158.福知山城 その3

福知山城の天守台石垣を見る限り、明智光秀は信長信長の城郭建築の方針に従っていたように思えます。つまり光秀は、忠実な信長への追随者だったのです。

特徴、見どころ

復元天守からの眺め

現在の天守は復元されたとはいっても、実際には近代的なビルであり、歴史博物館と展望台として使われています。天守の中では明智光秀のことや城の歴史を学ぶことができます。最上階からは、城周辺の市街地の景色を眺めることができます。例えば西の方には、住宅地となった元二の丸地区の向こうに、市役所となった三の丸が右側に、公園となっている伯耆丸が左側に見えます。

城周辺の地図

天守の内部
天守からの西方の眺め
市役所となっている三の丸
伯耆丸公園

北の方には、由良川と光秀が築いた川に沿った堤防が見えます。その堤防は「明智藪」と呼ばれていますが、この名前は、光秀が堤防を強固にするために竹を植えたことに由来します。

天守から北方の眺め
明智藪

唯一の現存建物

もう一つの城の見どころは、唯一の現存建物である銅門番所(あかがねもんばんしょ)で、現在は本丸の中にあります。この建物はもともと二の丸の中にあったのですが、二の丸が撤去されてしまったために現在地に移されました。参考に、銅門そのものは、市内の正眼寺(しょうげんじ)に移され山門として使われています。

城周辺の地図

本丸にある銅門番所
銅門があった場所
正眼寺山門、福知山市ホームページより引用

その後

明治維新後、福知山城は廃城となり、天守を含む城のほとんどの建物は撤去されるか移設されました。二の丸については、旧日本陸軍の第20歩兵連隊が駐屯地と演習場の移動の利便のために破壊したと言われています。一方、福知山の人たちは長い間、天守が復元されることを願っていました。その天守の復元は、江戸時代の城絵図が見つかったのをきっかけに1968年に検討が始まりました。一時、予算不足の問題に陥りますが、市民からの寄付もあり1986年に完成しました。最終的には費用の半分以上が寄付により賄われました。

撤去された二の丸は市街地となりました

私の感想

光秀が本能寺の変を起こした理由としてよく言われていたのは、信長と光秀との性格の違いでした。信長は革新的だったのに対して、光秀は伝統を重視していたというのです。しかし、福知山城の天守台石垣を見る限りの話ですが、光秀は信長の城郭建築の方針に従っていたように思えます。つまり、城の建設を急ぐためには仏教のために使われていたものでも何でも使うということです。正直に言わせていただくと。墓石を石垣のために使うということには少々違和感を感じます。当時の人たちにとっては、尚更だったのではないでしょうか。光秀は、忠実な信長への追随者だったと思います。最近提示された推論では、信長が四国征伐を行うにあたり、光秀の立場が危うくなっっていたということです。信長が光秀の意見(長宗我部氏を支持する)を退け、ライバルの秀吉の意見(三好氏を支持し、長宗我部氏を倒す)が採用されたのです。その四国征伐が行われる直前に、本能寺の変が起こったのです。光秀の決断の理由が明らかになるのではないかと期待します。

福知山城天守台石垣の新しい部分(左側)と古い部分(右側)の継ぎ目がわかる箇所
織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここに行くには

車で行く場合:舞鶴若狭自動車道の福知山ICから約3kmのところです。城がある丘の脇に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR福知山駅から歩いて約15分かかります。
東京から福知山駅まで:東海道新幹線に乗って、京都駅で山陰本線に乗り換えてください。

福知山城公園の駐車場

リンク、参考情報

福知山城 明智光秀が築いた城、福知山市
・「明智光秀・秀満:ときハ今あめが下しる五月哉/小和田哲男著」ミネルヴァ書房
・「明智光秀の城郭と合戦/高橋成計著」戒光祥出版
・「よみがえる日本の城19」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「福知山城その1」に戻ります。
「福知山城その2」に戻ります。

14.水戸城 その3

大手門や隅櫓が復元されているのを見てしまうと、どうしてもこの城の天守としての御三階櫓も復元できないものかと思ってしまいます。

特徴、見どころ

本丸にある唯一の現存建物

二の丸の中央の通りに戻ると、更に本丸の方に行くことができます。その本丸の手前では、もっと深い(22m)別の空堀があって、ちょっとびっくりされるかもしれません。この空堀の底は、鉄道の水郡線の敷地になっています。もちろん空堀は城の時代からあったものです。本丸には、城の唯一の現存建物である薬医門があり、佐竹氏が建てたものだと言われています。もしそれが本当なら、佐竹氏の時代には大手門だったのかもしれません。堀を渡る本城橋を渡ってからは、ビジターは指定された範囲から門を見学することになりますので、注意してください。

本丸周辺の地図、赤破線は杉山坂、青破線は柵町口

本丸手前の大空堀
空堀の底は水郡線の線路として使われています
橋を渡って本丸に向かいます
水戸城唯一の現存建物、薬医門

二の丸、三の丸の他の見どころ

二の丸からは元から2つの裏道があり、今でも通ることができます。北側の杉山坂と南側の柵町(さくまち)口です。両方の道にはそれぞれ、杉山門と柵町坂下門という復元された門があります。南側の道を下って水戸駅の方に戻っていくと、右側には巨大な台地が目に入ってきます。現在では崩落を防ぐためコンクリートパネルで覆われています。過去には左側にこれも大きな千波湖が見えていたはずですが、現在では干拓され、偕楽園周辺に元あったうちの西側部分のみに縮小しています。

復元された杉山門
復元さらた柵町坂下門
巨大な台地の南側

もしお時間があるようでしたら、三の丸の外側の大空堀も見に行ってください。ここは台地の根っこの部分に当たります。この空堀はそのままの状態で残っていて、土橋のみが堀を渡って茨城県庁三の丸庁舎に通じています。ここは過去は重臣の屋敷地や弘道館の一部でした。まとめて言うと、水戸城は三重の巨大な堀により守られていたことになります。

城周辺の航空写真

三の丸外側の大空堀
現在は庁舎入口となっています

その後

明治初期に悲しい出来事があった後でも、水戸城二の丸にあった三階櫓(さんがいろ)は、その素晴らしさから現存20天守の一つとされ、第二次世界大戦までは残っていました。しかし、1945年の水戸空襲により燃えてしまいました。戦後になって弘道館地区は、1952年に国の特別史跡に指定されました。他の土塁、空堀、薬医門といったものは茨城県の史跡に指定されています。水戸市は最近、これまで見てきたように城の建物を復元しています。

本丸薬医門周辺に残る土塁
内側から見た大手門

私の感想

水戸城跡を訪れてみて、改めて強い城というものは、必ずしも石垣を必要としないことがよくわかりました。このことは、過去の戦争だけではなく、2つの空堀が現在でも交通のために使われていることでも証明されています。また、大手門や二の丸角櫓が復元されているのを見てしまうと、どうしてもこの城の天守としての三階櫓も復元できないものかと思ってしまいます。第二次世界大戦の前後で焼けてしまった8つの天守は、水戸城を除いて皆復元されているからです。しかし、その計画はないそうです。

大手橋から見た二の丸の土塁と空堀
御三階櫓については、元あった場所とは違うところに説明版があるだけです

ここに行くには

車で行く場合:北関東自動車道の南水戸ICから約15分かかります。大手門脇に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR水戸駅から歩いて約10分です。
東京から水戸駅まで:東京駅で特急ひたち号に乗ってください。

大手門脇の駐車場

リンク、参考情報

水戸城跡、水戸観光コンベンション協会
・「よみがえる日本の城15」学研
・「シリーズ藩物語 水戸藩/岡村青著」現代書館
・「城を攻める 城を守る/伊東潤著」講談社現代新書
・「徳川斉昭と弘道館/大石学編著」戒光祥出版
・「天狗争乱/吉村昭著」新潮文庫
・「逆説の日本史16 江戸名君編・水戸黄門と朱子学の謎/井沢元彦著」小学館

これで終わります。ありがとうございました。
「水戸城その1」に戻ります。
「水戸城その2」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

192.角牟礼城 その3

頂上にある本丸には多くの石が横たわっていす。毛利高政が本丸の北側だけに築いた石垣を修理中ということです。

特徴、見どころ

本丸は改修途中か

ところが、これまでとちがって頂上の本丸は違う様相です。本丸の周りには石垣がありませんが、人工的に山肌を削った土造りの切岸があります。これもまた、高政がやってくる前にこの城で採用された手法です。この曲輪を回り込んでいく自然の山道風の通路を歩いていきます(本丸にまっすぐ通じる工事用の通路が別途ありますが、ビジターは使わないようにとの掲示があります)。

城周辺の地図

本丸の周りの切岸
本丸にまっすぐ通じる工事用通路
山を回り込んで本丸に向かう道

その途中には展望所があり、多くのメサやビュートを伴う玖珠地域の素晴らしい眺めを楽しむことができます。とても美しい景色です。

展望所
玖珠地域の素晴らしい景色

そして頂上にある本丸に着くのですが、そこには多くの石が横たわっているが見えます(2023年5月時点)。これは、高政が本丸の北側だけに石垣を築いていたことによります。これが崩れて今修理中ということのようです。高政は、転封の直前まで、本丸も改修しようとしていたのかもしれません。

本丸虎口
本丸内部
修繕中の石垣の石

山麓の森藩に関する史跡

山麓では、久留島氏が設立して森藩に関する見どころもあります。藩主は、現在は公園になっている陣屋に居住していました。また、陣屋のとなりの丘の脇には、回遊式の池泉庭園を造り、その庭園は今でも残っています。

久留島氏が作った庭園

その手前には、7mの高さの一枚岩が立っていて「童話碑」と彫刻されています。この岩は陣屋に元々あったものではありませんが、藩があったころに近くの川の船着き石として使われていました。1949年になってそこから現在の場所に移され、町出身の著名な童話作家、久留島武彦にちなんで名付けられました。彼は、城主一族の子孫でした。

庭園前にある童話碑

城主だった頃の久留島氏はまた、丘の上に石垣を築き、その上に「栖鳳楼(せいほうろう)」という茶室を建設しました。これも現存しています。この茶室は、城を築くことを許されていなかった藩主が、城の代わりにしたものだと言われています。

栖鳳楼 (licensed by ムカイ via Wikimedia Commons)

その後

角牟礼城の調査は1993年に始まりました。それによって、城跡には今に至るまで、天下統一のとき、秀吉の部下たちが多くの地域で築いた穴太積みの石垣が、ここでもよい状態で残っていてることがわかりました。また、この城跡では中世から江戸時代にかけての城の進化のプロセスが見て取れることもわかりました。その結果、城跡は2005年に国の史跡に指定されました。玖珠町は、この町を童話の里であるとともに、穴太積みの石垣が残る地としてもアピールしています。

角牟礼城の穴太積みの石垣

私の感想

玖珠地域を訪れたとき、私はそこにとても独特の雰囲気を感じました。この地域が山に囲まれていて、この中にある小さな山や丘がちょっと変わっていて、後からこれらがメサやビュートであるとわかりました。この地域の自然の特徴からその歴史に関する民話も生まれています。この町の愛称「童話の里」にも結び付く何かがあったのかもしれません。角牟礼城もこの地域の特徴と外から来た人たちが交わり、よりユニークな存在になったのでしょう。この辺りを旅することがあれば、玖珠地域と角牟礼城に立ち寄ってみてはいかがでしょう。

角牟礼城の三の丸の石垣

ここに行くには

車で行く場合:大分自動車道の玖珠ICから数分のところです。城跡周辺にいくつか駐車場があります(山上の三の丸のところや山麓にある公園など)。
公共交通機関を使う場合は、JR豊後森駅から梶原行きの大分交通バスに乗って、山麓にある上伏原バス停で降りてください。そこから山頂に向かう山道を登って行くことができます。
東京または大阪から豊後森駅まで:大分空港か福岡空港まで飛行機で行って、レンタカーを借りるのがよいかもしれません。

リンク、参考情報

角牟礼城跡、玖珠町観光協会
・「よみがえる角牟礼城/石井進監修、玖珠町編集」新人物往来社
・「歴史群像179号、地形から読み解く 瀬戸内の海賊城と近代要塞」学研

これで終わります。ありがとうございました。
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