その後
山口には江戸時代末期になって再び城郭が再建されました。それまでは、毛利氏による長州藩は日本海に面した萩城を本拠地としていました。長州藩は、西洋諸国からの潜在的脅威に対抗するため、諸藩と連携する必要から山口に本拠地を移すことが最善と称しましたが、その実、徳川幕府に反抗しようとしていたのです。そして高嶺山の麓に幕府の許可なしに、西洋式築城法を部分的に採用し、砲台を備えた山口城を建設しました。また、もしも戦いとなったときには高嶺城を再利用しようと考えていました。そうするうちに、長州藩は明治維新における勝者となったのです。その結果、山口城は山口県庁となりました。余談ですが、山口県は8人の総理大臣を輩出していて、全都道府県の中では最多となります。その中には初代の伊藤博文と、最近では安倍晋三がいます。
私の感想
大内氏館と高嶺城のコンビネーションは、統治と防御を両立するのにとてもよい組み合わせだと思います。同じような例として、武田氏が築いた武田氏館と要害山城が挙げられます。このことは、江戸時代末期において、長州藩が高嶺城を再利用しようとしていたことからも裏付けされます。しかしながら大内氏の場合は、準備が遅すぎたように思います。大内氏は、その統治が安定していたことから山口が敵から攻撃されることはないと思っていたのかもしれません。1570年代から1580年代にかけて天下人として君臨した織田信長もまた、1582年の本能寺の変で殺されるまでは同じように思っていたかもしれないことと似ているように思います。
ここに行くには
車で行く場合:大内氏館跡は、中国自動車道の山口ICから約15分のところです。北側と南側に駐車場があります。高嶺城跡までは、大内氏館跡から20分程かかります。山の中腹に小さな駐車スペースがあります。
公共交通機関を使う場合は、JR上山口駅から大内氏館跡まで歩いて約15分かかります。高嶺城跡まではそこから更に1時間程かかります。
東京または大阪から上山口駅まで:山陽新幹線に乗って、新山口駅で山口線に乗り換えてください。
リンク、参考情報
・大内氏館跡(大内氏遺跡)、山口市観光サイト
・「西国一の御屋形様 大内氏がわかる本 入門編・興亡編」山口市
・「日本の城改訂版第120号」デアゴスティーニジャパン
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
これで終わります。ありがとうございました。
「大内氏館・高嶺城その1」に戻ります。
「大内氏館・高嶺城その2」に戻ります。