116.沼田城 その1

沼田城があった地域は、地理の教科書的にも、典型的な河岸段丘の地形として知られています。沼田市街地がある台地は、北は薄根川、西は利根川、南は片品川が作った谷に囲まれ、東側に開けています。城と城下町はその台地上にありました。

立地と歴史

沼田城と天空の城下町の始まり

沼田城があった地域は、地理の教科書的にも、典型的な河岸段丘の地形として知られています。沼田市街地がある台地は、北は薄根川、西は利根川、南は片品川が作った谷に囲まれ、東側に開けています。城と城下町(現在の市街地)はその台地上にありましたが、地名の元となった「渭田郷(ぬまたごう)」は西側の利根川沿いにありました。その周辺に「荘田沼」というのがあって、それが大元なのかもしれません。室町時代には、その地名を名字とした地元領主の沼田氏が、その沼の近くの荘田城を本拠地にしていたと考えられています。やがて戦国時代にさしかかり、戦乱の世の中になってくると、沼田氏は、小沢城(1405年)、幕岩城(1519年)と、段丘上に拠点を移していきました。そして1532年(天文元年)に、当時の当主・沼田顕泰が、現在の沼田城の地に、倉内城を築いたと伝わっています。つまり、沼田氏の移転とともに「沼田」という地名の範囲が広がったようなのです。顕泰は、城下町も台地上に作りました。(「材木町」「本町」「鍛冶町」がこのとき形成されたいう記録あり)当時、城は山上、城下町は山麓というパターンが多かったので、珍しかったかもしれません。しかし、台地の端で水が不足していたため、15キロメートル以上先の台地の東側から白沢(しらさわ)用水(市街地では城堀川、じょうぼりがわ)が引かれました。これが沼田城と「天空の城下町」の始まりです。

河岸段丘のまち、天空の城下町・沼田
荘田城跡
小沢城跡
幕岩城跡
沼田城跡
沼田市街地を流れる用水。城堀川

次に関東地方という視点で見てみると、沼田は北関東において、南北と東西の街道が交わる地点でした。有力な戦国大名が台頭してくると、交通の要衝にあり、要害である沼田城は、彼らにとって是非とも手に入れたい拠点になったのです。やがて、沼田氏一族内で、関東管領・上杉氏につくか、北条氏につくかを巡って内紛が起こりました。16世紀中頃、上杉氏を関東から追い出した北条氏は、内紛に乗じて沼田城を乗っ取りました。(当主の沼田顕泰は、上杉氏とともに越後に逃れたと考えられています。)そして、一族の者を「沼田康元」として沼田城主としました。康元は、北条綱成次男・孫四郎のこととされています(下記補足1)。

(補足1)
康元ハ氏康ノ舎弟玄庵ト申人也、此山城ハ泰拠也、安越ハ綱重(綱成)事也
(年次不詳 北条康元書状写 追而書、沼田市史より)

上杉謙信と真田昌幸の登場

沼田を巡る状況は、1560年(永禄3年)に大きく変わります。越後の長尾景虎、つまり上杉謙信が、関東管領を中心とした秩序回復を掲げ「越山」と呼ばれる関東地方侵攻を開始したのです。謙信は生涯で17回も越山を行いましたが、もっとも大規模でインパクトがあったのが、この年だったのです(2回目)。国境の三国峠を越え、9月に沼田城を確保、さらに厩橋城(前橋城)を関東経営の拠点にします。その後、謙信越山時には、関東の出入口として、毎回往復していて、謙信の関東不在時にも、厩橋城などからの連絡ルートとして機能しました。そのため、城主として、謙信の信頼する・河田長親が置かれました。厩橋城が一時、北条方のものになったとき謙信は、沼田を失えば「天下の嘲り」であると言っています。

沼田顕泰は「越山」とともに「沼田衆」の筆頭として復活したと考えられますが、沼田城主にはなれませんでした。地元領主の城ではなくなっていたのです。1561年(永禄4年)伊香保温泉に湯治に行った謙信が、そのとき恐らく老齢で「万喜斎(ばんきさい)」と名乗っていた顕泰に、酒肴を受け取った礼状を送っています(下記補足2)。
これが彼に関する最後の記録です。

(補足2)
就湯治為音問檜肴給之候、賞翫無他事候、養性相当候間、近日可出湯間、恐々謹言
 四月十六日 政虎
沼田入道殿
(上杉政虎書状写 東大日本史学研究室)

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、謙信が亡くなると(1578年)跡継ぎを巡る内乱が起こり(御館の乱)、その最中に北条が再び沼田城を手にします。そのとき現れたのが、武田勝頼の家臣・真田昌幸でした。謙信の後継となった景勝が、武田と同盟し、その代償で東上野(沼田含む)を武田領と認めたのです。1579年、昌幸は城主だった藤田信吉を調略し、沼田城を占拠しました(下記補足3)。1581年には、旧領回復を狙って攻めてきた沼田顕泰の遺児・平八郎を、謀略で返り討ちにしています。

(補足3)
沼田出勢のみぎり、最前に当家に属され候の条、倉内城本意、誠に忠節比類なく候・・・
(天正8年12月9日 藤田信吉宛武田勝頼所領宛行状)

真田昌幸像、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

そして、主君の武田氏が滅亡し、滅亡させた織田信長までが本能寺の変で討たれると、独立大名を志向して動きました。その核となったのが本拠地の上田城と、沼田城でした。昌幸は、北条〜徳川〜上杉と、有利な条件を求めて、主君を何度も変えています。上杉へ鞍替えしたのは、徳川が北条に、沼田を含む上野国の領有権を認めたからでした。そのために、1585年には、徳川軍から上田城を攻められましたが、撃退に成功しました(第一次上田合戦)。それと並行して、北条軍から沼田城を攻められますが、昌幸の叔父・矢沢頼綱が防ぎました。

その後、豊臣秀吉に臣従し、一旦は沼田城を北条氏に引き渡しますが、名胡桃城事件をきっかけとした小田原合戦(1590年)で北条氏が滅び、また真田の下に戻ってきました。

上田城跡

真田氏による沼田の発展

小田原合戦後、関東地方は徳川家康の領地となりました。沼田城には、昌幸の長男・信之が入り、家康の配下と言う形になりました。併せて、昌幸が本拠としていた上田に対しても、その支藩というような位置付けでした。この2つに区分された領地が、沼田藩・上田藩の基になります。沼田については、信之以後、5代91年の真田氏の支配が続きます。また、正之は、家康の重臣、本多忠勝の娘・小松姫を妻としていました(家康の養女であっととも言われています)。このことが、関ヶ原の戦いのときに、信之が東軍、昌幸(+信繁)が西軍に分かれたときに、混乱なく対応できたことにつながります。なお、そのとき昌幸が沼田城を乗っ取ろうとしたが、城を預かった小松姫が決して入城させなかった逸話がありますが、実際には小松姫は当時大坂にいたようです。関ヶ原後は、信之が上田藩も引き継ぎました。

真田信之肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

信之は、沼田に入ってから、城の整備を進めました。城は当初、台地の隅の「捨曲輪」「古城」と呼ばれた場所にありましたが、拡張されていて、1586年(天正14年)には二の丸・三の丸が整備されたと伝わっています。信之時代の1596年(慶長元年)には天守の普請が始まり、翌年に完成しました(「月夜野町後閑区有文書」、時期には異説あり)。この天守の姿は、後に沼田藩が幕府に提出した絵図(「上野国沼田城絵図」)に描かれています。四階に見えますが、下に屋根があるので、五重の天守だったことが確実視されています。関東地方には、他には江戸城にしか五重の天守はありませんでした。真田氏はそれが許されるような存在だったのです。

「上野国沼田城図」部分、出展:国立公文書館
上図本丸部分の拡大

藩政としては、信之の時代は、戦乱や飢饉で荒廃していた領内を復興することを優先しました。例えば、逃散した農民が戻ってきた場合に、未納年貢を免除したり、借金を肩代わりしています(下記補足4)

(補足4)政所村(月夜野町)の百姓が欠落し、あるいは身売りしたため、田地がことごとく荒れてしまったので、借金を返済して身売り百姓を召し返すように(慶長19年7月 出浦対馬守・大熊助右衛門に対する信之指示、訳は「沼田市史」より)

信之は大坂の陣後の1616年(元和2年)、上田に移り(1622年には松代に転封)、沼田藩は長男の信吉に任せました(沼田藩2代目、~1635年・寛永11年)。信吉の時代に、沼田の城下町・用水・新田・街道・産業の開発が本格化します。例えば、城下町では坊田新町を開き(1616年、元和2年)、人口増に伴い再び水不足となったので川場用水を開削したり、新田開発者には一定期間年貢を免除したりしました。当時、城下に時刻を知らせてた時の鐘が残っています。

天桂寺にある信吉墓
信吉時代の時の鐘(城鐘)、沼田市ホームページより引用

信吉の子・熊之助(沼田藩3代目、~1638年・寛永15年)は、幼少で亡くなってしまったので、信之の次男である信政(沼田藩4代目、~1656年・明暦2年)が跡を継ぎました。信政は後に「開発狂」と称されるほど、領内の開発を促進しました。この時代に開発された代表的な用水や町が「信政の七用水」「真田の八宿」と呼ばれています。沼田藩の公式の石高(表高)は3万石でしたが、信政の時代に内輪の検地をおこなったところ(内高)、4万2千石に増加していました。

真田信政肖像画、真田宝物館蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

沼田藩真田氏の改易

1656年(明暦2年)、信之の隠居に伴い、信政は松代に移っていきました(松代藩2代目)。そして、沼田藩を継いだのが信吉の次男・信利でした(沼田藩5代目、~1681年・天和元年)。その後、松代の信政が亡くなると(1658年・万治元年)、真田本家の跡継ぎをめぐって、信利と、信政の子・右衛門(幸道)との間で争いとなりました。幕府の裁定にまで持ち込まれ、松代藩は右衛門、沼田藩は信利と決定しました。そして間もなく信之も亡くなり、両藩は完全に独立した藩同士になりました。

信利の治世にはこれまで、よい評判はありませんでした。松代藩への対抗心をあらわにし、石高を松代より多い14万石と称し、豪華な藩邸を建て、贅沢な暮らしをしたというものです。また、費用を捻出するために、年貢を重くし、あらゆるものから税金を取り立てたとのことです。そしてついに、義民、杉木茂左衛門の命をかけた訴えが元で、改易になったというストーリーが知られています。しかし、残念ながら茂左衛門の存在は当時の史料では確認されておらず、知られているストーリーも明治時代に広まったのです。それでは、信利の改易の実態はどうだったのでしょうか。

義人杉木茂左衛門の碑

沼田藩は、信利にとって厳しい状況でした。沼田藩は山間地であるため収穫が不安定で、以前は松代藩の援助を受けていたのです。また、かつて沼田の地を確保するため、地元領主を優遇していて、彼らは高禄の家臣になり、その領地には藩主の支配が及んでいませんでした。その合計石高は藩の表高を越えるほどでした。開発を急いでいたのは、こういう事情もあったのです。

信利はこの状況に対応するため、前代にも増して用水、新田の開発に力を注ぎました。件数では歴代最多です。また、領民の心の拠り所となりうる寺社も多く創建しました。多すぎる地元出身の高禄家臣に対しては、リストラを敢行し、支出を減らしました。そして、開発した田畑を確かめるため、藩で初めて徹底的な検地を行いました。地元領主の力が強かったときにはできなかったことです。

しかし、この検地の結果は、開発が進んだとはいえ、総石高が14万4千石という驚くべきものでした。実は単位あたりの田畑収穫高を実態より過剰に見積っていたのです。よって、農民は重税に苦しむことになりました。また、1680年(延宝8年)には大雨と洪水の被害が発生し更に困窮しました。そして、この大雨により江戸の両国橋まで破損したことが(下記補足5)、信利の命取りにつながるのです(両国橋用材請負失敗)。

(補足5)昨夜大雨風やまず、昼より黄蝶数知らず群がり飛んで、夜に及んで散ぜず。また南風激しく、城中諸門の瓦を落とし壁を落とす。まして武家、商屋傾覆すること数知らず。地が震え海が鳴ること甚し。芝浦のあたりより高潮押し上げ、深川永代、両国辺り水涯の邸宅、民屋ことごとく破損し、溺死の者多し(徳川実紀 延宝8年閏8月6日条)

「両国橋大川ばた」、歌川広重作、出展:国立国会図書館

この両国橋再建の幕府入札で、江戸の材木商(大和屋久右衛門)が格安で落札しました(相場1万5千~2万両のところ、9500両)。その商人は、沼田の近場の山から簡単に調達できると考え、沼田藩に話を持ち掛けました。信利は安易にその話に乗ってしまったのです。財政の足しになると思ったのでしょうか。用材は近場どころか山奥でも調達できず、納期の翌年10月に間に合いませんでした。その調達のために、領民が大量動員され(延べ約17万人)、更に困窮しました。その結果、信利は1681年、天和元年11月、幕府から改易を言い渡されたのです。

幕府の公式記録(徳川実紀)によると、信利改易の理由は以下の通りです(下記補足6)。
・両国橋の用材の遅延
・日ごろの身の行いが正しくないこと
・家人・領民を苦役したこと
2、3番目は、処分の場合の常套句だそうですが、信利の場合は、リストラされた家臣や、酷使された農民たちからの影響があったかもしれません。当時の将軍は徳川綱吉で、将軍独裁の風がまだ残っていて、その治世で40人以上が改易・減封になっています(赤穂事件などもその一つ)。信利は、改革を急ぎすぎて失敗し、幕府にその隙を突かれることになったのかもしれません。沼田は幕府領となり、そのとき関東で唯一だった五重天守を含め、沼田城は、翌年1月、わずか10日間で破壊され、埋められてしまいました。

(補足6)上野国沼田城主・真田伊賀守信利の所領三万石没入せられ、出羽山形に配流し、奥平小次郎昌章に召し預けらる。これは、両国橋構架を助役し、おのが封地より橋材を採りけるが、ことのほか遅緩せしのみならず、日頃身の行い正しからず、家人、領民を苦使する聞えあるをもてなり(徳川実紀 天和元年11月22日条)

徳川綱吉肖像画、土佐光起筆、徳川美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
沼田城天守、街なかのディスプレイより

その後

沼田地域は、幕府代官の努力で復興に向かい、再び沼田藩として、本多氏、黒田氏、土岐氏に受け継がれました。ただ、城としては小規模に再興されただけでした。現在は、本丸周辺が沼田公園として整備されています。

沼田公園

「沼田城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

35.金沢城 その1

金沢城は「加賀百万石、前田利家の城」とよく言われます。しかし実際には、一言では言い切れないものがあります。例えば、百万石というのは、加賀・能登・越中3国にあった加賀藩の領地の石高のことです。その百万石や金沢城も、利家一代で築いたものでもないのです。城主だった前田氏が代々引き継いて完成させたのです。

立地と歴史

Introduction

金沢城は「加賀百万石、前田利家の城」とよく言われます。しかし実際には、一言では言い切れないものがあります。例えば、百万石というのは、加賀・能登・越中3国にあった加賀藩の領地の石高のことです。その百万石や金沢城も、利家一代で築いたものでもないのです。城主だった前田氏が代々引き継いて完成させたのです。あと、金沢城には、兼六園と一緒に、華やかなイメージがありますが、城の歴史は意外と苦難の道を辿っていて、兼六園もそれに関わっています。それに加えて、金沢城の前身は、加賀一向一揆の一大拠点だったのです。このような金沢城の歴史をご説明します。

現存する石川門

「尾山御坊」の時代

一向宗は仏教の宗派の一つで、戦国時代に国中(特に中部地方)に広まりました。「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽に行けると称したため、多くの人たちが信仰しました。15世紀後半に第8代宗主・蓮如が精力的に活動し、多くの地方組織(「講」など)を作り、宗派の強力な基盤となっていました。この時代は中央政府(幕府・将軍家など)の力が衰え、国中のほとんどの人たちは自衛する必要がありました。領主層や武士だけでなく、農民・商人・僧までもが武装していたのです。その中でも、一向宗の武力は強く、戦国大名が援軍を要請するほどでした。一向宗がなにかのために戦ったとき、その行為は「一向一揆」と呼ばれ、戦国大名並みの勢力になりました。

蓮如影像 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

加賀国は、一向宗の中でも特に強力な組織化が進み「加賀一向一揆」と呼ばれました。当初は守護の富樫氏と協調していましたが、やがて税の賦課をめぐって対立するようになり、ついにはこれを倒しました(1488年(長享2年)の長享の一揆)。一揆軍の中には、富樫氏から領地や権利を奪いたい、地元領主たちもいたのです。以降約90年間、加賀国は一揆勢が自分たちで治める「百姓の持ちたる国」になりました。その本拠地として築かれたのが、後の金沢城になる「尾山御坊」(または「金沢御堂」)だったのです(1546年、天文15年)。

名前は尾山御坊時代に遡るという「極楽橋」

尾山御坊は、金沢平野に突き出した小立野(こだつの)台地の先端に築かれました。その台地の両側には、犀川・浅野川が流れていました。当時の一向宗(浄土真宗)の本山であった石山本願寺も、大坂の上町(うえまち)台地の先端に築かれていて、実態としては城郭そのものでした。ここは、1570年(元亀元年)から11年間にわたって、織田信長との石山合戦の舞台となりました。この地には、後に豊臣秀吉の大坂城が築かれます。尾山御坊も、城のような構えをしていたと考えられています。

Marker
金沢城
Leaflet|国土地理院
金沢城周辺の起伏地図

石山本願寺にあった大坂御堂の模型、大阪歴史博物館にて展示

加賀国は、本願寺宗主の代理人である御堂衆が中心になり、国の支配を行いました。一揆勢は、越前国の朝倉氏の侵攻を撃退したり、上杉謙信の越中侵攻に対して越中一揆に援軍を派遣したりしました。謙信は、一揆勢の鉄砲に対して十分注意するよう指示を与えています(元亀3年9月13日謙信書状)。1573年(天正元年)に越前の朝倉義景が信長に滅ぼされますが、翌年、越前一向一揆が蜂起し、越前国まで一揆勢が支配するようになります。しかし1575年(天正3年)に信長が出馬し越前を制圧、1580年(天正8年)に石山本願寺と講和すると、加賀一向一揆の討伐にもかかります。天正8年4月、尾山御坊は、信長の部将・柴田勝家の攻撃により陥落しました。勝家は、甥の佐久間盛政にその跡地を、金沢城(尾山城)として任せました。やがて、信長没後、勝家は羽柴秀吉との賤ヶ岳の戦いで敗れ、秀吉に味方した前田利家が城主となったのです。

佐久間盛政の江戸時代の浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

前田利家・利長と初期金沢城

前田利家(加賀前田家初代)は「鑓の又左」の異名を持った信長配下の武将でした(
生年:1539年?〜没年:1599年)。若いころ、信長の近習を成敗して出奔し、桶狭間の戦いで、討ち取った敵の首を持って駆け付け、帰参を願ったというエピソードがあります。信長の天下統一の過程では、北陸方面軍で柴田勝家の与力となり、先ほどの一向一揆の鎮圧では、過酷な司令官としての一面が、城の瓦に刻まれて残っています(下記補足1)。一方、後に加賀国を治めるときには、一揆勢の生き残りの領主層の権利を一定程度認め、統治の安定化を図っています。秀吉の配下になってからは、秀吉の「おさなともたち」という縁もあって重用され、最後は「五大老」の一人にもなりました。その中でも、徳川家康(内大臣)に次ぐ地位(大納言)として、秀吉の遺児・秀頼の守役を任されたとされています(下記補足2)。

(補足1)
此の書物後世に御らん(覧)じられ、御物かた(語)り有るべく候、然れば(天正三年)五月廿四日いき(一揆)おこり、其のまま前田又左衛門(利家)殿、いき千人ばかりいけとり(生捕)させられ候也、御せいはい(成敗)はりつけ、かま(釜)にい(煎)られ、あぶられ候哉、此の如く候て、一ふて(筆)書とと(留)め候、
(小丸山城跡出土の文字丸瓦、通称「呪いの瓦」)

(補足2)
一大納言殿ハおさなともたちより、 りちきを被成御存知候故、 秀頼様御もりに被為付候間、 御取立候て給候へと 、 内府年寄五人居申所にて、 度々被成 御意候事
(太閤様御覚書(秀吉遺言)、浅野家文書)

田利家肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

利家の嫡男・前田利長(加賀前田家2代)は一般には目立ちませんが、加賀藩「百万石」を確立した武将です(生年:1562年〜没年:1614年)。1585年(天正13年)、秀吉が越中攻め(VS佐々成政)を行った後独立した大名として(段階的に)越中国を与えられました。利家が亡くなると、その領土と五大老の地位を引き継ぎ、家康にも対抗しうる立場になりました。しかし、家康とのなんらかの緊張関係が生じ、交渉の結果、利長が引き下がり、母親の芳春院(まつ)を江戸に送ることで決着しました。家康が「加賀征伐」を画策し、利長を屈服させたという話は、同時代の根拠となる資料はないそうです。

前田利長肖像画、魚津歴史民俗博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「百万石」までの道を簡単に整理すると、(石高は概算)
・1581年(天正9年):利家、能登国主に(22万石)
・1583年(天正11年):利家、加賀北部加増、金沢城主に(27万石)
・1595年まで(文禄4年):利長に越中国(53万石):前田家として101万石
利家・利長・利長の弟(利家次男)の利政で3分割した期間もありましたが、前田家としてある程度一体運営されていたようです(軍役や城の預かりなど)。
・1600年(慶長5年):利長、加賀西部加増(18万石):計120万石
関ヶ原の戦いの前後で、利家からの相続、利政改易による引き継ぎによって、利長による約120万石の加賀藩が成立したのです。
・1639年(寛永16年):利常による支藩設立により加賀藩は102万石に(富山藩10万石、大聖寺藩7万石)

初期の金沢城の詳細はわからないのですが、佐久間盛政時代の伝承も残っています(下記補足3)。前田利家は城主になってから城の整備に着手し(以下補足4)、1586年(天正14年)頃には本丸に天守が造営されました(下記補足5)。しかしその天守は1602年(慶長7)年に落雷で焼失してしまいます。その後は、代わりに三階櫓が建てられました。本丸御殿については、その一部(広間)は、尾山御坊時代のもの(下間法橋ノ時ノ御堂「政春古兵談」)をそのまま使っていたそうです。それから在京中の利家が、留守役の利長に、高石垣を築くよう命じています(1592年、文禄元年、「三壺聞書」)。前提として、台地と城を分断する、巨大な百間堀もこのときまでに開削されたと考えられます。また、徳川家康が緊張関係にあったときには、城と城下町を囲む総構も築かれ始めました。

(補足3)
佐久間玄蕃しはらく居城し、かきあけて城の形ニ成、其故御取立、山城に被成、惣構、一・二の曲輪、本丸の廻り堤をほりなさりけり(「三壺聞書」)
(補足4)
当城普請付て、両郡(石川・河北郡)人夫申付候(天正12年2月 呉竹文庫史料)
(補足5)
去年かい置候くろかね、如日起下候へく候、天守をたて候付て入申候(「小宮山家文書」)

本丸東側の高石垣
百間堀跡
総構遺構

初期金沢城の姿を表すとされる絵図が残っています(「加州金沢之城図」)。この頃は、もっとも標高が高い本丸を中心に、堀や石垣、さらには惣構で防御を固めていた城の姿が想像されます。3代目の前田利常(利長の弟)が跡を継いだ後(1605年、慶長10年、利長は富山城に隠居)本丸を拡張して政治を行う場にしようという動きがありましたが、その最中に起こったのが、寛永の大火(1631年、寛永8年)でした。城下町の火災が延焼し、本丸を含む城の中心部が焼失してしまったのです。

「加州金沢之城図」出典:東京大学総合図書館

前田利常・綱紀と前期金沢城

前田利常には、幕府の嫌疑を逃れるため、わざと鼻毛を伸ばして愚鈍を装ったという逸話が残っていますが、実際には、2代将軍・徳川秀忠の娘(珠姫)を妻とし、幕府との関係強化に努めました(生年:1594年〜没年:1658年
藩主期間:1605年〜1639年、藩主後見期間:1645年〜1658年)。4代目の光高が若くして亡くなったため、幼少の5代目・綱紀を後見し、長きに藩政に関わり、その安定化も図りました(改作法など)。

前田利長肖像画、那谷寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

金沢城に関しては、寛永の大火の後、御殿を本丸から二の丸に移しました。本丸では、三階櫓・隅櫓などは再建されましたが、御殿は建てられませんでした。防御機能よりも、居住・政庁としての機能が発揮できる場所に、城の中心部を定めたのです。その前提として、元は武家屋敷だった所を造成することで、二の丸が拡張され、内堀も掘られました。それに伴い、石垣も整備され、この時期を起源とするものの多くを、今でも城内で見ることができます。また、当初は防御のために作られた玉泉院丸を、庭園に作り替えました。

二の丸の内堀と石垣
玉泉院丸の復元庭園

そして、これらの堀や庭園に水を導くために、辰巳用水が開削されました。防火、防衛、そして新田開発のためでもありました。しかし、城は台地の上にあるため、容易に大量の水は得られません。そこで、犀川の上流から取水し、手掘りのトンネルを経由し、10km以上もの用水路を作りました。その水を現・兼六園の霞ヶ池に貯め、台地を削ったところにある白鳥堀に落とし、その自然の水圧で城の内堀に上げていたのです。(逆サイフォンの原理、「伏越(ふせごし)の理)その工事を指揮したのが、小松の町人・板屋兵四郎で、わずか1年で完成させたと言われています。

辰巳用水(兼六坂上)
辰巳用水の引水の仕組み、「水土の礎」ホームページより引用

その後、前田綱紀は、加賀藩の地位や藩政を更に安定させました(生年:1643年〜没年:1724年、藩主期間:1645年〜1723年)。利常が亡くなった後は、幕府の実力者・保科正之(秀忠の弟、綱紀の義父)の後見を受けました。時の将軍・徳川綱吉との関係も良好で、幕府内では御三家に次ぐ待遇を得ることに成功しました。藩内でも直接政事に関与し、組織体制を整え、貧民救済・新田開発の事業も行っています。書物の収集、芸能・工芸の育成を行ったことでも知られています。

前田綱紀肖像画、前田育徳会蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

金沢城では、二の丸御殿の整備を進め、例えば、能舞台を作ったりしました。また、玉泉院丸の庭園も改修し、色紙短冊積石垣がこの時期に築かれたと考えられています。そして、城の東側の百間堀を越えたところにあった蓮池(れんち)にも庭園と屋敷を造営しました。これが兼六園の原型です。

移築された能舞台(中村神社拝殿)
色紙短冊積石垣
蓮池(現・瓢池)

これらの改修により、金沢城の姿は最盛期を迎えたといっていいでしょう。しかしこの姿も、1759年、宝暦9年4月10日に起こった宝暦の大火により、全焼してしまうのです。

全盛期を意識した金沢城模型、五十間長屋内にて展示

後期金沢城と特徴

宝暦の大火後の金沢城は、本丸には櫓等は再建されず、二の丸御殿を中心に復興が進められました。三の丸を守る「河北門」「石川門」、二の丸の正門「橋爪門」が三御門と呼ばれました。そのうち、現存する石川門(重要文化財)は、この大火後の再建です(1788年、天明8年)。他に現存する三十間長屋、鶴丸倉庫(ともに重要文化財)は、幕末の建造です(それぞれ1858年、1848年)。貴重なのは、何度もの大火を生き延び、北の丸・東照宮(1643年、寛永20年創健)が現存していることです(現・尾崎神社)。

現存する三十間長屋
現存する鶴丸倉庫
現存する東照宮(尾崎神社)

このように災害を何度も経験し、前田家によって一貫して維持された金沢城にはいくつか特徴があります。規模が大きく、各時期に造成・修復が重ねられた結果、「石垣の博物館」と言われています。

後期に築かれた土橋門石垣

櫓門などの壁は「なまこ壁」といって、瓦を並べて貼り、その継ぎ目に漆喰を盛り付けて仕上げられています。防火・防水・防御力が強いためとされますが、見た目上の効果もあったと思われます。またその瓦は、屋根も含めて鉛瓦が使われ、軽量で耐寒性があり、美観上も優れていました。櫓や長屋に備えられた出窓は、石落とし付きの防御設備ですが、屋根が優美に作られています(唐破風)。

石川門のなまこ壁
鉛瓦は当然屋根にも使われています(河北門)
三十間長屋の出窓(「出し」)

蓮池の御殿や庭園も大火で被害を受けましたが、11代・前田治脩(はるなが)が復興し、更に夕顔亭、翠滝を作りました。12代・斉広(なりなが)の時代に、松平定信が「兼六園」と命名したと言われています。13代・斉泰(なりやす)のときには、ほぼ現在の姿になっていました。兼六園の「六勝」のうちの「水泉」は、城を潤した辰巳用水によって成り立っています。

翠滝
霞ヶ池
兼六園内の辰巳用水

家臣の武家屋敷は、前田利家の時代には城内の二の丸・三の丸にあったと伝わります(下記補足6)。城の改修に伴い、城外に移転していき、5代・綱紀の時代までに城下町とともに整ったとされています。並行して多くの用水も整備され、現在も武家屋敷と用水の景観が、観光地として残されています。

(補足6)
天正十一年利家御入城の後、荒子衆・府中衆を初め、新参の御侍・出家・町人までも尾張・越前より従ひ来るもの夥し。其頃は二・三の丸に武家・町家打交ざりて居住す。
(「金沢城事蹟秘録」)

長町武家屋敷跡と大野庄用水

家臣の最上位にいたのが、加賀八家(かがはっか)と呼ばれた重臣層です。綱紀の時代に確立し、いすれも1万石以上という、大名並みの俸禄を得ていました。中でも筆頭の本多家の石高は5万石で、官位までもらっていました。その屋敷地(上屋敷)は、兼六園の背後の台地上にあり、城にとっても重要な防御拠点でした。初代の本多政重は、徳川家康の重臣・本多正信の子で、本多正純の弟です。2代・前田利長によって召し抱えられ、藩主の補佐、幕府との折衝に活躍しました。兄の正純は「宇都宮城釣天井事件」で改易となりましたが、政重は正純と確執があり、有力大名の藤堂高虎の取り成しもあって、罪を逃れました。

本多政重肖像画、加賀本多博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後

明治維新後、お城は軍隊の駐屯地となりましたが、1881年(明治14年)にまた大火があり、城の建物は、ほとんどが焼けてしまいました。戦後は、金沢大学が置かれましたが、現在は「金沢城公園」として復元整備が進められています。

旧第六旅団司令部庁舎

Leaflet|国土地理院
金沢大学が設置されていた1970年代の城周辺の航空写真

復元された橋爪門
復元された河北門
復元された五十間長屋

「金沢城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

85.福岡城 その1

福岡城は、江戸時代の間中、黒田氏が治めた筑前国福岡藩の本拠地でした。東西約1km、南北約700mの広さで、全国有数の大規模な城郭でした。これまでこの城は、その存在の割には注目されてきませんでしたが、最近は「天守」の話題で盛り上がっています。

立地と歴史

Introduction

福岡城は、江戸時代の間中、黒田氏が治めた筑前国福岡藩(52万石と言われる)の本拠地でした。東西約1km、南北約700mの広さで、全国有数の大規模な城郭でした。これまでこの城は、その存在の割には注目されてきませんでしたが、最近は「天守」の話題で盛り上がっています。現在まで天守台は残っているものの、天守の建物は築かれなかったとされていました。しかし、天守の存在を示す史料がいくつも発見(または再注目)され、天守「復元」運動も起こっています。その天守台の上に、仮設のライトアップされた天守を演出するイベントも行われています。果たして福岡城に天守はあったのでしょうか?また、この城はどんな歴史を辿り、どんな特徴を持っていたのでしょうか?これから城跡がどうなっていくかも見ていきたいと思います。

福岡城の模型、福岡城むかし探訪館にて展示
現存する天守台
ライトアップされた仮設天守、Wikimediaより
果たして天守はあったのか、上記模型より

福岡城築城まで

福岡城を築いた黒田長政(生年:1568年〜没年:1623年)は、豊臣秀吉の「軍師」と言われる黒田孝高(官兵衛、如水)の嫡男でした。松寿丸と名乗り、人質だった幼少時代に、父が(荒木村重の有岡城で)囚われの身となり、裏切りを疑った織田信長から殺害を命じられました。しかし、秀吉のもう一人の「軍師」竹中半兵衛にかくまわれ、命拾いしたというエピソードがあります。1600年(慶長5年)の天下分け目の関ヶ原合戦で長政は、半兵衛の遺児・重門と同じ場所(岡山)に陣取っています。(そのとき着用した一の谷兜も、半兵衛から受け継いだものと言われています)その関ヶ原では、当日の合戦だけでなく、西軍だった小早川秀秋などの有力部将を寝返らせ、東軍の勝利に大きく貢献しました。その論功行賞が、豊前国中津から筑前国(の大半)への移封(約12万石→当初約31万石)でした。

黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
関ケ原合戦で長政が陣取った岡山

その筑前国は、古代より海外(特に朝鮮・中国)への玄関口になった地でした。城の三の丸となった地には、飛鳥〜平安時代に「鴻臚館(こうろかん)」が設けられ、外国使節の迎賓館、日本からの遣唐使などの宿泊施設として利用されました。中世になり、1274年の元寇(文永の役)のときには、後の城周辺の「赤坂」「鳥飼潟」で激戦がありました。城に隣り合った博多は、中世最大の貿易都市として栄えました。関ヶ原当時は、戦国の乱世によって荒廃した町を、「唐入り」(朝鮮侵攻)の根拠地にしようとした秀吉が復興した直後でした。そのときの領主は小早川秀秋で、博多の北東にあった名島城を本拠地にしていました。

鴻臚館の一部復原建物、鴻臚館跡展示館にて展示
赤坂の戦い、「蒙古襲来絵詞」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

慶長5年12月、長政以下家臣団は武装してお国入りを行いました。勢力が強かった博多の商人・僧たちにその威力を見せつけるためです(筑前御討ち入り)。また、前の領地(豊前)から年貢を収納して筑前に移動したため(次の領主に引き渡すのが当時の慣習)、次の領主・細川忠興ともめ事になり、これがきっかけで両氏はその後136年に渡り、犬猿の仲になります(1736年に幕府の仲介で和解)。長政は、豊前との国境に6つの支城を築き(筑前六端城)、細川氏に対峙することになりました。更に、福岡藩はよく「筑前52万石」(支藩含む)と言われますが、引き継いだ当初の石高は約31万石(小早川氏時代)でした。入国後検地を行った結果として、自ら幕府に届け出た石高だったのです(下記補足1)。実力は、これより下回っていたと言われています。

(補足1)初めから五十万石を得んとして欲し、当時の物成(年貢)十六万五千七百九十七石を三つ三歩の率をもって除(「郡方古実備忘録」)して創り出した机上の計算(「物語福岡藩史」、「福岡城」からの引用)

細川忠興肖像画、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長政は最初、名島城に入城しましたが、手狭だったこともあり(下記補足2)、本拠地として新城を築くことにしました。これが、福岡城です。このときは築城の名手でもあった孝高が健在(1604年没)で、長政が上京などで多忙であったこともあり、共同で築城に当たりました(下記補足3)。城は、博多の町の西隣、那珂川を境界とし「福崎」という丘陵を中心に縄張りが行われました。西側には博多湾の「草ヶ江」と呼ばれた大きな入り江があり、埋め立てるとともに、一部は堀として活用しました(大堀)。長政が上方などから送った、本丸の工事に関する家臣宛の書状がいくつか残っています(下記補足4)。築城は1601年(慶長6年)から約7年間に渡って行われました。完成間際に風水害を受けてしまい、長政は修理の指示を行っています(補足5)。工事期間には、天守についての数少ない記録の一部が見られるのです。

(補足2)名島の城は三方海にて要害よしといへ共、境地かたよりて城下狭き故、久しく平らぎを守るの地にあらず(「新訂黒田家譜」)

(補足3)甲斐守(長政)居城取り替え申し候て、上下隙を得ざる事、御推量あるべく候(慶長6年9月15日付 本願寺坊官下間氏宛 黒田如水書状)

(補足4)
・態(わざ)と申し下し候、仍って天守南の方、つきさしの石垣、急ぎつき申すべく候、拙者事は来月まてハ、此方滞留の事候間、万事普請等油断無く仕るべく候、恐々謹言(慶長6年8月23日付 黒田長政書状)
・一、其地普請之儀、てんしゆノうら石かき、九月中ニ出キ候様ニと、皆々申遣候間、惣右衛門幷年寄共はしめ普請所ニ相詰候か、石場ニ居候而振舞ニあろき申候か又ハ知行所へはいりくつろき申か、毎日よくよく見候而つきおき可申候、油断有間敷候事
(天守の裏の石垣は九月中に完成させるよう、皆に申し付けてある。惣右衛門ならびに年寄りどもは普請の現場につとめているか、石場で忙しく歩き回っているか、あるいは自分の知行所に入って楽をしていないかどうか、毎日丹念に調べて記録しておくように)(慶長6年8月26日付 家臣宛黒田長政書状、林家文書、訳は「甦れ!福岡城幻の天主閣」より)
・尚々、我等下国候はぬ已前に、天守どだい出来候様に精入れ申し付くべく候、権右衛門に申し遣わし候うち、石かきをも申し付くべく候、以上(慶長6年8月26日付 家臣宛黒田長政書状、黒田家文書)
・一、天守を此の月中に柱立て仕るべく候間、其の通り大工・奉行ともへ、かたく申し聞けべく候(年不詳(慶長7年か)2月15日付 黒田一成宛黒田長政書状)

(補足5)城中刷(修理)普請、大方出来の由、しかるべく候、このついでに天守・宗雪丸なとのつくろい申し付くべく由、尤もに候、大風吹き候事もこれあるべく候間、急度つくろい申すべく候、其れに就き、手伝の様子申し越す通り、其の意を成し候(慶長11年7月 黒田長政書状)

黒田孝高肖像画、崇福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「博多往古図」、南が上なので右側の大きな入り江が「草ヶ江」、出展:福岡県立図書館

福岡城の構造

長政は、城とその地の名前を新たに「福岡」と名付けました。黒田氏のゆかりの地の備前国福岡にちなんだものと言われています。城が築かれた地区は、城部分(本丸・二の丸・三の丸)と城下(外郭・総構)に分かれていました。城下は、北は博多湾、東は那珂川(その向こうが博多)、西は大堀と、自然の要害に囲まれていました。城部分は城下の南側にあって、全体を内堀に囲まれていました。まるで堀に浮かぶ島のようになっていました。堀を渡った城への入口は3箇所のみで、正面の上之橋御門、下之橋御門、裏側の追廻御門でした。その出入りは「御門法」により厳しくチェックされていました。内堀は、中堀・佐賀堀を通して、那珂川・博多に接続していました。

「福岡御城下絵図」、出展:福岡県立図書館

門を入った先は、城では最も広く、低地にあった三の丸です。黒田孝高の隠居屋敷があった高屋敷とそれに続く石垣により、東西に二分されていました。東部は、江戸時代を通じて重臣たちの屋敷地となっていました。例えば、一番東端の「東の丸」と呼ばれた区画には、当初栗山備後の屋敷がありました。西部は、当初は中級以下の家臣の屋敷地(代官町)でしたが、1633年頃(寛永10年)頃に2代目藩主・黒田忠之が三の丸御殿を建てました。やがて重臣たちの屋敷や役所(勘定所など)も周りに建てられ、以後政治の中心地になります。近くにある下之橋大手門は、藩士たちの通用門として使われました。

北側から見た福岡城の模型、手前の広い部分が三の丸、福岡城むかし探訪館にて展示

丘陵部分に入ると、二の丸になります。二の丸は、東部・西部・南の丸・水の手に分かれていました。二の丸東部は、三の丸東部から入った場合の入口で、東御門がありました(脇に革櫓、近くに炭櫓)。当初は内部に二の丸御殿があり、藩主の世子の居住用だったと考えられています。やがて世子不在の時期が続き、取り壊されたようです。二の丸西部は、本丸へ通じる接続部分でした。二の丸東部からは扇坂御門、三の丸西部からは松木坂御門(脇に大組櫓・向櫓があり、下之橋大手門に近い)と桐木坂御門(追廻御門に近い)を通りました。内部には目立つ建物はなかったようです。水の手には、籠城用の溜池がありました。南の丸は、城代・城番がいた場所で、そこにあった多聞櫓は、城で唯一そのまま残っている櫓です。

上記模型の丘陵部分、外側がニの丸

本丸は、文字通り城の中心で最も高い所にあります(天守台上端で標高約36m)。北側には本丸御殿がありました。御殿に至るには、本丸表御門と本丸裏御門を通り、普段は裏御門を使っていたそうです。本丸御殿は、初代藩主・黒田長政が建て、そこに住んでいましたが、次の代からは手狭ということで儀礼・儀式の場になりました。御殿の周りには祈念櫓、月見櫓などがありました。南側には武具櫓・鉄砲櫓があって、武具櫓御門から出入りしました。鉄砲櫓には弾薬が、武具櫓には黒田家伝来の武具類などが収められていました。黒田長政は築城時に天守の守りのために30間の長さの櫓を建てると言っていて(下記補足6)これが武具櫓のことと考えられています。本丸の中心が天守台です。

(補足6)三十間に居矢倉立て候、天守之衛にて候(慶長6年9月朔日 家臣宛黒田長政書状、黒田家文書)

上記模型の本丸部分、西側からの視点です

果たして天守はあったのか

これまで、福岡城には天守がなかったと言われた時期がありました。福岡城の一番古い詳細絵図「正保福博惣図」、1646年・正保3年作成)に天守が描かれていないからです。現存する天守台は描かれています。また、福岡藩の公式史料(「黒田家譜」など)や地元の地誌(「筑前国続風土記」など)にも天守のことは記載されていません。これらのことから、天守台は築かれたが、幕府への遠慮により、天守は築かれなかったという見解が主流だったのです。

「正保福博惣図」、堀石垣保存施設にて展示

しかし、築城の部分でも触れた通り、天守の存在を示唆する史料が発見または再注目されています。まずは、福岡藩の隣の小倉藩・「細川家史料」です。藩主の細川忠利が、1620年(元和6年)に伝聞として、黒田長政が福岡城の天守を破却すると書いているのです(下記補足7)。

(補足7)
一.黒築前殿(黒田長政)行儀、二・三日以前二御目見被仕候(中略)、主居城をも、大かたはきやく(破却)被仕候而被参候様二、下々取沙汰申候、いつれに天主なとを、くつされ候事蹟必定之様二親候、定可被聞召存候事
(長政殿は二、三日前に将軍秀忠公に謁見なされた。(中略)居城をおおかた破壊されてから、また戻られるようだと下々は噂している。いずれにしても、天守はお壊しなさえれるに違いないと取り沙汰されている)
(元和6年3月15日細川忠利書状案、訳は「福岡城天守を復原する」より)
尚々(略)又ちく前縁辺今立、何とも取沙汰無御座候、ふく岡の天守、又家迄もくづし申候(中略)如右申付候よし被申上と承候

細川忠利肖像画、矢野吉重筆、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

また、黒田家側の史料にもそのようなものがあります。時期はわかりませんが、天守の欄干が腐ったという報告を受け、長政が調査と修繕を指示した記録があります。1623年(元和9年)に長政が亡くなるときには、遺言として伝来の「一の谷の兜」は天守にあると言っています(下記補足8)

(補足8)
高麗ニて我等着候一ノ谷ノ甲遣候、福岡天守二有之
(元和9年7月27日黒田長政遺言覚、諸家文書)

最近では、家臣(毛利氏)の家の資料から、天守の建設と石垣に関する記述がある書状が発見されました(下記補足9)。

(補足9)
石垣ノ石ハ名嶋ノ石を以、其刻ハ穴太無之、しろうとつきに仕、天守御立被成候故、石垣ヌルク御座候、(以下略)
(1640〜50年頃、毛利甚兵衛宛梶原正兵衛書状)

絵画史料もあります。長州藩の毛利氏の密偵が、1611、12年(慶長16、17年)頃スケッチしたとされる「九州諸城図」には、本丸御殿と思われる建物の左側に、4重に見える天守のような建物が描かれています。また、1668年(寛文8年)に作られた「西国筋海陸絵図」には、5重の天守が描かれています。(但し作成時期が、天守がない「正保福博惣図」より後なので想像図の可能性あり、または以前にあった情報を引き継いだ可能性もあり)

「九州諸城図」、NetIB-Newsより引用
「西国筋海陸絵図」、出展:国立国会図書館

これらを証拠として、天守の存在に肯定的な学者などは、天守は築城時に建てられたが、1620年頃解体されたと推定しています。

天守の存在と解体が正しいとすれば、なぜ長政はせっかく建てた天守を短期間で壊してしまったのでしょうか。そのカギも細川家の記録にあります。長政は、当時幕府から命じられていた大坂城再建に動員されていて、その工事の遅れを挽回するために、福岡城を解体して材料調達すると言ったというのです(下記補足10)。

(補足10)
一、黒筑手廻おくれられ候と、其元にて申候由候、ふくおかの城をくつし、石垣も、天主ものほせられ候由、愛元ニ申候、如何様替たる仁ニ候間、可為其分、乍去、別之儀有間敷候事
(元和6年月日不詳 細川忠興書状、松井家史料)

前述の通り、黒田と細川は対立していたので、細川は長政を冷やかな目で観察していたのです。長政はそのとき、自ら追加の工事負担を幕府に願い出ていたので、「変わった人」だと評しています(下記補足11)。

(補足11)
一、黒筑城を割被申候事、又御普請ニ事之外をく(遅)れられ候が、高石垣七十間分望被申之由、兎角奇特なる儀と存寄外無別候事                       (元和6年3月29日細川忠興書状、細川家史料)

現在の大坂城天守

また、それ以前には、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣の豊臣氏滅亡、同年の一国一城令、1619年(元和5年)には城の無断改修を理由とした福島正則の改易という出来事がありました。正則と同様に、外様の大大名であった長政が、自身の家の存続に過敏に対応したということが考えられます。

福島正則肖像画、東京国立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

こうなってくると、天守の存在は明確になったようですが、事は少々複雑です。天守に連結された櫓があって、それを「小天守」などと呼ぶ場合、一番高層の建物を「大天守」と呼び、一般的にはそれが「天守」とされます。実は福岡城の天守台にも「中天守台」「小天守台」と呼ばれる部分があります。(江戸時代に「小天守台」と記載された記録あり)これまで福岡城で「天守」と言ってきたのは、これらの上に築かれた「中天守」「小天守」のことを指すという説があるのです(服部英雄氏による)。「天守があった」とは「大天守があった」という解釈でしょうから、そういう意味でこの説では「天守はなかった」ことになります。

姫路城の大天守と小天守

その根拠を時間の経過に沿って示すと、まず、先ほどの細川家の記録には、「天守を破却する」という伝聞に対する結果の記述が全くありません。その代わりに、1638年(寛永15年)に天守台周りの櫓を取り除いたという記録があるのです(下記補足12)。これは、1635年(寛永12年)にこの地方を襲った大型台風の被害による可能性があります。

(補足12)
御天守台廻り之御矢倉長屋御除候(三奈木黒田文書、九州大学・桧垣文庫)

そしてその結果が「正保福博惣図」に表されているというのです。「大天守」のあるべき位置には単に「天守台」としか書かれていない一方、「矢倉」が除去された中小天守台他には「矢蔵跡」と記載されています。つまり建物があった所は「跡」とし、なかった所は単に「天守台」としたとの解釈です。そして福岡藩はこれらの存在した建物(中天守・小天守)を幕府向けには「櫓(矢倉・矢蔵)」とし、内輪では「天守」と呼んだのです。

「正保福博惣図」の天守台部分

このような天守台の部分使用は、三原城篠山城などに見ることができます。福岡藩でもこの後、天守台脇に小さな天守櫓を建てたり、大天守台を蔵として使いました。大天守を建てなかったのは、コストと必要性を鑑みたものと考えられます。

篠山城模型の天守台部分、篠山城大書院展示室にて展示

今年(2025年)は、天守台の発掘調査が行われる予定です。大天守の存在についての研究進むよう、大いに期待したいところです。

仮に、大天守の存在が明らかになったとしても「復元」にはまだまだハードルがあります。どのような建物であったか確定することが必要です。福岡城跡は国の史跡なので、建物復元には文化庁の許可が要るのです。その基準は「史実に忠実な再現」を求める大変厳しいものでしたが、最近では「復元的整備」として、一部の不明な部分を多角的に検証して再現することも認められています。福岡城(大)天守の「復元的整備」をめざす人たちは、藩の家格などから、5重天守であったと推定し提案していますが、
実態としてまだ資料不足のようです。実際の建築段階では、一番大事な現存する天守台をどう保護・保存するのかも重要な課題となります。

更に、建物の仕様が決まったとしても、それが地元の人たちに受け入れられることも必要です。福岡商工会議所が市民に実施したアンケートによると、
・「賛成」「どちらかというと賛成」と回答した人が59.1%
・「反対」「どちらかというと反対」と答えた人が14.4%
・「分からない」と答えた人は26.5%
肯定的回答が6割近くになりましたが、そのうちの76%が、「過去に存在したものにできるだけ忠実なもの」を求めています。この辺も大きな課題になりそうです。

余程の大きな発見や基準の変更がない限り、天守「復元」には相当な時間がかかりそうです。

福岡城のその後

福岡城は江戸時代、ずっと黒田氏の福岡藩によって維持されました。その間に起こった大事件といえば「黒田騒動」でしょう。2代藩主・忠之と、重臣の栗山大膳が対立し、大膳が、三の丸の屋敷に武装して立て籠もったのです。大膳の追放という幕府の裁定で収まったのですが、実態としては、藩主の素行に問題があったようです。

黒田忠之肖像画、福岡市美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
栗山利章(大膳)肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

もう一つ城関連の話題として「天守櫓」をご紹介します。天守台の建物が亡くなってしまった後、天守台脇にある区画が「天守曲輪」となり、そこにある小さな櫓が「天守櫓」と呼ばれるようになったのです。その曲輪に入るにはとても狭い門(鉄御門、埋門)を通らなければならず、門(鉄御門)の上には「切腹櫓」と呼ばれた櫓もあったそうです。つまり、その曲輪は、城での最後の戦いの場とされたようなのです。

鉄御門跡
埋御門跡

明治維新後、福岡城は廃城となり、その広大な敷地は主に日本陸軍によって使われました。城の建物は、ほとんどが解体されるか売却されていきました。例えば、本丸にあった武具櫓は、黒田家のお屋敷に移築されましたが、戦争中の空襲で焼けてしまいました。一方、南の丸にあった多門櫓は、もともと倉庫として使われ、兵舎や、学校の寮として引き継がれ、同じ場所で生き延びたのです。

武具櫓の古写真、「国史跡福岡城跡整備基本計画」より引用
現存する南丸多聞櫓

戦後、城跡は舞鶴公園、大濠公園となり、多くの文化施設、スポーツ施設が建てられました。その中では、三の丸にあった平和台球場が有名です。今、その場所で鴻臚館の復元整備を行っています。福岡市は、両公園を統合したセントラルパーク構想を進めていて、そこには、福岡城の史跡整備・復元も含まれています。

舞鶴公園の入口の一つ
大濠公園
平和台球場のレリーフ

「福岡城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。