71. 福山城 その1

福山城は、現在の広島県福山市にあった城です。現在でも再建された天守を、福山駅の新幹線プラットフォームから間近に見ることができます。この城は比較的新しい城で、大坂の陣後徳川の天下が定まってから建設されました。しかし城が築かれた地域には、長い前史がありました。しかも築城した水野勝成は放浪武者だった時代があり、この地域に浅からぬ縁があったと考えられるのです。これらが結びついた結果が福山城やその城下町だったのです。

立地と歴史

Introduction

福山城は、現在の広島県福山市にあった城です。現在でも再建された天守を、福山駅の新幹線プラットフォームから間近に見ることができます。この城は比較的新しい城で、大坂の陣後徳川の天下が定まってから建設されました。しかし城が築かれた地域には、長い前史がありました。しかも築城した水野勝成は放浪武者だった時代があり、この地域に浅からぬ縁があったと考えられるのです。これらが結びついた結果が福山城やその城下町だったのです。また、江戸時代後半には阿部氏が城主となり、激動の幕末に直面しました。その歴史の流れをご紹介します。

福山駅新幹線ホームから見える福山城

放浪武者、水野勝成

水野勝成は、信長・秀吉・家康に仕えた三河国刈谷城主・水野忠重の嫡男として生まれました(生年:1564年~没年:1651年)。伯母が徳川家康の母・於大の方(忠重の姉)なので、家康とは従兄弟同士ということになります。1581年(天正9年)の高天神城の戦いが初陣だったのですが、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦い(家康方)では兜も被らず突撃するほどの猪武者だったようです。このことを父親から叱責され、同じ年に金銭のトラブルから父親の側近を成敗し、出奔してしまいます。父親・忠重の方も息子を勘当(武家奉公構、他家への奉公を禁ずる)したのです。

水野勝成肖像画、賢忠寺蔵  (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)
水野忠重肖像画、東京大学史料編纂所データベース (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

勝成は、まず四国攻めをしていた豊臣秀吉に仕えました(家康配下ではないので武家奉公構は通用せず、下記補足1)。

(補足1)摂津国豊嶋郡に於て、神田七百二十八石を扶持せしむ。全く領知すべき者也
       天正十三年九月一日 (秀吉)御判 
     水野藤十郎とのへ
(「水野家見聞覚書」、「放浪武者 水野勝成」より)

しかし何事かあって秀吉の下を飛び出し、名を「六左衛門」と変え、虚無僧の姿で放浪生活に入ったとされています。秀吉からは追手も差し向けられたと言われています。やがて秀吉の九州征伐が開始される(1587年、天正15年)と九州に向かい、肥後の国主となった佐々成政の家臣になります。しかし成政は、肥後国人一揆の責任を取らされ、翌年には切腹させられてしまいます。勝成は後継の小西行長、加藤清正に仕えますが、双方とも短期間で辞め、今度は「城戸乗之助」という名前で豊前国の黒田長政に仕官しました(下記補足2)。1589年、天正17年秋、勝成は主君の長政とともに船で大坂の秀吉の下に向かっていました。ところが勝成は、途中の備後国鞆ノ津でまたも出奔したのです。秀吉とその配下たちとは余程反りが合わないか、秀吉からの追及を恐れたのでしょうか。そして、鞆ノ津は後に彼の福山藩の領地の一部となる場所だったのです。

(補足2)豊前国に一揆が起こったとき、秀吉公より黒田如水と同筑前守(長政)に命じて城井の城を攻めさせた。日向守(勝成)も寄手に加わって出陣した。(「水野勝種記録」、「放浪武者 水野勝成」より)

佐々成政肖像画、富山市郷土博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
加藤清正像、本妙寺蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後、勝成に関する確かな記録は途切れ、8年後の1597年(慶長2年)には、備中国三村親成の食客となり、妻子ももうけていました(勝成34歳、下記補足3)。この間、福山城となる地の土地柄や民情も把握していたのではないでしょうか。また、実家とは全く無関係になったわけではなく、家臣を通じて何らかの連絡も取っていたようです。

(補足3)備中の国に三村紀伊守と申す方へ六左衛門殿御懸かり御座候時分、下女一人御召し使いなされ候。その腹に美作守御出生なされ候云々。(「水野記」、「放浪武者 水野勝成」より)

やがて秀吉が亡くなると、1599年(慶長4年)、勝成は伏見の徳川家康の下に出向き、父親の忠重とも15年振りの対面をします。翌年、忠重が不慮の事件で亡くなると、刈谷城主(3万石)を引き継ぎました。直後に関ケ原の戦いが起こりますが、勝成は家康から命ぜられたのは、一城(曽根城)の守備でした。最前線で戦いたい勝成は不満で、独断で大垣城を攻めたのです。これを聞いた家康は罰することもしませんでしたが、加増もしませんでした。それから15年後の大坂夏の陣のとき、勝成は52歳になっていました。かつて黒田家で同僚だった後藤又兵衛軍を破る戦功をあげましたが、最後の場面で家康の本営守備を命じられていたのを無視し、大坂城に突撃するという有様でした。戦後、勝成は大和郡山6万石に加増されましたが、その武功のややには家康の評価は低かったと言われています。勝成の戦う姿勢は、彼の官職名(日向守)から「鬼日向」と呼ばれました。

刈谷城模型、刈谷市歴史博物館にて展示
大垣城
大坂夏の陣図屏風、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康が亡くなった後、1619年(元和5年)、将軍・徳川秀忠は、安芸・備後の太守・福島正則を改易としました。幕府に無断で城を修繕したというのが理由ですが、結局幕府が正則を危険視していたからでしょう。その遺領のうち、備後10万石が勝成に与えられることになったのです。西国の外様大名の監視が期待されての抜擢ですが、勝成のこれまでの経歴から、その土地を見知っていたことも要因だったと思われます。

福山城以前の福山

水野勝成が放浪武者時代に上陸した鞆ノ津は、瀬戸内海の潮流の分水嶺付近にあり、古代から瀬戸内海を航行する船が潮待ちをする港として栄えていました。戦国時代においても、織田信長によって京都を追われた足利義昭がここにやって来て、信長打倒のための策を巡らせました(「鞆幕府」)。福島正則が領主だった頃には鞆城が築かれました。勝成が福山藩主となって最初に上陸したのもここでした。それ以来、藩の奉行所が置かれ、江戸時代にも朝鮮通信使の寄港地になり、景勝地としても称賛されました。幕末には、坂本龍馬の「いろは丸号事件」の舞台にもなります。

鞆ノ津、現在は鞆の浦と呼ばれる
鞆城跡
朝鮮通信使が宿泊した福禅寺からの眺め

一方、福山城のあった辺りは、古代には瀬戸内海が城の北側まで湾のように入り込んでいました。城の北側には今でも「深津」「奈良津」「吉津」「津之郷」といった地名が残っていて、往時は港だったと考えられます。その後、付近を流れる芦田川が運ぶ土砂により、遠浅の海が干潟のようになっていたと思われます。芦田川はその干潟部分を幾筋にも分かれて流れていました。

中世になると、芦田川の河口付近の三角州に「草戸千軒」という港町ができ、栄えていました(当時は「草津」とも呼ばれていました)。近くの常福寺(現・明王院)の門前町でもあったのです。最近の研究では、戦国大名の山名氏の家臣・渡邉氏が領主として関わっていたと考えられています。鞆ノ津が他地域とのつながりを持つ港だとすれば、草戸千軒は地域内の港という位置づけでした。この町は16世紀初めに衰退したため、江戸時代には既に伝説的存在になっていました(下記補足4)。福島正則の時代には「草戸村」として農地になっていたようです(備陽史探訪:110号)。福山城の築城前には、近くの神島(かしま)という所に町が移っていました。水野勝成も放浪時代に訪れていたかもしれません。

復原された草戸千軒の町並み、広島県立歴史博物館にて展示
現・明王院

(補足4)
「往昔、蘆田郡、安那郡邊迄海にてありし節、木庄村、青木か端の邊より五本松の前迄の中嶋に、草戸千軒と云町有りけるか、水野の家臣上田玄蕃、江戸の町人に新涯を築せける。水野外記と云ものいひけるは、此川筋に新涯を築きては、本庄村の土手の障と成へしと、かたく留けれども、止事を不得して新涯を築、江戸新涯と云。其後寛文十三年癸丑洪水の節、下知而、青木かはなの向なる土手を切けれは、忽、水押入、千軒の町家ともに押流しぬ。此時より山下に民家を建並、中嶋には家一軒もなし。」
(「備陽六郡志」)

そして地域を代表する城としては「神辺城(かんなべじょう)」がありました。後の福山城の北、数kmのところにある黄葉山(こうようざん)にあった山城で、室町時代に山名氏によって築かれたと言われています。福島正則が領主だった時には、石垣の上に天守・櫓がそびえる近世城郭として整備され、重臣(福島正澄)を配置しました。勝成も当初はこの城にいましたが、領内を巡視した結果、干潟の海に突き出た半島状の常興寺山に新城を築くことにしました。これが福山城になります。風水による四神相応の地とも言われますが、やはり勝成の知見・経験に基づく、城下が発展できる場所だったからでしょう。この時期に新城の建設が認められるのは異例で、大規模な近世城郭としては最後のものとされます。それだけ、幕府の期待が大きかったということでしょう。

神辺城跡
福山城模型、旧福山城博物館にて展示

福山城と城下町の建設

城の建設は、1619年(元和5年)から3年間続きました。中心部には本丸が築かれ、その周りを二の丸・三の丸が囲みました(輪郭式)。本丸・二の丸は山部分にあり、ひな段状の高石垣に覆われていて、三の丸は平地にありました。内堀が二の丸と三の丸の間、外堀が三の丸の外側に掘られました。幕府からは資金援助の他、監督をする奉行が2名派遣され、廃城となった伏見城の建物も提供されました。以前の本拠だった神辺城の建物・石材も活用されました。

本丸・二の丸の高石垣

本丸には、五重五階(+地下一階)の層塔型天守が築かれました。他の城に比べ、一階から五階に至る床面積の減り方が少なく、層塔型天守の完成形とも言われています。またこの天守の大きな特徴として、天守背面(北側)を黒い鉄板で覆ったことが挙げられます。風雨を防ぐためだったとも、比較的防御が手薄だった北側からの攻撃に備えるためだったとも言われています。他の3面は漆喰塗の白亜の壁だったので、黒と白のコントラストが目立っていました。本丸には他に、伏見城から移された伏見櫓、伏見御殿、懸け造りが特徴的な御湯殿などがありました。二の丸には、神辺城から移された言われる神辺一番櫓から四番櫓などがありました。城全体では三重櫓が7基、二重櫓が16基もありました。城を含む地は「福山」と名付けられました。その由来は、長寿と多幸を祝う言葉である「寿山福海」から取ったとするなど諸説あります。

福山城の外観復元天守
復元された背面鉄板
伏見櫓(現存)
伏見御殿跡
御湯殿(復元)
神辺一番櫓跡

福山城主(藩主)の水野勝成は、城以上に城下町・地域の開発に力を注ぎました。城の背後(北)の山を開削し、芦田川から水を引き、吉津川として通しました。その途中にの「蓮池」に水を貯め、上水道として城下に配水しました。小田原用水・神田用水などに次ぐ日本でかなり早い事例の一つでした。城の背後の防御という意味合いもありました。また、野上堤防を築き、芦田川を一本化し、城下町の敷地を造成しました。商人たちに無償で土地を与え、地子(税金)も免除したので、自ずから人が集まりました(下記補足5)。元の川の流路は舟入として活用し、水路にかかった天下橋・新橋(木綿橋)の辺りが繁華街となりました。更に藩の収入を増やすため、城下町の外側を干拓し、農地としました。入植する農民には一定期間税を免除し、海岸部でも栽培できる綿花を奨励しました。綿は、福山の特産物になります。勝成は、いかに街を活性化させるか、放浪時代の経験も生かしながら、政治を進めていったのでしょう。

(補足5)当町場荒地の遠干潟に御座候ところ、町並銘々器量次第、敷地を開き住居仕候は、地子諸役等永々御除地に仰付かるべき候由、之により御領分は申すに及ばず、近国所々より相集まり、銘々沼、芦原を埋め、町並家作り出来申候(「福山領分御伝記」

蓮池
かつての舟入
天下橋跡
水野時代の干拓地(沖野上町)

また勝成は、藩士たちに対して誓紙を取ったり、目付を置くようなことはしませんでした。それでも家中は安定していたのです。勝成に対する信頼の高さが伺えます。隣の岡山藩主の池田光政は、勝成を「良将中の良将」と称えたそうです(補足6)。1638年(寛永15年)に島原の乱が勃発したとき、勝成は75歳でしたが、幕府に請われ、現地に出陣しました。「鬼日向」も健在だったのです。翌年には隠居しますが、かえって領内開発に専念し、隠居料さえもつぎ込みます。開発は、水野家4代約80年継続しますが、既に現在の福山市街地の多くができあがってしまった程でした。藩の石高も10万石→13万3千石に増加しました。勝成は88歳まで生き抜きました。

(補足6)私は随分国中を治めんと思っているが、なかなか思うようにならない。然るに隣国故日向守殿の仕置を聞くに、目付横目一人もなく、侍から誓詞を取るということもない。法度書・制法条目などついに一件も出されなかったが、国中よく治まり、家中の者よくなつき、他家よりいくら招いても見向きもしない。然らば徳を以て国中を治められたものと思われる。その頃良将が多かったが日向守のような仕置のことは聞かない。凡そ近代の良将というのはこの日向守殿ならん(「宗休様御出語」、訳は「放浪武者 水野勝成」より)

阿部氏による継承と幕末の争乱

ところが、水野氏5代目の勝岑(かつみね)が1698年(元禄11年)にわずか2歳で亡くなり、水野氏は改易となってしまいます。その後、幕府直轄領・奥平松平氏1代を挟んで、1710年(宝永7年)からは阿部氏が幕末まで城と藩を統治しました。しかし阿部氏の福山藩の内情はきびしいものでした。石高は水野氏時代の初期と同じ10万石でしたが、幕府領時代の検地により15万石と算定され、5万石分を削られていたのです。また、阿部氏10代のうち4人が幕府老中を務めたため出費がかさみました。更にこの時期には日照りと洪水による凶作が度々起こり、農民一揆が絶えませんでした。裕福な商人・豪農などが出資して設立した「義倉」からの貸付・施し・献金などもあって、なんとか藩の運営が成り立っている状態でした、

10人の阿部氏藩主の中では、なんといっても幕末に活躍した阿部正弘が有名でしょう。彼は1843年(天保14年)わずか25歳で老中に抜擢されますが(それまでの最年少、22歳で寺社奉行になったときも最年少だった)、福山にお国入りしたのは藩主になった直後、1837年(天保8)の一回切り(2ヶ月間)だけでした。ペリー来航前後の厳しい政局に幕閣の最高責任者(老中首座)として対峙していたのです。彼自身はいわゆる鎖国政策を維持したかったようですが、「衆議」を重んじ、徳川斉昭・堀田正睦など考え方が異なる大名をも取り込み、開国という結論を導きました。また、広く諮問を行い、優秀な人材の発掘も行いました。幕府の最後の最高幹部となった勝海舟もそのとき登用された一人です。しかし激務が祟ったのか、老中在職中に39歳で亡くなりました(1857年、安政4年)。

阿部正弘肖像画、福山誠之館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

正弘から2代後の阿部正方(まさかた)は、1861年(文久3年)に14歳という若さで藩主になりました。やがて幕府と長州藩が対立するようになると、1864年(元治元年)長州征討(第一次)が発令され、福山藩は幕府軍の先鋒を命じられました。彼と福山藩兵は、西の広島に向かいますが、そこで和睦となります。1865年(慶応元年)の第二次長州征討では、正方は再び出陣しますが、途中で病(脚気)を患い待機となります。藩兵は他藩と連合して長州軍と戦いますが(石州口の戦い)敗れ、撤退することになりました。正方は帰国後、御湯殿で湯治を行うなど治療に努めますが、慶応3年11月、20歳で亡くなってしまうのです。そのわずか2ヶ月後、福山城にとって大事件が起こりました。

阿部正方肖像画、福山市蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

翌年(1968年、慶応4年)1月、戊辰戦争が勃発すると、各地で朝廷方の攻勢が始まります。中国地方では、尾道で待機していた、杉孫七郎が指揮する長州軍が福山城を攻撃しようとしていました。藩主が亡くなったばかりの福山藩は和平交渉を行おうとしますが、相手にされませんでした。長州軍は、西国大名を監視していた福山城を落とすという実績が欲しかったのです。1月9日、長州軍の攻撃が開始されました。長州軍は、城の弱点とされる北側にある円照寺の山の上から大砲を放ち、一発は天守西側に命中しました。幸い火薬は装填されておらず爆発・火災は発生しませんでした。そして長州兵が城の裏門(赤門)に突撃しますが、福山藩兵も抵抗、長州が兵を引いたところで和平交渉となりました(福山藩が朝廷方に恭順)。これが城で行われた唯一の戦いでした。

「福山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

20.佐倉城 その1

佐倉城は、千葉県佐倉市にあった城でした。この城は、佐倉藩の本拠地として江戸時代に築かれ、現在の佐倉市につながっていきます。ところで、佐倉周辺の地域には、戦国時代までは多くの城があり、歴史上重要なものもありました。

立地と歴史

佐倉城は、千葉県佐倉市にあった城でした。この城は、佐倉藩の本拠地として江戸時代に築かれ、現在の佐倉市につながっていきます。ところで、佐倉周辺の地域には、戦国時代までは多くの城があり、歴史上重要なものもありました。例えば、佐倉市西部には、臼井城があり、1566年(永禄9年)に有名な臼井城の戦いが起こりました。関東地方の制覇を狙う上杉謙信勢が、北条氏を後ろ盾とした千葉氏の家臣・原胤貞が立て籠もる臼井城を攻撃しましたが、大損害を被り撤退したことで、失敗に終わります。この戦いは謙信の数少ない敗北の一つとされ、その後の彼の関東経営は後退を余儀なくされました。その千葉氏の本拠地・本佐倉城(もとさくらじょう)は、佐倉市の東境周辺にありました。「本佐倉城」とは戦国時代末期からの呼び名(天正18年5月2日付浅野長吉・木村一連署添状が初見)なので、元来こちらの方が「佐倉城」だったのでしょう。現在の佐倉城を語るには、千葉氏の「本佐倉城」から始めた方が分かりやすいと思いますので、この記事では「佐倉城前史」の記述から始めます。

臼井城跡
本佐倉城跡

佐倉城前史

千葉氏は、平安時代後期以来、下総国(ほぼ千葉県北部)周辺を支配する豪族でした。頼朝の鎌倉幕府創業のときに貢献した千葉常胤(ちばつねたね)が有名です。千葉氏は各地に一族を送り込み反映しますが、惣領家は現在の千葉市にあった亥鼻城(いのはなじょう、別名千葉城)を長い間、本拠地としていました。1455年1月(享徳3年12月)に享徳の乱が起こると、関東地方が戦国時代に突入します。関東公方(後の古河公方)の足利氏と、関東管領の上杉氏が戦うようになり、千葉氏も巻き込まれました。その混乱の中で亥鼻城が荒廃したため、千葉氏は新たな本拠地を築きました。それが本佐倉城で、遅くとも1484年(文明16年)には存在していました(下記補足1)。この城は、下総台地が入り組んだ丘の上にあり、当時は周りを印旛沼や湿地帯に囲まれていました。以前の城よりは防御力に優れていたのです。また、城の南側に下総街道が通り、印旛沼は霞ケ浦に通じ、「香取海(かとりのうみ)とも呼ばれ、水上交通にも利用できたため、同盟関係にあった古河公方とも連絡が容易な立地でした。

(補足1)文明十六年甲辰六月三日佐倉の地を取らせらる。庚戌六月八日市の立て初め、同八月十二日御町の立て初め也。二十四世孝胤の御代とぞ。(「千学集抜粋」)

千葉常胤蔵、千葉市立郷土博物館にて展示
本佐倉城の全景(現地説明パネル)

しかし16世紀(1500年代)になると、状況が変わってきます。北条氏が、相模国(神奈川県)から関東全域に勢力を伸ばしてきたのです。千葉氏の内部でも対応を巡って争いがありましたが、重臣の原氏を中心に北条氏に傾きます。房総半島では里見氏が勢力を伸ばしていて、上杉謙信と同盟していました。そういう状況の中で、起こったのが臼井城の戦いでした。謙信は関東地方の諸将に動員をかけ、北条氏の本拠・小田原城を囲んだ時以上の軍勢だったとも言われますが、城の攻略に失敗したのです。その城の城主、原胤貞は、重臣の原氏の当主だったので、その勢力はより高まったことでしょう。千葉氏の本拠地・本佐倉城はそのおかげで無事だったのです。一方、惣領の千葉氏には本拠地を移す動きもありました。その候補地が、下総台地の西端の「鹿島台」と呼ばれた場所でした。後に佐倉城が築かれるところで、本佐倉城と臼井城の中間地点に当たりました。臼井城の戦いの10年以上前の当主・千葉親胤(ちかたね)が築城を始めたと伝わります(下記補足2)。しかし1553年(弘治3年)に家臣に殺され、頓挫しました。

(補足2)親胤或時新城を築きて之に居らんと欲し、近隣の南方に土木工事を興して、既に竣成に至 りしも、未だ果さざる事ありて、暫く鹿島大与を此所に居らしむ。即ち此の城を名づけて鹿島の新城といひ、旧城を本佐倉城と稱し、代々の菩提所海隣寺を新城の傍に移せり。(「千葉伝考記・巻四」)

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佐倉城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
千葉親胤肖像画、久保神社蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

16世紀末期になると、北条氏が下総国の支配を強めるため、千葉氏の内部に介入してきます。当主・千葉邦胤(くにたね)の正室は北条氏政の娘(芳桂院(ほうけいいん))でした。そして北条氏の意向として、鹿島城(鹿島台の城)の築城を再開しますが、1585年(天正13年)に邦胤まで家臣に殺されてしまい、また頓挫したと言われています。その後北条氏政が佐倉の直接支配に乗り出し、邦胤と芳桂院の娘(東(とう))の婿として、氏政の息子・直重(なおしげ)を千葉氏の後継者としました。そして直重夫妻の居城として、また鹿島城の築城を行ったと伝わります(下記補足3)。

(補足3)氏政の末子を申受け、十二歳の姫に娶せ申し、「家督相続すべし」とて、天正十三年十一月、本佐倉は城地狭きため、神(鹿)島山今の佐倉へ、城地取立て、北条の威勢にて(中略)十一月廿二日に企て、廿三日普請始め、十二月十二日に屋形塀等大半出来、同十五日には十二歳の姫君并に母君御移し申し、其の後氏政の末子を小田原の本家へ引取られ、実子亀若丸を重胤と号し、佐倉城へ引取可申之処、俄に小田原陣始まり、小田原北条氏政の味方して籠城し給ふ。其の時亀若丸六歳なり(「妙見実録千集記」)

北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

これら一連の鹿島城伝承の検証は困難です。後の佐倉城と場所が重なってしまっているからです。中世の空堀跡が見つかっていることから、少なくともここに築城しようとしたことは確かでしょう。鹿島へ本拠地を移転しようとしていたならば、その理由にの一つには本佐倉城よりも敷地が広かったことが挙げられるでしょう。それから、北条氏の立場からは、西の方角への防御力に優れた鹿島城は、豊臣軍の西からの攻撃に備えるためとは言えないでしょうか。直重は、1590年(天正10年)の小田原合戦のとき、小田原城での籠城を命じられました。千葉氏は邦胤のもう一人の息子(側室の子)重胤(しげたね)が最後の当主となりますが、北条氏の滅亡とともに改易となってしまいました。重胤も小田原城に籠城したという記録があります(「総葉概録」など)。

現在の佐倉城跡(三の丸前の馬出し)
現在の小田原城

土井利勝による佐倉城築城

小田原合戦の後、関東地方には徳川家康が入り、佐倉地域には一族(武田信吉、松平忠輝)や家臣(酒井家次など)が配置されますが、短期間で入れ替わったため、拠点整備には至りませんでした。1610年(慶長15年)家康は、土井利勝を本佐倉城に入れ、旧鹿島城の地に、新城と城下町を建設することを決めました。この新城が佐倉城です。この城には、家康が創設した江戸幕府の本拠地・江戸城の東方を守る役割を課せられました。江戸城が西から攻められたときに、東からバックアップし、将軍の避難場所とするための城だったと言われています。旧鹿島城の地はそれに相応しかったのでしょう。

土井利勝肖像画、正定寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その任務を帯びた土井利勝は、徳川家康・秀忠・家光の3代に重臣として仕え、幕府の安定化に貢献しました。利勝は、家康が浜松城主時代の1573年(元亀4年)に生まれました。その出自にはいくつか説があります。1つ目は、幕府の系譜書(「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」)によると土居小左衛門利昌の子、2つ目は、幕府の正史「徳川実記」新井白石「藩翰譜」などによる家康の母・於大の方の兄、水野信元の子とするものです(下記補足4)。最後は土井家の「土井系図」で、そこでは何と家康のご落胤としているのです(下記補足5)。

(補足4)利勝實は水野下野守信元の子なり。さる御ゆかりを思召れての事なるべし(「徳川実記」)

(補足5)利勝公 実家康君之御子也 天正元癸酉年三月十八日於遠州浜松御城御誕生号松千代殿

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最近の研究(「藩祖・土井利勝」所収)によると、以下のような見解も出されています。「利勝が家康から賜った水野家の家紋(沢潟紋)入りの短刀があり、それは於大の方が実家から持参したもので、実際には家康の子であることを示すものだった。利勝の孫・利益(とします)が、当時地位が落ちていた土井家の状況を鑑み、自ら信元説(2つ目)を流した。ところが、その後幕府から利勝の生母について問合せがあり、そのときの当主・利里(としさと)が真相を回答し、幕府は公式見解は改めないものの、黙認したので、土井家の系図に残した。」というものです。利勝は7歳にして、家康の子・秀忠の傅役に任命されました。目を懸けられていたことは確かでしょう。そしてそのまま秀忠の側近(老職)となるのです。

土井利益肖像画、正定寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

関東創業時の家康には、最有力の側近として、本多正信・正純父子と大久保忠世・忠隣父子がいました。ところが、1614年(慶長19年)大久保長安の不正蓄財事件をきっかけに、大久保忠隣が失脚します。家康と正信の没後は、本多正純が抜きん出た形になりましたが、それに対抗したのが秀忠の側近、酒井忠世・土井利勝などでした。1622年(元和8年)今度は正純が失脚(改易)しますが、利勝ら側近たちが関与していたとも言われています。決断は将軍・秀忠によるものですが、そのお膳立てが、忠隣のときの意趣返しのように仕組まれていたからです。双方とも反乱を防ぐため、出張した時に言い渡されているのです。利勝は、次の将軍・家光の時代にも、自らが亡くなるまで元老として、家光の側近・松平信綱(川越藩主)、稲葉正勝(小田原藩主)、堀田正盛(後の佐倉藩主)らとともに、幕政に関わりました。やがて老中・若年寄の集団指導体制が確立され、幕府政治が安定していきます。

本多正信肖像画、加賀本多博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大久保忠世肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

利勝が幕閣にいた頃は、内部抗争もあり、大物大名改易、一国一城令、参勤交代、御三家創設、鎖国政策など、幕府による統制が進んだ時代だったので、彼には冷酷な権謀術数家とのイメージもあります。しかし一方では、海外を含む情報通(「コックス日記」)であり、実直な人柄でもあったようです(下記補足6)。その利勝が7年かけて作った城が佐倉城なのです。利勝は、1633年(寛永10年)には古河藩に加増移封となり(14万2千石→16万2千石)、古河城も大拡張しました。

(補足6)土井大炊殿、いよいよ御出頭にて候、拙老も節々参会申し、別して御意をえ申し候、我等旅宿へも御出候て、しみじみと放(話)申し候、ことのほかおくゆかしき御分別者に見および申し候、両御所様(家康・秀吉)御見立の仁に候あいだ、申しおよばざることに候、今は出頭一人のようにあいみえ申し候、人の申すことをも、こまごまと御聞候、寄特に存じ候ことに候。(金地院崇伝)
私はキャプテン・アダムス(三浦按針)とニールソン君を伴ってオイエン(土井利勝)殿のところへ赴いたが、運良く彼が彼の自宅の前を通りに出たところで出くわして、閣下に皇帝(秀忠)から我々のための我々の事務処理を受けて欲しいと願ったところ、彼はすぐにも処理すると約束し、我々がそんな長く滞在していることを恥ずかしく思うとの由で、しかもその上彼が私には感謝していると私に告げた。(「コックス日記」1618年11月4日)

佐倉城の特徴

広い台地上に築かれた佐倉城には、いくつも特徴がありました。まずは、その台地の自然の地形を巧みに利用したことでしょう。台地は麓から約20メートルの高さがあり、南と西を高崎川と鹿島川に囲まれ、自然の要害となっていました。加えて、台地を水堀でも囲みました。台地上の西の先端に本丸を構え、二の丸・三の丸・惣曲輪などを周りに配置しました。そして、東に向かって巨大な大手門や空堀などを作り、防衛体制を固めたのです。城下町や武家屋敷は、その更に東側の台地上に建設されました。成田街道もその城下町を通るように設定されました。つまり城と町を丸ごと、台地の上に作ってしまったわけです。

下総国佐倉城図、出展:国立国会図書館デジタルコレクション
大手門の古写真、現地説明パネルより
現存する空堀

次に挙げられるは、石垣を使わない土造りの城だったことでしょう(土塁、空堀、切岸など)。小田原合戦のとき秀吉が初めて、関東地方に本格的な総石垣造りの城を作りました(石垣山城)。それ以来、関東地方にも石垣を使った城が多く現れます(江戸城など)。しかし佐倉城は、関東地方ならではの、土造りの城のスタイルを継承していました。同様の例としては、川越城宇都宮城があります。一方で、城の防衛システムには、当時最新の仕組みが取り入れられていました。例えば、三の丸の門の前には「馬出し」と呼ばれる突出した防衛陣地が2ヶ所設けられていました。また、三の丸の周りの惣曲輪(東惣曲輪と椎木曲輪)は広大で、武家屋敷の他、練兵場に用いられ、多くの兵が駐留できるようになっていました。更には、台地の斜面には帯曲輪があって兵の移動が容易であり、その先の台地の西と東に出丸もあって、防衛の拠点になっていました。

石垣山城跡
佐倉城天守土台
現在の宇都宮城
佐倉城の帯曲輪
佐倉城の出丸

3つ目は城の建物についてです。本丸には高さ約22メートルの3層4階(+地下1階)の天守が建てられました。築城時期から考えると、佐倉城だからこそ許されたのでしょう。江戸城の三重櫓を移築したものとも言われています。江戸後期に盗賊による失火で焼失したため詳細は不明ですが、土井利勝が古河に移ってから建てた御三階櫓とほとんどサイズが一緒のため、似た外観だったと考えられています。本丸には他に、銅櫓と角櫓がありました。内部には本丸御殿(御屋形)がありましたが、徳川家康が休息して以来、通常は使われませんでした。藩主は代わりに通常は二の丸御殿(対面所)を使っていました。幕末になり老朽化すると、三の丸外に新たに御殿が建てられました。

佐倉城天守模型、佐倉城址公園センターにて展示

土井利勝が古河に移った後は、譜代大名が頻繁に入れ替わり、佐倉藩主(城主)となりました。
利勝以後の藩主または大名家を記載します。
・土井利勝(1610年〜):老中、後に大老
・石川忠総(1633年〜)
・形原松平家2代(1635年〜)
・堀田家2代(1642年〜):正盛が老中・将軍家光に殉死、正信が無断帰国で改易
・(大給)松平乗久(1661年〜)
・大久保忠朝(1678年〜):老中首座
・戸田家2代(1686年〜):忠昌が老中、忠真が寺社奉行・後に老中
・稲葉家2代(1701年〜):正往が老中
・大給松平家2代(1723年〜):乗邑が老中首座、
・堀田家6代(1746年〜):正亮(老中首座)、正順(京都所司代)、正睦(老中首座)
幕府の幹部、老中を多く輩出した藩であるため、佐倉城は「老中の城」とも呼ばれています。
江戸時代後半からは安定し、堀田家が幕末まで、藩主を務めました。
その中で、幕末に藩政改革や幕府の老中の職務を通して、開国方針を貫いた堀田正睦(まさよし)を取り上げてみたいと思います。

開国に尽力した堀田正睦と佐倉城

正睦は1810年(文化7年)生まれで、32歳のとき本丸老中となり、幕府中枢のメンバーになりましたが、ときの老中首座・水野忠邦と反りが合わず、2年余りで辞職しました。このとき将軍に直接ものが言える「溜の間」格になったことが、阿部正弘や井伊直弼とのつながりができ、後に老中に再任され、彼の開国の業績につながったという見方があります。

堀田正睦 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

正睦は老中になる前から、三の丸御殿に藩士を集め、藩政改革を宣言し、推進していました。その柱は「文武奨励」「兵制改革」「医学奨励」「民政改革」でした。兵制改革については、城中に西洋砲術の練習場を作り、ついには旧来の火縄銃を廃止し、いち早く西洋式の兵制に改めました。また、側近の渡辺弥一兵衛の癰(よう、腫れ物)が蘭方医の治療により完治したことから、西洋医学(蘭学)を導入し、江戸から名医・佐藤泰然を招きました。泰然は佐倉の城下町で佐倉順天堂を設立します(後の順天堂大学病院にもつながります)。佐倉はやがて長崎と並ぶ蘭学の地と称され、正睦もまた「蘭癖」というニックネームが付きます。佐倉の城と町は、正睦の改革の発信基地となったのです。

佐藤泰然 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

やがて、ペリーが来航(1853年)すると、老中首座の阿部正弘は、広く開国について諮問を行いました。正睦の回答は、当時としては思い切った開国通商論でした(下記補足7)。そのせいなのか、1855年(安政2年)彼は突然老中首座に抜擢されました(実権はまだ阿部正弘にあり)。翌年には「外国事務取扱(外交専任老中)」となり、またその翌年には阿部の死により名実ともに幕閣のトップになりました。彼の大仕事の一つが、アメリカ総領事ハリスへの対応(江戸出府問題)と通商条約の交渉でした。正睦は積極的開国派であったので(下記補足8)、ハリスの江戸城での将軍徳川家定への謁見を実現し、日米修好通商条約の交渉を進めました。交渉役には、叩き上げの優秀な官僚(岩瀬忠震・井上清直)を任命しました。内容的には、関税自主権がないなど不平等条約であったり、通貨交換規定が不備であり金が国外に大量流出することになります。しかし、神奈川(横浜)を開港場とするなど評価できる点もありました。

(補足7)彼に堅牢の軍艦これ有り、我が用船は短小軟弱、是彼に及ばざる一ツ。彼は大砲に精しく、我は器機整わず二ツ。彼が兵は強壮戦場を歴、我は治平に習い自ら武備薄く是三ツ。右三ツにて勝算これ無く候間、先ず交易御聞届け十年も相立ち、深く国益に相成らず候わば其節御断り、夫までに武備厳重に致し度候。夫とも国益に候わば其儘然るべきや。(「正睦伝」)

(補足8)怖れ乍ら神祖遠揉の御盛意在らせられ、慶長五年泉州に渡来仕り候阿蘭陀人英吉利人の船、江戸表へ廻され御城に召され、九カ年の遺留をも御許容もこれ有り。(中略)鎖国の法には戻られ難く存じ奉り候間、国初めの御旧例に依らせられ、異邦の御処置首尾全く御変革遊ばされ、其段海内へ御演達これ有り、公平に隣国和親の礼儀を以って、亜国官吏速やかに江戸表へ召され、登城御目見え仰付けられ、神祖遠揉の思召の如く、御懇篤の御処置御座候わば、礼儀は勿論道理も全備仕り候間、彼も是までの意匠を改め、自然感心悦服仕り、却って御益得もこれ有るべきやに存じ奉り候。(「外交関係文書」之十六)

阿部正弘肖像画、福山誠之館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
タウンゼント・ハリス (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

条約交渉は終わっても、もっと大変だったのが、幕府内での承認でした。創業時と違い、幕閣トップであっても重大案件は、同僚の老中だけでなく、御三家、溜の間格など関係有力大名に根回しをする運用になっていたのです。前任者の阿部正弘は周りに気を使い、周到に事を進めることに長けていました。一方、正睦は口下手だが意思を込めて淡々とことを進めていくタイプでした。実際、有力大名18名のうち賛成はわずか4名でした。そこで正睦が考えたのが、これまで必要なかった天皇の勅許を得ることでした。1858年(安政5年)正月、正睦は自ら京都に乗り込みますが、勅許獲得は失敗します。孝明天皇の条約拒否の意思が判明したからです(下記補足9)。正睦は将軍に一橋慶喜を推して政局を乗り切るつもりでしたが、それに反対する大老・井伊直弼に罷免されました。

(補足9)日本国中不服ニテハ実ニ大騒動ニ相成候間、夷人願通リニ相成候テハ天下の一大事の上、私の代ヨリ加様の儀ニ相成候テハ後々迄の恥の恥ニ候半ヤ。(「天皇紀」)

井伊直弼肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

条約調印は井伊直弼に引き継がれ、正睦は佐倉に戻り隠居し、城の三の丸に松山御殿を建てて過ごしました。亡くなったのは1864年(元治元年)でした。明治維新後、城跡は日本陸軍第2連隊(後に第57連隊)の駐屯地となりました。その任務の一つは、城と同じく、帝都東京の東方の防衛でした。戦後は中心部分が佐倉城址公園となり、惣曲輪の一つ、椎木曲輪には、国立歴史民俗博物館が建てられてました。城の特徴(台地上の広い敷地)が、現在でも生かされていると言えるでしょう。

三の丸にある堀田正睦像
佐倉城城跡の日本陸軍駐屯地模型、国立歴史民俗博物館にて展示
佐倉城址公園
国立歴史民俗博物館

リンク、参考情報

佐倉城、まちづくり支援ネットワーク佐倉
・「上総下総千葉一族/丸井敬司著」新人物往来社
・「千葉一族の歴史/鈴木佐編著」戒光祥出版
・「佐倉市史」
・「シリーズ中世関東武士の研究 第十七巻・下総千葉氏/石橋一展編著」戒光祥出版
・「よみがえる日本の城2」学研
・「歴史群像65号、戦国の城 下総本佐倉城」学研
・「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
・「藩祖・土井利勝/早川和見著」Kプランニング
・「徳川幕閣/藤野保著」吉川弘文館
・「評伝 堀田正睦/土居良三著」国書刊行会
・「佐倉って何?」佐倉国際交流基金ゼミ資料

「佐倉城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

71.福山城~Fukuyama Castle

福山市はまさにこの城から始まりました。
Fukuyama City really started from this castle.

立地と歴史~Location and History

新しい城と町~New Castle and Town

福山城は、広島県東部の福山市にあります。現在、この市は県で2番目の大都市ですが、城が築かれる前は町はありませんでした。それまでは、この地域は広島城にいた福島氏が支配していました。
Fukuyama Castle is located in Fukuyama City to the eastern part of Hiroshima Prefecture. Today, the city is the second largest city in the prefecture, but there had been no town before the castle was built. Before that, the area belonged to the Fukushima Clan who lived in Hiroshima Castle.

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福山城Fukuyama Castle
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置~The location of the castle

1619年、福島氏は徳川幕府により改易され、その領地は他の大名たちに分割されました。幕府は、そのうちの一部の地に譜代大名の水野勝成を送り込み、西日本の大名を監視させました。勝成は、芦田川という川のデルタ地帯にあった丘の上に、新しい城を城下町とともに築くことになりました。この新しい城は福山城と呼ばれ、日本で最後に築かれた大規模な城と言われています。これは幕府が1615年以来、原則として新しい城を築くことを禁じていたからです。福山城はとても稀なケースだったのです。
In 1619, the clan were fired by the Tokugawa Shogunate and their territory was divided among other clans. The shogunate sent Katsunari Mizuno, a hereditary feudal lord to one of the divided territories, to monitor other lords in western Japan. Katsunari was responsible for building a new castle on a hill in the delta of a river called Ashidagawa with a new castle town. The new castle was called Fukuyama Castle, which is said to be the last newly built large-scale castle in Japan. This is because the Shogunate basically banned the lords from building any new castles from 1615. The case of Fukuyama Castle is very rare.

水野勝成肖像画、賢忠寺蔵~The portrait of Katsunari Mizuno, owned by Kenchuji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天守と櫓~Main Tower and Turrets

この城には、本丸、二の丸、三の丸という3つの曲輪が築かれました。内堀が、二の丸と三の丸の間に掘られました。外堀は城全体を囲んでいました。多くの櫓や門が築かれるか、他の城から移築されました。一例として、伏見櫓は伏見城から移されたものです。天守は本丸にあり、5層で、屋根は唐破風や千鳥破風により装飾されていました。この天守のユニークな点は、北にある丘からの砲撃に備え、北側が全て黒い鉄板に覆われていることでした。建築工事は3年間続き、1622年に完成します。
The castle was built with three enclosures – the Main, the Second, and the Third Enclosures. The Inner Moat was built between the Second and the Third Enclosures. The Outer Moat surrounded the whole castle. Many turrets and gates were built or moved from other castles. For example, the Fushimi Turret was moved from Fushimi Castle. The Main Tower was on the Main Enclosure, which had five layers and its roofs were decorated with Chinese style gables and triangular shaped gables. The unique feature of the tower was that its northern side was all covered with black steel plates to prevent damage from canon fire from other hills in the north. The construction took three years before the castle was completed in 1622.

福山城のミニチュアモデル~The miniature model of Fukuyama Castle (福山城博物館~the Fukuyama Castle Museum)

優れた城主たち~Excellent Lords of Castle

勝成はまた優れた政治家であり、江戸時代の日本で最も有名な上水道の一つ、福山上水を開設しました。その後も、何人もの城主が幕府中枢で重要な役職を務めました。例えば、阿部正弘は筆頭老中となり、1853年と1854年のアメリカのマシュー・ペリー来航といった幕末の困難な外交に対処しました。ところが、この城は1868年に新政府軍からの標的にされてしまいます。砲撃が開始され、砲弾が天守に飛び込みました。守備側は降伏したのですが、その砲弾は幸い不発でした。
Katsunari was also a good politician who created the Fukuyama Water Supply, one of the most famous water supplies in the Edo Period in Japan. After that, several lords of the castle also had important roles in the central Shogunate. For example, Masahiro Abe became the head of the Shogun’s council of elders and handled the difficult diplomatic problems at the end of the Edo Period such as the arrivals of Matthew Perry’s fleet from the US in 1853 and 1854. However, the castle was targeted by the New Government Army in 1868. They opened fire and a cannon ball entered into the Main Tower before the defenders surrendered. The ball, fortunately, didn’t explode.

阿部正弘写真~The picture of Masahiro Abe (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特徴~Features

駅からすぐの本丸~Main Enclosure next to Station

現在、福山城は福山駅のすぐ近くにあります。もしくは駅が城の中にあるとも言えるでしょう。実際駅は、埋められた内堀、二の丸、三の丸の上に建てられたのです。駅の北側に沿っている道は、二の丸の端に当たります。本丸と、二の丸の一部のみが福山城公園として残っています。
Now, Fukuyama Castle is very close to Fukuyama Station, or we can rather say the station is in the castle. The station was actually built on the reclaimed Inner Moat, the Second Enclosure, and the Third Enclosure. The street along the northern side of the station was the edge of the Second Enclosure. Only the Main Enclosure and part of the Second Enclosure remain as Fukuyama Castle Park.

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天守Main Tower
Leaflet|国土地理院
城周辺の航空写真~The aerial photo around the castle

福山駅から見た福山城~A view of Fukuyama Castle from Fukuyama Station

福山駅の北出口を出ると最初に、二段の石垣に囲まれた本丸の姿が見えます。とても力強い存在感です。石垣の表面の一部には、1945年の福山大空襲のときに生じた焦げ跡が見られます。東側にある公園の正面口には、現代になって作られた道があり、容易に本丸の中に入って行けます。
You can first see the Main Enclosure surrounded by two-step stone walls from the north exit of Fukuyama Station. It has a very strong presence. The surface of the stone walls is covered with burn marks in some areas which was caused by the Great Fukuyama Air Raid in 1945. You can also walk into the enclosure easily through a moderate slope at the main entrance of the park on the east. This entrance was built in the present day.

石垣に見える焦げ跡~The burn marks on the stone walls
城への入口~The entrance to the castle

再建された天守~Rebuilt Main Tower

現在見ることができる5層の天守は1966年に再建されたもので、福山城博物館として使われています。ここでは、城や福山市のことをより学ぶことができます。しかし、現在は改装中で、2022年まで続くとのことです。現在の天守の外観は、元あったものとは異なっています。例えば、現在のものは黒い鉄板は装着されていません。ただし、その鉄板は今回の改装により天守に取り付けられるそうです。
The five-layer Main Tower we now see was rebuilt in 1966 and is used as the Fukuyama Castle Museum where you can learn more about the castle and the city. However, the tower is now being renovated. The renovations will continue until 2022. The appearance of the tower is different from the original one. For example, the present one doesn’t have the black steel plates. The plates will be added to the tower after the renovation.

再建された天守~The rebuilt Main Tower
天守からの眺め~A view from the Main Tower

現存する建物~Remaining Buildings

現存する建物は、伏見櫓、筋金御門、鐘楼の3棟だけです。伏見櫓と筋金御門は重要文化財に指定されています。とりわけ伏見櫓は古い形式で大型の3階櫓であり、伏見城から移築されてきました(そのために伏見櫓といいます)。日本で最も古い現存櫓の一つです。ところが、内部が一般に公開されるは、一年に1日だけです。
There are only three remaining buildings in the castle called Fushimi Turret, Sujigane-gomon Gate and the Bell Tower. Fushimi Turret and Sujigane-gomon Gate are designated as Important Cultural Properties. In particular, Fusimi Turret is an old style, large three-story turret that was moved from Fushimi Castle (so called Fusimi Turret). It is one of the oldest remaining turrets in Japan. However, access to its interior by the public, is available just one day a year.

伏見櫓~Fushimi Turret
筋金御門~Sujigane-gomon Gate
鐘楼~The Bell Tower

他にも、月見櫓などいくつか城の建物があるのですが、天守と同時期に再建されたものです。
There are also several traditional style buildings such as Tsukimi Turret which were rebuilt at the same time as the present Main Tower.

月見櫓~Tsukimi Turret

その後~Later History

明治維新後、福山城は廃城となり、本丸を除く建物と敷地は売られていきました。天守などのいくつかの建物と本丸は、福山公園として何とか残りました。天守は1931年には国宝に指定されます。ところが、1945年の福山大空襲により残念なことに焼け落ちてしまいました。
After the Meiji Restoration, Fukuyama Castle was abandoned, and its buildings and ground excluding the Main Enclosure were sold. The Main Enclosure with several buildings such as the Main Tower somehow remained as Fukuyama Park. The Main Tower was designated as a National Treasure in 1931. However, it was unfortunately burned down by The Great Fukuyama Air Raid in 1945.

戦前の福山城と福山駅~Fukuyama Castle and Fukuyama Station before World War II (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

第二次世界大戦後、城は公園として再び整備されました。1964年に国の史跡に指定されますが、1966年には天守と他の建物が再建されました。一方、公園周辺の地域は完全に市街地化しました。市街地化が進む中、十分な調査がなされずに城跡が破壊されてきたことを指摘する人もいました。
After World War II, the castle was developed as a park again. It was designated as a National Historic Site in 1964, and the Main Tower and other buildings were rebuilt in 1966. On the other hand, the area around the park was completely turned into the city area. Some have pointed out that the ruins of the castle were destroyed without enough investigations during the urbanization.

再建された天守~The rebuilt Main Tower

私の感想~My Impression

福山城は歴史公園として大いなる潜在能力があると思います。天守の改装後どうなるか楽しみなところです。しかしながら、行政側は、伏見櫓のような現存建物にもっと焦点を当てるべきと感じます。例えば、一般公開の日をもっと増やしてほしいです。また、過去、城はどのようであったのかを人々に知ってもらうべきでしょう。なぜなら、福山市自体が福山城なしには存在しなかったのですから。
I think that Fukuyama Castle has great potential for becoming a historical park. I’m looking forward to seeing the renewal of the Main Tower after the renovation. However, I feel that officials should feature the remaining buildings such as Fushimi Turret more. For example, it should be open to the public on more days each year. Officials should also let people know what the castle was like in the past because there wouldn’t be Fukuyama City itself without Fukuyama Castle.

伏見櫓(正面)~Fushimi Turret (the front) (taken by ジュンP from photo AC)
伏見櫓(裏側)~Fushimi Turret (the back)

ここに行くには~How to get There

福山城は福山駅北口(福山城口)のすぐ近くです。駅から歩いて1、2分のところです。
Fukuyama Castle is very close to the north (Fukuyama-jo) exit of Fukuyama Station. It takes about one or two minutes to walk to the castle from the station.

リンク、参考情報~Links and References

福山城博物館、福山市(Fuyama Castle Museum)
・よみがえる日本の城7、学研(Japanese Book)
・「日本の城改訂版第82号」デアゴスティーニジャパン(Japanese Book)
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書(Japanese Book)