36.丸岡城 その1

越前国北部にあった城

立地と歴史

柴田勝豊が戦国時代に築城

丸岡城は、現在の坂井市にあたる、越前国の北部にありました。この城には日本に12基ある現存天守のうちの一つがあります。この城は、最初は戦国時代の1576年に柴田勝豊によって築かれました。彼の親族である柴田勝家が越前国を領有しているときでした。1583年に柴田氏が羽柴秀吉に倒された後は、松平氏などいくつかの氏族がこの城を所有しました。この城の初期の頃について詳細は分かっていませんが、その頃から初代の天守がそこにあったと考えられています。初代天守のために作られた現存する石垣が、現在ある天守より古いものだからです。

城の位置

丸岡城の現存天守
丸岡城天守の石垣

本多成重が丸岡藩として独立

1624年、松平氏の家老であった本多成重(なりしげ)が丸岡藩の創始者として、独立した丸岡城城主となりました(彼の父、本多重次が家族に宛てた手紙が「日本一短い手紙」として有名であり、現在の丸岡城でも顕彰されています)。彼は城の大改修を始め、現在ある天守の再建築などを行いました。この改修は、成重の息子の代になって完了しました。

天守内にある本田成重のイラストレーション(左側、右側は父親の本多重次)

天守がある本丸は丘陵の上にありました。二の丸御殿がある二の丸は、本丸脇の平地にありました。これらの曲輪は、内堀に囲まれていましたが、その内堀は五角形のような形をしていました。この堀の形は、敵が攻めてきたときに、その敵を混乱させるためにこのようになったと言われています。また、武家屋敷があった三の丸と外堀が、内堀の更に外側にありました。

天守内にある城の模型(左側が本丸、右側が二の丸)
越前国丸岡城之絵図、江戸時代(出展:国立公文書館)

有馬氏が幕末まで統治

1695年、本多氏はお家騒動のために徳川幕府により改易となってしまいます。その後、有馬氏が丸岡城と丸岡藩の領主となりました。有馬氏は、江戸時代末期まで城を維持し、藩を統治しました。(キリシタン大名として有名な有馬晴信の家系に当たります。)

有馬氏の家紋、有馬瓜  (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)

「丸岡城その2」に続きます。

137.福井城 その3

この城跡は、今も福井県の中心地であり続けています。

特徴、見どころ

初期の北ノ庄城跡

福井城から約300m南の方にある、柴田勝家が築いた北ノ庄城跡も訪れてみることをお勧めします。その城に関しては石垣の基礎部分(根石)しか見ることはできません。福井城がその北ノ庄城跡地の上に築かれたからです。

越前北ノ庄城址
こちらは福井城の石垣
初期北ノ庄城石垣の根石

しかし、他にも勝家、彼の妻(お市の方)、三人の娘(茶々、初、江)の銅像を見ることができます。この女性たちは日本の歴史で大変よく知られているのです。三姉妹の一人(茶々、後の淀殿)は天下人、豊臣秀吉の側室となりました。もう一人(江)は、福井城の創始者の結城秀康の弟、徳川秀忠の正妻となりました。

柴田勝家の銅像
勝家の妻(お市の方)の銅像
三姉妹(左から茶々、江、初)の銅像

その後

明治維新後、福井城は廃城となりました。城の全ての建物は撤去され、城の中心部を除く区域は市街地となっていきました。1873年、元城主であった松平氏は城の中心部に松平試農場を開設し、1921年に他に移動するまでそこに存在していました。1923年には、代わりに福井県庁が本丸に移ってきました。それ以来、城跡はかつて福井城がそうだったように、地方政府の中枢となっているのです。

松平試農城、福井県文書館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
本丸にある県庁(右側)と県警本部(左側)の建物

私の感想

本丸は通常城の中心でした。そして江戸時代にはその周辺地を支配するために、そこには福井城のようにだいたい天守及び(または)御殿がありました。現存している本丸の多くは現在、歴史公園、神社、博物館のような施設のために使われています。ところが福井城の本丸は、今でも地方政府(県)によって使われているのです。私が思うに、本丸が県庁として使われている唯一の事例です。ある人は、このことを「日本で最強の県庁」と言ったりしています。

福岡城本丸(歴史公園となっている例)
高岡城本丸(神社となっている例)
大坂城本丸天守(博物館となっている例)
最強に見える福井県県庁

ここに行くには

車で行く場合:
北陸自動車道の福井ICから約15分かかります。
城跡周辺にいくつか駐車場があります。
平日には県庁の地下駐車場を使うこともできます。
(県庁受付で駐車券にスタンプを押してもらうことが必要です。)
公共交通機関を使う場合は、JR福井駅から歩いて10分以内で着きます。
東京から福井駅まで:北陸新幹線に乗って、金沢駅で北陸線の特急に乗り換えてください。
大阪からは:特急サンダーバード号に乗ってください。

福井駅

リンク、参考情報

福井城址、福井県公式観光サイト
・「結城秀康/志木沢郁著」学研M文庫
・「よみがえる日本の城8」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「福井城その1」に戻ります。
「福井城その2」に戻ります。

137.福井城 その2

城跡には、公園とオフィスビルが同居しています。

特徴、見どころ

今も現役の本丸入口

現在、福井城跡は史跡公園であると同時に、県庁を含むオフィスビルの敷地としても使用されています。城跡の範囲は、本丸を含む内堀の内側となります。

城周辺の航空写真

公務員の人たちが、福井藩の武士たちがそうしていたように、内堀にかかった御本城(ごほんじょう)橋を渡り、本丸南側の正門を通って通勤しています。過去においてはこの門は、2つの門の建物と石垣によって囲まれた防御のための四角い空間(桝形と呼ばれます)により構成されていました。今は部分的に残っている石垣に登って、門の周辺を見渡すことができます。

御本城橋を渡って正門へ
本丸正門の古写真(現地説明板より)
現在の本丸正門
石垣の上に登っていきます
石垣の上から見える本丸入口

天守台石垣は必見

本丸の中を歩き回ることはできますが、かつては御殿があった場所にあるオフィスビルの外に限られます。

本丸の遺跡がオフィスビルに近接しています

本丸の北西隅にある現存している天守台石垣は必見です。天守台は2段になっていて、上段の上に大天守と小天守が乗っていました。石垣は大変立派なのですが、所々崩れていたり、歪んだりしています。これは、1948年に発生した福井地震によるものです。

天守台石垣
大天守が乗っていた上段部分
一部崩れている石垣

下段には、「福の井」と呼ばれる井戸が復元されています。実はこの井戸の名前が、後からついた城の名前である福井の由来であるという人もいます。

復元された福の井

復元された門と橋

天守台近くでは、本丸の西側出入口に山里口御門という門の建物と、内堀にかかった御廊下橋(おろうかばし)という屋根付きの橋が、最近伝統的工法により復元されました。

復元された山里口御門と御廊下橋

城主は藩の政治を行うために、本丸外にある御座所と呼ばれる住居からこの橋と門を通って、本丸にある御殿に通っていたのです。

山里口御門と御廊下橋の古写真(現地説明板より)

私たちも同じようにこの復元された橋を渡ることができます。また、門の二階に上がると、その内装と城に関する展示を見学することができます。

御廊下橋を渡ります
山里口御門
山里口御門の二階内部

今に残る内堀と本丸石垣

また、内堀の外側を歩いて回ってみてはいかがでしょうか。

内堀の外側から見た本丸

例えば、本丸の南東角にある巽(たつみ)櫓の石垣はすばらしいものです。巽櫓は3階建てであり、天守が燃えてしまった後は天守の代用と見なされていました。もともと、本丸の四つの角には天守もしくは櫓がそびえていたのです。

巽櫓の石垣
巽櫓の古写真(現地説明板より)

「福井城その3」に続きます。
「福井城その1」に戻ります。

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