155.赤木城 その3

この城の真の価値とは何でしょうか?

特徴、見どころ

細長く、段状になっている西峰

西側の峰もチェックしてみましょう。細長い峰上に、4段になった曲輪群があり、これらも石垣に囲まれています(上方にある西郭1と西郭2のものが目立っています)。この場所には倉庫などの建物がありました。ここには東峰のような複雑なルートは設定されていませんが、峰の両側は人工的に垂直に削られていて、敵が簡単に攻められないようになっていました。本丸に向かって階段状になっている石垣を見上げてみると、なかなかの壮観です。

城周辺の航空写真

本丸から見た西峰
西峰から本丸を見上げる
西郭1の石垣
西郭2にある礎石(建物跡)
段状に築かれた石垣

西峰の端からは、東峰と西峰の間にある谷の方に降りていくことができます。その場所は南郭群となります。そこではかまど跡などが見つかっており、生活の場であったと考えられています。この場所は明らかに交通の便がよい位置にあることも理由の一つです。

西峰の端部分
上方から見た南郭群(中央は南郭2)
南郭群(手前が南郭3)

その後

赤木城が廃城となった後、多くの石垣は崩れていきました。その理由は、最後の城主によりこの城を以降使わないことを示すため意図的に破壊されたことと、その後長い期間に自然に崩れたことが挙げられます。また、城跡は草木により覆われていきました。しかし、1989年に城跡が国の史跡に指定されてからは、熊野市は主に石垣を積み直したり補修することにより、城跡の調査復元を行い、2004年に完了しました。そのやり方は、極力オリジナルの石を使いながらも、それが不可能な部分はオリジナルに近い外観の新しい石で補いました。但し、その部分は目印を付け、オリジナルでないとわかるようにしてあります(オリジナルの石の上に鉄板を入れ、補った石の裏に補修年を記入しています)。

復元前の東郭、現地説明板より
復元後の東郭2の石垣

最近この城跡は、気象条件によっては雲の上に天空の城のように見えるということで、有名になってきています。

天空の城のイメージ、現地説明板より

私の感想

10箇所を超えるとも言われる藤堂高虎が築いた素晴らしい城のうち、赤木城は最初の時期のものです。彼がその当時いた場所は、重武装した敵になるかもしれない者たちに囲まれていました。彼はこの城を築いているとき、もし鉄砲により攻撃されたとしても、どうやったら彼と兵士たちを守ることができるか一生懸命考えたのではないでしょうか。この城の縄張りは、城の中心部が直接鉄砲により攻撃されないよう配慮されているように見えます。この城の最も重要な価値の一つは、高虎が元からあった地形などの場所の性質と、石垣作りなどの最新の技術を組み合わせたところにあると思います。

本丸虎口

ここに行くには

車で行く場合:熊野尾鷲道路の熊野大泊ICから約40分かかります。城の東峰下にある駐車場に停めることができます。
公共交通機関を使う場合は、JR紀勢本線の熊野市駅か新宮駅からレンタカーを借りた方がよいと思います。駅からのバスが少ないか、ない状況だからです。
東京からどちらかの駅まで:東海道新幹線に乗って、名古屋駅で特急南紀号に乗り換えてください。

駐車場
駐車場から見た城跡

リンク、参考情報

赤木城、熊野市
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版
・「日本の城改訂版第150号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「赤木城その1」に戻ります。
「赤木城その2」に戻ります。

154.Tamaru Castle Part3

Tamaru Castle shows Nobukatsu’s early way of life

Features

Going to Second Enclosure

The Second Enclosure, the south of the Main Enclosure, also has both stone walls and earthen walls. The earthen walls have the alternating entrance which is very old and thought to be used as the back gate

The map around the castle

The exit of the Main Enclosure to the Second Enclosure
Going to the Second Enclosure
The Main Enclosure on the right, the Second Enclosure on the left, which is partially made of soil.
The inside of the Second Enclosure
The stone walls surrounding the Second Enclosure
The Back Gate Rins at the Second Enclosure, which are surrounded by earthen walls

In addition, you can see the private rooms for the lord, called Okushoin, which had been located in the Third Enclosure, and restored near the town hall.

Later History

After the Meiji Restoration, Tamaru Caste was abandoned and all the buildings of the castle were sold or demolished. The ruins have been public owned since 1928 and designated as a Prefectural Historic Site of Mie since 1953. Tamaki Town is researching the ruins to be designated as a National Historic Site in the future.

Shiroyama-Inari Shrine in the Northern Enclosure

My Impression

Before Nobukatsu was fired by Hideyoshi, he owned Owari Province which was originally the Oda Clan’s home base as the lord of the clan. Historians say his rejection to leave the province was the cause for his loss. However, I speculate Hideyoshi would have taken the province away from Nobukatsu no matter what he said like Hideyoshi had done against the Hojo Clan in Odawara Castle. Hideyoshi wanted to provide more territories to his relatives.

The present Odawara Castle

After that, Nobukatsu became a monk, changing his way of life. I think he probably stopped being a warrior. In his last territory, Obata, he was not allowed to build a castle for the small territory, contrasted by the large Rakusanen Garden. Tamaru Castle and the garden shows the transition of Nobukatsu’s way of life symbolically.

The Rakusanen Garden
The stone walls of Main Enclosure seen from the Second Enclosure in Tamaru Castle
The grave of Nobukatsu Oda in Kanra Town, Gunma Prefecture

How to get There

If you want to visit the castle ruins by car, it is about 10 minutes away from Tamaki IC on the Ise Expressway. You can use the parking lot of Tamaki Town Hall.
By public transportation, it takes about 10 minutes on foot from JR Tamaru Station.
To get to Tamaru Station from Tokyo: Take the Tokaido Shinkansen super express, transfer to the Kansai Line at Nagoya Station and transfer to the Kisei Line at Kameyama Station.

Tamaki Town Hall

That’s all. Thank you.
Back to “Tamaru Castle Part1”
Back to “Tamaru Castle Part2”

154.田丸城 その3

田丸城は信雄の前半生を象徴

特徴、見どころ

二の丸に向かう

二の丸は、本丸の南側にあり、ここも石垣と土塁両方に囲まれています。土塁の部分に食い違いの入口があり、古い時代から搦手門として使われていたようです。

城周辺の地図

本丸の二ノ丸への出口
二の丸に向かいます
右側が本丸、左側が二の丸、二の丸は一部土塁でできています
二の丸の内部
二の丸を囲む石垣
二の丸にある搦手門、こちらは土塁に囲まれています

他にも、奥書院と呼ばれる城主(久野氏)の居所となった御殿が、もとは三の丸にあったのですが、現在になって町役場の近くに復元されています。

その後

明治維新後、田丸城は廃城となり、城の全ての建物は売却されるか撤去されました。城跡は1928年から公有化され、1953年からは三重県の史跡に指定されています。玉城町は、将来国の史跡に指定されるよう、城跡の調査を行っているところです。

北の丸内にある城山稲荷神社

私の感想

信雄が秀吉に改易される前、彼は織田氏の当主として、織田氏がもともと本拠としていた尾張国を領有していました。歴史家は、彼が尾張国から転封となることを断ったがために全てを失ったのだと言っています。しかし私は、秀吉は信雄が何と言おうがその領地を取り上げるつもりであっただろうと推察します。秀吉が、小田原城の北条氏に対して行ったことと同じということです。秀吉は、彼の親族・部下たちにもっと多くの領地を与えたかったのです。

現在の小田原城

その後信雄は生き方を変え、僧となりました。恐らく彼の中では武士であることを止めたのではないでしょうか。彼の最後の領地である小幡では、領地の大きさの関係から城を築くことは許されませんでした(よって彼の居館は陣屋と呼ばれました)。彼が築いた広大な庭園、楽山園とは対照的です。田丸城と楽山園は、信雄の生き方の変遷をとてもよく表していると思います。

楽山園
田丸城跡の二の丸から見た本丸の石垣
群馬県甘楽町にある織田信雄の墓所

ここに行くには

車で行く場合:伊勢自動車道の玉城ICから約10分のところにあります。玉城町役場の駐車場を使うことができます。
公共交通機関を使う場合は、JR田丸駅から歩いて約10分かかります。
東京から田丸駅まで:東海道新幹線に乗って、名古屋駅で関西本線に乗り換え、亀山駅で紀勢本線に乗り換えてください。

玉城町役場

リンク、参考情報

田丸城跡 見どころ、玉城町
・「英傑の日本史 激闘織田軍団編 織田信雄/井沢元彦著」角川学芸出版
・「織田信雄 狂気の父を敬え/鈴木輝一郎著」人物文庫
・「よみがえる日本の城16」学研
・「日本の城改訂版第26、30号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「田丸城その1」に戻ります。
「田丸城その2」に戻ります。