85.福岡城 その2

これから、かつて福岡城の正門だった上之橋御門の跡から、話題の天守台までご案内します。それに加えて、福岡市が出している城建物の復元可能性を示した表を見ながら、途中のスポット毎にチェックしていきます。福岡城跡が将来、どのような姿になるのか想像するためです。

特徴、見どころ

Introduction

これから、かつて福岡城の正門だった上之橋御門の跡から、話題の天守台までご案内します。それに加えて、福岡市が出している城建物の復元可能性を示した表を見ながら、途中のスポット毎にチェックしていきます。福岡城跡が将来、どのような姿になるのか想像するためです。

福岡城建物の復元可能性を示した表、「国指定福岡城跡整備基本計画」より

出発前にちょっと面白い所を見学しましょう。上之橋近くの歩道の地下に、堀の北側の石垣が保存されているのです(堀石垣保存施設、年末年始除く土日に見学可)。今の歩道の辺りもお堀だったのですが、埋められたのです。その石垣が、地下鉄工事を行ったときに見つかったのだそうです。

堀石垣保存施設
堀石垣保存施設の入口
地下で保存されている石垣

整備が進む三の丸

こちらが現代の上之橋です。今でも舞鶴公園のメインの入口になっているので、立派な感じがします。すごい石垣が奥の方に見ます。上之橋御門の跡です。この門は、先ほどの表によると「復元の可能性が高い」建物に分類されています。最近石垣が修復整備されて、ビジターが通れるようになりました(2023年)。一緒に調査がされ、古写真もあるので、復元の条件が整ってきたのでしょう。石垣だけでも立派な門だったと想像できます。門を入ったところにかつては、黒田騒動の当事者、栗山大膳の屋敷がありました。

上之橋(手前)と上之橋御門跡(奥)
上之橋御門の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より
福岡城模型の上之橋御門周辺。福岡城むかし探訪館にて展示

三の丸の中に進んでいくと、広大な重臣屋敷地だったところ(東部)は、今は広場として憩いの場になっています。戦後には平和台球場がありました。古代にさかのぼると、海外使節の迎賓館などとして使われた「鴻臚館」がありました。この場所に、鴻臚館を復元整備する事業が始まっていますが、現在は「鴻臚館跡展示館」で、発掘調査の成果を、発掘現場の一部や復元イメージとともに、見学することができます。

三の丸の鴻臚館跡
平和台球場のレリーフ
鴻臚館跡展示館
鴻臚館発掘現場の一部
鴻臚館建物の復元イメージ

お城のことを勉強されたいときは、「福岡城むかし探訪館」に行ってみましょう。ここには、素晴らしい福岡城の模型があります。

福岡城むかし探訪館
福岡城の模型。福岡城むかし探訪館にて展示

先に進むと、また立派な石垣が見えてきます。二の丸の入口、東御門跡です。

三の丸から見える東御門跡

二の丸から本丸へ

東御門跡の前にやってきました。この門の脇には、革櫓、炭櫓(高櫓)がありました。この門と両脇の櫓は「復元の可能性がある」建物に分類されています。ただ、門の正面から取った写真がないそうです。

東御門跡
東御門の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より

次の関門は、扇坂御門跡です。門の建物は、復元可能性が示されていないので、詳細がわからないのかもしれません。しかし、この門の特徴は、内側の階段にあります。見た感じ公園風の階段なのですが、実は城があった当時からこの形だったのです。「扇坂」という名前もこの形から来たようです。門の通路は通常狭くしますので、大変珍しいケースです。現在の階段も、最近部分的に復元されたものです(2024年)。

扇坂御門跡
部分復元された扇坂

次は本丸です。表御門跡から入っていきましょう。この門も「復元の可能性が高い」建物に分類されているのですが、現物が、黒田家の菩提寺・崇福寺に移されて、山門として使われています。今の場所になじんでいるようにも見えますが、こういう場合にはどうするのか悩ましいところです。

本丸表御門跡
表御門の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より
崇福寺山門、「福岡市の文化財」HPから引用

本丸の中には、本丸御殿がありました。ぱっと見、なにがあったか分かりませんが、「復元の可能性がある」とされています。本丸御殿は、明治時代に改造されて、病院として使われたので、ある程度分かるのでしょう。

本丸御殿跡

本丸北側の他の建物もチェックしておきましょう。そのうち、時櫓と月見櫓は「復元が困難」とされています。一方、太鼓櫓と裏御門は隣り合っていましたが、太鼓櫓の方が復元可能性が高くなっています(太鼓櫓が「復元の可能性が高い」、裏御門が「復元の可能性がある」)。これは、以前「伝・潮見櫓」として保存されていた櫓が、実は太鼓櫓ではないかと言われていることによるようです。

太鼓櫓(左)と裏御門(右)跡
太鼓櫓(左)と裏御門(右)の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より
伝・潮見櫓

最後は、祈念櫓です。この櫓は、寺に払い下げられていたのを、元の場所に移築復元していたのですが、建物が立つ石垣の修復のため、現在は解体・保管されています。なるべく早く元の姿を見てみたいですが、現在の建物はかなりオリジナルから改変されていて、実は月見櫓だったのではないかという説もあるそうです。

祈念櫓周辺
解体・保管前の祈念櫓

いよいよ天守台めぐり

いよいよ天守台に向かいます。天守台への入口は、鉄御門(くろがねごもん)跡です。かつては、石垣の上に巨石を置き、またその上に、櫓がありました(通称「切腹櫓」)。門は文字通り鉄製で、固く閉じられ、普段から人が寄り付かない場所だったそうです。

鉄御門跡

門から入ったところの区画は、天守台に建物がなくなった後、「天守曲輪」と呼ばれていました。その角には「天守櫓」がありました。

天守曲輪
天守櫓があった場所

そして天守台(大天守台)です。かなりの大きさです。底には建物の柱を立てる礎石がたくさん並んでいます。天守のものと思えるのですが、一時期この辺りに蔵(「天守蔵」)があって、その礎石だったかもしれないそうです。残念ながら天守は「復元が極めて困難」な建物に分類されていますが、これから実施される発掘調査に期待しましょう。

天守曲輪から見た天守台
天守台に入っていきます
天守台の底にある礎石群

石垣の上は展望台になっています。ここが城で一番高い場所で(標高約36m)、一帯を見渡すことができます。

天守台からの眺め

天守台手前の、天守曲輪の中に戻ってきました。天守台周りは他にも見どころがありますので、行ってみましょう。天守曲輪のもう一つの入口「埋門(うずみもん)」跡を通っていきます。この門も狭くて、名前の通り、いざというときは石などで埋めてしまうのでしょう。

埋門跡

埋門を抜けると、本丸南側の武具櫓曲輪です。ここには、長さ60m以上もの武具櫓がありました。黒田長政が築城時に、この櫓と思われる内容を書状に記しています(天守を守る長さ30間の櫓を建てるという主旨)。この櫓は「復元の可能性がある」という分類ですが、その中でも「復元の可能性が高い」とされています(B+という表記)。明治維新後、黒田家の別邸に移築されましたが、戦争中の空襲で焼けてしまいました。

天守台から見た武具櫓曲輪
武具櫓の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より
黒田邸に移築された武具櫓、「史跡福岡城跡環境整備報告書」より

それでは、中小天守台の方に行きましょう。武具櫓曲輪から、中天守台の脇を通って、小天守台に至ります。小天守台も展望台になっているのだ。ここから見る景色もなかなかです。

中天守台(左)と小天守台(奥)
小天守台からの眺め

現存する多聞櫓

天守台の後は、現存する南丸多聞櫓を見学しましょう(国の重要文化財)。まずは外側から見学したいのですが、櫓は二の丸にあるので、一旦二の丸の桐木坂御門(きりのきざかごもん)跡から外に出ます。この櫓は、両隅の二重櫓2つが、長さ約54メートル(30間)の平櫓を挟む格好になっています。防御のための仕掛けが見えます。鉄砲狭間、格子窓、そして石落としの3点セットです。

桐木坂御門跡
南丸多聞櫓(外側)
石落とし、鉄砲狭間、格子窓が見えます

二の丸に戻って、その一部の南の丸に入ってみましょう。多聞櫓がある場所です。普段は倉庫として使われていたそうです。現在の建物は江戸末期(1854年)に大改修されました。

二の丸の一部、南の丸に入ります
多聞櫓(内側)

訪問した日は、偶然櫓内部の特別公開日でした。さっそく入ってみましょう。中が細かく仕切られています。これがこの櫓(平櫓部分)の大きな特徴で、16の区画に分かれています。しかも番号が振られています。後に兵舎や学校寮として使われたときの名残なのでしょう。

櫓内部見学のための入口
櫓の内部

外から見えた、格子窓、石落とし、鉄砲狭間を内側からも確認できます。

格子窓
石落とし
鉄砲狭間

上を見ると、なんだか天井が透けている感じです。この天井は、細い竹を組んで作られています。火縄銃の煙を上に逃がすためとか、竹を矢の材料として、その場で使えるようにしたためとか言われています。まさに実戦に備えた櫓だったのです。

多聞櫓の屋根

リンク、参考情報

国史跡 福岡城・鴻臚館 公式ホームページ
福岡市の文化財
・「福岡城 築城から現代まで(新修福岡市史特別編)」福岡市
・「シリーズ藩物語 福岡藩/林洋海著」現代書館
・「福岡城天守を復原する/佐藤正彦著」石風社
・「福岡城天守の復元的整備について―報告と提言(概要)-」福岡城天守の復元的整備を考える懇談会
・「福岡城の天守に関する新たな資料の発見について 令和6年12月10日」福岡市 経済観光文化局 博物館
・「歴史を読み解く:さまざまな史料と視角/服部英雄著」九州大学学術情報リポジトリ
・「国史跡福岡城跡整備基本計画 平成26年6月」福岡市
・「史跡福岡城跡環境整備報告書 昭和55年度」福岡市教育委員会

「福岡城その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

85.福岡城~Fukuoka Castle

この城に天守はあったのでしょうか?
Did the castle have a Main Tower or not ?

立地と歴史~Location and History

古代から重要な地~Important place from Ancient times

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福岡城Fukuoka Castle
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置と筑前国の範囲~The location of the castle and the range of Chikuzen Province

福岡城は元々、現在の福岡市にあたる、赤坂山とその脇にあった草ヶ江入り江周辺の地域にありました。古代には、ここには鴻臚館という中国や朝鮮からの人々をもてなす迎賓館がありました。中世の鎌倉時代に、武士たちが元の襲来を撃退したとき、ここで戦いがありました。1600年黒田氏は、筑前国福岡藩52万3千石の石高を、徳川幕府により与えられました。彼らは当時福崎と呼ばれていたこの場所に新しい城を作ることにしました。
Fukuoka Castle was originally an area around a mountain called Akasaka-yama and an arm of the sea called Kusagae beside the mountain, in what is now Fukuoka City. In ancient times, there was a guest house called Kouro-kan to used to host people from China and Korea. In the Kamakura Era of the Middle Ages, when the warriors repelled the Mongol Invasion, they battled the enemy there. In 1600, the Kuroda clan was granted the Fukuoka Domain of Chikuzen Province with an earning of 523,000 koku in rice by the Tokugawa Shogunate. They decided to build a new castle in this area called Fukuzaki then.

鴻臚館の遺跡~Thr ruins of Kouro-kan
赤坂の戦い、「蒙古襲来絵詞」より~Battle of Akasaka from “The picture scrolls of the Mongol invasion attempts against Japan”(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
福岡藩初代藩主、黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵~The Portrait of Nagamasa Kuroda, the first lord of Fukuoka Domain, owned by Fukuoka City Museum(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

山と入り江を大改造~They reformed Mountain and Arm of Sea

彼らは山の形を整え、谷を埋め、本丸、二の丸、三の丸といった曲輪を南から北に向かって配置しました。また、山の部分を囲む内堀を、西側は草ヶ江入り江を利用することで、他の方角は掘削することで作り出し、城の東側にある那珂川と接続させました。
They reshaped the mountain and filled valleys, and set the Main Enclosure or “Honnmaru”, the Second Enclosure or “Ninomaru”, and the Third Enclosure or “Sannomaru” from south to north. They also created the inner water moat surrounding the mountain part by using the Kusagae arm of the sea as the western part, digging other direction parts, and connecting to the Naka River, the east of the castle.

福岡城下絵図~Part of an illustration of Fukuoka Castle(現地説明板より、from a sign board at the site)

結果的にこの地域は、広大な要塞となりました。これが福岡城です。城の正面は北の方角の海に向いており、「下ノ橋大手門」「上ノ橋大手門」「赤坂門」という3つの大きな門がありました。本丸がある城の後方には「追廻橋」という裏門が1つあるだけでした。本丸だけでも20もの櫓が高く屈曲した石垣にそびえていました。
As a result, the area became a huge scale fortress called Fukuoka Castle. The front of the castle faced the sea in the north with three large gates called “Shimonohashi-Ote-mon”, “Kaminohashi-Ote-mon”, and “Akasaka-mon”. The back of the castle, where Honmaru was located, had only one back gate called “Oimawashi-bashi” bridge. Honmaru itself had as many as twenty turrets on high and curved stone walls.

福岡城の模型~A miniature model of Fukuoka Castle(福岡城むかし探訪館~Fukuoka Castle Ruins Visitor Center)

天守の謎~Mystery of Main Tower

この城に関して興味深いことは、天守があったかどうかです。石垣の天守台は確かにありました。しかし、遺物、文献、図面といった天守の証拠となるものは見つかっていません。ところが、歴史家の中には、天守はあったはずと言う人もいます。江戸時代初期のある大名の手紙に、黒田候は幕府がどう思うか心配なので、天守を壊すことにしたと書いてあるのです。実に興味をそそる記述です。
An interesting question regarding the castle is if it had a Main Tower (“Tenshu”) or not. It had the stone wall base for Tenshu, but there are no evidence of Tenshu such as relics, documents, and drawings. However, some historians say that the castle must have had Tenshu, as a letter in the early Edo Period written by another lord says Kuroda would destroy their Tenshu because they were afraid of what Tokugawa Shogunate might think. It’s very intriguing.

上記の模型の天守部分は無色になっています~The part of the Main Tower is made uncolored in the model

特徴~Features

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大濠公園Ohori Park
Leaflet|国土地理院
城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle

二つの公園~Two Parks

現在、福岡城跡は2つの公園に別れています。1つは舞鶴公園で、城の主要部分に当たります。もう1つは大濠公園で、もともとは草ヶ江入り江だったものが、大濠と呼ばれた城の内堀となった所です。ただ、大きな池のようにも見えます。それは、大昔は海の一部だったからなのです。
Now, the ruins of Fukuoka Castle are divided into two parks. One of them is Maiduru Park which was the primary part of the castle. The other one is Ohori Park which was originally Kusagae arm of the sea, then became an inner moat of the castle, called Large Moat or “Ohori”. Ohori Park still has the large moat, but it looks like a large pond. You can see that`s because it was part of the sea a long time ago.

大濠公園~Ohori Park

舞鶴公園は、更に広々としています。多くの遺跡が散らばっています。城の北部にあった三の丸の3つの門のうち、下ノ橋大手門だけが現存しています。2階建ての櫓門であり、ほぼ元あった通りの姿となっています。この門は明治時代に一旦単層に改造されました。2000年に一部が火災に遭った後、現在あるように復元されました。
Maiduru Park is even more spacey, so a lot of ruins are disseminated. Only the Shimonohashi-Ote-mon Gate remains out of the three front gates at Sannomaru, the north part of the castle. It is a two-story turret gate which looks nearly like the original one. It was once modified to a one-story gate in the Meiji Era. After the gate partly burned in 2000, it was restored as it is today.

下ノ橋大手門(遠景)~Shimonohashi-Ote-mon Gate, A distant view
下ノ橋大手門(近景)~Shimonohashi-Ote-mon Gate, A close-range view

三の丸地区~Area of Third Enclosure

上ノ橋大手門跡の方から公園に入ると、大きな空き地があります。江戸時代、ここには三の丸の多くの居住や統治のための屋敷がありました。その後は、平和台球場のような近代施設が建設されました。1999年に球場が撤去された後発掘が行われ、城があった遥か前には迎賓館である鴻臚館があったことがわかりました。鴻臚館跡展示館では、発見された遺物が展示されています。また、福岡城むかし探訪館では福岡城の歴史を学ぶことができます。
If you enter in the park through the ruins of Kaminohashi-Ote-mon Gate, you can see a large vacant area. There were many halls for living and governance at Sannomau in the Edo Period. After that, modern facilities were built there, such as the Heiwadai Stadium. After the stadium was demolished in 1999, the Excavation team found out that there was an ancient guest house called Kouro-kan long before the castle. You can see the findings of the excavation in Kourokan Ruins Exhibition Hall, as well as the history of the castle in Fukuoka Castle Ruins Visitor Center.

上ノ橋大手門跡~The ruins of Kaminohashi-Ote-mon Gate
現在の三の丸~The present Third Enclosure
平和台球場の記念碑~The monument of the Heiwadai Stadium
鴻臚館跡展示館~Kourokan Ruins Exhibition Hall
鴻臚館の遺物~Some of the findings of the excavation in Korokan Ruins Exhibition Hall

二の丸、本丸へ~To Second and Main Enclosures

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天守台Base for Main Tower
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図~The map around the castle

二の丸と本丸へは、三の丸から登っていきます。二の丸は本丸を囲んでいます。二の丸に関しては、2階建てで50mの長さがある多門櫓が現存しています。この櫓は城の裏口にあり、現在も堅く守っているように見えます。1971年には重要文化財にも指定されました。
You can climb from Sannomaru to Ninomaru and Honmaru. Ninomaru is surrounding Honmaru. Regarding to Ninomaru, there is a two-story and over 50m long turret called “Tamon-Yagura” that remains in its original state. It was located at back entrance of the castle, so even now it looks very defensive. It was also designated as an Important Cultural Property in 1971.

三の丸から見た二の丸~The Second Enclosure from the Third Enclosure
現存する多門櫓~The remaining Tamon-Yagura Turret

本丸は城のもっとも高い位置にあります。巨大な天守台に石垣が際立っています。前述した通り、研究者はこの石垣の上に天守があったのかどうか考察しています。ここからは福岡市一帯を見渡すことができます。祈念櫓は本丸で唯一残っている建物です。この櫓は一旦他の場所に移されましたが、1983年に元の場所に戻されました。
Honmaru was at the highest point of the castle. The large stone wall base for Tenshu is outstanding. Researchers wonder if the Tenshu was on the base, as I mentioned above. You can observe the whole area of Fukuoka City from there. Kinen Turret is the only remaining building at Honmaru. It was once moved to another, but returned to its original position in 1983.

天守台(外側)~The base for the Main Tower, the outside
天守台(内側)~The base for the Main Tower, the inside
天守台からの眺め~A view from the base for the Main Tower
祈念櫓~Kinen Turret

その後~Later History

黒田氏は、現在は福岡市として知られている城とその城下町を江戸時代末期まで統治しました。明治維新後、城のほとんどの建物は撤去されるか、近代施設に置き換えられました。第二次世界大戦前は軍の基地、戦後は平和台球場といった具合です。城跡は舞鶴公園と大濠公園となっています。最近、福岡市はこの2つの公園を合わせたセントラルパーク構想を発表しました。また、残っている文書を基に福岡城のいくつかの櫓を、発掘の成果を基に鴻臚館の建物を復元するとのことです。それには長い期間がかかります。
The Kuroda clan continued to govern Fukuoka Castle and the castle town, that are now known as Fukuoka city, until the end of the Edo Period. After the Meiji Restoration, most of the buildings in the castle were demolished or replaced with modern facilities like the Army base before World War II, or the Heiwadai Stadium after the war. The ruins of the castle have been turned into Maiduru Park and Ohori Park. Recently, Fukuoka City has announced that it will develop the Central Park, including the two existing parks. The city will also restore some of Fukuoka Castle’s turrets, based on the documents that remain as well as the buildings of Kouro-kan, based on the excavation’s findings. They expect the restoration will take a long time.

Leaflet|国土地理院
1990年頃の城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle around 1990

私の感想~My Impression

私は、福岡城には一時完成したか、建設中の天守があったのではないか、ただし幕府の権威を憚って計画的に自ら解体したのではないかと思っています。それが天守があった証拠が見つからない理由でしょう。また、最近の人たちはあまり福岡城跡を歴史公園として見てこなかったように思います。レジャー、運動、そしてオフィスビルとしての用途のためです。しかしながら、この城跡はまだまだ史跡として大きな潜在能力を持っています。今後城の建物が充実してきたら、また訪れてみようと思います。
I guess that Fukuoka Castle once sported a completed or under construction Main Tower, but Kuroda had to destroy it systematically by themselves considering the Shogunate’s authority. That’s why there is no evidence of the Main Tower.
I also think that recent people have not been interested in the ruins of Fukuoka Castle as a historical park. They think the parks are for leisure, exercise, or officials buildings. However, the ruins still have a great potential for a historic site. I will be waiting for some buildings to be renovated so I can visit them again.

裏御門跡~The ruins of the Back Gate

ここに行くには~How to get There

福岡市地下鉄空港線の赤坂駅または大濠公園駅から徒歩で10分以内です。
車の場合:都市高速の天神北または西公園ランプから約3kmのところです。舞鶴公園に駐車場があります。
It takes less than 10 minutes From Akasaka or Ohori-Koen station on Kuko line, Fukuoka City Subway to get there on foot.
If you want to go there by car: It is about 3 km away from the Tenjin-kita or Nishi-koen Ramp on Urban Expressway. Maiduru park offers a parking lot.

リンク、参考情報~Links and References

福岡城むかし探訪館~Fukuoka Castle Ruins Visitor Center(Only Japanese?)
・「よみがえる日本の城20」学研(Japanese Book)
・福岡市「セントラルパーク構想」(Fukuoka City Official Document)