定次が幕府とまだ大坂城にいた豊臣氏両方にいい顔をしていたのを快く思わず、排除したかったのだろうと推測しています。

豊臣時代の大坂城天守、「大坂夏の陣図屏風」より、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

藤堂高虎が大坂攻撃拠点として大改修

幕府は定次の後釜として、四国の今治城にいた藤堂高虎を伊賀国に移しました。高虎は、幕府の創設者、徳川家康に長く仕えている譜代大名ではありませんでした。しかし彼は、宇和島城大洲城、今治城などを築いたことで築城の名手として知られていました。また、幕府が江戸城名古屋城、京都の二条城など著名な城郭を築く際にも手助けをしていました。高虎は、これらのことで幕府の信頼を得ていました。幕府は高虎に対して、伊賀国の西方に位置する大坂城の豊臣氏に十分対抗できるだけの強力な城を築くよう期待したのです。高虎は、伊賀上野城を大改修することでこれに応えました。彼は、もし家康率いる幕府軍が大坂城で戦って敗れたとしても、家康を伊賀上野城に収容することさえ考えていました。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
宇和島城
名古屋城

高虎は、丘の上にあり城の中心部であった本丸を、大坂城がある西の方角に向かって拡張しました。彼は、石垣造りの職人集団である穴太衆(あのうしゅう)を招き、当時としては日本一高い石垣を本丸西側に築きました。この石垣が完成したことについて、高虎の記録史料(「公室年譜略」)は、大坂城の石垣よりも立派なものだと称えています。また高虎は、高石垣の背後に五重の天守の建設を始めました。ところが、その天守は1612年の大風により倒壊してしまいます。二の丸は、丘の麓の南側に築かれ、武家屋敷地として使われました。そして東西部分それぞれに大規模な大手門がありました。城の建設は、1614年に幕府と豊臣氏の戦いが始まったとき(大坂冬の陣)にもまだ続いていました。しかし、1615年に幕府が豊臣氏を滅ぼした(大坂夏の陣)ことで中止となりました。

伊賀上野城の高石垣
上野城下町絵図、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
西大手門の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦時のための居城

高虎は、伊賀上野城を支城として弟(藤堂高清)に与えたうえで、彼自身は津城を本拠地としました。津城は、伊勢国の海近くの平地に位置していました。伊勢も高虎の領地でした。彼は、津城を平時の居城とし、伊賀上野城は戦時のためのもう一つの居城としたのです。その後平和であった江戸時代には、藤堂家の重臣が伊賀上野城及び伊賀国を治め、筒井定次が元々いた場所にあった城代屋敷に居住していました。定次が築いた初代の天守はしばらくの間残っていたのですが、1633年の大風により、これもまた倒壊してしまったと考えられています。

津城跡
伊賀上野城城代屋敷跡
寛永期の絵図に描かれた城代屋敷、伊賀上野城にて展示

「伊賀上野城その2」に続きます。

82.大洲城 その1

多くの大名たちが大洲城とその地域を発展させてきました。

立地と歴史

宇都宮氏が最初に築城

大洲城は、四国の伊予国の南部(南予地方)にあった城で、その場所は現在の愛媛県大洲市にあたります。この城は最初は14世紀に宇都宮氏によって、地蔵ヶ嶽と呼ばれた丘の上に築かれました。この立地は、大洲宇和島街道と肱川(ひじかわ)との結節点の近くであり、交通の要衝でした。宇都宮氏は、やがて15世紀後半から16世紀にかけての戦国時代には伊予国の戦国大名の一つとなります。(その後中国地方の毛利氏の四国出兵により、大名の地位を追われました。伊予国は毛利氏の親族、小早川隆景が一時治めました。)

伊予国の範囲と大洲城の位置

藤堂高虎が近代化

豊臣秀吉が天下統一を果たした後、秀吉の家臣であった藤堂高虎が1595年に大洲城(を含む南予地方)を領有しました。彼は宇和島城を本拠地としていましたが、大洲・宇和島両方の城を近代化したのです。高虎によってどのように大洲城が近代化されたのか詳細はわかっていません。その遺跡は現在の大洲城の地下にあるからです。しかし、高虎が城の基本的な構造を作り上げたと考えられています。本丸は、城の東から北へ向かって流れていた肱川沿いにありました。二の丸は、川の反対側の丘の麓にありました。本丸・二の丸両方の曲輪は、南側と西側を内堀に囲まれていました。また、三の丸と外堀がそれらの外側にあったのです。堀の水は、肱川から引かれており、そのため、この城は川城というべきものでした。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊予国大洲城図、出典:国立国会図書館

脇坂安治が天守築造か

1609年、脇坂安治(わきざかやすはる)が洲本城から大洲城に移され、大洲藩の初代藩主となりました。彼が本丸に四層の天守を建てたと言われています。また、歴史家の中には安治が洲本城の天守を大洲に移したのではないかと考えている人もいます。最近の調査によると、双方の天守台の大きさがほとんど同じだったからです。台所櫓と高欄櫓という2基の二階建て櫓が天守の両側に建てられ、渡櫓によって連結されていました。他にも多くの櫓がそれぞれの曲輪の重要地点に建てられました。

脇坂安治肖像画、龍野神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
洲本城の天守台石垣と模擬天守
大洲城天守と台所櫓の古写真、現地説明板より

加藤氏が幕末まで継承

1617年、加藤氏が米子城から大洲城に転封となり、城と大洲藩を13代に渡って江戸時代末期まで統治しました。大洲藩は大藩ではなく(石高6万石)、裕福ではありませんでしたが、産業振興に努めました。例えば、砥部焼、和紙、木蝋などです。また、藩校の明倫館を設立し、藩士の教育を行いました。幕末の頃には、藩士の一人、武田斐三郎(あやさぶろう)が藩校修了の後、西洋軍学を学びました。彼はついには北海道の函館に、日本で初めての西洋式城郭である五稜郭を建設しました。そこで徳川幕府の指揮官として活躍したのです。

加藤氏の初代、加藤貞泰肖像画、大洲市立博物館所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
武田斐三郎 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
五稜郭

大洲城に関しては、平和の時代には二の丸が城の中心部となり、御殿や倉庫が建てられ、大手門やいくつかの櫓によって囲まれていました。

元禄五年大洲城絵図に描かれた二の丸、城内展示より

「大洲城その2」に続きます。