86.大野城 その1

大宰府政庁は、九州諸国の支配や中国・朝鮮との外交を取り扱う「遠の朝廷(とおのみかど)」でした。大野城は、この大宰府の守護神だったのです。政庁の南門跡、正殿跡などには、柱が立っていた石(礎石)が並んでいます。そして、正殿跡に立つ石碑の背後には山が控えています。山は四王子山といいますが、その上に大野城があったのです。

立地と歴史

Introduction

今回は、まず大宰府政庁跡に来ています。大宰府政庁は、九州諸国の支配や中国・朝鮮との外交を取り扱う「遠の朝廷(とおのみかど)」でした。大野城は、この大宰府の守護神だったのです。政庁の南門跡、正殿跡などには、柱が立っていた石(礎石)が並んでいます。そして、正殿跡に立つ石碑の背後には山が控えています。山は四王子山といいますが、その上に大野城があったのです。この記事では、大宰府や大野城の成立と、歴史的背景についてご説明します。それらは、古代日本が迎えた危機と大きく関係しているのです。

大宰府政庁南門跡
大宰府政庁正殿跡と四王寺山

白村江敗戦後の防衛体制

大宰府と大野城が作られる少し前の、7世紀前半、朝鮮半島には3つの国が並び立っていました(高句麗・新羅・百済)。中国大陸では、618年に統一王朝の唐が成立し、朝鮮半島に勢力を伸ばそうとしていました。唐はまず、新羅と同盟して、百済を滅ぼします(660年)。百済の遺民は国の復興を目指し、友好関係にあった倭国(以下日本と表記)に救援を要請しました。皇太子で実力者だった中大兄皇子は援軍を送る決意をし、その結果起こったのが白村江の戦いだったのです(663年)。しかし日本・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗しました。その結果を受けて、皇子が恐れたのが、唐・新羅による日本侵攻でした。皇子は、日本の防衛体制を整備していくのです。

白村江の戦いの図(licensed by Samhanin via Wikimedia Commons)

朝廷の正史「日本書紀」によれば、敗戦の翌年(664年)、に対馬・壱岐・筑紫などに防人と烽火を配備し、警備体制を作りました。また九州北部に、防衛線として水城を築きました(下記補足1)。そして665年には、百済からの亡命官僚を派遣して、水城の背後に、大野城、基肄城を築城したのです(下記補足2)。

(補足1)(天智天皇3年)対馬嶋(つしま)・壱岐嶋(いきのしま)・筑紫(つくし)国等に防人(さきもり)と烽(すすみ)とを置く。また筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城(みずき)という。(日本書紀)

(補足2)「(天智天皇4年8月) 達率答㶱春初(だちそちとうほんしゅんそ)を遣わして城を長門(ながと)国に築かしむ。達率憶礼福留(おくらいふくる)・達率四比福夫(しひふくぶ)を筑紫国に遣わして大野(おおの)及び椽(き)二城を築かしむ。(日本書紀)

水城跡
大野城跡
基肄城跡

水城・大野城・基肄城は、直接には大宰府を守るために築かれました。それまでも大陸との外交や軍事を担う拠点はあったと考えられますが「大宰府」として整備されたのは、この頃のようです。その任務を行うだけなら、もっと海岸に近い方がよかったのを、きっと防衛のことも考えて、今遺跡が残っている場所にしたのでしょう。その後も整備は進み、朝鮮への最前線の対馬(金田城)からお膝元の大和(高安城)まで、城を築きました(667年)(下記補足3)。

(補足3)(天智天皇6年11月) 倭(やまと)国高安城(たかやすのき)・讃吉(さぬき)国山田郡の屋嶋城(やしまのき)、対馬国の金田城(かなたのき)を築く。(日本書紀)

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金田城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
主要な古代山城の位置

金田城跡

中大兄皇子は、667年には、奈良の飛鳥から内陸の大津に都を移します。そして668年に即位し、天智天皇となりますが、670年に最初の戸籍「庚午年籍」を作成したのは、徴兵を行うための準備だったという意見があります。

大津宮跡 (licensed by Saigen Jiro via Wikimedia Commons)

ところで、天智天皇が築かせたのは、どんなお城だったのでしょうか。その頃のことなので、天守や高石垣はなかったとしても、山の上に曲輪をいくつも築いて、館や櫓をたくさん建てて、戦いに備えたのでしょうか。しかしそれは、中世の武士が築いたお城のイメージで、今回出てくるお城は「古代山城」または「朝鮮式山城」といわれるユニークなものだったのです。

古代山城とは?

古代山城または朝鮮式山城は、朝鮮で確立し、百済からの亡命者の指導のもとに、日本に導入された築城方式によって築かれました。先ほどご説明した通り、朝鮮半島では内乱や外国からの侵攻が続いていました。この築城方式は、土塁や石垣によって山を囲ってしまうというやり方で、当時の朝鮮の人たちは、敵軍が攻めてくると、その山城に逃げ込み、敵の補給を切れるのを待って、反撃に転じるという戦法を取っていました。一旦逃げ込む先として準備していたのです。その城の中には、倉庫などを建てて、備蓄もしていたのでしょう。この方式が、唐・新羅の連合軍による侵攻に備える日本にも、導入されたのです。

山を囲む土塁は、地形を生かしながら「版築(はんちく)」という方法で築かれました。板で囲った中に土を入れ、踏み固め、それを何層にも重ねていくのです。岡山県の鬼ノ城跡では、復元された版築土塁を見ることができます。土だけでこんな城壁ができるのです。その間には、城門や、角楼といって敵を攻撃するための施設も作られました。

版築を築くイメージ、大野城市ウェブサイトより引用
鬼ノ城の復元された版築土塁

石垣の方ですが。通常の城壁として使われる他、谷部分に作られた水門や、特別に防御や補強が必要な部分にも使われたようです。こんな大昔に石垣を使った城があったのです。これも、朝鮮半島からの技術導入だったのでしょう。しかし残念ながら、日本国内では技術承継されなかったと考えられます。それで石垣を本格的に使った最初の城は、信長の時代からとか言われるのでしょう(他に沖縄のグスクの事例あり)。

基肄城の水門石垣

古代山城は籠城に特化していたので、内部はシンプルで、兵舎・倉庫・貯水池などが作られました。

鞠智城の復元兵舎(licensed by 小池隆 via Wikimedia Commons)

ところで先ほど「日本書紀」に記録されている古代山城をご紹介しましたが、実は記録されていなくても、同じ目的で築かれたと思われる城跡も発見されています。版築のところで出てきた「鬼ノ城」はそのうちの一つです。そういった城跡が16ヶ所発見されていて「神籠石系山城」という名称で分類されています。最初、城跡の石列が発見されたときに、城の記録もないので、呪術や信仰のための遺跡と解釈されたときの名称を引きずっているのです。便宜上、記録があるものは「朝鮮式山城」ないものは「神籠石系山城」と分類する場合もあります。ただ、実態が同じであれば、分類することに意味がないという意見もあります。

鬼ノ城跡

大野城築城と外交戦

大野城は、古代山城の中でも最大級のもので、南北約3km、東西約1.5kmの範囲に、総延長約8kmの土塁を巡らせていました(外周は約7km)。地形図を見ると、山の峰をうまく使っていることがわかります。特に南北の部分は、土塁が二重になっています。さすが守護神だけあって、厳重です。規模が大きいので城門も多く、現在のところ、9ヶ所が確認されています。そのうち、大宰府につながる太宰府口城門は、重要な門の一つだったと考えられます。要の部分では石垣も築かれていて、大石垣など6ヶ所確認されていますが、特に百間石垣は、150メートル以上の長さで、北側の内周の土塁上にあります。

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Leaflet|国土地理院
城周辺の起伏地図

太宰府口城門跡
百間石垣

内部では、8地区、約70棟の建物跡が確認されていて、大部分が米を備蓄した倉庫と考えられています(櫓や役所のような建物もあった模様)。籠城戦の備えだけでなく、災害や飢饉に備えるという用途もあったのではないでしょうか。

増長天礎石群

大野城に築城に関わった亡命百済人として、憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくふ)の2人が日本書紀に記録されています。百済の都・扶余の扶蘇山城(プソサンソン)になぞらえたとも言われています。都の姿を再現させたかったのでしょうか。

百済の都・扶余と扶蘇山城の図、大野城市ウェブサイトより引用

その後は、史実の通り、唐・新羅は攻めてきませんでした。単純に助かったと思ってしまいますが、その裏では熾烈な外交戦があったのです。実は白村江の翌年から2年続けて、唐の外交団が来日しているのです。目的は記録されていませんが、何らかの要求があったのかもしれません。日本側は外交団に応対しながら、防衛体制を整備したのです。和戦両様です。唐は、百済の次は、高句麗を滅ぼそうとしていました。その最中の666年から、今度は高句麗が3回も日本にやってきます。これは明らかに救援要請だったのでしょう。667年には唐も、わずか4日間の滞在で、日本に使いを寄越しています。結局日本は、高句麗には加担せず、更に防衛体制を固めていきます。唐・新羅は、668年に高句麗を滅ぼしました。

そうなると、唐の次の狙いはどこでしょうか?日本と新羅は、その辺りから接近し始めていました。また、その頃、唐が日本に遠征するとの噂が流れていて(下記補足4)、日本が669年に遣唐使を派遣したり、唐からは671年に、捕虜を送還する目的で、2千人が来日したりしました。虚々実々の駆け引きに思えてしまいます。最初の戸籍が作られたのがその頃です。しかし結局、唐と新羅が戦いになり、675年に唐が撤収することで、新羅が朝鮮半島を統一するのです。そうなると、新羅と仲良くしていれば、日本の地位は安定します。結果的に、古代山城を実際に使わなくて済んだのです。ただ、来るか来ないか待っていたわけではなかったのです。やがて、701年に高安城が廃城になるなど(下記補足5)、古代山城の多くは廃止されたと考えられます。

(補足4)又消息を通じて云う、国家(唐)船艘を修理し、外倭国を征伐に託し、其の実新羅を打たんと欲す 百姓之を聞き、驚愕不安す(「三国史記」新羅本紀)

(補足5)高安城を廃(と)め、その舎屋、雑の儲物を大和国と河内国の二国に移し貯える。(続日本紀)

その後

ところが、大野城を含む大宰府周辺の3城は修繕され、存続したのです。籠城の準備のためでなく、常設の備蓄倉庫として使われたと考えられます。大野城の場合、倉庫が増築されていて、籠城用にしては多すぎるからです。

大野城の倉庫想像図、現地説明パネルより

また、新たに別の役割も与えられました。774年、城内に四王寺が建てられ、四天王像が置かれたのです。その頃、日本と新羅との外交関係が悪化していて、新羅が日本を呪詛しているという情報があって、それに対抗するためだったのです(下記補足6)。当時は、神仏や祈りの力も、物事を左右すると信じられていたのです。やり方は変わっても、守護神(仏)だったのです。この寺では、疫病の退散も祈願されました。仏教は。国家鎮護のための手段の一つだったのです。その頃は、敵国も疫病も、一緒の扱いでした。それ以来、お城の山が「大野山」「大城山」から「四王寺山」と呼ばれるようになりました。

(補足6)太政官符す 応に四天王寺埝像四躯を造り奉るべきこと〈各高さ六尺〉
(中略)聞くならく、新羅の兇醜、恩義を顧みず、早く毒心を懐き常に咒咀を為し、仏神誣し難く、慮或いは報応す。宜しく大宰府をして新羅に直する高顕の浄地に件の像を造り奉り、その災いを攘却せしむべし。よりて浄行僧四口を請い、おのおの像の前に当たり、一事以上最勝王経四天王護国品に依りて、日は経王を読み、夜は神咒を誦せ。但し春秋二時一七日ごとに、いよいよ益々精進し法に依りて修行せよ。よりて監已上一人その事を専当せよ。
(中略)供養の布施は並びに庫物および正税を用いよ。自今以後、永く恒例と為せ。(「類聚三代格」宝亀5年(774年)3月3日官符)

かつて四王寺があっと思われる付近にある毘沙門堂

大宰府と大野城の施設は、平安時代には衰退してしまったようですが、四王寺は、中世まで存続したと考えられています。その頃には、周辺で経塚が築かれ、そこにお経が収められていました。国の施設がなくなっても続いたということは、人々の祈りの場になったということです。:戦国時代には、中腹に岩屋城が築かれて、山の一部がお城として使われましたが、江戸時代(寛政年間)には「四王寺山三十三石仏」がお参りの場として作られました。昭和時代まではお参りが盛んだったようで、今でも石仏たちが残っています。城と山の歴史が、ずっと引き継がれているのです。

経塚に納められた経瓦の事例、東京国立博物館にて展示
岩屋城跡
四王寺山三十三石仏(十六番)

「大野城 その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

186.金田城 その3

メインとなるハイキングコースの最初の折り返し点からは、小径が出ていて、城跡の他の見どころに通じています。これらの道筋は元の軍用道路ではなく、且つそれと比べれば整備はされていません。しかし訪れる価値はあります。

特徴、見どころ

3つの城戸跡

メインとなるハイキングコースの最初の折り返し点からは、小径が出ていて、城跡の他の見どころに通じています。これらの道筋は元の軍用道路ではなく、且つそれと比べれば整備はされていません。また、あまり人が歩いていないので人気もないようです。しかし訪れる価値はあります。この小径をしばらく下っていくと、分岐点に着きます。

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折り返し点
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

折り返し点から出ている小径

そこからは、一ノ城戸跡及び二ノ城戸跡に行く道と、三ノ城戸に行く道とに分かれています。この分岐点の近くには、ビングシ山と呼ばれる丘があって、そこでも建物跡が発見されています。これらの建物は、防人の兵舎として使われたのではないかとされています。

金田城跡のジオラマ(対馬観光情報館にて展示)に折り返し点からの小径(赤線)、二ノ城戸(青丸内)と三ノ城戸(黄色丸内)の位置を追記
一ノ城戸跡及び二ノ城戸跡に行く道
三ノ城戸跡に向かう道
ビングシ山周辺、左側に見えるのは休憩所
上記ジオラマのビングシ山周辺

3つの城戸(きど)は、城の東側の海岸近くに、城門及び水門として石を積んで築かれました。この城で主に使われている石材は自然石ですが、一ノ城戸で使われている一部の石は長方形に加工されています。しかし、これら長方形の石は、江戸時代になって海岸防備のために対馬藩によって積まれたものではないかと言われています。これらの門跡はよく復元、または修築されていて、ビジターがかつてあった姿を見てわかるようになっています。

上記ジオラマの二ノ城戸周辺
二ノ城戸跡(上方から見ています)
二ノ城戸跡(下方から見ています)
一ノ城戸跡
一ノ城戸の下部と上部では石の加工度合いが異なっています
一旦分岐点に戻り、三ノ城戸跡に向かいます
三ノ城戸跡

海岸沿いの素晴らしい石垣

三ノ城戸跡を見た後は、来た道を戻ることもできますし、東南角石塁を経由する別の道を通ることもできます。後者を選択した場合は、右手には城の東側にそびえる素晴らしい長大な石垣を、左手には美しい浅茅湾を見ながら進みます。但し、この道は足元が不安定な箇所があるので気を付けて下さい。

東南角石塁の方に向かいます
海岸沿いに素晴らしい石垣があります
長大な石垣が続きます

その後に現れる東南角石塁もまた素晴らしいです。この石塁の角部分には、敵の来襲に備えて特別な防御の仕掛けがあり、いくつかの突起が設けられています。まるで、沖縄のグスクか、万里の長城の小型版のようです。この石塁に沿って登っていくと、元歩いたルートに戻ります。

東南角石塁
石塁の角(端)部分
石塁と海がすばらしい対比となっています
上記ジオラマの東南角石塁周辺

その後

人々は金田城があったということは常にわかっていました。日本書紀にその存在が記録されていたからです。ところが、それがどこにあったかはわからなくなっていました。記憶に残るにはあまりに早く廃城となってしまったからです。例えば、中世には一ノ城戸の近くの神社で朝鮮との交易がおこなわれました。また、対馬藩が江戸時代に一ノ城戸を再利用しましたが、いずれもそれが古代山城だとは知らなかったのです。旧日本陸軍が城をどのように扱ったのかは言うまでもないでしょう。歴史家が山上にあるものを古代山城の遺跡として「発見」したのは大正時代のことです。それが金田城ものものだと確定したのは戦後のことでした。その結果、1982年には城跡は国の特別史跡に指定されました。

対馬藩の本拠、金石城跡

私の感想

現地に行ってみて、城山が古代と近代両方の史跡になっているのに驚きました。これらの史跡が築かれたときは、対外関係がとても緊張していたということがわかります。それ以外にも、対馬にはモンゴル襲来のときや豊臣秀吉の朝鮮侵攻といった激動の歴史がありました。その一方で、朝鮮通信使との交流によって平和的関係を築いたという時代もありました。最近では、多くの韓国からの観光客が対馬を訪れています。どちらが望ましいかは言うまでもないでしょう。

朝鮮通信使一行のジオラマ、小倉城天守内展示より

ここに行くには

ここに行くには車を使われることをお勧めします。対馬空港から約20分、厳原港からは約30分のところです。ハイキングコースの出発地点の手前に小さな駐車スペースがあります。

厳原港
ハイキングコース出発地点の駐車スペース

リンク、参考情報

古代山城・金田城をあるく、対馬観光物産協会
・「よみがえる古代山城/向井一雄著」吉川弘文館

これで終わります。ありがとうございました。
「金田城その1」に戻ります。
「金田城その2」に戻ります。

186.金田城 その2

現在、金田城跡は城山にある人気のハイキングコースになっています。このコースは100年以上前に旧日本陸軍によって開発された軍用道路が基になっているので、よく整備されています。この道路は日露戦争に備えて、山頂に城山砲台を築く工事のために作られたのです。

特徴、見どころ

旧軍用道路がハイキングコースに

現在、金田城跡は城山にある人気のハイキングコースになっています。ビジターはまず車で県道24号線から分岐する林道を経由してハイキングコースの出発地点まで行きます。このコースは100年以上前に旧日本陸軍によって開発された軍用道路が基になっているので、よく整備されています。この道路は日露戦争に備えて、山頂域に城山砲台を築く工事のために作られたのです。

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ハイキングコース出発地点
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

ハイキングコースの出発地点

この道は山の斜面を大回りすることで傾斜を緩やかにし、馬車で建築資材を運べるようになっていました。そのため、金田城の円形に築かれた石垣と何回か交差しています。その結果、この工事により石垣の一部が破壊されてしまいました。その理由の一つは、その当時はその石垣が金田城のものだと知られておらず、砲台の工事が最優先事項とされていたからかもしれません。

金田城跡のジオラマ、白い道がハイキングコース、灰色の石垣は山全体を囲んでいます、対馬観光情報館にて展示

何度も石垣と交差

このハイキングコースには折り返し点があって、石垣と出会う場所が何箇所かあります。まずしばらく道を登っていくと、石垣との最初の交差箇所の前に、浅茅湾の素晴らしい眺めが目に入ってきます。

ハイキングコースを登っていきます
浅茅湾が見えてきます

この交差箇所は、城の南側に当たり、そこから石垣が東の方に下り、東南角石塁に至っているのが見えます。これもまた素晴らしい景色です。

東南角石塁に向かって下って行く石垣
上記ジオラマでの最初の交差箇所、交差箇所の左側が南門、右側が掘立柱建物

ここから西側には南門跡もありますが、これは最近になって2003年に発見されました。ここには石敷きや礎石があるため、門の建物があったと考えられています。この門の近くには掘立柱の建物跡もあって、見張り所か詰所であったと考えられています。

南門跡
石垣の左側に掘立柱建物跡があります

最初の折り返し点の後には、石垣との2度目の交差箇所があります。ここでの石垣は峰上を登っていきます。道は少しの間ですが、石垣と並行して進んでいます。このような険しい山の上に1350年も前に、こんなにも長く巧みな石垣を築いていたこと自体、大変な驚きです。

最初の折り返し点
左側がハイキングコース、右側が石垣
ハイキングコースから石垣を見上げています
上記ジオラマでの2度目の交差箇所

3度目の交差箇所には、石垣だけはなく、門のような構造物もあります。これは水門跡のようにも見えます。

3度目の交差箇所に残る石垣
門のような構造物
上記ジオラマでの3度目の交差箇所

4度目の交差箇所はほとんど軍用施設跡になっていて、上の方に残っている石垣が少し見えるだけです。その後はもうすぐ山頂となります。

4度目の交差箇所にある軍用施設跡
その上方に城の石垣が少し見えます
上記ジオラマでの4度目の交差箇所

山頂域では砲台跡、城の石垣、そして絶景

まず山頂下にある砲台跡に着きます。約100年前にはここに4基の28センチ榴弾砲があり、その砲身は西側の湾に向いていました。今そこには巨大な砲座が残っているだけですが、そのスケールは十分想像できると思います。

砲台跡
かつて砲身が向いていた浅茅湾
上記ジオラマにおいて、左側が山頂、右側が砲台跡

そこから頂上に向かう峰を登っていきます。この部分は金田城の西側のラインでもありました。そのため、登る途中には城の残存石垣も見ることができます。

頂上に向かっている峰
城の石垣を所々に見ることができます

山頂のスペースは限られていて、沢山人が来ているときは長居できないかもしれません。しかし、そこから見える浅茅湾のパノラマビューは息を飲むような素晴らしさです。

山頂からの景色

「金田城その3」に続きます。
「金田城その1」に戻ります。

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