72.吉田郡山城 その1

毛利元就の勢力拡大とともに発展した城

立地と歴史

毛利氏累代の本拠地

吉田郡山城は、現在の広島県西部にあたる安芸国にありました。城の位置はまた、中国地方の中心部の山間地でもありました。この城は最初は、郡山という山の一つの嶺上に築かれた小さな山城としてスタートしました。国人領主の毛利氏が中世のいずれかの時期に築いたとされています。戦国時代に毛利氏当主であった毛利元就が中国地方のほとんどを支配する有力戦国大名になったことで、この城も全山を覆うような規模に発展していきました。

安芸国の範囲と城の位置

毛利氏は、もともと典型的な地方領主で、13世紀以来吉田荘を支配していました。時が経るにつれて、福原氏や桂氏など毛利氏の親族は、主家の重臣となっていきました。戦国時代の16世紀初頭のときでさえ、毛利家当主は小さな吉田郡山城に住み、重臣たちは彼ら自身の城や館に住んでいました。一方で、彼らの結束は強く、これが後に中国地方での成功を収める要因の一つとなりました。

城周辺の起伏地図、重臣の本拠地は城とは別の所にありました

困難の連続であった元就

元就が1524年に毛利家の当主となり、最初に吉田郡山城に入城したとき、状況は既に悪化していました。それまでの当主が相次いで若死にし、その結果毛利氏の勢力は衰えていました。更に安芸国は、約30の元就のような小さな国人領主によって分割されていました。その一方で、安芸の西では周防国の大内氏が、安芸の北では出雲国の尼子氏が、有力な戦国大名として勢力を拡大していました。安芸の国人衆はどちらかに従わなければならず、そうでなければ滅ぼされる運命でした。毛利氏は尼子氏に付いていましたが、尼子氏は元就を跡継ぎの座から追い落とし、容易にコントロールできる別の人間(元就の母違いの弟、相合元綱、あいおうもとつな)を当主の座に就けようとしました。しかし、元就は重臣たちの支えによって、何とか切り抜けることができました。

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
当時の尼子氏当主、尼子経久肖像画、洞光寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

このような困難な状況を生き残るため、元就は地元の安芸国では支配者ではなく、調停者のように振舞いました。例えば、彼は競争相手の宍戸(ししど)氏に対して、彼の娘を宍戸氏の跡継ぎ(宍戸隆家)に嫁がせることで講和を結ぶ提案を行いました。宍戸氏はやがて元就の重臣の一角を占めるようになります。また、安芸国や備後国(安芸の東)の国人たちと同盟を結ぶ際には、傘連判状を用いました。この連判状は、主宰者はなく参加する誰もが対等の権利を持っているような形式となっています。元就は常に、彼の3人の息子、隆元、元春、隆景に対して毛利の繁栄のために団結するよう説いていました(これが後の時代に三本の矢のエピソードを生みます)。その後、元春と隆景を、それぞれ吉川氏と小早川氏の跡継ぎに送り込み、毛利の親族にしてしまったのです。しかし、元就はときには毅然として戦うこともあり、例えば重臣の井上氏を滅ぼしたりしました。彼らが統制不能となってしまったからです(井上氏は毛利家の財政を担っていて、家中で勢力が大きくなりすぎてしまったようです)。

毛利隆元肖像画、常栄寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
吉川元春肖像画、早稲田大学図書館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1540年、吉田郡山城に大きな危機がやってきます。元就が同盟先を尼子氏から大内氏に変えた後のことでした。尼子氏の約3万の兵が9月に城を取り囲みました。その当時の城はまだ小規模だったと思われますが、元就は武士と農民を含む約8千名と4ヶ月間籠城しました。大内氏からの援軍を待っていたのです。その援軍は12月に到着し、尼子軍は撤退せざるをえませんでした。この遠征の失敗は、尼子氏の没落のきっかけとなり、元就による1566年の月山富田城の戦いにおいて現実のものとなります。

当時の尼子氏当主、尼子晴久肖像画、山口県山口博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
吉田郡山城跡遠景 (licensed by TT mk2 via Wikimedia Commons)
尼子軍が陣を敷いた青山(左)と光井山(右)の遠景
月山富田城跡

家臣が郡山に集まり全山が城郭化

その後、元就は多くの武略、計略、調略を通じて有力な戦国大名となりました。特に大内氏を継いだ陶氏と戦った1551年の宮島の戦いが有名です。元就は、領土拡大事業の最中の1546年、息子の隆元に家督を譲りますが、まだ実権は握っていました。そして、最初に城が築かれた山の嶺から山の頂上の方に引っ越しました。そこが本丸と呼ばれるようになります。隆元は元就の代わりに元の嶺の方に住み続け、そこは本城と呼ばれました。しかし結局、元就がいる近い場所に新たな曲輪(尾崎丸)を築いて移っていきました。父親との連絡のための行き来が大変だったからです。他の家臣たちも山の方に集住することになり、結果、吉田郡山城は毛利氏の勢力が増すたびに拡大し、約270もの曲輪が全山を覆うことになりました。

吉田郡山城の山頂と本城の位置関係、現地説明板より
「郡山全図」、山口県文書館蔵、現地説明板より

孫の輝元が広島城に移り廃城

1563年の隆元、1571年の元就の死後、隆元の息子、輝元は祖父と父親が残した城を継承し、石垣を築くなど城の改築と近代化を行いました。しかし、輝元は1591年に新しい本拠地として広島城を築き、移転していきました。吉田郡山城はやがて廃城となりました。

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の広島城

「吉田郡山城その2」に続きます。

74.Iwakuni Castle Part1

The castle is reflected by Hiroie Kikkawa’s life.

Location and History

Hiroie saves Mori Clan

Iwakuni is known for its beautiful scenery from Kintaikyo bridge which has five magnificent wooden arches. The bridge over Nishikigawa River also has a good background of a mountain with the Main Tower of Iwakuni Castle. Visitors may think they all remain as they were, however, the castle has many episodes, in fact, and had a tough life.

Kintaikyo bridge with the background of Iwakuni Castle on the mountain

Hiroie Kikkawa was the founder of the castle, who also was a senior vassal and relative of the Mori Clan. The clan governed most of the Chugoku Region with an earning of 1.2 million koku of rice at the end of the 16th Century. However, after the ruler of Japan, Hideyoshi Toyotomi died in 1598, the situation became unstable. Many lords tried to rely on Ieyasu Tokugawa, the largest one in eastern Japan with 2.5 million koku as the next ruler, while others including Mitsunari Ishida still supported the Toyotomi Clan. Mitsunari tried to make the lord of the Mori Clan, Terumoto Mori as their leader because the clan was the largest lord in western Japan. The opinions inside the clan were divided. One is to support Mitsunari and become the next ruler instead of Ieyasu, mainly insisted by Ekei Ankokuji, the other is to support Ieyasu to maintain their territory, objected by Hiroie.

The portrait of Hiroie Kikkawa, owned by Historiographical Institute the University of Tokyo (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The portrait of Terumoto Mori, owned by the Mori Museum (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

When the Battle of Sekigahara happened in 1600, Terumoto became the head of the West Quad which was actually led by Mitsunari, because being a ruler was attractive to him. Hiroie was a cool-headed commander who knew his master couldn’t take over the East Quad led by Ieyasu. Therefore, he contacted Ieyasu secretly and promised that his troops would not do anything in the battle in exchange for maintaining the Mori’s territory. As a result, Ieyasu defeated Mitsunari. However, after the battle, Ieyasu found out the evidence that Terumoto had wanted to be a ruler. Ieyasu decided to take all the Mori’s territory away from Terumoto and give two provinces (Nagato and Suo) of it to Hiroie. Hiroie urged Ieyasu to give the provinces to Terumoto instead of him. In the end, Mori’s territory was formally reduced from a worth of 1.2 million koku to only 370 thousand koku of the two provinces, known as the Choshu Domain.

The Portrait of Ieyasu Tokugawa, attributed to Tanyu Kano, owned by Osaka Castle Museum (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The portrait of Mitsunari Ishida, owned by Hajime Sugiyama (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Iwakuni Castle is built in Hiroie’s new territory

Hiroie had to stand in a difficult position. He was actually the hero of the Mori Clan, but many members of it thought he was a destroyer. He was finally given by the clan a small territory with 30 thousand koku, which was the eastern edge of the Choshu Domain. Hiroie started to build a new castle as his home base in 1601, which would be called Iwakuni Castle. He first built his residence called Odoi beside Nishikigawa River which could be the natural Outer Moat. The residence was also surrounded by the artificial Inner Moat. After that he developed the mountain part of the castle mainly by building the Northern, Main and Second Enclosures on the ridge from the north to the south. They were all surrounded by stone walls and the Main Enclosure had the four-level Main Tower. The castle was completed in 1608.

The range or the Choshu Domain and the location of the castle

The relief map around the castle

Hiroie’s hard decision to destroy Mountain part

However, another difficulty was coming to Hiroie after the Tokugawa Shogunate defeated the Toyotomi Clan in 1615. The Tokugawa Shogunate ordered all the lords in Japan to destroy all the castles except for one castle where the lord lived by issuing the Law of One Castle per Province in the same year. The shogunate tried to prevent any other lords from rebelling based on many strong castles. According to this law, Iwakuni Castle could survive because the castle could be the only one castle in Suo Province and the shogunate still considered Hiroie’s Kikkawa Clan as an independent lord. However, the Mori Clan didn’t allow it as they thought that the Kikkawa Clan was just a retainer of them, not an independent lord. The controversial relation between Hiroie and the Mori Clan since the Sekigahara Battle remained. Hiroie had to choose to destroy the castle considering the future relationship with the Mori Clan.

Intentionally broken stone walls on the mountain

The mountain part was actually destroyed but the residence beside the river survived for living. It was formally called Iwakuni Encampment, not Castle until the end of the Edo Period. Kintaikyo Bridge was first built in 1673 by the third lord of the clan, Hiroyoshi Kikkawa to connect his residence with the castle town which had been built at the opposite side of the river. This bridge could be seen as a symbol of the peace at that time.

The ruins of the Odoi residence at the foot
”Kintaikyo bridge in Suo Province” from the series “Unusual Views of Celebrated Bridges in the Provinces” attributed to Hokusai Katsushika in the Edo Period (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

To be continued in “Iwakuni Castle Part2”

74.岩国城 その1

吉川広家の人生を反映した城

立地と歴史

毛利氏を守った広家

岩国は、5連の木造アーチ橋の美しい景観で知られています。錦川(にしきがわ)にかかる錦帯橋は、岩国城を背景としてとても絵になります。岩国を訪れるビジターは、これらは全て昔のままと思うかもしれませんが、少なくともこの城には多くの逸話があり、試練の歴史を経てきたのです。

山上の岩国城を背景とした錦帯橋

吉川広家(きっかわひろいえ)がこの城を築城したのですが、彼は毛利氏の親族で且つ重臣でした。毛利氏は16世紀の終わり頃において、120万石の石高をもって中国地方のほとんどを領有していました。ところが、天下人の豊臣秀吉が1598年に死去したことで政治状況は不安定になりました。多くの大名たちが、250万石の石高を持ち東日本で最大の大名であった徳川家康を、次の天下人として頼ろうとしました。一方、石田三成を含む他の大名はまだ豊臣氏を支えていました。三成は、西日本で最大の大名である毛利輝元を、彼のグループのリーダーに担ごうとしました。毛利家中の意見は真っ二つに割れました。一つは三成に加勢し、輝元を家康の代わりに(豊臣家を戴きつつ)次の天下人にするというもので、主に安国寺恵瓊によって主張されていました。広家はそれに反論し、家康に加勢し毛利氏の領土を維持しようとしました。

吉川広家肖像画、東京大学史料編纂所蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1600年に関ヶ原の戦いが起きたとき、輝元は西軍の総大将となりましたが、実態としては三成が主導していました。輝元は天下人になりたかったのです。広家は、冷静な判断ができる武将であり、主君の輝元は家康率いる東軍を凌駕することはできないとみていました。よって彼は家康に密かに通じ、毛利の領土保全を条件に毛利の軍勢は戦いでは一切動かないことを約束しました。結果、家康は三成を破ったのですが、戦後になって輝元が天下を取ることを欲していた証拠を見つけたのです(広家は家康に、輝元にはその野心はないと伝えていたようです)。家康は、毛利から全ての領土を取り上げ、その中の2ヶ国(長門と周防)を広家に与えることとしました。広家は家康に、その2ヶ国を広家の代わりに輝元に与えるよう嘆願しました。最終的には、毛利の領土が形式上、120万石からその2ヶ国わずか37万石に削減されることで決着しました。それが長州藩となります。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
石田三成肖像画、杉山丕氏蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

新領地に岩国城を築城

広家は、難しい立場に立たされました。彼は実際には毛利家の救世主だったのですが、家中の多くの藩士は逆にぶち壊されたと思っていたからです。彼は最終的に、長州藩の領地の東端にあたる、3万石の石高の小さな領地を主家から与えられました。広家は1601年に本拠地として新しい城を築き始めました。それが岩国城となるのです。まず最初に、自然の外堀ともいうべき錦川沿いに御土居と呼ばれた居館を建設しました。その居館は人口の内堀にも囲まれていました。その後、山城部分の建設を行い、山の嶺の北から南の方角に沿って、北の丸、本丸、二の丸を設けました。これらの曲輪は全て石垣によって囲まれており、本丸には4層の天守がありました。城の完成は1608年となります。

長州藩(現山口県)の範囲と城の位置

城周辺の起伏地図

苦渋の決断により山城部分を破却

ところが、1615年に徳川幕府が豊臣氏を滅ぼした後、広家はまたも困難に直面します。徳川幕府は同年、全ての大名に一国一城令を発布し、大名が住んでいる一城を除き、全ての城を破却するよう命じました。幕府は、多くの強力な城を頼りに、大名たちが幕府に反抗することを防ごうとしたのです。この法令によれば岩国城は、周防国ではただ一つの城となり、幕府も広家の吉川家を独立の大名として認めていたため、存続することが可能でした。ところが、毛利主家は吉川氏を単なる毛利の家臣と考えていたため、それを認めませんでした。関ヶ原の戦い以来の両者の悩ましい関係が続いていたのです。広家は毛利家との将来の関係を鑑み、城を破却することを選びました。

意図的に破壊された山上の石垣

その際、山城部分が実際に破却され、川沿いの居館は残され、江戸時代末期まで公式には城ではなく、岩国陣屋と呼ばれるようになりました。錦帯橋は1673年に、3代目の領主である吉川広嘉(きっかわひろよし)によって、居館と川の反対側にあった城下町をつなぐために架橋されました。この橋は(もともと外敵を防ぐための川に架けられたという意味で)当時から平和な時代のシンボルともいえるものでした。

山麓の御土居跡
葛飾北斎「諸国名橋奇覧」より「すほうの国きんたいはし」、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「岩国城その2」に続きます。