91.島原城 その2

戦艦のように見える城

特徴、見どころ

自然の力を感じる町と城

島原城がある島原市は、雲仙岳の裾野に位置しています。市街地周辺を歩いてみると、その地理的な特徴がよくわかると思います。島原城が築かれた森岳と呼ばれる丘陵も、約4千年前の眉山の崩壊により形作られたのです。そこでは、自然の力を身をもって感じることができます。また、城の周りを歩いてみると、内堀に囲まれた素晴らしい石垣と、復元された城の建物により、その外観がよく保たれています。特にこの高石垣は、よい状態で残っていて、石垣のラインは屏風のように折れ曲がっています。この城の大きさはコンパクトかもしれませんが、強力に作られていて、まるで戦艦のように見えます。

市街地から裾野の坂を登って城に向かいます
現存している高石垣
戦艦のような島原城

現存石垣と再建建物とのコラボ

本丸と二の丸を含む、現存している内堀の中の範囲は、長崎県の史跡に指定され、歴史公園として整備されています。車で城に行く場合には、現代になって作られた土橋を渡って、簡単に本丸の中に入っていき、その中にある駐車場に停めることができます。

城周辺の航空写真

本丸入口
本丸内部

再建高層天守からの素晴らしい眺め

再建された5層の天守は高さが33mあり、とても目立っています。日本で存在している天守の中では3番目の高さです。この天守は実際には近代的ビルであり、博物館と展望台として使われています。天守の中では、城の歴史や島原の乱のことを学ぶことができます。最上階では、島原市の全方位の素晴らしい景色を楽しむことができます。例えば、東の方には有明海の向こうに阿蘇山が望めます。北側には本丸と二の丸が一直線に並んでいるのが見えます。また、西側には眉山とその背後の雲仙岳が見えます。

再建天守
天守からの眺め(東側)
城からの眺め(北側)
城からの眺め(西側)

再建された櫓での展示

本丸には他にも見どころがあります。3基の再建された櫓はそれぞれ特徴ある展示を行っています。例えばその内の一つ、巽(たつみ)櫓は、地元の有名な彫刻家である北村西望(せいぼう)の作品を集めたギャラリーになっています。その中では、彼の代表的作品である平和祈念像(長崎平和公園にあるものの縮小版)などがあります。櫓の外でも彼の他の作品、島原の乱を率いた天草四郎や、日本の中心部で有力な戦国大名となった若き日の織田信長の銅像を見学できます。

再建された巽櫓に向かいます
平和祈念像
天草四郎像
若き日の織田信長像

「島原城その3」に続きます。
「島原城その1」に戻ります。

91.Shimabara Castle Part1

A castle sharing the fate of the Shimabara Rebellion

Location and History

Matsukura Clan builds Castle as their Home base

Shimabara Castle is located in the Shimabara Peninsula, the western part of the Kyushu Region. The Arima Clan basically governed the area around the peninsula in the Middle Ages. Harunobu Arima, the lord of the clan in the late 16th Century, was known as a Christian feudal lord. Because of that, Christianity spread around the peninsula greatly. However, he was punished by the Tokugawa Shogunate in 1612. His son was also transferred to another place in 1614. After that, Shigemasa Matsukura was appointed to the lord of the Shimabara Domain by the Tokugawa Shogunate in 1616. He first lived in Hinoe Castle, where the Arima Clan lived, but soon decided to build a new castle as his home base, known as Shimabara Castle and completed in 1624.

The location of the castle

The replica of the statue of Harunobu Arima, exhibited by Arima Christian Heritage Museum, the original statue is owned by Daiunji Temple

The Shimabara Domain was a relatively a small domain which earned 43,000 koku of rice. However, the castle was said to be worth that of a domain with 100,000 koku of rice. That meant the people in the Shimabara Domain suffered high taxes and worked hard to build the castle. The castle had three enclosures in a line from the south to the north. The Main and Second Enclosures were in the Inner Moat and both were connected by only the roofed Passage Bridge called Roka-bashi. If enemies from the outside wanted to attack the Main Enclosure, they had to first enter the entrance of the Second Enclosure.

Part of Illustration of Shimabara Castle and environs with my comments, owned by Kumamoto Prefectural Library, exhibited by Shimabara Castle
The ruins of the roofed Passage Bridge

High Stone Walls and Five leveled Main Tower

All the enclosures were also surrounded by zigzagging high stone walls allowing the defenders to eliminate blind spots and make a flank attack. In particular, the Main Enclosure had the Main Tower and eleven turrets. The Main Tower had five levels and was built in a typical method called Multi-storied type. Other Main Towers in other castles usually had decorations such as gables and bell-shaped windows. The Main Tower of Shimabara Castle simply had square floors diminishing towards the top with minimal roofing. This method made building the tower more efficient and also easy to protect.

The zigzagging high stone walls
The restored Multi-storied type Main Tower

Shimabara Rebellion occurs due to Matsukura Clan’s oppression

Shigemasa oppressed the people in his territory with heavy taxes to have more income. After the Tokugawa Shogunate banned people from being Christians, he tortured them if they didn’t convert. His way seemed to be loyal to the shogunate. After he died in 1630, his son, Katsuie rapidly followed in his father’s footsteps. People, including the Christians in Shimabara Peninsula, were angry and started the Shimabara Rebellion in 1637. They first attacked Shimabara Castle. They were professionally trained by the masterless warriors who were former retainers of the Arima Clan. Katsuie was not in the castle but in Edo, however, his retainers repelled the uprising army. The castle ironically proved its strength by fighting against the citizens.

The figures showing Matsukura Clan’s oppression, exhibited by Arima Christian Heritage Museum
Otemon Battle in Shimabara Uprising, exhibited by Shimabara Castle

The uprising people were defeated after they were besieged in Hara Castle for three months. The shogunate banned the Matsukura Clan from ruling over the Shimabara Domain. Katsuie Matsukura was executed due to his misgovernment. After that, several clans governed the domain and Shimabara Castle by the end of the Edo Period. In 1792, when the Matsudaira Clan governed, a great natural disaster known as Shimabara Taihen happened. An earthquake and eruption from Mt. Unzen caused the collapse of Mt. Mayuyama in front of it. The debris flowing from the mountain killed a lot of people and the castle was also partly destroyed by the earthquake.

Part of the folding screens of Shimabara Rebellion, owned by Asakura City Akizuki Museum, from the exhibition of Arima Christian Heritage Museum
The ruins of Hara Castle
A drawing of Shimabara Taihen, exhibited by Shimabara Castle

To be continued in “Shimabara Castle Part2”

91.島原城 その1

島原の乱に宿命づけられた城

立地と歴史

松倉氏が本拠地として築城

島原城は、九州地方の西部分に位置する島原半島にある城です。中世の期間、この半島の周辺地は、基本的には有馬氏が支配していました。16世紀後半の有馬氏の当主であった有馬晴信は、キリシタン大名として知られていました。そのため、キリスト教はこの半島周辺に急速に広まったのです。ところが、彼は1612年に徳川幕府により罰せられてしまいます。彼の息子も1614年に他の地に移されました。その後、松倉重政が1616年に徳川幕府により島原藩主として宛がわれました。彼は最初は有馬氏が居城としていた日野江城に住んでいましたが、すぐに自身の本拠地として新しい城を築くことを決めました。これが島原城で、1624年に完成しました。

城の位置

有馬晴信像複製、福井県坂井市台雲寺蔵、有馬キリシタン遺産記念館にて展示

島原藩は比較的小規模の藩であり、4万3千石の石高を有していました。ところが、この城は10万石の規模の藩の城に値すると言われていました。このことは、島原藩の領民が高い年貢に苦しみ、城の建設にも多くの労役に駆り出されていたことを意味します。この城には3つの曲輪があり、南から北に向かって一列に並んでいました。本丸と二の丸は内堀に囲まれており、廊下橋によってのみつながっていました。城の外から敵が本丸を攻めようとしても、まず二の丸の入口を攻撃する必要があったのです。

「島原城廻之絵図」部分に加筆、熊本県立図書館蔵、島原城天守閣の展示より
廊下橋跡

高石垣と5層の天守

また、全ての曲輪は屏風折れの高石垣に囲まれており、守備兵から見て死角をなくし、敵に対して側面攻撃を可能としていました。特に本丸には、天守と11もの櫓がありました。天守は5層で、典型的な層塔型に作られていました。他の城にある天守は通常、破風や火灯窓などの装飾がありました。島原城の天守は単純に四角いフロアが、上階に向かって逓減して積まれており、屋根も最小限のものでした。この方式により、天守の建設がより効率的になり、防衛にも適していました。

本丸の屏風折れの高石垣
復元された層塔型の天守

松倉氏の圧政により島原の乱が勃発

重政は、領民に圧政を加え、より多くの収入を得るために重税を課しました。徳川幕府がキリスト教を禁じた後は、改宗しないキリシタンを拷問しました。これは、幕府に忠誠を誓う彼なりのやり方だったようです。重政が亡くなった後、彼の息子、勝家は父親のやり方を踏襲し、更にエスカレートしました。クリスチャンを含む島原半島の人々は憤激し、1637年に島原の乱を起こしました。彼らはまず島原城を攻撃しました。反乱軍は、以前有馬氏に仕えていた浪人たちによって相当高いレベルまで訓練されていました。勝家はそのとき、城ではなく江戸に滞在していました。しかし、彼の部下たちが反乱軍を撃退しました。島原城は皮肉にも、住民たちと戦うことでその強さを証明したのです。

松倉氏の圧政の様子を再現した展示、有馬キリシタン遺産記念館
「島原の乱大手門の戦い」、島原城天守閣にて展示

反乱軍の人たちは、原城に3ヶ月籠城した後鎮圧されました。幕府は松倉氏に対して、島原藩の藩主から改易処分を言い渡しました。松倉勝家は、失政のかどで処刑されました。その後、いくつかの大名家が島原藩と島原城を江戸時代末まで統治しました。1792年、松平氏の施政下において、島原大変と呼ばれる大規模な天災が発生しました。雲仙岳で発生した噴火と地震が、その手前にある眉山の崩壊を引き起こしたのです。山からの土石流により、多くの人々が亡くなりました。島原城もこの災害により一部が破壊されました。

島原陣図屏風部分、秋月郷土館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より
原城跡
島原大変を記録した絵図、島原城天守閣にて展示

「島原城その2」に続きます。