161.岸和田城 その3

一点だけお願いしたいことがあります。それは、本丸と二の丸からの眺望を改善してほしいのです。

特徴、見どころ

本丸の外側

本丸と二の丸は過去と同じように、一本の土橋のみでつながっています。本丸は堀の上に浮かぶ城の島のように見え、防御力を重視した設計となっています。

本丸周辺の航空写真

本丸へ渡るための唯一の土橋
島のように見える本丸

しかし、背面の方に回ってみると、石段がある裏門跡があるのがわかります。ここには外部に通じる橋がかかっていました。幕府に提出された絵図面にはこの橋は描かれていませんでした。その理由として考えられるのは、その絵図面が提出されてから橋がかけられたか、もしくは意図的に描かなかったかどちらかでしょう。

本丸背面の裏門跡
絵図面(には橋は描かれていません(右上部分)

本丸を囲む石垣は、敵の側面に反撃を加えられるよう巧みに曲げられ、技巧を尽くして築かれているように見えます。また、石垣の基礎として犬走りがありますが、他の城ではあまり見ることができないものです。歴史家は犬走りが作られた理由として、石垣に使われている砂岩が他の種類の石よりもろいため、それを支える意味があったのではないかと考えています。そのせいか、現代になって石垣の一部分は花崗岩の石を使って置き替えられ、耐久性を補っています。

巧みに曲げられている本丸石垣
犬走りの上に石垣が築かれた部分
白い石が修復に使われた花崗岩のようです

本丸の内部

本丸の内部には、復興された天守、門、隅櫓と白壁が建てられています。これらの建物は、城の絵図面にあるものと比べるとオリジナルとは違うデザインになっています。例えば、現在の天守は三層建てで様々な装飾がなされていますが、オリジナルの方は五層建てですが、シンプルな屋根の形をしています。現在の岸和田城の事例のように、元とは違う設計で再建された建物は便宜上「復興~」という風に呼ばれています。また、本丸には「八陣の庭」という名の現代的な石庭があり、現在の天守と同じ時期に作られ、2014年には国の名勝に指定されています。現在の天守の設計者は、元の設計にとらわれず、現代の建物として自由にこの天守を創造したのかもしれません。

本丸に復興された建物群
復興天守
八陣の庭

天守の中は歴史博物館となっていて、最上階は展望台にもなっています。展望台からの見晴らしはよく、大阪湾を含む周辺地域を見渡すことができます。しかし、この展望台以外からの本丸からの眺望はよくなく、石垣の上の高い白壁のために周りは何も見えません。

展望台からの大阪湾方面の眺望
白壁のため、本丸平地からの眺望はよくありません

その後

明治維新後、岸和田城は廃城となり、城の全ての建物は撤去されました。本丸と二の丸を除く城の敷地は市街地へと変わっていきました。恐らく岸和田の街を近代化するためには、そうするしかなかったのでしょう。長い時が過ぎ、岸和田の人たちは城の天守を再建したいと思うようになりました。そのためには市民の寄付も必要でしたが、その結果、3層建ての天守として1954年に完成しました。実際にはコンクリート造りの現代建築なのですが、今や市のシンボルとなっています。建築の際には、オリジナルの天守と同じく5層しかも木製とするべきだという議論がありましたが、予算の制約があったことと、元藩主の岡部家の支持があったことで原案(3層)に落ち着いたそうです。岸和田市は現在、復興天守の耐震対策をどうするか頭を悩ませています。経年劣化と以前より厳しくなった耐震基準のためです。また、石垣の修繕もずっと続けていて、崩れた砂岩の部分を新しい花崗岩で置き替えています。

現代の岸和田城

私の感想

思うに現在の岸和田城に行けば行くほど、その歴史に興味が沸いてくるような気がします。この城は海に面した小さな城としてスタートしましたが、和泉国では唯一の城として発展し、そして今では市のシンボルとなっています。しかし、一点だけお願いしたいことがあります。それは、本丸と二の丸からの眺望を改善してほしいのです。現在ビジターは、恐らくは安全を配慮したために設置された壁やフェンスによって、そこからの景色をよく眺めることができません。やろうと思えば、外が見えるようなフェンスなどに交換できるはずです。そうすれば、ビジターがこの城がどのように発展してきたのかより理解を深められるのではないでしょうか。

二の丸の一部にあるこのようなフェンスにできないでしょうか
このフェンスからの眺望はいいです

リンク、参考情報

岸和田城、岸和田市公式ウェブサイト
・「岸和田城と岡部家 岸和田城常設展示図録」岸和田市教育委員会
・「よみがえる日本の城1」学研
・「日本の城改訂版第89号」デアゴスティーニジャパン
・「大阪府中世城館事典」戒光祥出版

これで終わります。ありがとうございました。
「岸和田城その1」に戻ります。
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194.佐伯城 その3

佐伯城跡は市街地にとても近いので、いつでも山の上に登ってみることができます。

特徴、見どころ

北の丸と2つの貯水池

本丸から伸びている山の北峰にある北の丸にも行ってみましょう。その上部の部分もまた、低くはあってもきれいなラインの石垣によって囲まれています。

峰上に長く伸びる北の丸
北の丸の先端部分
北の丸上部を覆う石垣

城の山上部分

北の丸と本丸との分かれ目には、食い違いの石垣による門があり、ここが裏手の道(「若宮の道」と名付けられています)への出口となっています。ここから出て登山道を下っていくと、山の裏側の谷間にある2つの主要な貯水池に至ります。上方にあるのが「雄池(おんいけ)」、下方にあるのが「雌池(めんいけ)」です。これらの貯水池も石垣に囲まれていて、まさに城にとってのライフラインだったのでしょう。

裏手の道への出口
雄池へ下っていきます
雄池
雌池

そこから登山道を少し登ってみると、北峰の中腹の周りを歩いてみることができます。ここでも道際に、基礎部分を支える石垣があるのがわかります。北の丸は、上部と基礎、両方にある石垣によって支えられているのです。北峰を回り込んで歩いていくと、本丸を支える見事な四段石垣が見えてきます。この石垣は最近になって2009年に発見されたそうです。

北峰中腹の道
北の丸基礎を覆う石垣
本丸が見えてきます
見事な四段石垣

西側の防御拠点

西の峰上にも西の丸があります。本丸とは反対側の二の丸のとなりに当たります。西の丸と二の丸とは、石垣造りの狭い門によって隔てられています。また、西の丸は山麓から登ってくる翠明の道の終点でもあります。この場所は、城の西側の防御拠点だったのですが、現在では市街地をよく見渡せるもう一つのビュースポットとなっています。ここには、円形の石造りの基礎構造物が見られますが、城時代のものではありません。第二次世界大戦中にあった高射砲陣地の跡です。

二の丸内部
二の丸、西の丸間の門
西の丸にあった櫓跡
西の丸からの景色
高射砲陣地跡

現存する御殿の門

山麓部分には三の丸櫓門があり、城の唯一の現存建物です。この門は、三の丸にあった城主のための御殿の入口として建てられました。門の奥の方、三の丸の内部は現在は空き地になっています。佐伯市歴史資料館はもう一つの城に関する見どころで、城や市の歴史、そして城を築城した毛利高政について学ぶことができます。資料館の前からは、頂上にすばらしい石垣を戴く山の姿を楽しむことができます。

城周辺の地図

現存する三の丸櫓門
三の丸内部は空き地になっています(佐伯文化会館跡地)
佐伯市歴史資料館入口
資料館前から見た城跡

その後

明治維新後、佐伯城は廃城となり、山上の全ての建物は撤去されました。その山上部分はやがて公園と毛利神社として使われました。佐伯市は2009年に山上部分の発掘を開始し、それにより佐伯城は江戸時代になってから新しく築かれた山城であると判明したのです。これは大変珍しいことでした。その結果、山上の城跡は直近の2022年に国の史跡に指定されました。山麓部分では長い間、御殿の一部分がその門とともに役所や学校として使われていました。しかし最後に残った御殿の玄関も、佐伯市民会館建設のために1969年に他所に移築されてしまいました。唯一残った門の建物は、佐伯市の文化財に指定されています。

1969年に移築された御殿玄関の写真、佐伯市歴史資料館にて展示

私の感想

佐伯市の人たちは、故郷の町とその歴史に誇りを持っていると思いました。例えば日常生活においても、時間があって天気が悪くなければ、いつでも山の上の佐伯城跡に登ってみることができます。この城跡は市街地にとても近いからです。そして、美しい景色を眺め、健康にもよいですし、地元の歴史を学ぶことにもなるのです。佐伯市のようなところに住めたらなあと思います。

佐伯城跡の全景(山上部分と山麓部分)

ここに行くには

車で行く場合:東九州自動車道の佐伯ICから約15分かかります。城跡の手前のところにビジター向けの駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR佐伯駅から大分バスに乗って、大手前バス停で降りてください。山麓は歩いて数分のところです。
東京か大阪から来られる方は、飛行機で大分空港に行き、そこから大分駅行きのリムジンバスに乗って、大分駅で日豊本線の電車に乗り換えてください。

リンク、参考情報

佐伯城、佐伯市観光ナビ
・「歴史群像179号、戦国の城 豊後佐伯城」学研
・「よみがえる日本の城20」学研
・「日本の城改訂版第14号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「佐伯城その1」に戻ります。
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163.黒井城 その3

黒井城は地元の英雄である荻野(赤井)直正の城であるとともに、全国的に知名度がある明智光秀の事績でも知られています。

特徴、見どころ

山頂部分に到着

そこからもう少し登ると頂上です。2つ目のフェンス扉を過ぎると、これまで見てきた城跡とは別の姿が見えてきます。頂上にある曲輪群は全て石垣に囲まれています。これも山麓から見えていたものです。この城の姿の違いは、城のそれぞれの部分の完成時期によります。フェンス扉から上の部分は、明智光秀かその後の領主が完成させたもので、一方下の部分は荻野直正が築いてそのままになっているのでしょう。フェンス扉は恐らく、石垣に動物が侵入して破壊しないように設置されたのでしょう。

もうすぐ頂上です
2つ目のフェンス扉
手前の平坦地が東曲輪、奥は三の丸の石垣と左側面の入口

三つの曲輪と素晴らしい景色

山頂部分の縄張りは、三つの曲輪(手前の三の丸、真ん中の二の丸、後方の本丸)がつながった形になっていて、他の平坦な曲輪群(東曲輪など)に囲まれています。三つの曲輪にはそれぞれの側面に食い違いの虎口があります。石垣には自然石が使われていて、周辺の地域から集められたものです。歴史家は、これらの特徴は信長や家臣たちが築いた他の城でも見られると指摘しています。黒井城の石垣は、人々に権威を見せつけるために築かれたものとしています。

城主要部の地図

手前が三の丸、奥が二の丸
二の丸の入口
二の丸から三の丸の方を見ています
二の丸から本丸を見ています
本丸入口
本丸内部、「保月城(ほげつじょう)」は黒井城の別名

せっかく登ってきたので、最後は頂上からのすばらしいパノラマビューを楽しんでください。山麓から約200m登ってきた甲斐があると思います。

三の丸からの眺め
こちらは本丸からの眺め

その後

黒井城跡は1989年に国の史跡に指定されましたが、その場所は猪ノ口山にあるハイキングコースの一部にもなっていました。したがって、城跡を保存することと、ハイキングコースとして活用することの両立が必要です。丹波市は2018年に、黒井城跡整備基本計画を策定しました。そしてその計画に従って、山頂にある石垣によって作られた入口に保存のためのアルミニウム製の階段を設置しました。ところがハイカーからはその階段は景観を害するとの抗議が出たのです。その結果、階段は元のアルミニウムの地金の色から茶色に塗装されました。このような悩ましい議論が今後も続くと思われます。

茶色に塗られたアルミニウム製の階段(二の丸入口)

私の感想

私は現地で、赤井直正のTシャツを着て毎日登頂しているという方にお会いしました。その方にとって、黒井城は地元の英雄である直正の城なのだと思いました。一方丹波市などは、直正の跡継ぎから城を奪い、恐らくは石垣も築いた明智光秀との関わりも宣伝しています。この城は、全国的に知名度があるヒーローの業績でも知られているわけです。城跡の外観は、まさにその2つの時代を示していて、この城跡は日本の歴史における大いなる遺産と言えるのではないでしょうか。次回は、前回行けなかった直正が築いた他の砦群にも行ってみたいと思います。

山麓の休憩所にある直正(左)と光秀(右)のディスプレイ

ここに行くには

車で行く場合:舞鶴若狭自動車道の春日ICから約10分かかります。登山口手前にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR黒井駅から登山口まで歩いて約10分かかります。
東京から黒井駅まで:東海道新幹線に乗って、京都駅で山陰本線に乗り換え、福知山駅で福知山線に乗り換えてください。

リンク、参考情報

黒井城跡、丹波市ホームページ
・「明智光秀を破った「丹波の赤鬼」~荻野直正と城郭~/高橋成計著」神戸新聞総合出版センター
・「明智光秀の城郭と合戦/高橋成計著」戒光祥出版
・「日本の城改訂版第96号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
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