立地と歴史
地味なのに有名な城
杉山城は、現在の埼玉県西部にあたる比企郡に築かれた城でした。この城の城跡は、日本の歴史ファンの間で最近有名になっています。この城跡は、それほど大きくもなければ、建物も石垣もありません。基礎は全て土造りです。更には、いつ誰がこの城を築き使ったのかもわかっていません。この城に関する明確な記録がないのです。それでは、なぜこの城は有名になったのでしょうか。それは、この城が地方の小さな城としては、驚くほど巧みな防御システムを持っていたからなのです。
城の位置「杉山城問題」
歴史家は長い間、杉山城がいつ誰によって築かれたのか解明しようとしてきました。ところが、その結論は、ますます複雑化してしまっています。城跡で発掘調査が行われたのですが、発掘された遺物から多くの研究者は、この城は16世紀初頭に築かれ、そして使われたと考えました。その当時この城の周辺地域では、関東地方を支配していた上杉氏が内紛を起こしていました(山内上杉氏と扇谷上杉氏との間で起こった長享の乱など)。上杉氏がこの城を築いたとしたのです。一方、縄張り研究者たちは、杉山城に見られる複雑な防御システムは、16世紀後半くらいの、もっと後の時代に見られるものだと反論しました。こちらは、上杉氏の後に関東地方を支配した北条氏が、このような先進的な防御システムを築いたに違いないとしたのです。この議論は「杉山城問題」と言われています。この問題が、この城をより一層有名にしたのかもしれません。
「築城の教科書」
杉山城は、麓からの高さ42mの丘陵の上に築かれました。城には中心部のものを含め、10個の曲輪がありました。それらの曲輪は、南北と東の三方向に広がっていて、城の中心部の本郭を守るように作られていました。城の西側は急な崖となっていて、崖下に流れる川とともに天然の障壁となっていました。全ての曲輪は、土塁そして空堀に囲まれていて、土橋か木橋によって接続されていました。この城の防御システムの最も重要な特徴は、全ての曲輪の入口が横矢(側面攻撃)によって守られていることでしょう。この仕組みは、巧みな土塁の屈曲と曲輪への導線によって成り立っていました。この城の設計は高いレベルで洗練されていて、現在では度々「築城の教科書」とも呼ばれています。
一時的な目的で築城か
発掘の結果によると、杉山城には、館、櫓、門といった常設の建物はありませんでした。恐らく、小屋や柵といった仮設の建物だけがあったと思われます。また、この城は短期間しか使われなかったことがわかっています。火をかけられて破壊されるまで、一度も改修されていないからです。これは、この城が単一の目的か戦いのために作られたからと考えられます。杉山城の周辺には、他にも多くの単一目的で作られたであろう城が存在しました。これらの城には、例えば小倉城のように、それぞれ明確な特徴があるのです。戦国時代の16世紀には、この地域には多くの戦いが起こりました。この地域の戦国大名は、自分たちが住むための城だけでなく、戦いに勝ち抜くために使い捨ての城も築きました。たとえ杉山城が後者のうちの一つであったとしても、驚くほど技巧的な防御システムを持った城であることには変わらないのです。