174.大内氏館・高嶺城 その3

山口は明治維新のとき、再度築城の地として注目されました。

その後

山口には江戸時代末期になって再び城郭が再建されました。それまでは、毛利氏による長州藩は日本海に面した萩城を本拠地としていました。長州藩は、西洋諸国からの潜在的脅威に対抗するため、諸藩と連携する必要から山口に本拠地を移すことが最善と称しましたが、その実、徳川幕府に反抗しようとしていたのです。そして高嶺山の麓に幕府の許可なしに、西洋式築城法を部分的に採用し、砲台を備えた山口城を建設しました。また、もしも戦いとなったときには高嶺城を再利用しようと考えていました。そうするうちに、長州藩は明治維新における勝者となったのです。その結果、山口城は山口県庁となりました。余談ですが、山口県は8人の総理大臣を輩出していて、全都道府県の中では最多となります。その中には初代の伊藤博文と、最近では安倍晋三がいます。

現存する、山口城時代の山口藩庁正門
その正門から見える高嶺城跡がある山
山口県庁
伊藤博文写真  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

私の感想

大内氏館と高嶺城のコンビネーションは、統治と防御を両立するのにとてもよい組み合わせだと思います。同じような例として、武田氏が築いた武田氏館要害山城が挙げられます。このことは、江戸時代末期において、長州藩が高嶺城を再利用しようとしていたことからも裏付けされます。しかしながら大内氏の場合は、準備が遅すぎたように思います。大内氏は、その統治が安定していたことから山口が敵から攻撃されることはないと思っていたのかもしれません。1570年代から1580年代にかけて天下人として君臨した織田信長もまた、1582年の本能寺の変で殺されるまでは同じように思っていたかもしれないことと似ているように思います。

大内氏館跡の復元土塁
高嶺城跡の現存石垣
武田氏館跡
要害山城跡

ここに行くには

車で行く場合:大内氏館跡は、中国自動車道の山口ICから約15分のところです。北側と南側に駐車場があります。高嶺城跡までは、大内氏館跡から20分程かかります。山の中腹に小さな駐車スペースがあります。
公共交通機関を使う場合は、JR上山口駅から大内氏館跡まで歩いて約15分かかります。高嶺城跡まではそこから更に1時間程かかります。
東京または大阪から上山口駅まで:山陽新幹線に乗って、新山口駅で山口線に乗り換えてください。

高嶺城跡の駐車スペース周辺

リンク、参考情報

大内氏館跡(大内氏遺跡)、山口市観光サイト
・「西国一の御屋形様 大内氏がわかる本 入門編・興亡編」山口市
・「日本の城改訂版第120号」デアゴスティーニジャパン
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書

これで終わります。ありがとうございました。
「大内氏館・高嶺城その1」に戻ります。
「大内氏館・高嶺城その2」に戻ります。

128.要害山城 その3

よりよい史跡にするためにやっていただきたいこと

特徴、見どころ

強力な城の後方の防御

お時間があれば、城の背後の側も見ていただきたいです。それは後方の峰はとても狭まっていて、オリジナルの城の通路や遺跡が峰に沿って昔ながらのごとく残っているからです。主郭とその後方にある曲輪は、人工的に作られた堀切によって隔てられていて、後方からの敵の攻撃を防げるようになっていました。その堀切は崩れないように部分的に石垣によって支えられていて、日本の城では稀な事例です。

主郭の後方を区切っている石垣のある堀切

城周辺の地図

その上、2つの土造りの物見台が、堀切で区切られた後方に、峰に沿って並んでいました。物見台台もまた一部が石垣あるいは石積みによって支えられていましたが、これもまた誰が築いたか、または改修したのか分かっていません。

物見台
物見台を支える石垣
通路は物見台の脇を通ってより細くなります

通路は物見台の脇と間を通っていて、見張り台の間を通っている部分は両側が竪堀によってカットされていてとても細くなっています。物見台の上の守備兵は、敵が攻めてきても容易に捕捉し、反撃できたことでしょう。

物見台の間の通路
細くなっている通路から物見台を見上げます
物見台から通路を見下ろしています

その後

江戸時代には、武田不動尊の石像が2番目と3番目の門跡の間にある曲輪の場所に作られました。それ以来、その曲輪は不動曲輪と呼ばれるようになりました。明治維新後、城があった場所はますます荒廃していきました。そこで地元の人たちは、城跡を保存するため、1929年に「武田信玄公誕生之地」の石碑を建てました。石碑の題字は、旧日本海軍の有名な提督、東郷平八郎が揮毫しました。城跡は1991年以来、国の史跡に指定されています。

武田不動尊
本丸に立つ「武田信玄公誕生之地」の石碑

私の感想

要害山城を訪れる時には、武田氏館と両方同時にご覧になることをお勧めします。両方見ることによって武田氏がどのようにその本拠地を守ろうとしていたのか理解できるからです。この2つの城はセットで1つの城のように機能していたのです。ただ、1つだけ甲府市にお願いしたいです。武田氏館においては、ここ最近発掘や研究が頻繁に行われています。ところが、要害山城に限っては同じように発掘や研究が進んでいるようには思えません。現地においても、歴史ファン向けにもっと説明板などが必要ではないでしょうか。また、遺跡一部はかなり草木に埋もれたりしてわかりにくくなっています。武田氏館とセットであるものとして、将来この山城についても整備を進めていただきたいです。

武田氏館跡
武田氏館の西曲輪北桝形虎口
武田氏館跡では発掘作業が進んでいます
要害山城の竪堀跡の状況

ここに行くには

この城跡を訪れるには車を使われることをお勧めします。バスの本数がとても少ないからです。
中央自動車道の甲府南ICから約20分のところです。城跡への入口の手前に駐車スペースがあります。
公共交通機関を使う場合は、JR甲府駅から積翠寺行きの山梨交通バスに乗って終点で降りてください。バス停から歩いて約15分で城跡入口に着きます。
東京から甲府駅まで:新宿駅から特急あずさ号か、かいじ号に乗ってください。

城跡入口前の駐車スペース

リンク、参考情報

要害山、甲府市
・「武田信玄 伝説的英雄からの脱却/笹本正治著」中公新書

これで終わります。ありがとうございました。
「要害山城その1」に戻ります。
「要害山城その2」に戻ります。

128.要害山城 その2

ハイカーと歴史ファンのための場所

特徴、見どころ

ハイキングコースを兼ねた城跡

現在、甲府市にある要害山城跡はハイキングコース上にあり、また史跡にもなっています。山の上にある城跡の最高地点は、山麓にある登城口から約250mの高さのところにあります。したがって、城跡を訪れるには、少々長めで辛いハイキングの準備が必要となります。頂上まで30分以上の登りとなります。登りの前半は純粋なハイキングで、自然の曲がりくねった山道を進みます。その途中でいくらか石垣を目にしますが、恐らく城があった時代より後に築かれたものでしょう。

城跡への入口
石垣は後世のものでしょうか
曲がりくねった山道

そうするうちに、「竪堀跡」「土塁」と書かれた標柱が見えてきます。この辺りが城跡の入口となります。これら実際の遺跡は半ば草木に覆われていて、その標柱がなければ気が付かなかったかもしれません。

城跡の入口周辺
遺跡は半ば草木に埋もれています

コース沿いにあるオリジナルの門跡

更に進んでいくうちにコースに沿って門跡などいくつもの遺跡(または遺跡に見えるもの)があります。しかし、このコースは全部が城があった当時と同じとは限りません。最近の調査によると、この城には頂上にある主郭に至るまで8つの門がありました。私が調べた限りでは、現在のコースに沿って進んだ場合、4つしか「門跡」と書かれた標柱がある場所がありません。確かにその場所は防御力が強いように見えます。その場所は8つの門跡のうち、2、3、6、8番目に当たるようです。

城周辺の地図

2番目の門跡が見えてきます
こちらは6番目の門跡

一方で、他にも曲輪に入って行く入口があり、それらは門跡のように見えますが、そこには標柱はありません。その入口は曲輪の正面にまっすぐ入るように作られていて、防御には不利です。つまり、城があった頃のオリジナルの入口ではなく、ハイカーのために後から作られたのでしょう。もしそれが合っていれば、オリジナルの入口のうちいくつかは(恐らく4、5、7番目の門跡)は現在のコースとは別の場所にあるのだと思います。ハイキングには不便な場所だからでしょう。

この入口はオリジナルではないようです

また、1番目の門跡はコース上にあるが、標柱はないようです。そのため、私はそのときは気が付きませんでした。

1番目の門跡辺りと思われる場所(石垣が残っているため)

桝形を築いたのは誰か?

標柱がある4つのオリジナルの門跡のうち、2番目(標柱がある最初の門跡)と3番目(2番目の標柱がある場所)はなかなか見ごたえがあります。これらの門跡は石垣に囲まれ、桝形と呼ばれる四角い空間を形成しています。ハイキングコースは、門から出るのに右に曲がり、それに加えて別の曲輪が背後や進路の先の方に控えています。桝形に敵が入ってきた場合、守備兵は敵の前面と側面に反撃できるようになっていたのです。

2番目の門跡(標柱は最初)、ルートは右に曲がっていきます
背後には別の曲輪があります
曲がった先にある曲輪
3番目の門跡(標柱は2番目)、2番目の門跡と同じような作りになっています
再び右に曲がっていくルート

このような仕組みは、要害山城からずっと後に築かれた他の城でも高石垣を使って作られています。しかし、この城におけるこの仕組みを誰が築いた、または改修したかはわかっていません。もし武田氏が作ったのであれば、随分先駆けたものだったということになりますが、加藤光泰が改修した結果であれば、甲府城のような他の城から要害山城に応用したということになります。

甲府城跡の復元された山手門の桝形
甲府城模型の山手門部分、甲府城跡稲荷櫓にて展示

最大の曲輪、主郭

8番目の門跡は、主郭の入口に当たります。山の頂上にあり、城では最も大きな曲輪で、分厚い土塁に囲まれています。中には、武田信玄の生誕地であることを示す石碑があるだけです。ここからは、甲府市の市街地がよく見えるはずですが、残念ながら木々に阻まれてよく見えません。

8番目の門跡、主郭の入口
主郭の内部
主郭を囲む土塁
「武田信玄公誕生之地」の石碑
残念ながら眺望はよくありません

「要害山城その3」に続きます。
「要害山城その1」に戻ります。