78.丸亀城 その1

先進的で素晴らしい石垣に覆われた城

立地と歴史

高松城の支城としてスタート

丸亀城は、讃岐国(現在の香川県)の讃岐平野の西部に位置する亀山と呼ばれる山上に築かれました。この平野の一部には、突起のような山がいくつかあり、例えば、飯野山はその美しい姿から讃岐富士として知られています。亀山は、それらの山のうちの一つですが、讃岐富士よりはずっと低い(標高が66m対422m)ものの、武士たちが城を築くには絶好の場所でした。

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丸亀城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置

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丸亀城
Leaflet|国土地理院
城周辺の起伏地図

讃岐富士

奈良氏が亀山の上に砦を築いたのが最初と言われていますが、1597年に生駒氏が丸亀城という名前で城を築きました。生駒氏は、1587年から1640年までの間、豊臣氏とその後は徳川幕府に従うことで讃岐国を支配していました。丸亀城は、生駒氏の本拠地である高松城の支城だったのです。そして、1615年には徳川幕府から発せられた一国一城令により、一時廃城となってしまいます。城は不幸にも破壊されてしまい、その古い石垣の残骸が現代の発掘により見つかっています。

生駒氏の初代、生駒親正肖像画、弘憲寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高松城

山崎氏、京極氏により再建

1641年に生駒氏がお家騒動が原因で他に転封となった後、山崎氏が徳川幕府により讃岐国の西半分を与えられました。そして山崎氏は、新しい本拠地として丸亀城の再築を許可されたのです。亀山の周り中に三段の石垣が築かれました。その石垣は当時の最新の技術によって築かれ、それは貴重なものとなりました。当時は、新しい城を築くことは原則として認められなかったからです。この再建工事は30年間続きました。山崎氏は、跡継ぎがなかったことで工事中の1657年に徳川幕府により不幸にも改易されてしまいます。山崎氏の後釜となった京極氏が、1663年までに天守を築き、工事を完成させました。

丸亀城の天守と高石垣
丸亀城に移された京極高知肖像画、丸亀市立資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

石垣で固められた要塞

丸亀城の最終型は、以下のようになっていました。山の上には、本丸、二の丸、三の丸がありました。これら全ての曲輪は石垣で覆われ、山の高い位置で一体化していました。本丸は、最も高い位置にあり、天守と4基の隅櫓が多聞と土壁により連結されていました。二の丸と三の丸は本丸よりも低い位置にあり、ここにも櫓が何基かありました。内堀は山を囲んでいました。大手門は北側の内堀のすぐ内側にあり、搦手門は南側にありました。更には、武家屋敷が内堀の外側に建設され、ここもまた外堀により囲まれていました。

丸亀城の模型(丸亀城天守内で展示)
丸亀城の大手門と内堀
讃岐国丸亀絵図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)

京極氏は、丸亀城と丸亀藩を江戸時代の終わりまで統治しました。実は、城の城主は山裾にある御殿に住んでいました。これは平和な時代においては通常のやり方でした。いずれにせよ、丸亀城は石造りの要塞のように見えていたことでしょう。

山裾にあった御殿跡 (taken by あけび from photoAC)

「丸亀城その2」に続きます。

135.増山城 その3

砺波市は城跡をとてもよく整備しています。

特徴、見どころ

城の中心部、二ノ丸

そしてついに二ノ丸に到着しますが、ここには城で唯一の石垣がありました。標柱に石垣跡と書いてあるのですが、現在では見て判別するのはちょっと難しい感じです。

二ノ丸石垣跡
二ノ丸入口

この曲輪はこの城では最も大きく、最高地点に位置しています。そして厚みのある土塁に囲まれています。こういった理由から、この曲輪は「二ノ丸」と呼び習わされているにも関わらず、歴史家は度々この曲輪がこの城の主郭であったと推測しています。

二ノ丸周辺の地図(現地案内図より)
二ノ丸を囲む土塁
二ノ丸の内部

曲輪の中にはまた、鐘楼堂と呼ばれる土塁があり、今はミニチュアの鐘が置かれています。櫓のようなものがあったのかもしれません。そこからは、大きな空堀の向こうに安室(あぢち)屋敷と呼ばれる隣の曲輪が見えます。

鐘楼堂
ミニチュアの鐘
空堀越しに見える安室屋敷
空堀を見下ろす

その後

増山城が廃城となった後、加賀藩は江戸時代の間、城跡を所有し杉を植林しました。その杉林は、増山杉として知られるようになりました。現在城跡を所有している砺波市は、1987年に城跡の調査を開始し、1997年から2003年の間に発掘を行いました。その結果、2009年には城跡は国の史跡に指定されました。砺波市は、観光客がもっと訪れやすくなるよう、史跡として整備を続けています。

城跡の模型(砺波市埋蔵文化財センターで展示)

私の感想

増山城跡は、観光客が山城のことをより学ぶのにとてもよい教材だと思うのです。もし、山城の跡が放置されてしまった場合、そこは自然に戻っていきます。木々や藪が深く生い茂り、城の基礎部分は崩れていきます。その場合、観光客はその山城がどのような姿をしていたかわからなくなり、あるいは危険な場所になってしまいます。しかし、増山城の場合は、砺波市が城跡を整備し、観光客が情報を得やすいようになっています。例えば、道筋の藪は常に伐採されています。簡単な木柵や説明板がそれぞれの曲輪に設置されています。そのため、観光客は城の縄張がどうだったのか、守備兵がどのように城を守ったのか理解することができます。この城跡をお勧めする次第です。

整備されたウラナギ口
F郭に設置された木柵
F郭の説明板
馬之背ゴから見下ろしたF郭

ここに行くには

ここに行くには車を使うのをお勧めします。
北陸自動車道の砺波ICから約20分かかります。
案内所(増山陣屋)に駐車できます。
公共交通機関を使う場合は、砺波駅からタクシーを使って行くことができます。
東京から砺波駅まで:北陸新幹線に乗り、新高岡駅で城端線に乗り換えてください。

リンク、参考情報

国指定史跡 増山城跡のご案内、砺波市
・「日本の城改訂版第77」号」デアゴスティーニジャパン
・「増山城跡調査中間報告書」砺波郷土資料館他

これで終わります。ありがとうございました。
「増山城その1」に戻ります。
「増山城その2」に戻ります。

135.増山城 その2

ここでは山城について多くを学べます。

特徴、見どころ

ウラナギ口から城跡へ

今日、増山城跡は観光客向けによく整備されています。城跡へ行くのに2つの登山道がありますが、ウラナギ口から行かれることをお勧めします。この登山口の近くに、増山陣屋という案内所があり、駐車場もあるからです。車をそこに停めて、登山道の入口に歩いて行くと、興味を引く施設が見えてきます。実は、城の周りを流れていた和田川は、現在では和田川ダムとなっているのです。ダムの堤頂部分を渡って行くと、右側に増山湖が見え、左側には水力発電所が見えます。城下町の遺跡の一部は、現在湖の底にあります。

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ウラナギ口
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

増山陣屋
和田川ダムの堤頂部分
増山湖
水力発電所

注目の堀切と後に続く曲輪群

そうするうちに、大きな案内板のそばに模擬的に作られた冠木門が見えてきます。ウラナギ口からは坂を登っていき、そのうちに両側が峰状になっている谷底を通って行きます。最初に見えてくる曲輪はF郭と呼ばれていて、その名前は歴史研究者が使っていた命名方法によるものです。もともとの名前がわからなかったので、このような呼び方になりました。この曲輪の手前にある、峰を人工的に切った堀切は必見です。峰を伝って攻めてくる敵を防ぐためのものです。

ウラナギ口の入口にある冠木門
谷底を進むウラナギ道
F郭の手前にある堀切
F郭

F郭の上方には、馬の背のような形をした「馬之背ゴ」があります。ここはウラナギ口と七曲り口の道が合流する地点であり、訪問者を管理したり、敵を抑え込むのに重要な場所でした。

馬之背ゴ
F郭と馬之背ゴ周辺の地図(現地案内図より)

防御の要、一ノ丸

その後には、一ノ丸が目の前に立ち塞がります。この曲輪周辺の崖は垂直に削られていて、切岸と呼ばれます。とてもそこからは登れません。残念ですが崖を回り込んで曲輪の入口にたどり着くしかありません。この位置取りでは、敵が真上から反撃されることになります。そこから進むと、一ノ丸の近くにある又兵衛清水という現存する井戸があり、今日に至るまで清水に満たされています。

一ノ丸を見上げる
一ノ丸の切岸
又兵衛清水
一ノ丸周辺の地図(現地案内図より)

一ノ丸の内側からは、城周辺の地域の景色が見渡せ、またこれまで通ってきた道もよく見えます。この曲輪が防御の要であったことがよくわかります。

一ノ丸の内部
一ノ丸からの眺め
一ノ丸から元来た道を見下ろす

「増山城その3」に続きます。
「増山城その1」に戻ります。

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