77.高松城 その1

日本三大海城の一つ

立地と歴史

生駒親正が自らの経験をもとに築城

高松城は、日本有数の海城で、現在の香川県である讃岐国にありました。現在の県都である高松市の名前は、実際この城に由来しているのです。戦国時代の16世紀の武将であった生駒親正が最初にこの城を築きました。親正は、天下人となった豊臣秀吉のもと、長篠城、石山本願寺(大坂城の前身)、備中高松城などで起こった多くの戦いに参加しました。親正は、秀吉の天下統一に貢献し、1587年に讃岐国を与えられました。

城の位置

生駒親正肖像画、弘憲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
長篠城跡
以前は石山本願寺であった現在の大坂城
備中高松城跡

親正は最初、既にあった引田城を使いましたが、本拠地として新しい城を築くことにしました。過去の経験から、親正が考えたその城の要件は以下のようなものでした。
・戦いの間、水軍の支援を受けられること
・鉄砲のよる攻撃に耐えられること
・長い籠城戦を乗り切れること
思案の結果、親正は高松城を作り上げ、城は1590年に完成したのです。

引田城址
現在の高松城

海と三重の堀に囲まれた城

高松城は、北側を瀬戸内海に接するように築かれ、城から直接海に船で乗り出せるようになっていました。また、それ以外の方角は三重の水堀で囲まれており、堀の水は海から供給されました。本丸は、内堀の中に独立して設けられ、三層の天守がありました。そして、二の丸とは鞘橋と呼ばれる木橋のみでつながっていました。三の丸は、二の丸のとなりにあり、海に出るための門がありました。また、三の丸には城主のための御殿もありました。このような城は、平城と言われるだけでなく、海城としても分類されています。その当時の技術水準では、敵がこの城を完全に包囲することは不可能でした。

高松城下図屏風、香川県立ミュージアム蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

松平氏が引き継ぎ城を拡張

生駒氏は、1600年の関ヶ原の戦いで徳川幕府に味方したことで、讃岐国の領土を維持していました。ところがお家騒動が起こったことで、1640年に幕府により転封させられてしまいます。その後、将軍家の親族である松平頼重が、生駒氏と交代する形で高松城に送られてきました。その当時、一般的には城主が城を大幅に改修することは認められていませんでした。しかし頼重は、天守を再築したり、北の丸や東の丸を加えることで、高松城を拡張、改良しました。その理由の一つは、頼重が、幕府に反抗するかもしれない四国の外様大名を監視する任務を負っていたことでした。

頼重が再築した天守の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
旧高松御城全図(部分)、頼重が拡張した後の絵図、現地説明板より

松平氏は、高松城とその周辺の地域を高松藩として、江戸時代の終わりまで統治しました。江戸時代の天下泰平のときには、高松城の美しい姿は人々の間で名所となりました。当時の案内書には、瀬戸内海の波間に浮かんでいる城のように記載されています。高松城は、日本の三大海城の一つと言われています。

高松城と城下町の模型、玉藻公園陳列館にて展示 (licensed by ブレイズマン via Wikimedia Commons)

「高松城その2」に続きます。

177.引田城 その1

讃岐国東部の「忘れられた城」

立地と歴史

港を守る山にあった城

引田城は、現在の香川県に当たる讃岐国の東部分にあった、標高82mの城山に築かれた城です。播磨灘に面する引田港が傍らにあり、この山が強風が港に吹き込むのを防いでいました。この港は古代より風待ちの船により賑わいました。また、山の方も当時からのろし台として使われてきたと言われています。中世になって、何人かの大名がこの山を引田城として使いました。例えば、1583年には天下人の豊臣秀吉配下の仙石久秀が引田城を活用して長宗我部元親と戦いました。つまるところ、この城は必要の都度、使われてきたのです。その時点では自然の地形を利用した城でした。

城の位置

城周辺の航空写真

仙石久秀肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

讃岐国の重要な支城の一つ

天下統一が進む中、1587年に秀吉は家臣の生駒親正に讃岐国を与えました。当初、親正は引田城に住んでいましたが、すぐに別の城に移り、最終的には新しい本拠地として高松城を築きます。しかしながら、引田城は高松城の支城の一つとして維持されました。山の上にあった曲輪を取り囲む形で石垣が築かれました。その一部は今でも山に残っています。これらの石垣は特に、訪問者が来る場所や、山麓から地元民が見上げるような場所に築かれたのです。このやり方は、秀吉やその部下たちが新しい領地において人々に権威を見せるためのものでした。これはもともと、織田信長の安土城や、三好長慶の飯盛城で始まったやり方だと言われています。

生駒親正肖像画、弘憲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高松城
現存する引田城の石垣
安土城跡
飯盛城跡

曲輪の上には、城の建物も築かれましたが、どの建物も残らなかったため詳細は不明です。しかし、その建物は高松城のようではなかったかと言われています。両方の城から、同じ鋳型から作られた屋根瓦が発掘されたからです。生駒氏が所有していた讃岐国にあった3つの城は似通っていたのかもしれないのです。国の中央には高松城、東側には引田城、西側にはもう一つの支城である丸亀城がありました。引田城は17世紀の初めに繁栄を極めました。引田港のとなりには城下町も設けられました。

丸亀城

一国一城令により廃城

ところが、引田城は1615年に徳川幕府から発せられた一国一城令により、廃城となってしまいます。それ以降は高松城のみが存続を許されました。丸亀城も、引田城と同じ時に一時廃城となりました。しかし、丸亀城はその後他の大名たちにより讃岐国が分割されたときに再建されました。結局引田城のみが、天下泰平のもと、使われないままとなり、長い間忘れられることになったのです。

引田城跡

「引田城その2」に続きます。

78.丸亀城 その1

先進的で素晴らしい石垣に覆われた城

立地と歴史

高松城の支城としてスタート

丸亀城は、讃岐国(現在の香川県)の讃岐平野の西部に位置する亀山と呼ばれる山上に築かれました。この平野の一部には、突起のような山がいくつかあり、例えば、飯野山はその美しい姿から讃岐富士として知られています。亀山は、それらの山のうちの一つですが、讃岐富士よりはずっと低い(標高が66m対422m)ものの、武士たちが城を築くには絶好の場所でした。

城の位置

城周辺の起伏地図

讃岐富士

奈良氏が亀山の上に砦を築いたのが最初と言われていますが、1597年に生駒氏が丸亀城という名前で城を築きました。生駒氏は、1587年から1640年までの間、豊臣氏とその後は徳川幕府に従うことで讃岐国を支配していました。丸亀城は、生駒氏の本拠地である高松城の支城だったのです。そして、1615年には徳川幕府から発せられた一国一城令により、一時廃城となってしまいます。城は不幸にも破壊されてしまい、その古い石垣の残骸が現代の発掘により見つかっています。

生駒氏の初代、生駒親正肖像画、弘憲寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高松城

山崎氏、京極氏により再建

1641年に生駒氏がお家騒動が原因で他に転封となった後、山崎氏が徳川幕府により讃岐国の西半分を与えられました。そして山崎氏は、新しい本拠地として丸亀城の再築を許可されたのです。亀山の周り中に三段の石垣が築かれました。その石垣は当時の最新の技術によって築かれ、それは貴重なものとなりました。当時は、新しい城を築くことは原則として認められなかったからです。この再建工事は30年間続きました。山崎氏は、跡継ぎがなかったことで工事中の1657年に徳川幕府により不幸にも改易されてしまいます。山崎氏の後釜となった京極氏が、1663年までに天守を築き、工事を完成させました。

丸亀城の天守と高石垣
丸亀城に移された京極高知肖像画、丸亀市立資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

石垣で固められた要塞

丸亀城の最終型は、以下のようになっていました。山の上には、本丸、二の丸、三の丸がありました。これら全ての曲輪は石垣で覆われ、山の高い位置で一体化していました。本丸は、最も高い位置にあり、天守と4基の隅櫓が多聞と土壁により連結されていました。二の丸と三の丸は本丸よりも低い位置にあり、ここにも櫓が何基かありました。内堀は山を囲んでいました。大手門は北側の内堀のすぐ内側にあり、搦手門は南側にありました。更には、武家屋敷が内堀の外側に建設され、ここもまた外堀により囲まれていました。

丸亀城の模型(丸亀城天守内で展示)
丸亀城の大手門と内堀
讃岐国丸亀絵図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)

京極氏は、丸亀城と丸亀藩を江戸時代の終わりまで統治しました。実は、城の城主は山裾にある御殿に住んでいました。これは平和な時代においては通常のやり方でした。いずれにせよ、丸亀城は石造りの要塞のように見えていたことでしょう。

山裾にあった御殿跡 (taken by あけび from photoAC)

「丸亀城その2」に続きます。